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摩多羅神はどこから来たのか?~

第七章  ~ダビデの子孫

最近、国立科学博物館(筑波) 人類研究部 神澤秀明氏が縄文人の歯のDNAをサンプリングした。ここから一挙に日本人のDNA解析が進んだ。国立遺伝学研究所(静岡・三島)の斎藤成也教授は日本には中国・韓国にはない縄文人特有のDNAが約32%の比率で存在するということが分かった。縄文遺伝子とは男性特有のY遺伝子のパターンでDに分類される遺伝子で、男性から男性へと遺伝する。ミトコンドリアDNAが女性から女性へと遺伝するのに対して、男性のみに遺伝するのだそうだ。
Y染色体でみると、日本人はC1系・C3系・D2系・O2b系・O3系の五つのタイプによって構成され、そのうちD2系・O2b系・O3系が強く、この三者で8割を占めるが、一万数千年前には、朝鮮半島を経由して流入した縄文系のD2(旧渡来系)と南方から流入したスンダランド系(南方オーストロネシア系)のC1系との混交が九州で起きて、このときに日本祖語の基礎構造(ツングース系とオーストロネシア系の混合)がすでにできあがったとする。

そのあと稲作と製鉄を伴って新しく流入してきた弥生人のO2b系とO3系は、現在の朝鮮人の主要な部分を構成するが、これがすなわち朝鮮半島からの新渡来系で、彼らは新旧渡来系共通のツングース系文法に助けられて、日本語を比較的たやすく受容できたようだ。なお縄文系のD2は現在では朝鮮人の4%を占めるに過ぎない。徳島大学大学院 医歯薬学研究部 佐藤陽一准教授は2000人以上の日本人男性のY染色体を調査した。D遺伝子が中国・韓国ともに、ほとんど見られないことから、日本固有の遺伝子と判断、それが前16000千年前から前1000年ぐらいに列島に生活していた縄文人であるというわけだ。前1000年後、周や春秋時代に弥生人が渡来し縄文人を圧倒して今日に至るわけだ。Y染色体のDNAはAからTまで20タイプに分岐しているが、Aがもっとも古く初期であり、Dは4番目に古い。比較的縄文人のDNAは古い部類にはいる。今日、Dタイプの遺伝子が濃厚な地域はチベット、アンダマン諸島など少ない地域に限られている。






渡来人の多くが日本に大陸の高度な技術をもたらしたのは紛れもない事実であり、こうしてむしろ日本はもともと移住民で進歩発展してきた国であ。日本人が古来から単一人種であったとし、これを疑わない有名学者もいるが、これは単純な錯覚であろう。NHKスペシャル「遺伝子」第三集 「日本人のルーツを探る」では、興味深いレポートがあった。ミトコンドリアDNA*によって、日本人のルーツを探ろうという研究が取材された。鹿児島大学の宝来 聡博士が紹介するデータによると、本州人のDNAによるルーツの構成は、以下の通り。

日本人固有のDNA  4.8%
韓国人固有の・・・ 24.2%
中国人・・・・・・ 25.8%
アイヌ人・・・・・・ 8.1%
沖縄人 ・・・・・・16.1%
その他・・・・・・・24.0%

 シェアーを特徴的にとらまえると、韓国、中国がほぼ四分の一を占めている。そして、縄文人を構成していたとされるアイヌ人と沖縄人をあわせるとやはり、ほぼ、四分の一である。しかし、5集団に属さないDNAが21%あるという。しかし、4.8%という日本人固有のDNAとは、日本でしか見つからないということなのか、なにゆえに日本人固有なのか放送からは伺い知ることができない。とにもかくも、日本列島に渡ってきた遺伝子は均一ではないことを示している。韓国では、韓国固有の遺伝子をもつ人口は、40.6%、中国では、60.6%が同一のDNAを持っている。比べると、日本には遺伝的に均一な支配的集団*が存在しないのである。こうした複合的集団のなかで古代の権力の集中化がなされたきたことを踏まえなければならないだろう。想像するにそれが聖徳太子の言った「和」であったのだろう。縄文人は複数の種族からなり、また、弥生人も複数の種族を予想しなくてはならない。

*ミトコンドリアDNAは、塩基の数は564、母親からしか遺伝子を引き継がない。従ってルーツをどこまでも純粋にたどることができる。ミトコンドリアDNAのパターン解析によって驚くべき結論が導きだされた。現代人「単一民族説」である。これは、カルフォルニア大学のアラン・ウィルソン博士が唱え、スバンテ・ペーポ博士が裏付けた。それは、現代人(ホモサピエンス)はアフリカの一人のイブ(女)から、20万年前に誕生したというのである。それ以前の人類、ネアンデルタール人やジャワ原人、ペキン原人という人種はどうしてしまったのだろうか。絶滅してしまったのだ。

遺伝的均一集団 
 このミクロ医学が生んだ遺伝のテクノロジーは既存の「人種」および「民族」といった概念にあてはまらない。”人種”は宿命であるが、”民族”は運命である。・・・という意味合いでは、m~dnaは、「人種」に近いといえる。しかし、従来の人種とは、顔つきとか、髪、骨相(短頭、長頭)などフィジカルな特徴によって分類されている。そこで、遺伝子による同一性は、人種的同一性と区別する必要がある。

 m~dnaの配列はフィジカルな外形的特徴と無関係だ。22対の染色体は父と母の遺伝子をほぼ半々で引き継ぐが、ミトコンドリアは母親のものだけが遺伝する。
 アルプスのアイスマンは、氷の中に閉じ込められて5千300年後に、冷凍ミイラで発見された。(1991年)オックスフォード大学のブライアン・サイクス博士はアイスマンと同一のミトコンドリア塩基配列をもつ現代人を探した。すると、すべてのm~dna配列が同じである人々が少なからず見つかった。平凡なイギリスの主婦マリー・モーズレーさんは、遡ること250世代前のご先祖、アイスマンに遭遇した一人である。彼女はアイスマンの子孫として報道された。
これは、面白いことになりそうだ・・・。
 20XX年のある日、わたしは”Ancestor Bank” (先祖銀行)に、できるだけ遠い処に住む人という条件で、調査を依頼した。すると、数日して返事があった。あなたと同一の”m~dna”をもった人が見つかったというのである。面会を希望する・・・にチェックを入れて、返信した。しばらくすると双方が面会を希望しているとの報告が来る。
何世代前かは分からないが、どこかの時代に同一の母から産まれ出た子孫と会えるのだ。しかし、それ以外はなにも知らされない。年齢も性別も国籍も、面会するまで伏されている。わたしはどきどきして、その時を待った。会ってみると、すぐにそれが誰なのか分かった。私は涙を流して、その人と抱き合った。だが、なんとその人は東南アジアから成田についたばかりだった。わたしはなんという奇跡に出会ったのだろう。

倭人の複合性の研究



隼人の大楯

・・・特徴的なうず巻紋様。典型的な蛇のデフォルメに見える。上端と下端の鍵型は三角紋様でこれも蛇のうろこ。また、赤い色を好んでつかわれている。人の背の高さほどあり、上の尖ったところには馬(?)のたてがみで編んだ房飾りが付けられていた。インドネシア奥地で昔ながらに生活をしている原住民が使っている楯とよく似ていると指摘されている。
この、逆S字形の波紋は、ポリネシアの楯の紋様の特徴と同じである。どうやら、隼人と言われる勇猛な種族はインドネシア・ミクロネシア・ポリネシアから黒潮に乗って来た渡海人だったようだ。(平城京の南西隅の井戸枠に使われていたことから復元された。元旦に朱雀門前に隼人兵はこの楯をもって朝賀の式典に参加したと伝われている。)

Kuroshio

 ポリネシアの古語に”LIUKU”という言葉がある。LIUは長期滞在、KUは島のこと。竜宮(りゅうぐう)は「りゅうく」とも読める。Liuku(リュウク)がもともとの音だろう。(それは琉球だという説もある)竜宮へ行って返ってきたという昔話に、浦島太郎がある。浦島太郎は漂流して、ミクロネシアの島に漂着した。島民となる儀式をうけた。島国では、外種を欲する種族本能があって、浦島太郎はたちまち、神様のようにあがめられた。若い娘たちに囲まれ、夢のような生活を送ったのだろう。やがて、首長の娘と結婚した。浦島太郎が長期滞在した島、リュウクは、ボナペ島が有力地。想像するに、ボナベの姫から、”Liuku”を忘れないでね・・・と言われて、玉手箱をもらったのだろう。この浦島伝説、どうして日本海側に伝えられているのか謎である。


ミクロネシアのカロリン諸島の入墨をした男性。版画でF・リュートケ「世界一周の旅」(1826-29)。全身の入墨をして、しかもふんどしをしていることは、見逃せない。(オセアニア神話 ロズリン・ポイニャント 青土社)

平凡社 世界の民族 太平洋の島々 E・エバンズ=プリチャード
カロリン諸島の老首長。ふんどしは赤褌(あかふん)だった。後ろは巨大な石の貨幣。この石、一つで村一つが買えた・・・と注釈がある。

こちらはポリネシアのサモアの青年の入墨。
昔は全員が入墨の儀式を迎えた。成人式だったのだろう。


縄文時代の高床式建物(復元) 富山・桜町遺跡
ミクロネシアにある高床式の伝統的な建築に良く似ている。

ミクロネシアのベラウ島の伝統的な集会所

ベラウ島の祭のための準備を描いた絵 ルチェルチェル・チャーリー・ギボンズが描いた。ベラウ国立博物館所蔵 (オセアニア神話より)

○羽衣伝説とミクロネシアのネズミイルカの神話

 以下、羽衣伝説を紹介する。「駿河国三保の漁夫白龍が浦の景色を眺めていると、松の木に美しい衣がかかっている。これを取って帰ろうとすると、天女が来て、「それは天人の羽衣といって、たやすく人間にあたえるものではありません。もとのままにして置くように」という。白龍はこれを聞いて、ますます喜び、国の宝にしようといって天女に返さないので、「羽衣がなければ天に帰ることもできない」と、しおしおと泣く。白龍はこの様子を見てあわれを感じて、羽衣を返す。天女は喜んで、お礼に、けいしょう羽衣(うい)の曲を奏し、駿河舞いを舞い、七宝充満の宝を降らして天上する。」・・・といったお話。白鳥処女式説話といって、伝承記録のもっとも古いものは近江国風土記に見られる。毎年十月、三保では羽衣の松と駿河湾を背景に、薪能「羽衣」が上演されている。「羽衣」は一説では世阿弥の作とされ、時は春、三月のこととされている。

 さて、欧米の神話学者は、「白鳥の乙女」と定義したタイプの物語に属するとみなしている。とほうもなく大昔からの題材で、インドのリグ・ベーダから、オセアニア、オーストラリアなどに広く分布しているとされる。ミクロネシアのこのタイプの話は、ネズミイルカの少女と題される。以下、ウリティ島のネズミイルカの少女のお話を紹介する。

「二人のニズミイルカの少女たちが、男たちの踊りをみるために岸辺にやってきた。夜毎二人は尾びれを脱ぎ捨てて、それを隠していた。四日目の夜、浜辺に見慣れない跡をみつけた男が、少女たちを盗み見し、一人の尾びれを盗んでしまった。少女は海にもどれなくなった。男は少女と結婚し、尾びれをしまった包みを梁のなかに隠した。しばらくして、女は二人の子供をもうけ満足しているかに見えた。するとある日のこと、虫が梁から落ちてきて、包みに女の注意が向けられた。女は包みを開けて尾びれを見つけ、それを身につけた。海に戻る前に女は子供たちに、けっしてネズミイルカの肉は食べないようにと注意した。」(オセアニア神話 青土社)・・・語りの筋書きでは、羽衣伝説とネズミイルカの伝説は、超自然的な少女が翼(よく)をなくし、戻ることができずに捕獲者の妻になる。ある日、女は翼を見つけて逃げる。夫は、彼女を追いかけて取り戻そうとする。神話的要素に共通のモチーフをもっている。

隼人(はやびと)の絶世の美女

 隼人は勇猛なポリネシア族である。黒潮渡海は、おそらく紀元前の3000年頃からあったと思われる。古くからの日本の原住人で、紀では長狭(ながさ)と書かれる。ニニギに一斉に仕えて、大和を攻略して、河内王朝を立てた種族である。ニニギが鹿児島県の野間岬に上陸して、「ここは誰の国か?」と聞くと、「是は長狭の住む国なり。然れども今は乃ち天孫に奉上る」と、答えたのが「事勝国勝長狭」で、野間岳の麓の人とされる。ニニギが上陸した地には人が住んでいた。「そこに人あり」と紀に書かれる。つまり、早い話、長狭とは薩摩隼人だった。もともと、この国には長狭=隼人が住んでいたが、今は天孫に使えている・・・つまり、逆に言えば、天孫よりも早くから住み、国を作っていたとも取れるのである。
 事勝国勝長狭は、事勝国勝は意味語で、王と同義である。”ながさ”、または、”ながそ”という種族の王で、三輪王朝の王である。実は天尊で海族の大英雄だった。
 隼人=ポリネシア族の妃として特定できる姫は、おそらく髪長姫(かみながひめ)であろう。日向隼人の諸県君牛(もろがたのきみうし)の娘である。隼人の朝廷への貢献は鹿皮など50枚などが記録されており、農耕をもっぱらとするより狩猟生活を行っていたと推測される。

マオリ族の戦士の顔の入れ墨
(ニュージーランドの先住民族)
'00/02/24 アナン国連事務総長を鼻と鼻を擦りあわせる伝統のあいさつで歓迎するマオリ族の戦士

 髪長姫(かみながひめ)は、美女の噂が高く、ニニギは、三月に使いを送って召すことにした。カミナガヒメは、九月になって数十艘をもって九州の日向から瀬戸内海を航行していた。この時、ニニギは淡路島に狩りに行幸していたが、運良くこのカミナガヒメの船団が海を通るのを目撃した。はじめ、「あの大鹿はなんだろうか。海に浮んでたくさんこちらへ向かってくる」と、ニニギが目撃し、周囲も怪しんで大騒ぎになった。使者が行ってみると、それは鹿ではなく人間だった。カミナガヒメと従者たちは、角がついた鹿の毛皮を体にまとっていたのである。この話は、播磨の鹿子水門(かこのみなと)の地名の由来。(紀十)
そこで言えることは、日向の風俗がいかに異なっていたか・・・・・が想像できる。そこで、カミナガヒメは隼人族の姫だと言える。
 日向から大和に遣ってきた髪長姫を見て大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は一目惚れしてまった。一夜にしてねんごろになっていた。息子の熱い心を察して、ニニギはこの息子の大鷦鷯に娶(めあわ)せることにした。ニニギはもう年だったので、子に譲ることにしたが、息子が先にこの姫を陥落させていたことは知らなかったようだ。日向の諸県君牛が献上した姫、カミナガヒメ、なんでも大和にも噂の届く絶世の美女だった。書記に、大鷦鷯(おおさざき)との恋愛歌を紀では四首も載せている。

 鹿児島県水迫(みずさこ)遺跡は、1999年から調査が始まった。旧石器時代後期(1万5千年前)のもので、竪穴住居群、道路状遺構、石器製作場、杭列などが発掘された。規模から、かなり立派な定住住居と判断でき、かなり高度な生活文化があった。この時代の旧石器時代の住民の生活観を一変させることになった。首長を中心にした組織が村落を支えていた可能性が高い。鹿児島県水迫(みずさこ)遺跡では、南島部族で、黒潮渡海族だったのではないだろうか。
(大隅隼人、薩摩隼人、日向隼人などそれぞれの拠点によって呼び名が違うが、皆、曽人である。長狭はのサは、熊曽のソの転化か、どうあれ同義ではないだろうか。隼人は、大和で朝廷の警護も行っていた。隼人の警護兵が門の番をしながら出す叫び声がまるで犬の遠吠えのようだったと記される。(紀)また、隼人の兵の舞はからだをくねくねとさせ、犬の吠えるような声をだしながら踊ったとも書かれる。戦場ともなれば、その雄叫びは大音声となってこだました。不思議なことに、火照命(ほあかりのみこと)が阿多隼人の祖と記には書かれている。)


隼人の言葉

 文を読むことに優れていた人々を博士(ふみよみびと)と呼び、紀を書いた人は、もちろん博士(ふみよみびと)だった。ほとんどが百済からの渡海人たちである。朝鮮渡海の人にとって、日本の地名などの単語は外国語である。漢文は意味を主体にしなければならないから、まったく情緒に欠ける。しかし、どんな読み方をしても文字は共通という不思議な言語である。そこで、音だけを借用すれば外国語を表記できる。当時は呉音が主流だった。博士たちは、したがって、日本語の固有名詞は、音を聞いてすべて漢字をあてがうことにした。意味不明の語彙は、こうしてたくさん生まれたが、それこそが大和言葉であったことを証明する。万葉集の三分の一は、完全な音借である。ほんとうの日本語は縄文時代からあり、還太平洋語のオーストロネシア語を祖語とする。琉球語では、3母音しかない。ハワイ諸島のハワイ語、ニュージーランドのマオリ語、イースター島のラパヌイ語、その間のポリネシアに散在する島々のサモア語,タヒチ語、小笠原諸島の南、ミクロネシアのヌクオロ,グリニジ両島の言語など、すべてポリネシア語派である。ポリネシア語の特徴は、音韻構造も文法構造も一般に簡単で、単語はすべて母音(子音+母音)で終わる。専門語では、開音節で終わるという。語尾母音率はフィージー語、トンガ語、マオリ語、サモア語、タヒチ語、ハワイ語、ソロモン語とも、100%である。
また、子音は日本語と同じくK音(かきくけこ)で始まる単語が一番多い。ポリネシア諸語と日本語が、語尾母音率、語頭子音率とも共通するのは偶然とは言い難い。因みに朝鮮語の語尾母音率はたった30%であり、タミル語においては60%である。ネパール語は75%。サンスクリット語は81%。縄文時代の同族語はなんといっても100%のオーストロネシア語が共通語と見る。

○混雑した日本語は五母音ではなくなった

 オーストロネシア語に属する古来の単語は、博士(ふみよみびと)にも解らなかった。百済から招来した王仁(わに)という博士が、書首(ふみのおびと)の始祖と応神記にあり、はじめに言葉を漢字に表記したのは朝鮮の文臣だった。上古韓国語が影響したのは文法そのものだった・・・と考えられる。万葉集の漢字の使い分け・・・を基に上古日本語に八母音あったとするのは、あんがい危ういのだ。上古韓国語の影響は、結局多数の韓国語を借用することになった。それ以前を推測してみると、目的格の前に動詞があるオーストロネシア語や還中国言語と同じで、動詞変化はなく日本語の文法は言葉を並べれば通じるやさしい文法だったろう。文法がアルタイ系に変わる以前、私たちの祖先は、いわゆるムカデ型言語で、「したい ねー、いく、とうきょう、みる、えいが おもしろい」といった風だった。わけても、形容詞が名詞の後ろに来ていたのだ。

 日本語はもともと声調、アクセントがあいまいで、いいかげんだった。そもそも乙類という3つの母音はなかった。乙類三母音は、在住渡来人がしばらくの間必要としていただけとしか思えない。外来語の末子音は消滅するか、または、有声音にしてしまう。中間のあいまい母音は、消え行くのはもともとなかったからだ。声調言語と非声調言語が混ざり合った場合、どちらが優勢なのか? これは言語学では解くことができない。これは現在のピジン語といわれる言語のなかで、中国語がピジン化した例を見るほかないだろう。声調のないチベット語圏のなかに漢民族が孤立して定住した例では、そのピジン語は声調を失っている。つまり、非声調言語の優勢な地域では、二~三世代で声調のない言語に変化することを示す。ところで、声調が失われるということは、たくさんのチベット語彙が吸収されることになる。声調言語ではマーを声調で犬と馬と来るの3つの意味に使い分ける。しかし、声調がなくなれば、一つの意味を残して、ほかの2つは新たな語彙に置き換えなければならくなってくる。でなければ、多少の声調を残すしかない。「箸」と「橋」、「飼う」と「買う」、などのように、声調を残さなければならない。箸は低声だし、橋は平声、飼うは上声、買うは平声だ。
 自国語にない単語を外来語のまま取り入れるのは、どこの国でもあることだ。それを、借用語と言う。カタカナ語とも和製語とも言っている。たとえば、Credit(クレジット)を、例にとってみよう。タイ語では{khreedit4)}と発音するが、子音、末子音ともそのままだ。タイ語はパーリ語やサンスクリット語と混成したので、子音は生きている。長母音の多い特徴から、reeの部分が長母音化されている。これが原語の音と異なるぐらいだ。しかし、日本では、不思議なことが起きる。
{kurejitto}のようになる。大きく違うのは、Creditのdがjに変わっている。d→jのかわり方は、radial,radian,radical,radio,radiumn などがある。これらのdは舌をすばやく上口蓋にタッピングさせるが、日本語にはこうしたすばやい舌の動きがないので難しいのだ。米語ではradioは、レイディオーよりレイリオーと発音されるが、舌のタッピングがすばやくなるほどレイリオーになり、ゆっくり言えばレイディオーになる。
つぎに、ditのtの末子音がttoと語尾有母音に変化している。tの末子音は特に舌の動きだけで音にでないのだが、日本人は、はっきりと「ト」と発音してしまう。
非声調言語は、わりあい発音に関してはいいかげんでも通じる。日本語は、しゃべるということでは、最もやさしい言語である。なぜなら、音をただ並べれば通じるからである。わたしは発音の易しい言語のほうが勝つのではないかと思う。日本語は、いうなれば、単純にすべての外来語にたいしてなまっているのだ。なまった元の音が不明ときは、類型判断材料をもとにしなければならない。
そこで、和製語のこうした変化を調べて言語学的な音韻法則ができあがる。音韻法則は統計的分析であるので、すべてに適応できるとは限らない。ほとんどが、たぶんという推定つきであるにせよだ。が、和製語の語源をさぐるには、このプロセスがどうしても必要になってくる。借用語の原語自体が不明な古代語などは、原語がなんだったのか?・・・という探索は辞書をかるく数冊つくるほどのが力仕事となる。

○タイ語に残っている日本の古代発音 「ゐ」

 平仮名を読めなくなった日本人・・・・えっ、いったい何が読めないの? やゐゆゑよの「ゐ」、だ。日本人は、平仮名に「ゐ」の文字を残しているが、もう1500年間も発音をしていない。「ゐ」の発音を誰も覚えていないのだ。
「ゐ」の音は、実は想像もできないほど、とんでもない音だった。ジを濁音から清音に半分戻したような意外な音だ。その例を上げよう。タイでは日本人を、 khon yiipun と言う。タイ語で日本のことをイープンという。このイープンを日本人が正しく発音できない。なぜなら、これが、あの、「ゐ」だからだ。「ゐ」という言葉は、yiと発音するのではなく、「ji」と発音する。思い切って「ジープン」と発音してみよう。すると、あら不思議、タイ人は正しいと言って頷く。「j」音を濁らなくするようにしていくと、タイ語のネイティブと近くなる。このこつを知らないで、yiipunと百回いっても、日本人はタイ語の「日本」を正しく言えない。そして、それは、同時に我が国の平仮名、「ゐ」が言えないことを意味する。
そもそも、「ゐ」は外来語で、この音をもっていた言語が日本に侵入し、確かに存在したが、多数部族の優勢な五母音の言語系に吸収されて消滅してしまったのだ。そうしたことから、平安時代に失われたと言われる3母音は、タイ語の8母音の、その5母音より多い分の母音に当たるだろう。そもそも、原タイ人とは、中国長江から徐々に南下、13世紀に東南アジア中部に住むようになったのだ。
2000年前に、広東語と客家語を足して2で割ったような言語だった。そして、クメール語、パーリ語などの借用語を増やした。およそ30%ぐらいと思われる。タイ文字じたいはまだ歴史が浅く、合理的な表音文字である。表音文字を当てたので、その言葉の語源が分かりずらい。しかし、借用語はそれなりに文字で分かるようになっている。

 どうも、彼らと琉球人は、同じところからやってきたように思える。沖縄の泡盛だが、タイのラオ酒と不思議なことに全く同一の醸造法なのだ。しかも、どちらの醸造米も長細いインディカ米を使う。この酒の技術は、貿易によってもたらされたと云うが、酒造技術はもともと中国にあった。酒の作り技術は、「作る人」と「飲む人」が一緒に来たから移転したと考えなければならない。それが、一部族が一方は沖縄に、他方はタイ移動したということなのだ。
 

○日本語は多重言語だ

 沖縄には八重山方言、首里方言、奄美方言と3つの方言区分があるが、それぞれの通話は難しく島=固有の言語圏となっている。これらの方言は日本古語と60%共通しているといわれている。カイダ文字で知られる与那国島は3母音でなりたっており、首里方言ではEはとOが5%しかない。Eはiに、Oはuになる。また、子音では日本語のハ行がPまたはFになっている。古代日本語もハ行は「ぱぴぷぺぽ」、奈良鎌倉時代は「ふぁふぃふふぇふぉ」で、江戸時代に「はひふへほ」になったと言われている。「ひとつ」は、「ぴととぅ」であった「火」は「フィ」と発音されている。沖縄は、朝鮮からの渡来もなく、古代朝鮮語の影響がない。また本土からの支配も薄く、首里語と日本古語とは同一母語から分岐したもので、しかも朝鮮語の影響は薄いと思われる。万葉仮名とうじ、母音が8つあったというが、明らかに支配階級に古代朝鮮語が浸透したと思われる。現代の韓国語では基本母音は9つ、複母音は10ある。日本古語は、母音が3~5であった。また、子音で終わる発音がなかったことからは、朝鮮語からはかなり遠い存在である。日本古語は、はじめ南島諸語がベースにあって、aiuの3母音が基本にあり、その後、先住民族のアイヌ語、古代呉越、インドネシア語、クメール語、ネパール語、サンスクリット語、パーリ語、タミール語、ペルシャ語から来た語彙を吸収し、文字を持つ過程で古朝鮮語がその上に混成した多重言語だと定義できる。発音は南島諸語が優勢のまま、文法はアルタイ語系に変わったのだ。アルタイ語系の朝鮮語、ツングース語などは、北方騎馬系民族の言語だが、これが膠着語で、平安時代から日本語も膠着語になったが、古語は格助詞も接尾語少なく、SVOでもSOVでも可能な言語だった。

 
 仮に日本語の祖語、語根をつくった基礎言語がまったく列島に孤立した言語で世界に類をみないというのなら、大和人と隼人が通訳を介さなければならなかったという事実は説明がつかない。従って、複数の言語系があったことを説明することは苦しいだろう。
ところで、縄文人というのは、人種名でも民族名でもない、いわば学術用語だ。縄文人が、南方系の古モンゴロイドだというおおかたの通説からは、縄文語の何たるかは、南太平洋に広く分布した原ポリネシア語のひとつだと考えるほうがきわめて無理がない。

 ハワイ語での死ぬ(die)は、マケ makeという。似ている古語にまか・る(罷る)がある。みまかるとは、お亡くなりになったという意味。罷の漢字に死ぬという意味はなく、罪を許す・退く・休むなどの字義である。「まかる」が死ぬというのは日本古来の和義で、漢字から来たものではないだろう。フィージー島ではmateで、ポリネシア諸語のt音はハワイ語ではk音にあたる。t音は、日本語ではt、d、s、z、k音に変化したと考えられている。(罷る)のばあい、k音で、ハワイ語と同じ。日本では、さらに変則活用したのだろう。ポリネシア語源の詳細→夢間草廬(むけんのこや)


 中国語の中でも、上海語は面白いことに、aiの二重母音が、eになまる。これは上海語の特徴だ。これは日本語のなまり癖とよく似ている。「大臣(だいじん)」を(デージン)とか、「ありがたい」を(アリガエテー)、「いかない」を(イカネー)など・・・よく転ぶ。これは上海語と日本語に共通する。一般の孤立言語では、aiは、早くしゃべるとエイに聞こえることがあるがアイはアイと言っている。


○倭人の源郷

縄文人は南方系の古モンゴロイド、弥生人はそれがアジアの北部で寒冷適応して髭(ひげ)が薄く、長くのっぺりした顔になった新モンゴロイドである」(埴原和郎『日本人の骨とルーツ』角川書店、1998年)
 これが、意味するところは、「日本人二重構造説」となる。しかし、日本人三重構造」と言ったほうが、より説明しやすい。
南方系古モンゴロイドが縄文人であり、この人々は大半はミクロネシア・ポリネシア、インドネシアからの黒潮渡海族である。縄文前、中期まではオーストロネシア語で、日本語の基底的言語を形成した。その後、縄文後期に、もち米文化をもたらした江南の南方民族がやってきた。最後に弥生時代に北方系の民族が韓半島から移住してきた。より近い韓半島から移住してきた人々が最後の移住者であった。
 こうして、南方種族がはじめに日本での居住地域を広げていたが、北方進入民族の進入にあって北へ北へと移動するはめになった。弥生時代に始まって、およその北方民族の渡来総数は延べ100万人、鉄を武器に先住民族をたちまち北へ追いやった。そこで言えることは、東北地方の主な住民のルーツは中国南方系少数民族である。これは、民族地政学では現在の東南アジアの中国南部から移動した民族とルーツが同じである。
これら、先に暖かい地域から列島に移動してきた人々が日本では寒い東北部に住むことになった。これは、おどろくべき逆転現象だ。「地政学」的にみれば日本特有の現象だと言えるだろう。さて、こんなことが信じられうだろうか。この秘密は、野ネズミのミトコンドリアDNAが明かしてくれる。日本の東北地方、北海道の野ネズミは、中国華南を北限として台湾、インドネシア、フィリピン、スリランカなど南方系の野ネズミがルーツである。南方の種ネズミが、2万年ぐらい前にわずかな数が人間の移動と一諸に日本に上陸した。南方ネズミが、今日どのように分布しているかというと、なんと福島県の郡山より北に分布している。一方、東ヨーロッパから、華北、華中、ソビエト、韓半島に分布する北方系野ネズミが日本列島では南側に分布している・・・。「『昔々、南ネズミだけが住んでました。そこに、北ネズミがやってきました。南ネズミは、強い北ネズミに負けて、とうとう寒い北に住むようになりました。こうして、寒い国から来た北ネズミが反対に暖かい南の国に住むようになったのです。終わり』・・・鼠版日本昔話」
ネズミと人間は、食物連鎖をしている。そこで、民族の移動はネズミに聞いたほうがよさそうだ。

○倭人=隼人と相撲と古墳

 隼人は九州一帯に居住し、天武十一年七月(683)で「隼人多く来たりて方物を貢ぐ。この日、大隅隼人、阿多隼人が朝廷で相撲をとり、大隅隼人勝つ。」の記事がある。相撲が隼人源流であることはあまり知られていない。大隅隼人、阿多隼人は熊曽国の住人である。

 大和には相撲神社(すもうじんじゃ)がある。そこに土俵があって、*天覧相撲が行われた。大和の当麻(たいま)の蹴速(けはや)と、出雲の野見宿禰(のみのすくね)の試合が伝わっている。その当時の相撲は「蹴り」という技があった。いまよりもずっと格闘技にちかく、なんとキックがOKだった。なんと、互いに蹴りあいのすえ、蹴速(けはや)は肋骨を折り、吐血して死んでしまった。試合に勝った出雲の野見宿禰、陵墓の仕事で朝廷に仕えることとなった。

■野見宿禰は相撲に勝って埴輪を作る土部臣になった

王が殉死、「人垣」(ひとがき)を廃止したさい、「埴輪(はにわ)をかわりにする」ことを上申して、土部臣(はじのおみ)となった。土師氏の祖である。この相撲がいつ行われたのだろうか? この大一番は垂仁天皇の代だと記される。この伝承すくなくとも、古墳時代の最中、4世紀初頭の実話と思われる。相撲とは筋違いな話だが、少なくとも大和にある古墳で、埴輪が出てくる古墳は、より新しいもので、古い古墳からは出てこない。まだ、殉死制度が生きていた頃は埴輪は必要でなかったからだ。ところで、中国での殉教は殷墟からはなんと、5千体もの人骨が発見されたという。(1976)
ほとんどが手足を切断されていたり、胴を切断されている。殉死に供されたのは主に奴隷であり、殺害されたのち王陵に埋葬されたものらしい。まだ、子供と思われる人骨も多く、納得して死についたわけではない。さながら、阿鼻叫喚の地獄のような場であったに違いない。
殉死制があった古代社会は奴隷制度を同時に持っていたことを意味する。卑弥呼もたくさんの奴隷を持っていたと考えなければならない。

東京都江東区にある宿禰神社(すくねじんじゃ)、横綱若ノ花が土俵入り(1998)を奉納した。この宿禰神社の祭神は野見宿禰、出雲出身の彼は相撲の神様となっていた。



*大宰府天満宮には野見宿禰の石碑がある。菅原道真は、この野見宿禰の末裔なのだそうだ。

○纏向遺跡(まきむくいせき)は、出雲文化

 大和地方から土師器(はじき)が生産されるようになったのは、300年頃である。相撲に勝った野見宿禰は、殉死の替わりとなる埴輪を造るために出雲から100人余りの土師部を呼び寄せることになった。土師器(はじき)は出雲の土師師(はじし)が移住して生産を始めたのである。三輪山の西麓に住むことを許され、彼らの村が周辺の掘立柱建物群(ほったてばしら)の遺跡として残った。従って、土師器は大和で生まれた新しい土器という説は成立しない。それどころか、東北南部や九州北部からも新しいタイプの土器が多量に運ばれてきたのである。纏向遺跡(まきむく)は、この頃に生産された土師器がたくさん出てくる。弥生土器と変わらないが、紋様は少なく、きわめてシンプル。つまり、これらは実用を目的に作られていたのではなく、古墳に納めるために生産されていた。つまり、これは祭祀用に生産された土器である。したがって、生産当初はこれで煮炊きをしたり、水瓶に使ったりしなかったに違いない。

*天覧相撲 天皇が臨席される前で行われる相撲

 さて、中国の倭人も相撲をとっていたのだろうか? 中国の倭人は「ふんどし」をしていたことが知られている。「ふんどし」は、日本人特有なものではなく江南地方やインドネシアの普通の風習であった。
大相撲は「まわし」をするが、「ふんどし」の華美となったものだ。隼人も「ふんどし」を日常一般に着用していたと考えられる。
魏志倭人伝では、「その風俗淫ならず。男子は皆露かいし、木綿をもって頭にかけ、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」、とある。このなかで言う「横幅」とは、一枚の長い木綿で身体をおおったようなものとしか判読できないが、わたしは、横幅とはまさしく「ふんどし」のことだと思う。

○隼人はついで持統三年(689)正月に貢献したもの、「布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚」などが書紀に見える。これは隼人が朝廷に服従はしていたが、まだ七世紀以前は一国一員の国造(くにのみやつこ)は派遣されていなかった。つまり、評制支配下にはなかったことを意味し、半ば九州で連合自治国のような状態だったと思われる。大宝律令以後、急速な中央集権体制が発動され、大宝2年(702)には薩摩に兵を発してはじめて戸籍の作成と国司を設置した。元正女5年(720)、ようやく律令体制に組み込まれようとした隼人らが国司を殺害、いわば自決権の戦いが「隼人の乱」であった。


倭人の5つのルーツ 奉じる神名(*いずれも海蛇系龍神を祭る)
墨江神社の住吉海神系 海蛇三神=表筒男(うわつつのお)・中筒男・底筒男(出雲系)
海神綿津見系”安曇の祖” 海蛇三神=底津綿津見・中津綿津見・上津綿津見 (わだつみ)
福岡市の住吉神が祖(隼人系)
宗像神系“宗像の祖” 宗像三女神=多紀理媛(たぎり)・市杵島(いちきしま)媛・田寸津(たぎつ)媛(隼人系)
賀茂神社系
”葛城・賀茂・物部の祖”
大物主 オオモノヌシ(出雲系・旧大和王朝)
(上賀茂神社=賀茂別雷神;下鴨社=玉依比売 出雲系)
椎根津彦神系(しいねつひこ)
”倭直の祖”
“淡路の海人”
大和大国魂神社(やまとおおくにみたま)・倭大国魂神
(出雲系)

*参照 岡田米夫氏の説(日本史小百科「神社」、近藤出版社)

○倭人(いぇじん)は百越の民

 倭人は周の時代は江南にすんでいた。漢書の厳助伝には「越はざんばら髪で体に入れ墨をした民だ」とされ、その南夷だった倭人が日本と加羅に国を作っているというのが魏志の作者には自明のことであった。魏志倭人伝でもっとも倭人の特徴をとらまえているのが入墨の風習である。

「朱丹をもってその身体に塗ること、中国にて粉を持ちうるが如きなり」魏志

「並びに朱丹を以って身に扮すること、中国の粉を持ちうるがごときなり。」後漢書

ここでは倭人は赤い入墨を顔や身体にしていた世界でもまれな民族だったことを踏まえておこう。「中国にて粉を持ちうるが如き」・・・中国の粉とは白粉(おしろい)のことで、朱丹(水銀)から生成される純白の化粧品のこと。日本人は朱丹と書いてあるのは、明らかに辰砂(赤土)となる。

 タイ東北部はもち米を主食としており、インディカ米を主食とするバンコックとは風土が異なっている。日本人は、どちらかといえば粘っこいもち米のほうを好んで食べるので、イサンの農民は日本人に好感をもつようだ。イサンの農家の家は、ほとんど高床式といってよい。まあ、ほとんどの人が二階に住んでいるわけで、床下はだいたい鶏のすみかである。タイ人は、紀元前には中国の長江上流地域にいた種族で、倭人と、同じ歴史的運命をたどった民族である。
タイの北部や東北部には雲南から来たと伝う少数民族が多い。タイ族は、もともと中国の南部に「南詔」という国を作っていた。クビライ汗の進入で13世紀になって、インドのアッサム地方、ビルマ北部、ラオス、ベトナム、インドシナ中央部に南下しはじめた。はじめはクメール王国の支配下にあったが、スコータイ王国を起し、三代目のラーム・カムヘーン王の時代に版図を現在の国境線に広げた。周辺国のラオ人やクメール人もタイ国内に居住している。印欧系の人々も混成しており、インドやペルシャから来た人々も多いと言われる。


雲南のミャオ族の高床式倉庫
ミャオ族は三苗と書くが、もともと長江あたりに住んでおり、だんだん南下したことが知られている。ただ、ミャオ族には入墨の風習はない。
(図説 日本人の原郷)

 さて、「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、皆倭種なり。」と書いた。女王国とその東の諸国も、すべてみな倭人の種族であると言っているのである。また、倭人はかつて2000年前に韓半島にもたくさん定住していた。倭人は日本という地域概念をこえた、もっとグローバルな種族だったのである。(倭人多元説 井上秀雄氏『任那日本府と倭』など・・・)
(越人は小数民族が多数、雑居していた。したがって、言語も多様だったと考えなければならないだろう。)

「北虜南倭」から見る「倭」は中国の南側

 旧唐書「倭国日本伝」、この書で日本という表記がはじめて中国正史に登場した。(八世紀) その箇所に、「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。」とある。
「倭国の別種である・・・日本国」と読める。学者は「倭国の別種」をどう解釈するのだろうか? これは日本国は「倭国」の分国として、そもそも誕生したことにある。すると地域的に倭国と日本国は異なっていたに違いない。唐は、半島南部の加耶も倭国だ・・・と思っていた可能性が高い。次に紹介する文字もその例外ではない。「北虜南倭」である。この言葉が象徴するのは、まず、北は「万里の長城」である。北の遊牧民の進入とと、南の倭の進入を防ぐという意味で、豊かな中国の農耕生活を北と南から防ぐことから来た言葉である。ここで、北と南は中国の脅威であった歴史が象徴される。では、南の地域がなぜ、「南倭」と記されるのだろうか? 中国の南は、漢民族が防備しなければならない、「倭」の勢力があったからに他ならない。古く、南のといえば「倭」と概念が象徴されているのだ。そこから、倭とは中国の南にあった、その別種が日本であるというのだ。

 倭人の概念は、ようするに、そのなかにさらに複数民族を含み、しかも一ヶ所に限定することができない地域(中国、朝鮮、日本)にまたがって生活していた多国籍民族でだったのである。
また、倭人はさらに遡ること十世紀、なんとインドに住んでいたと思われる。

そこで、倭人をこうしたグローバルな概念にすると、列島に限定した従来の倭国の歴史感を根底から覆してしまう。


山海経には「蓋国在鉅燕南 倭北 倭属燕。」とある。
燕国(えん)は秦始皇帝に前222に滅ぼされるまで続いた国。
蓋国(がい)は、夫余(ぷよ)族、高句麗(こうくり)のこと。
だいたい、高句麗は大燕国の南、倭国の北にあり、倭国は燕に属す・・・という意味になる。
高句麗は倭国と隣接していたことになり、百済や新羅は倭国と認識されていた。もちろん、となると、加羅もとうぜん倭国に含まれていたことになる。
広開土王碑(好太王碑とも言い、吉林省輯安県にあり414年前後に建てられた)には「而るに、倭は辛卯の年来、海を渡って百済を破り、新羅を征服して、もって臣民と為せり」と、書かれ、高句麗の南が391年以来、倭国が半島に権力を支配していた時期があった。こうしたことから、倭人は半島にかなりの人口をもっていたと考えられる。こうして、中国では、倭国が半島南部に中心があると思っていたとしても不思議ではない。倭国が燕に属するということは、燕と倭は、ともに高句麗の南進を防ぐために結んで、高句麗と戦っていたからである。好太王碑にはこうした地勢学的な背景があった。中国が倭と狗邪韓国(加耶)を同一と看做する素地は十分にあるのである。

 ところで、燕国は遼東、山東のあたりで殷(商)の末裔王国で、始祖は周の武王の弟、召公_(せき)であった。今の河北省・東北南部・朝鮮北部を領し、都は薊(けい)(北京)であった。ところで、倭人は、不思議なことに周から出た太伯の末裔と称している。燕も倭も「周」の後裔であるという。つまり、燕国と倭国の支配層は、おなじ祖先であった。このことは、すこし後に詳しく紹介する。

*「倭人」の属性は元来人種名であるが、「顔に刺青をした民」である。もともと中国で周王朝(紀元前1000年頃)のころ江南に住んでいた種族を「倭人」と言っていたのである。さて、越人の技術は入れ墨だけではない。越の特殊技術は、「鵜飼」、鵜飼は長江にしか遡って看ることができない漁法である。

 そもそも、朝鮮では倭はファの漢語化で、「ファン」が正音だったとすると、「ファン」=「ハン」=「カン」となり、紀元頃は韓国南部を倭と言っていたことになる。倭奴はファンラ、ハラ、カラとなり、金官伽耶国を漢族が倭国と呼んだ可能性が高い。ハがカに訛るのは、新羅の特徴らしい。蛇のことを「ハハ」という古語があるが、同じ意味で、「カカ」とも言われていて、どちらも同じである。母のハハを、「おカーさん」というのはこの訛り癖だろう。ハはカに転ぶのである。「ハン」は「カン」となる。すると、驚くべきことに、倭奴=任那=加羅(ファンラ)→「倭」=「韓」(ファン)であり、つまり、倭奴国は加耶国を指していた。倭の東は、皆倭に属し、日本国が倭の別種というのは、加羅を中心においてみると、はじめて納得できる。そこで中国は「倭」を「加羅」のあてがいで使用した。なんと倭人とは加羅人であった。加羅だけは、亀の卵から生れた神聖王であり、他の地域では鳥であるという違いがあるが、あんがいと大きな違いと見るべきだろうか。しかし、倭は中国方言ではyiiの音となり、Nipponの音源である。倭国と壹国は同じ音である。邪馬壹国は誤りであり、邪馬壱国が正しい。魏志倭人の表記は誤りでは決してない。つまり日本は、yiiという国だった。日本国はどうしてニッポンなのか?


 マルコポーロ、彼は、言語の達人であり、フビライ・ハーンを飽きさせず、大いに楽しませたという。東方見聞録は、フビライハンに謁見したのち17年間、大ハーンの使者として雲南やベトナムなどの南部にも旅した経験をもとにしてヴェネチアで書かれた。その東方見聞録では、日本をさして、「zipangu」と書かれている。この最後の音節のguが北京語のguo、国の意味と同じである。そこで、マルコポーロの「ジパング」とは、正確には「日本国」と、きちんと「国」を付けて言っていたのである。つまり、国を付けているということは、13世紀には日本が、独立国として認知されていたことは確かだ。さて、そこで、guを取り除いた「Zipan」が「Nippon」である。Zipanはマルコポーロが語り、それを作家ルスチケロが筆記したものだ。東方見聞録はマルコポーロが語ったことを口述編纂したものである。そこで、「Nippon」を、「Zipan」とマルコポーロが聴き間違えたわけではなく、「Zipan」は日本をさす「yipon」のかなり正確な音写なのである。さて、日本という国号を採用したのは天武天皇で、日本書紀の修史事業の始まりのころになる。そこで、日本と言う文字と、yipponという音とどちらが先なのだろうか? 漢人は周辺国を蛮族として見下した名称しか与えなかった。従って、中国の側から日本という国号をつけたとは考えにくい。つまり、粟田真人が、倭国を日本国に替えることに成功した。

 粟田真人、日本に返ってから天皇に奏上した。『我が国の新しい国号は「日本」と改まりました。』・・・と。外交上、認められたのだ。日本書記、続日本紀の「日本」の読みは、本来「ジーポン」と漢語の正音で読まれるべきで、ニッポンはその俗音となる。しかし、日本では、702年頃、朝鮮語で「ヤマト」と言っていたので、「日本」もヤマトと読み下した。だが、国号は地名から来たヤマトより、自ら真人(朕ではなく)と称した天武天皇が大改革を敢行中だったので、国号も漢風にジーポンと呼ぶように改めた。が、人々は正しく言おうとすればするほど、ニッポンとしか発音できなかった。yiは日本ではniか、iに変化する。それは、すでに紹介した数字2の音、中国古方言では「ジッ」であるが、日本では「ニッ」になってしまうのである。驚くことに「ニッポン」は、もともと日本語ではなかったのだ。(現在の中国標準語ではriben iは低声、eは下声)

さて、日本国の語源はどこにあったのだろうか。

 「ジーポン」とは、「如墨委面」(魏の如淳が曰く)から来ている。魏では、邪馬壹国のほかに、もう一つの呼び方があった。「委」と倭国の「倭」とは発音は同じである。これは、魏の時代、如淳が書いた「如墨委面在帯方東南万里」から推測できる。これについて、唐代614年、顔師古という学者が漢書を注釈したくだりを紹介する。「蓋音委字耳」とあり、「この「委」の文字は、思うに耳で聞いた字であろう。」というのである。さらに、「此音非也」とし、これは現在(614年のこと)は、この音はないというのだ。この注では、「如墨委面」「委」の文字が、どんな音か、顔師古も推測するしかなかったのである。そして、南語を知らなかったから顔師古は、少なくとも「委」は漢字本来の意味のある文字として使っていないと・・と言っているのだ。すると、音にあてがった文字だ・・・・ここが重要なのだ。「委」の音は、南語系であった。中国南部のたくさんあった諸語の発音そのだったのだ。「如墨委面」から、倭国の「倭」も、漢字の意味は無かった。なんと、「委」と「倭」は同じ音であったのだ。これをワと誤解し、また、邪馬壱国をヤマタイコクと誤解してしまった。これでは邪馬壹国位置論争の諸説も噴飯ものである。「やまたいこく」なんて呼び方はぜんぜん無かったのだ。
よく、ニッポンとニホンとどっちが正しいの?という子供相談のような問いに、まともに答えられる学者はいない。原音に近いのは「ニッポン」である。それは、「日本」の語源が「委面」であることから、はっきりと言えることである。

*倭人は「イジン」と読むべきであった。委人と最初から書かれれば誤訳は少なかっただろう。

如墨委面」(漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注)
委面を黥面と誤解して、黥面した倭人のことと勘違いしてはならない。それは、つぎの通り。
 つまり、「如墨委面」は・・・[niw-mwwk-yiipben] これが、古代中国南語では、このように発音されていた。(P音はB音に近い)YIIPON,YIIPUN・・・これが、わが国では、NIPPONとなったのである。【委】は、[yii]はヰの音であり、【面】は、[pben/men]となる。これを北方語族が、この発音を聞いて「倭国」と翻訳文字を作った。現代北京語では、日本をRIIBENと言われているが、YIIPENがもともとである。(benは面と同音である。)邪馬壹国も同じで、邪馬は、ひどい蔑視差別語で、ことさら音を探る必要はない。ただ、漢民族がこういう見下す言葉をことさらつけなければ済まされなかったのである。だから、ここは意味語であり、切り捨てることができる。「邪馬壹国」の「壹」もyii、jiiで発音される。「壹国」もyiibenの音を写した文字である。
倭人が刺青をした種族だという語源から顔に刺青をした民族は中国にも韓国にもいたのである。それが倭人の領域だと定義すると、国家の領域とは異なることを踏まえて置こう。
*漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注とは、以下・・・「如墨委面」(魏の如淳が曰く)・・・「如淳曰如墨委面在帯方東南万里 臣讃曰、倭是国名」

*倭是国名・・・「倭」は、「委」と同音であり、「ヰ」と発音する。音は同じ。「わ」と発音せず、「ヰ」と発音すべきである。倭は[wa]ではなく、[yi]・([zi]/[ji]/[gi])。そして、壱も同じ。すると、邪馬壹国は、ヤマイーと発音したほうが、より正しい。日本は音で、古来「ヰ」と言われていたことが根本にあったのである。(注:「倭」をワと発音するのは、唐代になってからである。)

史書に「邪馬壹国」とあるものを、「邪馬臺国」=「邪馬壹国」にするのはヤマトに似せるため誤記だとするのは乱暴な説だ。壹は、一の意味ではなく音をあてがったものとする、古田武彦の説は(邪馬壹国はなかった・朝日新聞社刊)はさすがというべきだ。



■倭人(ヰジン)は実は韓国にもいたのである。
『三国志魏書』弁辰伝 弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王。土地肥美、宜種五穀及稻、曉蠶桑、作縑布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路


弁辰と辰韓の合計二十四国(ただし、上記には辰韓は十一国しか記載がなく、難彌離彌凍国は両者に重複する)、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総計は四、五万戸である。その十二国は辰王に属している。辰王は常に馬韓人を用いて擁立することが代々継承されている。辰王は自ら王に立つことはできない。弁辰は馬韓王が立って、弁辰は王がいなかった。王がいないのに、なぜ弁辰を記録したのだろうか。後に、金首露を王に擁立して伽耶国を立てた。伽耶は馬韓から分離独立したのである。伽耶の民は、馬韓人とは異なり、道ですれ違えば互いに譲り合うという、馬韓人にはない礼節を持ち、中国文化を取り入れて高度な文化を持っていた。また、契丹や扶余のように騎馬戦はなく、歩兵戦が主だった。これは、馬に乗りなれていない種族である。

土地は肥沃で、五穀や稻の栽培に適しており、多くの蚕や桑があり、縑布を作り、牛馬の車に乗る。妻を娶る婚礼あり、男女の別がある。大鳥の羽を死者に送る、その意は死者が天空に飛揚することを望む。国は鉄を産出し、韓、濊、倭など皆、これを採りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡で供給する。風俗は歌舞、飲酒を好む。瑟があり、形は筑に似ており、これを弾く音曲がある。子が生まれると、石に頭を押し付け、扁平にすることを欲する。今、辰韓人は誰もが扁平な頭をしている。男女は倭に近く、全身に刺青もする。歩兵戦に慣れており、兵器は馬韓と同じ。その習俗は、路上で行き交えば、皆、道を譲りあう

*筑(ちく) 中国古代の楽器の一。箏(そう)に似た形で小さい。日本の琴よりもずっと小さく13弦で物悲しい響きがする。燕国の太子丹が秦の人質になり、始皇帝の刺殺に失敗し、燕が滅ぼされる物語の悲壮な歌曲に使われたらしく、音色は悲壮だと伝える。

*瑟(しつ) 琴(きん)・箏類の一種で撥弦楽器。中国太古からあって,琴とともに奏されたため〈琴瑟相和す〉の語源となった。構造は箏と同様であるが,弦数は多い。25弦が普通の型で第13弦は用いず,第1~12弦,第14~25弦をそれぞれオクターブ関係に黄鐘(こうしよう)から順に十二律調律し,右手の食指で低い方を,左手の食指で高い方の弦を同時に鳴らす。

『男女近倭、亦文身』はさらに重要である。男女、つまり、一般人は倭に近く文身(入れ墨)をしているというのである。弁辰にも入れ墨をしている民がいたという一文は大きい。弁辰に鯨面の民がいたとうことは倭人がまさしく存在していることが明らかである。弁辰とは、後の伽耶国である。伽耶国の住民は倭人である。ところが韓、濊、倭が弁辰に鉄を買いに来ているとの記述と倭人に近いという表記から、倭国とは国境を接していたと考えるのが妥当だろう。久米連が武将だが、入れ墨をしていたと古事記にも書かれる。この久米氏が加羅国の武人であったとしても矛盾がないのである。 他方、秦の賦役を逃れてきた秦人はこれらの入れ墨の風習は全くない。秦人とも異なる。弁辰は楽浪国の阿残の民だという。土地は肥沃であるとあるので、漢江(ハンガン)流域と推定でき、馬韓の大王に服属していることでも一致する。。死者の装飾には鳥の羽を添えた。また、歌や踊りを好み琴の音を楽しむ。また、酒を好む。この風流な民族性は韓、馬韓でも扶余でも濊でもない。

*山海経(せんがいきょう)中国古代の神話と地理の書。山や海の動植物や金石草木、また怪談も記しており、面白い物語や民族伝承が多い。戦国時代~秦・漢代の作。幽霊や鬼神の話などが多く、正史書には扱われない。

*「倭人」は如墨委面の委(ヰ)が原語である。定義すれば刺青をする種族である。委人というのが、正解だ。倭国といったばあい、それは駕洛国から九州中部ぐらいの範囲を含めた地域の総称だったろう。

■馬韓の北は後漢の楽浪郡があった地図上にはない。しかし、楽浪郡の中には楽浪国(ナンナング)という馬韓の一国で独立した国があった。この地、郁里河(ウンニハ)<現・漢江>の流域に楽浪国(ナンナングッ)があり、BC37に高句麗が征服、7年後には後漢が高句麗を撃退して再支配した。『三国志魏書』辰韓伝では、辰(秦)は楽浪人の残余であり、秦人に似ているが阿人であるとあるので、阿人が弁辰に逃れて伽耶国を立国したことになる。すると、鯨面の倭人(ゐじん)がなんと、楽浪郡にもいたではないか。広開土王碑の如く、倭国が従えたのではなく、倭人がもともと定住していたのである。その民は7万戸30万人であり、水軍が強く、海洋交易を主に繁栄していた。この民は百済がこの地に侵入し、滅亡したのは(346年)なので、この阿人が主で、馬韓人とも異なっていた。まして、騎馬民族の扶余族でなかった。なぜなら、卒本の5部族のうち消奴部(ソノブ)の一族郎党が漢江流域に移動、18か月後に到着したのが、ソウルの三角山であるとされる。そこには月支国(馬韓の領域、後漢の冊封国で54の邑国を統べる大王がいた)があった。公孫燕が帯方郡を置いたのは、鴨緑江の線までで、月支国は冊封国ながら国として半独立した侯国だった。百済がこうして少数の軍で制圧したのが、月支国の領土であった。百済は風俗習慣の異なる異民族の征服王朝なので、10代後の王も、「百済の民と馬韓の民」とを差別した。馬韓人はいても、阿人は船を豊富にもっていたので、この地域から逃亡した。下層階級に置かれたは馬韓人だけだった。中には阿人は韓土に留まったであろう。分身の風習を持った阿人はすべて南下したのである。陸伝いに半島の南の端まで逃げて弁辰となり、さらに阿人は皆船で倭国に逃げたのである。



上記の地図では、AD1世紀の頃の図版。●左=会稽(紹興市) ●漢江河口領域 ●中央=弁辰(全羅南道から金海市にかかる) ●右=女王国(甘木市)
倭人は三地域に多く居住していた。会稽の倭人は越から独立できなかった。漢江の倭人・馬韓の倭人は初め高句麗と後に百済に滅ぼされた。弁辰は新羅に併呑された。日本は7世紀に馬韓系から百済王系に王権を奪われた。いずれも、濊貊に蹂躙されている。濊貊は熊を崇拝する檀君を始祖とする部族であるが、これを騎馬民族と呼ぶならば、委人はことごとく、それらとの戦争に敗れたことになる。委人が古墳時代中期までは支配層であったが、古墳時代末期は被支配層に転落した。古墳時代最後の丸山古墳は王墓クラスの大古墳だが、横穴式石室で、従来の墳丘中央に石室を作る前方後円墳と構造を異にしている。結論から言えば、丸山古墳は濊貊系王になったことを語っている。明治22年(1889年)にイギリス人ウィリアム・ガウランドが発掘調査したことにより、詳細が判明した。この時の測量図および埋蔵品は大英博物館の地下収蔵庫にある。なかでも、須恵器・馬具(金を装飾した精巧な馬の轡(くつわ))があった。この意味は大きく、この男王の系譜は大きな意味で朝鮮騎馬民族であることを示している。


中国の登州、韓国の仁川(インチョン)、漢口周辺、韓国南部の光州、釜山にも倭人がたくさん住んでいた。 朝鮮最初の海洋民族は委人であった。遼西と頻繁に渡海していたのは阿人すなわき委人である。斉の殷文化を継承しているので、トーテムはである。また、浦島太郎が亀を助けたという件からはを紋章とした豊水穂国(ミチュボル)がインチョン一帯にあった。馬韓の南部、馬韓の辰王が追い詰められ、百済に滅ぼされた馬韓最後の一国枕弥多礼国(チンミタレ)=全羅南道には、支石墓や横穴式石室でない日本の古墳と同様の前方後円墳が多数発見されている。九州の島原でも前方後円墳が多数発見されている。考古学的地政学から見ても、委人の領域だったろう。馬韓は54国、倭国は100余国、そのうち優勢な一国の王を共立した緩やかな連合国家であった。韓人というのは馬韓人であり、もともと越・呉から渡来した渡来人である。日本では「漢人」(あやびと)と云われ、遠祖は呉だが、馬韓から逃避してきた一部族である。
九州の倭人は部落国家の段階であった。当時、中国は、九州地域の倭人の王は馬韓王、AD42年以後、駕洛国王(伽耶)に属していると考えていた。弁韓が鉄の生産で繁栄し、最も進歩していた。しかし、加羅国ができる前馬韓王に服属していた。AD42年に始めて大王が共立された。すなわち、6カ国の連合国、駕洛国を作る。女王国は魏志に書かれる最大人口の豊かな部族国家であったが中国では燕国(公孫氏)の冊封国の一つであると認識している。

■広開土王は倭人を攻めたてたが、倭国から帰還できなかった!?!

 広開土王碑の「百残」とは「阿残」と同義であり、広開土王が「海を渡って百残」を攻めたのは、漢口流域の倭人を攻めたということであり、大同江を出発して船で漢江に軍を進めたに過ぎない。西海の海を渡って列島の倭国を攻撃した事実はない。広開土王碑では「倭」と書くが「倭国」とは書かない。また、新羅を新羅、加羅を加羅と書きながら、百済を百済と書かなかったのは、百済が百残ではなく、倭人に等しい阿残=阿人であるからだ。百残は目支国を中心に地域の反百済復興勢力と見るべきである。

三国史記・百済本紀では王談德(タムドク=広開土王)は4万の軍で7月漢水の北の部落(石硯城ソッキョンソンほか十余城)、10月に関彌城(カンミソン)を攻略した。防戦すべき百済の辰斯王は11月には狗原で狩りに出たまま帰ってこなかった。次に王となった阿莘王に謀殺された。(402頃)遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたと書かれる。阿莘王の父王、枕流王を馬から射落として、その場で土をかぶせて埋めてしまったのが阿莘王の叔父である辰斯王だった。そこで、阿莘王は王になるや父の遺骨を探し求めた。卑人の中に知っているものが居て、ようやく父王の遺骨を得て、御陵を作った。その恨みは深く、辰斯王の墓を暴くよう命じた。命じられた部下は、「王の墓を暴く」ことに恐れ入って墓の土を少しだけ掘っただけだった。仮に、時系列で追ってみると関彌城(カンミソン)を攻略した後、倭軍が来るのを予想してか、阿莘王を膝まづかせて降伏させ、忠誠を誓わせると高句麗軍はあっさりと引き上げた。新羅からの倭軍の攻撃に救援を要請に応じて出撃したが、倭軍などいなかったので、阿莘王に倭と通行することを禁じたぐらいで終結したのだ。関彌城(カンミソン)を落とす間、新羅に行って倭軍を叩いたというのは偽の情報であろうか。
 その後、広開土王は405年11月には後燕のを攻撃している。亡くなったのは413年とされる。関彌城は阿残(倭人)の有力な造船港であったらしい。そこに、倭兵が集結していたのだろう。
 広開土王は永楽大王と言われ広開土王は「国丘上広開土境平安好太王」の諡号の略称である。百済の阿莘王は倭の蘇我氏の傀儡だったのだろう。「倭ではなく高句麗に忠誠を誓えば許す。」、こうして阿莘王は斬首されず、あっさりと兵を引き上げていることから、倭の排除が済めば、戦の目的が達せられたのであろう。百済や新羅を占有するのが戦の大義ではなかったということだ。

談德王(タムドク)の墳墓は「将軍塚・太王陵」と比定されているが、この陵墓は13代故国原王(コググォンワン)の墓と考えられている。
陵墓と見られる将軍塚・大王陵がある。清朝末期にここから発見された大量の蓮花紋の瓦当や磚(せん)の中に、「願太王陵 安如山 固如岳」という文字が彫られた磚があった。さらに、2003年の5月にこの広開土王陵説を補強する新しい発見があった。南側墳丘の裾近くから小型の青銅製の鈴が見つかり、それに「辛卯年 好太王 所造鈴 九十六」と銘が刻まれていた。

こうした磚や銅鈴の出土、好太王碑の存在、さらには墓の作られた年代から、中国や韓国ではこの大王陵を広開土王陵に比定している。
しかし、談德(タムドク)の即位を辛卯年(391年)、18歳で即位した王を好太王と呼び、同じ辛卯年に次の第20代長寿王が同じく18歳で即位した。長寿王が造営したとするのはどうしても可笑しい。一般に辛卯年とだけ書くときは辛卯元年のことだからである。だから、根拠にならないのである。高句麗最大の石積王陵をどうしても広開土王にしたいのだろう。そのまえに、遺体がなかったばあい、大墳丘を作ったかどうかを問題にすべきだろう。広開土王碑だけが造られて王陵墓は作られなかったと考えたほうが至当だろう。つまり、遺体がなかったのだ。なんであれ、広開土王は戦場で死んだが、それを隠したのだろう。広開土王はやはり、遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたというのが真実だろう。

■百済は倭国と同盟していたというより、百済は倭国の支えで成り立っていた。

高句麗・永楽大王(広開土王)(391-413)が百済の阿莘王(アシンワン392-420)と応神天皇が同時代で、広開土王の攻撃を受けた同じころに緊張関係にあった。

応神3年、辰斯王(385-392)が立ったが、貴国に礼がないという理由で紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木莬宿祢野を送って、激しく責めののしった。辰斯王を殺して百済は謝罪した。阿莘王(アシンワン392-420)を王にして、紀角宿祢は帰った。

この件は、応神天皇がで、すでに河南百済を見下していたことの証左であろうか。貴国に礼を失すの貴国はいったいどこの国を指すのだろうか。応神がいた自らの国を、貴国というのは妙だから、貴国とは帯方にあった倭国であろう。そして、紀角宿祢ら蘇我の身内がどうして倭国から阿莘王を連れて百済に戻したのだろうか。

韓国史では枕流王の弟であった辰斯王が枕流王を殺して王座についたので、子である阿莘王が狩りに出た辰斯王を殺したように記録している。日本書紀から見ると、辰斯王は蘇我満智が送った刺客にまんまと殺されたか、国人に謀殺させたというのが著者の見方である。

すると、河南伯済の辰斯王は滅亡の危機に瀕して、高句麗と密約を交わして広開土王に出撃を促したのであろう。辰斯王は高句麗軍が迫ってきても3度も出撃をしなかったという。密約とは倭国を追っ払ってくれたら、未来永劫高句麗の属国になります、という事だろう。
 百済倭軍は396年に広開土王に蹴散らされて、漢江以北58城を口奪われた。その後、長寿王(広開土王の次413-491)は475年に百済の首都漢城を陥落させて蓋鹵王(余慶)を殺害、次の、文周は南の錦江の熊津に遷都した。直後、高句麗は国内城から平壌城に王城を移す。こうして、後漢の公孫氏以中国の直轄支配を排除し帯方郡は高句麗のものとなった。

*蓋鹵王(- 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『梁書倭国伝』には余慶(徐慶)の名で現れるので、宋書倭国伝でいう倭王斉とは、蓋鹵王のことである。

応神天皇8年春三月百済人が来朝した。王子直支を天朝に送り先王の修好の願いを叶えた」
全く同一の内容が三国史記百済本記に次のように載っている。

三国史記百済本記
「阿莘王6年(397)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は日本滞留8年目の405年父王阿莘王が死ぬと帰国した。」

日本書紀
応神天皇16年(405)この年百済の阿莘王が死亡した。天皇は直支王を呼び「あなたは本国へ帰り王位を継ぎなさい。」と言った。また、トンハン(地域は不明)の地を贈った。


三国史記にはさらに、書く。本国に帰って即位した直支(=腆支王405-420チョンジワン)は今度は自分の妹を日本に送った。

日本書紀では
応神天皇39年(428)春2月百済の腆支王がその妹シンジェトウォン(新斉都媛)を人質として送り仕えるようにしたとある。

*百済本記と日本書記が一致する、この腆支王は420年に亡くなっているので、応神39年は428年ではなく、407頃になるだろう。広開土王の南征は396年であるから、年代は符合するが、応神天皇が実在した証明にはならない。。

広開土王が戦闘に入ると倭兵が先陣を担っていて、兵力があまりにも多いのに驚いた。百済と新羅が高句麗の属国なのに、倭人がどうしてこんなに出てくるのか怪しんだ。「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民」・・・この広開土王碑の解釈は『百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。』が正解であろう。連侵のところは欠け文字で、「加羅」と置き換えるか、「招倭」と置き換えるかによって解釈が異なっているのである。この二文字が欠けていなかったら論争は起きなかったのだが。。。百残、もともと倭人が母系制社会だったので百済王が倭王を自称しても、さほど国威を傷つけられたとは感じず、それを理由に戦争を起こすほど国論が沸騰することはなかったのだ。

■新羅も倭軍の多さにびっくり

『三国史記』新羅本紀

 「(奈勿王九年=394年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」

ここには、百済が侵入したことは書かれず、倭兵がたくさん来て、「これじゃ負けちゃうよ」、と兵の模擬人形を並べて、倭兵を誘引して伏兵を配す奇策を取ったというのである。この時、倭人はまんまと誘引策に引っかかった。百済兵がいれば鎧と旗ですぐわかるので、百済兵はいなかったのである。百済の将軍でもいれば、伏兵がいることはすぐに見破っただろう。そこで、百残と倭軍はおなじ阿人の兵だったのだ。兵の数は倭国から渡海してきた兵だけでは新羅を脅かすほどの大軍には至らず、倭兵は半島にもともと満ち満ちていたのである。その兵は日本列島から来た倭軍だけではなく、馬韓人でもなく、阿人という倭人だったのである。



■中国にいた委人=倭人

t 中国浙江省・「会稽」
「会稽」は中国浙江省紹興県にある。

○百越の民は倭人である。

_弥生期に人口が増えた倭人は始皇帝や漢の武帝に追われて、中国江南から列島に逃げてきた百越の民と言われている。漢書地理志では「交阯(ベトナム北部)から会稽(かいけい、浙江省)に至る七、八千里、百越雑居し、おのおの種姓あり。」とある。会稽(かいけい)は、倭人の諸国を検察する中心的都市だった。百越とはたくさんの越人という意味で紀元前200年以前、倭人はまだばらばらに住んでおり、一つの国家という形態をもっていなかった。会稽は春秋時代の越の王宮があった中心地だった。楚王に一度滅ぼされた。 「夫れ呉人と越人とは相悪むも、其の船を同じくして済り、 風に当たりて、その相救ふこと、左右の手のごとし。」と孫武が書いたように、呉越同舟の故事は有名である。南方の楚・呉・越は連合していれば、秦に滅ぼされることはなかっただろう。孫子の兵法の要点は、戦わずして勝つこと・・・であれば、兵法とは、より高い位置から打つ囲碁となんら変わらない。孫武には斉・秦・燕・韓・魏を見渡せていたのである。
「家ごとに孫呉(孫子と呉子、どちらも兵法書)の書を蔵す」(「韓非子」)の如く、中国では広く読まれている。「彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。」 孫氏を日本に持ち帰ったのは8世紀の遣唐使、吉備真備と言われている。今日でもこの名言を知らない人はいないだろう。


○「会稽」と魏志倭人伝

_魏志倭人伝には「夏の後裔小康の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、於いて断髪分身、以って蛟竜の害を避く」とあり、ここにも「会稽」がでてくる。これも実は江南の倭人の記事の一つであったとみなすことができる。会稽に来た夏王朝禹帝の孫にあたる王子が、会稽に来て、なんのためにぼうず頭で、入れ墨をしたのか? その地の、風習であったからである。禹祭を守るために、禹帝の二代目が会稽に封じた王子が、変身したのは魏志倭人伝では、それは海蛇に噛まれないためだと言っている。江南の民は「好んで沈没して魚蛤を捕らえ」ていた。「分身し、また以って大魚・水禽を厭う」というように、体の入墨は大きな魚、水鳥を追い払うためだという。「後、やや以って飾りとなす」でだんだん飾りのにようなものになったという。「諸国の分身おのおの異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり」とし、倭人がいくつもの国に分れていて、その入墨のやりかたが身分や家柄などでさまざまに異なっていたのだと言う。それらの入墨をみれば、人々はそれが誰の家の人物なのかすぐに知ることができた。入墨は身分証明書のような役割もあった。まだ、特徴があって、朱丹を用いていた。
なんと、赤い入れ墨だとすると、狐面のような顔だったのだ。

夏王朝の禹帝を後世の人々は禹を大禹と称え、禹の死後は会稽山(浙江省の紹興市の南にある山)に葬られた。
会稽山には今でも禹廟や禹陵、禹祠などがある。禹帝は30歳になって、ようやく一人の女を見染めた。名を女嬌という。なんでも九尾狐で、父王は涂山氏、白狐が部族のトーテムだった。禹とは 虫と九を組み合わされる複合文字(会意文字)だという。私は虫と鼎だと思うのだが、なんであれ、龍か大蛇がトーテムだった。禹帝の妻は伝説の女嬌は九本の尾を持つ白狐の姿だった。
九尾狐は天界の目出度い神獣で、赤あるいは白色で、その声は嬰児のようだった
という。
禹王は「九尾は王者の象徴ではないか」と、この麗しい女性と夫婦の契りを結んだ。
涂山(とざん)氏は東夷の中でも有力な部族で白狐をトーテムとしていた。(親族集
団の象徴)
卑弥呼の宗廟の祖寧は禹帝である姒氏か、その妻の涂山氏の可能性が高い。
九尾狐は三国時代には神獣として「九尾天狐」と呼ばれ伝説となっていた。
日本に目を転じると、禹王にまつわる石碑や祠堂たくさんある。
伏見稲荷神社は秦氏が勧請したと伝わる。
また、秦氏諸族をひきいて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織りだし、朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如し、
天皇御悦のあまり、埋益という意味で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。
弓月王の孫酒公は禹豆麻佐の姓を賜う。
この禹豆麻佐の四文字に禹という文字がある。
秦氏は白狐を奉祭していた涂山(とざん)氏の部族だった可能性がある。
大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和同四年(七一三年)秦伊
呂具が伏見稲荷大社を建立した。

九鼎鋳造の伝説

河内の陽城を居城にして国号を夏とした。
禹帝は治水神である。涂山大会の後、諸侯たちが敬意を表するために陽城に青銅を献じに続々と結集した。
その後、九州(中国全土))から献上される銅は年を追うごとに多くなっ たため、大禹は黄帝軒轅が鋳造した鼎に倣い涂山大会を記 念して各諸侯が献上した青銅を使って大きな鼎(かなえ)を鋳造した。鼎は州ごとに全部で九つ完成し、それぞれ冀州鼎、 兖州鼎、青州鼎、徐州鼎、揚州鼎、荊州鼎、豫州鼎、梁州 鼎、雍州鼎と言い、鼎上には各州の山川名物、禽異獣が彫 られてた。九鼎は九州を平定した象徴であり、その中で豫州鼎が中央の大鼎だった。
「冀州、兖州、青州、徐州、扬州、荆州、豫州、梁州、雍州,这就是九州」、日本の九州の名称は中国由来なのは勿論だが、九州に禹帝の苗嬴が王朝をを起こしていたとも考えられる。なにしろ、天帝とは皇帝よりも偉くて、全土をすべるという意味で北極星が天使であり、泰山での封ぜんの儀式を経て初めて天使になれるのである。

 さて、その後の一行で、「その道理を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし」とあり、江南の倭国が会稽の東冶(とうや)の東にあったと述べている。会稽郡(かいけい)は江蘇州(こうそ)と浙江省(せっこう)と福建省(ふっけん)かけてあった郡。東冶(とうや)は福建省の中の一つの県名。郡から県に落して、その東と言っているので、県という行政区を基準にその東と解すべきだろう。すると、江南の倭人の諸国は上海から海南島にかけて幅広く海沿いにあったということだ。会稽東冶の東にあるというのは、中原の河内からみれば、会稽いったいは東夷の国々だったのだから、海を渡らずとも東夷の
国はあったのだ。

○「会稽」の古跡から倭人の表記が見つかる

_この会稽の郡長官であったという曹氏の墓から一枚のレンガが出土した。そこには7つの文字が刻まれていた。「有倭人以時盟不」と刻まれていた。「倭人は時をもって同盟するだろうか?」という意味らしい。ここれは中国の倭人のことを言っているのであって、日本の倭人ではないことはもちろんである。

 ここで倭人はBC600年頃、会稽から南の地域にも住んでいたことをふまえておくことにしよう。倭人とは中国にすでに知られていた雑多な種族で、その倭人がいつのまにか日本と韓半島南部加羅に小国を作ったというのが中国から見た歴史観となるだろう。

○倭人鬯艸を献上する

「周のとき、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」(後漢・王充の論衡 巻八・儒増篇)とある。

「周のとき、天下太平、越裳(えつしょう=ベトナム)
白雉(はくち=キジ)を献じ、
倭人は、鬯艸(ちょうそう=芳香酒)を貢献した 」
(後漢・王充の論衡 巻八・儒増篇)

・・・・倭人が献上した、鬯艸(ちょうそう=芳香酒)は、ハーブを使った不老長寿の神仙酒で、粤地(えつち)、広東・広西の特産物であった。亜熱帯でしか生育しない。従って、東海の倭人ではなく、中国本土の倭人が献上したと考えた方が妥当である。ここに倭国と書かずに倭人と書いてあるのが味噌。後に、鬯艸(ちょうそう=芳香酒は、不老長寿といっても、皇帝にあまり効き目はなかったと言われた。
ともあれ、倭人は周の時代(紀元前1000年頃)のあと、江南にすんでいた有力文献となろう。殷を滅ぼした周は中国の神話では、西からやってきたと言われている。この周の国の住人は、ミャオ族やトン族もふくめて多数の種族が混在していた。倭人とは、越人と混在して暮らしていた種族であったと思われる。


倭人はユダヤ人だった?

唐の張楚金(ちょうそきん)が書いた翰苑(かんえん・690年頃)の倭国の項に、
「文身鯨面、猶太伯の苗と称す」と書かれている。また、後漢書や
「倭人は体にも顔にも入れ墨をしている。猶太(ユダヤ)の神祇官の子孫であると称している」と、なる。
はじめ、この記述にわたしは目を疑った。「猶太」はどうしてもユダヤとしか読めないからだ。しかし、唐の時代に猶太と書いていた。
オーソリティ古田武彦氏は猶太伯を、「なお太伯の苗と称す」としている。猶を副詞にとる。その意味は、さらに、その上に、なお、でさえまだ、それでもまだ、というわけだ。張楚金は、「なお太伯の苗」の意味で書いたという説である。実は、こちらのほうに大変な意味があるのである。
そこで、考えなければならないのは、太伯(たいはく)とはいったい何者なのだろうか?・・・という事である。

 さて、太伯(たいはく)は、なんと司馬遷の「史記一 本紀」に見いだせる。
周の古公の長子に太伯、次男に虞仲(ぐちゅう)があった。さらに太姜(たいきょう)という賢婦との間に李歴(りれき)という子があった。
この李歴の子に昌(しょう)という子があり、この昌に聖なる瑞祥があった。そこで古公は李歴とその子、昌にわが世を伝えようと欲していた。このため、太伯と虞仲は*洛陽から、荊蛮(けいばん)の地に出奔した。そこで、蛮俗の如く文身断髪した。周の王に相応しくない風体になり、つまり、あえて李歴に王位を譲ったというのである。
以上は、司馬遷の「史記一 本紀」に見られる記述である。聖瑞があったとされる李歴の子の昌は、周の聖王、「文王」である。「文王」の次が「武王」で、有名な「太公望」が軍師として登場してくる。周朝初期を、孔子はユートピアとして描きあげ、それを後代に見習うべき模範として伝えた。
「武王」が立ったのはおよそ、紀元前1050年。これは、ずいぶんと古い話である。 翰苑を書いた張楚金は、倭人は”司馬遷の言う「太伯」”の子孫だ称している・・・と伝えているのである。

 司馬遷の「史記一 本紀」、ここには、ある重要な痕跡が残されている。それは、文身断髪という倭人の風習、それである。太伯、彼がなんであれ、周を逃れたあと、倭人の居住地であった越南に出奔したのであろう(紀元前11世紀)そこで、呉国の淵源は太伯から始まるので、会稽の男子は呉の太伯の後と言うのである。
以上の接点から、倭王である卑弥呼が周の「太伯」の子孫であると称したことは、ありえない。

中国正史の魏略・御覧魏各倭伝に「太伯之後」と書かれ、魏志倭人にはない。
翰苑(かんえん)は正史外。正史のうち、魏略・御覧魏志・魏志・晋書では、皆「夏后小康の子が断髪文身」と記している。「太白の苗」は呉國であり、呉の孫権が王である。魏は呉を滅ぼしたのだが、結局、呉の孫権と直接【交通】した記録はない。なんらかの政治状況の変節が影響したのだろうが、魏志倭人伝が「呉の後を削除した意味の方を重視したい。

 *荊蛮(けいばん)荊州のこと。今の中国湖北省・湖南省の大部分。黄河一帯が漢族の故地であった。紀元前5世紀ごろの観念では、長江の南側は古代では蛮人の国であった。

うごめき騒ぐ荊州の蛮人どもが
我が大国に歯向かおうとしている。(詩経 小雅)

いずれも卑彌呼が太白の苗と言っているのではなく、会稽の住民がみな太白の後裔だと自称しているということであり、翰苑の一人とちりである。魏志は「その会稽の使いが皆大夫と自称している」とは、書いているが、呉とは関係がない。むしろ、「大夫」は周代から春秋戦国時代(=東周時代)の貴族の位の一つ官名であり、戦国時代には死語になっていたのだろう。。

史書名 表記の内容(原文まま)
 魏略 聞其旧語自謂太伯之後 
 御覧魏志  聞其旧語自謂太伯之後
梁書 自伝太伯之後
晋書 自謂太伯之後
北史 自伝太伯之後

太伯から日本語は北方系になってしまった?

いずれも、倭人が自ら太伯の後継であると言っている・・・という間接表現となっている。太伯が倭人の大祖であるとすると、列島はそもそも周王朝の枝分国だったのだろうか。
前1000年頃、有名な武王が殷の安陽を攻略した。武王は北方民族であり、西北からやって来た。武王の姫王朝の種族は北方系の騎馬民族であり、言語はアルタイ語の一つであった。一方、被支配民族の中原の諸語はみな南方系中国語であった。周の官吏と民衆とは語順が逆さまだった。そこで、名詞は逆行、動詞は順行といったねじれを起こした。こうした現象が起きたのは、明らかに二つの異なる言語が同一地域で競合していたからだ。語順を並べ替えるだけですむ名詞の場合、王武を武王、宗高を高宗にすればいいだけの話だ。しかし、動詞のばあいは慣れるまで時間がかかる。ちょっと、考えてからでないと言えないからだ。そこで、だんだん逆行構造に同化していったのだ。このことは、今日の北京方言以外は大部分が順行構造である。逆行構造とは、「わたしの恋人」のように、「修飾語+被修飾語」という語順になる。順行構造は「恋人・わたしの」と語順が逆になる。動詞のばあいも同じように、修飾語と被修飾語が逆転する。
この逆行する語順を最初に中国に持ち込んだのが周王朝であり、こんにちの北京方言は完全に北方型に同化している。しかし、もともと民衆は今日の華南で話されている順行構造をとる広東語と同類だったのだ。では、日本ではどうしてアルタイ系語順になったのか・・・これは日本人がもともと南方系種族であったと考えると、どこかで「ねじれた」ことになる。南方言語はほとんど順行構造である。
この矛盾は、やはり日本が、紀元前にすでに周という北方民族の政治的支配を受けたとしか考えられない。大きく意味することは、南方系の倭語が、北京語と同じような運命をたどったということだ。いま、私たちは北方系の騎馬民族と同じ語順でしゃべっている。本来の主流の倭人は、いまの広東語・タイ語類に近い語順だっただろう。この秘密は、どうしても沖縄の方言分布のなかに隠されている気がしてならない。

○官位名は周代の名称をそのまま使っていた。

そもそも、漢字の読みとは、発音でだり、基層は呉音である。その上に、唐の発音、宗の発音が相乗的に積み重なってきている。越が呉を破り、楚が越を破り、秦が楚を破った。呉越同舟ka


翰苑の倭国の項(古田武彦氏の解釈による全文書き下し)


「山に憑り海を負うて馬臺(邪馬臺国)に鎮し、以て都を建つ。
職を分かち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。
卑弥は妖惑して翻って群情に叶う。
臺与は幼歯にして方に衆望に諧う。
文身鯨面、猶太伯の苗と称す

阿輩鶏弥(おほきみ)、自ら天児の称を表わす。
礼儀に因りて評(帙)し、智信に即して以って官を命ず。
邪(なな)めに伊都(筑紫)に届き、傍らに斯馬(対馬)に連なる。
中元の際、紫綬の栄を受け、景初の辰、文錦の献を恭しくす。」


*()内は同字に変えています。
卑弥呼の民が入墨をしていて、なお太伯の後裔だといっている・・・文献、下線部に注意。馬臺は邪馬壹国のこと。すると、邪馬壹国はななめに伊都(沿岸から太宰府あたりまで)、伊都のかたわらに斯馬(対馬)がある。邪馬壹国は、伊都国から対馬の反対方向にあり、かつ、対馬との距離に等しいくらいである。すると、筑紫平野の中心部にあるらしいことが読める。著者は邪馬壹国は、福岡県甘木・朝倉郡にあったと考えている。(後節に詳細)

阿輩鶏弥(おほきみ)とは、大王(おおきみ)であるが、誰かというと、ニニギノミコトのことだろう。阿輩は日本書紀では「豊」の一字に置き換えられている。

「邪馬一国への道標」 古田武彦著 1978講談社刊から抜粋


 ○一方、九州の隼人(はやと)も、蝦夷の民も鯨面であった。この倭人の特徴が日本人に明瞭に認められる。(目尻に朱の入墨をしていた。エジプトのツタンカーメン王の棺にある目のイメージか?)

○倭人はもともと広西壮族自治区から福建、広東、浙江省の地域にいた南方異民族で海蛇をトーテムとし、中国で「倭の水人」と言われた南方モンゴロイドだ。しかし、不思議なことに彼らは自らを呉の始祖・太伯の子孫だと言っていたことは否定できない。一般に呉という国があった地域と古代日本人とは非常に近い関係にある。始皇帝が前221年に最後に統一したのが越地であり、このとき制圧を嫌って越人は移動したのであろう。春秋戦国時代の西暦前334年、江南の大国・越が楚に破れている。『史記』には、「越はここをもって散ず、江南の海上に浜(ひん)す」とあり、多くの越の住民が日本に逃れてきたことを暗示しているのである。江南の海上にあるのは日本列島のことである。中国の地図概念では日本列島の東は、南と誤解されていたらしい。しかし、会稽の東の海上は、まごうことなき日本列島なのである。また、越の民は雲南の山岳地帯にも移動したと考えられる。越人の最大の種族、ミャオ族(三苗族)には、かつて祖先は東に住んでいた。山を越え、河を渡ってだんだん西方に来たという古歌が多く残されている。史記には、「三苗、江淮荊州に在り、数乱を為す」とあり、江淮荊州とは長江の下流域の北側あたりである。

○雲南省の小数民族ナシ族はもと越人

 中国ではもともと服装や、生活習慣、思想の違う種族を蛮、夷、戎 (じゅう)、狄 (てき)などと称して華と区別していた。今日のわたしたちの言う民族という概念は、近代以前の中国語にはなかった。華人と夷との区別は文化的相違であったので、時代とともに夷人が華人になったり、華人が辺境に取り残されて夷人にみなされたりした。華人の主流が漢人であったが、漢人と一言でいえないほど雑多であったとも言われている。
_さて、現在の民族という概念でとらまえると、中国には55もの小数民族があるといわれている。
そのなかで、雲南の秘境、麗江県ナシ族は、かつて百越の民だった。その証しは、彼らの祖先は前200年頃、後漢書に「越雋羌 (えつぜんこう)と書かれていたことである。ナシ族の名称は最近のことで、「モーシュ」「モーソ」「リシ」「マソ」「マリモソ」「ロカ」「バンツ」などと呼ばれていた。
ナシ族の町並みは日本の古い下町を思わせる。食はわさび、うどんそば、こんにゃく、里芋(さといも)、梅酒、椎茸(しいたけ)、松茸(まつたけ)などが、ふんだんにあり、まさに日本食のパレード。赤米を赤飯として祝い事をしたり、餅をついて儀式に使う。おまけに、お汁粉や納豆まであるという。ほとんど生活習慣も日本人と共通なため、あたかも古きよき日本を味わうようだと言われている。ナシ族の信仰するトンパ教も先祖崇拝に厚く、そしてさまざまな神々を祭るが、その数は1000を越えるという。面白いことに、トンパ教には300ものの鬼のユーモラスな物語があるという。
また、この民族は人情に厚く、金に関ったり、商売したりすることを恥と考えているのだという。トンパ教の僧侶がいつも貧乏なのは、人々からお金を受け取らないからだという。

*ナシ族は、独特のトンパ文字をもっており、今も使われている。町は中国語とトンパ文字が混在している。


琉球語は日本語の原型か?
これは、与那国島(よなぐにじま)に残るカイダー文字。見たとおり、絵文字で明治中期頃まで使われていたという。これがびっくりすることに、トンパ文字とよく似ている。沖縄は江戸時代は琉球王国として、中国と日本と等外交をしながら繁栄した独立国だった。その技術・文化は中國からの影響が大きいが
時代に遡ると漢字はなく、中國との外交の必要性から蔡温(さいおん1682-1761)が、中国から学者を呼んで外交文書を漢文で作ることに国の命運をかけたが、つまところ琉球にとっては、外国語だった。つまり、琉球諸島の言語ルーツは5母音であることから南方オセアニアだったと推測できる。琉球諸島の言語は島々によって異なり、島民間での会話がなりたたないほどで、島=国のような有り様だった。ウチナーグチ(沖縄口)は、およそ、下記のように分類される。石垣島は八重山方言と分類される。与那国島(よなぐにじま)は、一時間ぐらいさらに南方になるが八重山方言とは区別される。

南琉球方言(先島方言群)

与那国島のカイダー文字


下は、ナシ族のトンパ文字。

今でも、ナシ族は象形絵文字を使っている。上の絵文字は魚。
tua
これは、「僕は深く君を愛している」と読む。絵文字といっても、ちゃんと読む法則(文法)があるのだ。これは絵ではなく、立派な文字である・・・。

(引用文献 トンパ文字・王超鷹著マール社、生きている象形文字 ナシ族の文化 中公新書)

○北部タイのアカ族には、鳥居と、お歯黒の習慣がある

 チェンマイから北方、標高1200mの山岳地帯ににアカ族の村がある。ここの老女は、お歯黒をしている。民家はわらぶき屋根で、高床式である。村の人々は精霊を敬い、悪霊を畏れる伝統的な生活を今も送っている。シャーマンも健在している。村の入り口には鳥居(ターレオ)があって、横木にはひごを輪を鎖状にしたしめ縄がくくられ、横木の上には神の使者である鳥が付けられている。素朴な鳥居の原形と言われている。主流のシャム族にも鳥居(ターレオ)があり、バンと呼ばれる。また、村々の入り口には、男女対になったリアルな性器の木造が悪霊を退治するために置かれている。例えれば、日本の双体道祖神や、性器をかたどった*塞の神(さへのかみ)にそっくりである。チベット・ビルマ語圏にあり、アニミズムと祖霊信仰をもっている。なにか、日本の源風景があって、日本人なら、それらがなんであるのかすぐに理解できる。彼らは交通の便のよくない山岳地帯に暮らし、日本では薄らいだ古代の信仰や習慣をずっと色濃く保ったのだろう。もともと彼らも紀元前3世紀ごろにに越から各地に散った同族だったのではないだろうか。鳥居が結界(けっかい)の意味があることは、村村の入り口におかれることで理解できる。ターレオは鳥居の変形である。話はそれるが、神社の鳥居をくぐると、たちまち気が変化していることに気付く人は多い。鳥居の内側は、清浄な気が横溢しているので、空気がいくぶん、ひんやりと感じるのである。黄銅鉱や水晶柱の先端からは、同じような気がとどまることなく吹きあがっている。手をかざしてみると、ひんやりとした風があたるように感じる。こうした浄化力を利用している最大の建築物がオベリスクだろう。
古代エジプトのオベリスクは一つの巨大な石材で作り、断面は方形、上方ほど細く、頂上はピラミッド型になっている。太陽神の神殿の前に、二対建てられていることから分かるように、あたかも(エジプトの)鳥居と言えよう。オベリスクの先端からも、強い気が噴出している。魔除けというと、迷信に伏してしまう人々は、こういった気といったような眼にみえないものをまったく考えたこともないのだろう。しかし、ちょっとした感受性を持っている人々は口にはださないだけで、実は驚くほどたくさんいるらしい。たとえば、伊勢神宮のところどころの神木は、あまりにたくさんの人々がハグするので木肌が剥げているところがある。木に抱きつくのは、気を感じるからだろう。
ohaguro
発見!!
なんと・・・びっくり。
タイ北部山岳地、チェンダオのタイ少数民族リス族のおばあさん。お歯黒をしている!!!

ベトナムのザオ人(中国ではヤオ)の女性。中越国境に住む少数民族。銀で装飾するので「銀の人」とも呼ばれる。お歯黒をしている!!!
(大石吉野写真集「ベトナム凛と」から)

○入墨の習慣を残していた独龍族

「越人はざんばら髪で、身体に入れ墨をしていた」という漢書の記述はすでに紹介した。
越人=倭人、このイコールの部分は入れ墨である。入墨の風習があった少数民族は、雲南からタイ東北部にかけてのワ族、ラフ族、リス族、リー族、タイ族、シャン族、カレン族、それにチベット族などがある。(図説 日本人の原郷 萩原秀三郎)タイの東北部はイサンというが、北からやってきたという言い伝えを持つ人々の村が多い。ここで、何々族とう族名はすでに失われているが、入墨をしている人はよく見かける。なんと、入墨をしたお坊さんもいた。

 さて、中国の漢人や遊牧民、北方騎馬民族には古代から入墨の習慣は全くなかった。むしろ入墨は刑罰の一つだった。城旦の刑とは秦の時代の刑で、辺境に送って強制労働をさせるが、その際に逃亡を防ぐために罪人に入墨をした。そこで、漢人は入墨をひどく嫌うのである。しかし、前300年頃中国で、入墨の風習を持っていた種族が雲南省の小数民族に存在していた。

バンコックのエメラルド寺院内の壁画には
戦士に渦巻状の入墨が描かれている。<写真省略>


 中国で入れ墨の風習を残している小数民族が発見できる。それは雲南の最奥地の独龍族。入れ墨をするのは女性たちで、各氏ごとに入墨の模様が決っている。男性は女性の顔の入れ墨で相手の出自を判別することができた。そこで、この独龍族ももともと百越の一種族であったに違いない。もっともこの風習は、今日若い世代には全く受け継がれていない。二一世紀には、民族博物館でしかお目にかかれそうもないが・・・。

*塞の神(さへのかみ)イザナギがイザナミを黄泉の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)をさえぎるために投げた杖から成り出た神。
邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。

応神天皇=八幡神渡海説

謎解き・・・八幡神

 鹿児島県姶良郡隼人町*鹿児島神宮の「大隅正八幡本縁起」では『中国の*震旦国隣王・陳大王の娘、大比留女(おおひるめ)が七才で懐妊して生まれたのがホムタワケノミコト(応神天皇)である。船で大隅の八幡崎に漂着した。』とある。

八幡神は外来の神、オオヒルメ(ムチ)も中国から遣ってきた?

すなおに読めば、八幡神は外来の神となる。この大隅正八幡は延喜式の壮麗な大社で、隼人の一大拠点の上に建つ。隼人の雄族・曽君が勢力を持ち、この地に階層組織をもっていた。もともと、石体宮(しゃくたいみや)という古社が、この地にあって、その古社に残っていた古記録といわれるのが、大隅正八幡本縁起である。大比留米が朝日の光を胸に刺して、七歳にして懐妊して生まれ、父王、恐れて空船(うつぶね)に乗せて、海に流し、船の着いたところを所領としたまう。着いたところが大隅で、この太子を八幡と名づけ、その岬を八幡崎という。中国から籠船で流されて、つくところは九州西岸しか考えられない。中国の舟山列島から出発して、潮に乗ると一昼夜で日本に着くと言われている。やがて、大比留女は、九州の福岡にやってきて香椎聖母大菩薩となったという。ニニギノミコト=応神天皇はこれによれば、渡海人となる。この話、なにかに似ている。香椎生母といえば、香椎宮に遷都し、そこに宮をおいた神功皇后をさすことは明らかだ。八幡神と聖母が中国から海を渡ってきたと伝承している正八幡神宮の古歴を信じるか信じないか・・・それはかってである。しかし、八幡神=応神天皇は中国で出生したことは否定できない。なんと、 この伝承、籠船でナイル川に流され、エジプトの女王に拾われたモーセの話にも似ていないだろうか。卑弥呼が、拾い上げて、葦原中国(大和)の王にしてしまった。


「中国の秦(ちん)大王の娘、ダビデの留女が七才で懐妊して生まれたのがホムダワケノミコト(応神天皇)である。船で大隅の八幡岬に漂着した。」

上の「陳」は「秦」、どちらもチンと発音する。
「大比」は「大闢」、どちらもダ-ピーと発音する。「大闢」は「ダビデ」の漢訳である。後者がもともとの文字だったと思われる。そこで、書き換えると上のようになる。

**鹿児島神宮 大隅正八幡の名をもって知られる。祭神は、天津日高彦穂々出見尊(ニニギ)、帯中比子尊(仲哀)、息長帯中比売尊(神宮皇后=卑弥呼)、品陀和気尊(応神)、中比売尊(仲哀の正后)・・・これらの史実上の人物は応神、神宮皇后、旧大和の仲哀天皇とその正后となる。ニニギと応神は同体。なぜか、敵と味方ともども祀っていることに気付いた人も多いだろう。




「震旦国陳大王娘大比留女、七歳御懐妊。中国の秦(ちん)大王の娘、祖ダビデの子孫、留女(る)が七才で懐妊して生まれたのが八幡神(応神天皇)である。船で大隅の八幡岬に漂着した。」と読みむことができるのである。
なんと、応神天皇の生まれたのは中国で、秦大王という王家の生まれだというのである。八幡岬とは大隅半島の佐多岬のことであろう。応神天皇は九州八幡岬に上陸したあと、隼人の曽一族、日向の隼人らを従わしめて狗奴国、(熊襲と大和は称した)を建国する。こぞって兵になったのが海人隼人族だった。応神帝はいわゆる北方騎馬民族ではない。全国の神社の3分の一を占める、4万社の八幡神社で祭られる八幡大菩薩こと、ホムダワケノミコトこそが国譲り神話、神武東征の実像ではなかったのではないだろうか。
とにかく、あとにもさきにも九州王朝の東征、大和入りは一回だったはずである。
国譲りも、神武神話も異腹の兄弟王との大和の宇陀での戦争が共通している。
応神天皇を軍事的に支えていたのは大伴氏・宗像氏の九州勢力と宇佐の海人・筑紫の海部・安芸・備前明石の海人・淡路・熊野の海人、大和入りしてからは勝ち組の物部氏、葛城氏らだったのである。応神王朝の始まりは九州であり、狗奴国軍と卑弥呼軍(熊襲征討軍)が、大和を侵略したのだ。


■震旦国はいったい何処なのか?

 九州の大分と福岡にまたがる英彦山(ひこさん)は役小角(えんのおづの)を開山としない異例の修験道の霊山である。彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師であると「彦山流記」に書かれる。。普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもり、時期が来るのを待った。継体天皇二十五(531)年のことである。役小角より百年以上遡る。『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかある。しかし、善正は神格化され「檀君神像」とそっくりに描かれる。

 この図は英彦山開山伝説からの呪符で「三羽の鷹」が描かれているまた、アルファベットのaierhに読み取れるような文字と十字と装飾図は現代のデザインにも似てい奇なるところがある。なにかローマ字ではないかという思われる。なんと驚くことに、東ローマ帝国の影響下にあった可能性もある。この図では三本足には見えないことも注意点である。
彦山流記では「彦山権現」は「震旦国」から来たと書かれる。この社が檀君神話と弥勒信仰を併せ持っていることから、「震旦国」は「神檀国」のことであろう。紀元前7世紀から6世紀には、朝鮮の最初の国家があり、漢に前108年 に滅ぼされるまで存続したと考えられてい る。斯白力の天海(バイカル湖)の地域で天帝・桓因(ファンイン)より7代、330年が続いた。次に倍達国を桓雄天王が太白山(白頭山)の地域に都し18 代1565年続いた。次に、檀君(タングン)が阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク) に京にして「朝鮮」と名付けた。これを古朝鮮と呼ぶ。震旦国、文字の解読が歴史をかえる。「神檀国」は紀元前2000年からは、阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク)と認識されていたと云われるが、北朝鮮の開城(ケソン)には東明聖王の陵墓がある。平壌市の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。しかし、元来は集安にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。集安市は吉林省南東部、長白山(白頭山(ペクトサン))南麓に位置する。高句麗の王城(国内城クンネソン)があったところだ。

■百済のシンボルは2つあって、鷹がその一つ。

百済のことをメぺクチェと呼ぶこともある。 (メ)とはまさに鷹を意味する。百済を鳥類である鷹の一種を意味する‘鷹準(ウンジュン)’と‘羅鬪(ナツ)’と呼ばれた事実が伝えられている。三羽の鷹(サンメ)は百済のシンボルである。そこで、開山伝説を見てみよう。

*彦山を開山した僧善正が修行中のことである。豊後の国日田郡の猟師藤原恒雄と出会った。はじめは言葉が通じなかったが、しばらくすると二人の間で話ができるようになった。その時善正は殺生の罪を説くが、恒雄は耳を貸さず白鹿を殺してしまう。ところがその時上空から鷹が三羽現れて白鹿を蘇生させてしまう。その奇跡を見た恒雄は善正の弟子となり、名を忍辱と改め、修行に励むようになった。

「ある時、山麓(豊後国日田郡藤山村)に住む、藤原(藤山)恒雄が、山中で白鹿を射止めた。そん時、三羽の鷹(매メ)何処からともなく、天空から舞い降りて来た。一羽の鷹が白鹿の身にササッた矢を取りのぞき、もう一羽が傷口から流れ出ている血をぬぐい取り、最後の一羽が桧(ヒノキ)の葉にふくませた聖水を白鹿に飲ませた。すると、殺したハズの白鹿が生き返った!!!
白鹿の命を救った三羽の鷹の優しく美しき霊験に、狩人の恒雄は、殺生するコトの罪深さを悟る。そして、自ら善正の弟子となり、後に忍辱(にんにく)と改名。異なる【日子山】神様の聖地にもかかわらず、神仏様を仲良く合体して崇め奉り、神仏習合の霊山寺を建立。祖師の善正を開祖となし、自ら二世となった。仏教伝来における、日本初の仏教僧、誕生した。」

白鹿とは「扶余(プヨ)」のシンボルで神聖動物である。鷹は百済の象徴で鷹・ナトゥ。すると、百済が扶余を復興させるという含意がありそうである。
538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を南扶余と号したこともあり、百済王族が高句麗に滅ぼされた扶余を復興しよう強い願望があったということなろだろう。善正は檀君の別の名であり、藤原恒雄は百済の王族とあったという真相が透けて見える。
鷹狩りは伝来であるというより、馬韓の民が移住してきて、そのまま狩りを日本で継続したのであろう。


百済のナトゥ旗、鷹が描かれている。王の軍旗は黄色いナトゥ旗だった。黄色は皇帝の色だった。

*韓国で鷹狩りを見ようとするには、忠清南道の扶余と公州一帯で、678年の百済の歴史と文化にスポットを当てた「百済文化祭2012」が9月29日から10月7日が行われ、そのイベントに鷹狩りがある。

○「大隅正八幡本縁起」は古事記でも裏付けられる!!!

其の一:
大国主命は、天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ)が、刺国(サシノクニ)の大神の女、刺国若比売を娶って生まれたと古事記に書かれいる。大国主はオオアナムチと読み、これは固有名詞ではなく、一般名詞で、王と同じ意味であることはすでに述べたことである。ここでの大国主命、(葦原色許男、八矛神、又の名を宇都志国玉神)は瓊々杵命(ニニギ)、誉田和気尊である。
すると、刺国若比売が大比留女(おおひるめ)と同一人物となる。どうだろう。刺国が日本国内だと頭から思わないで、考えてみよう。はたして、刺=大比=大闢だろうか。
刺国=震旦国隣=紗とという、つながりができてくる。石体神社のシャクタイもシャの音がある。「去来紗別命」を単純に解釈すると、「紗」「シャ」(Xa)(さ)から遣って来た王の意味になる。Xaという音が手がかりである。
この国の名前にサ=シャの音が含まれている。ホンダワケはXa(シャ)という発音が含まれるの国名から来たことが推測できる。大辟神社のある播磨の坂越(さこし)も「しゃくし」と呼ばれていた。

其の二:
 八幡という中の「八」は、八十万(やおよろず)の神という例のように「たくさん」という意味がある。
古事記に記される天□穂耳命(あめの・おしほ・みみのみこと)はオオナムチ=天日明命(あめのほあかりのみこと)に比定できる。「葦原中国は、騒乱もおさまり穏やかになりました。ご命令のままに、さあ、降臨して世に知らしめなさい。」と天照大神の勅意にたいして、「わたしが降臨しようと装いをしている間に、邇邇藝命という子が産まれたので、その子を降臨させなさい」と答える。これは、国譲りをしたことである。天□穂耳命は、天日明命(あめのほあかりのみこと=オオナムチ)に比定できる。さて、この下りのあと、「高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師比売命(よろずはた・とよ・あきづしひめ)に御合(みあひ)して、生みませる子、天日明命。次に日子番(ひほこ)能(の)邇邇藝命なり」という。天尊誕生では、邇邇藝命を「萬幡」豊秋津師比売の産んだ子としている。幡の文字があるのがキーとなる。「萬幡」、よろずはた」とは、「八幡」(やはた)と意味として同じであろう。さて、古事記と記紀ともに、必死で隠そうとしたことがここに描かれている。つまり、オオナムチとニニギをともに、萬幡豊秋津師比売命(よろずはた・とよ・あきづしひめ)が生んだ子供だとしている点である。二夫(二人の夫)に交えたことを、どうしても隠さなければならなかったのだ。二人の妻であった女は、母親に偽装してしまった。これが編纂された7世紀、当時の中国思想がそれを許さなかったのだ。


其の一と其の二を重ねると、

高木神は、天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ)と同じ。大隅正八幡本縁起を重ねると、震旦国・陳大王となる。これは、「秦」であろう。

萬幡豊秋津師比売命(よろずはた・とよ・あきづしひめ)は、高木神の娘であるが、ここに「はた」があり、「秦」に同じ。「よろずはた」と「やはた」は、「秦」の別名にすぎないのである。
刺国若比売と同じである。
少々強引ではあるが、萬幡は刺国と同意である。そこで、大三輪大神を初めとして、スサノヲと、その遠祖を祭った社は、大蛇神として歴史上あがめられた神、なんと大祖ダビデ王、祖大酒主を祭っているのである。すなわち、スサノヲを御祭神とする社の氏子は、だれあろうダビデの子孫を祭っている。王位は、ダビデ王の直系の子孫であることを証明する者だけが、正しく継承するものであった。それが、三種の神器だったのだ。

○震旦とは、どこか?

「震旦」とは、別に、「振旦」「真丹」とも書く。目下のところ、この文字からは、どこか、推定する材料が見当たらない。震旦とはシンダンと読み、一般には中国の異称だ。古代インド人が中国をチーナ‐スターナ(C_na-sth_na)と呼んだのに基づくのだという。しかし、歴史上、なんという国かは判明しない。そこで、刺国という文字の解釈で、地図上で特定できれば素晴らしいが、いまは不明としか言えない。しかし、彦山流記では「彦山権現」は「震旦国」から来たと書かれることを傍証にすると、檀君(タングン)が宮を置いた阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガクサン)だと比定できそうである。


○「大隅正八幡本縁起」は日本書紀にも符号する

 紹介してきた八幡神の由来と相応する文が日本書紀にある。仲哀二年条である。次に紹介するこの中には驚くべきことが書かれている。
これが、謎の文章。
「二年の春正月の甲寅の朔甲に、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后(きさき)となす。
これより先に、叔父彦人大兄(おとをぢひこひとのおおえ)が女(むすめ)大中姫(おおなかひめ)を娶りて、妃(みめ)としたまふ。籠坂皇子・忍熊皇子を生む。
来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主が女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶りて、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。


訳の分からない一行とは、上の下線の部分である。・・・

「来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主の娘である弟媛(おとひめ)を娶りて、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。」・・・である。この一行には「大酒主」という文字がはっきりと書かれている。

ホムダワケノミコトが中国で生まれたのであれば、卑弥呼とは記紀の記す親子ではなく、ほんとうは夫婦となる。来熊田は熊襲と同意であるので、熊はユウに置き換えられる。これは秦始皇帝の姓である。したがって、秦の末裔であることが暗示されている。


  1. 誉屋別皇子を生んだ父の位、造(みやつこ)とは、おそろしく身分が低い。すくなくても、皇子は太子になる身分である。全く、おかしい。
  2. 来熊田造(くくまたのみやつこ)は、熊襲の裏返し?
  3. 神功皇后記ではホンダワケノミコトは気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の生んだ子供とし、ホムヤワケノミコトとは素性が違いすぎる。
  4. 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)がホンダワケノミコトと別人だとしたら、仲哀記に唐突に書かれるのか全く不可解。天皇の妃と天皇の子と無関係とは考えられない。そこが、理解に苦しむところ。
  5. 仲哀記に、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は、 ククマタノミヤツコと*祖大酒主(ダビデ)のむすめ、オトヒメの子供とする記載する必然性が脈絡から全く伺えない。
  6. 籠坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の正后の子供である。その次に続いて書かれていることを一体なんと見るか。すくなくても、腹違いの皇子を扱うにしても、仲哀天皇が父であるはずである。しかし、父が来熊田造(くくまたのみやつこ)であり、前後の脈絡が切れているとしか思えない。
これらの疑問を解くには、答えは一つしかない。「ホムヤワケ」は「ホンダワケ」にほかならないだろう。ホムヤワケを第一子、ホムダワケを第二子にするトリッキーなごまかしは破れた。むしろ、この一行に「ホムヤワケ」とあえて別名にして真実を残したと感じる。

秦大王の娘、留(リゥ)は、日本書記ではオトヒメと表記されている祖大酒主のむすめと対応する。
留という字は「と」と読まれるので、大留媛とも書けるのでオトヒメの本字かもしれない。
さて、大酒で思い出されるのは大酒神社の大酒である。祖大酒主とは「イスラエルの大王ダビデ」だったはずである。(第一章に)ここに、日本書紀の謎かくしが顕になっていなだろうか。

大隅正八幡宮縁起の伝承と書記の一文は、どちらもこれは、祖先をダビデ王にもつ娘と解釈できるのである。
「秦」を「陳」に、「大闢」(ダーピー)を「大比」の元名とすれば、すべて解決する。なんらかの理由で「秦」の文字と「大闢」の意味を隠さなければならないとき、中国語を音読できる人物が文字を変更したと言える。ここでは中国語で全く同じ発音の文字を選んでいる。日本では、真の意味が不明の文章になる。しかし、チンとダ-ピーの音が残れば、それは意味が通るのである。この文献の真実は後の人が判読できる可能性を残しつつ、文献の抹殺をまぬがれることができるぎりぎりの改竄(かいざん)だったのだろう。「秦」の文字と「大闢」を隠す必要が後世に生じたのだろう。なんと歴史は複雑なのだろうか!?!
大三輪大神を初めとして、スサノヲと、その遠祖を祭ったとすれば、大蛇神として歴史上あがめられた神は、なんと大祖ダビデ王、祖大酒主なのである。すなわち、スサノヲを御祭神とする社の氏子は、だれあろうダビデの子孫たちとなる。


David And His Seed 4」
 「おそれるな、わたしはあなたとともにおる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあつめる。」(イザヤ書 43-5)
Fear not : for I am with thee: I will bring thy seed from the east, and gather thee from the west.

「おそれるな、わたしはあなたとともにおる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあつめる。」(イザヤ書 43-5)


来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主(祖ダビデ大王)が女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶りて、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。日本書紀に書かれた一文が、不思議なことを書き残してくれた。ホンタワケは大王ダビデを祖先にもつオトヒメから生まれた。つまり、ホンタワケもダビデの子孫である。するとこの預言通り応神天皇はダビデの子孫だったということになる。来熊田造とは熊津(ウンジン)から来た王の意味だろう。



ようやく、ホムダワケが仲哀天皇と気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の間に生まれた皇子ではないことが見えてきたようだ。すると、仲哀天皇と応神天皇の血脈が断絶していることが判明する。

*応神・神武神話重複説
 この応神・神武神話重複説とは、わたしが自ら付けたので他に説があるかどうかは不詳。しかし、かつては常識だったのかも知れない。



新説スサノヲ・八雲たつ


 出雲地方の盛んな蛇信仰は、ユーラシア大陸にまたがるトーテムそのものだった。つまり、この渡来人は蛇を祖神としていたインド源流の倭人である。出雲族は紀元前6世紀年頃に漢民族南下に圧迫されて、長江から一度朝鮮半島に移動し定住した斉や燕から移住した種族、龍をトーテムとし鬼道を行う。その後、扶余族の半島南下し、さらに圧迫されて日本に移動したきた。すでに銅鐸は紀元前2世紀頃から盛んに作られているので、だいたいそれ以前に移動している。出雲だけでなくすでに大和地方にも先住していたれっきとした大和の先達王朝。代表的なそれが物部氏(もののべうじ)と賀茂氏(かもうじ)である。彼らがかつて半島にいた倭人であるということは極めて重要なことである。

「意富美和」(おおみわ)は三諸山の大三輪の大神の表記(古事記)であるが、「富美」(トビ)の文字がしっかりとある。また、「豊美」の文字も蛇を意味していた。「トビ」、「トミ」、「トメ」が当時の蛇の古語だとされるが、これは古代朝鮮語と言われている。刀弥・刀美(トミ)なども出雲系神名である。「ハ」「ハハ」「カカ」「カガ」「カヅチ」は大蛇の意味。雷神、竜神名にも使われる。「はは」については、古語拾遺には、「古語に、大蛇、これを羽羽と謂ふ」、とあり、羽羽という宛て字になっている。「羽羽矢」は大蛇の呪力をもった矢の意味になる。広辞苑では、蛇のように威力ある矢、または大蛇を射たおす矢か・・・と記している。羽の文字は、宛て字にすぎず、漢字のほんらいの意味である(鳥の)羽の意味はここには微塵もない。天津神の子のしるしものとは、「天羽羽矢」(あまのははや)と「歩靫」(かちゆき)などがあった(書紀神武記・長脛彦)。「歩靫」(かちゆき)とは、矢を入れて携帯する筒、「やなぐい」のことである。なんと、(大蛇神の矢)と(それを入れる容器)が、王権のしるしだったのである。羽羽は「はは」であるが、奈良時代以前は「ふぁふぁ」と発音されていた。

一方、蛇の古代語には「ウカ」「ヌカ」「ミツハ」「ミヅチ」「ツクナ」「ヤツ」「ツツ」があるがそれは南方系の倭人の呼び方だろう。「ハミ」「ハブ」にいたっては、完全にインド語「パビ」がなまったものである。ウカが蛇であることから、「ウ」で、へびを意味していただろう。そこで、久米の兵を鵜飼いの者どもと、書かれているが「ウカ・イ」も、鵜の文字に引きづられないほうがよさそうである。すると、鵜飼いのものどもとは、蛇を神としてあがめる人々としたほうが事実に合いそうである。大国主の合わせ名の宇津志国玉神(うつしくにたまのかみ)の宇も「へび」の意味になるのではないだろうか。

 ところで、中国にはいまも200余の言語があり、不便なことに互いに通じないので筆談で意思を通じ合わせることが多い。
倭人とはたくさんの部族の総称で、言語が共通だったとは限らない。倭人にも言語が違う部族が複数あったと考えられる。倭人はそれら複数の種族の総称であることを踏まえておこう。
大和王朝は隼人との交渉に通訳が必要だったとの記録があり、大和言葉では隼人族と話が通じなかったことが分かっている。
この出雲族はニギハヤヒを中心に国つくりした倭人で大和に王朝を造ったはじめの種族であった。鈴と同様な魔除けの楽器=銅鐸の製造が消滅してしまったのは、出雲から九州王朝に国譲りが行われたことと、鉄器の製造に移行したことと、平行しているからだ。このとき日向の王に臣下の礼を取らず、最後まで抵抗したミナカノトミノミコト、別名、オホミナカタ(長脛彦)は逃れて長野県に第二次出雲王朝を築いたといわれ、諏訪神社上社の祭神となっている。諏訪大社・上社のミサクチ神は、いまはよく分からなくなってしまった神名らしいが、ミナカノトミノミコトは諏訪湖の神霊「水潟の神」(みなかた)と同体ではないだろうか。諏訪大社の祭儀からは蛇形の神であったことはよく語られる。新天津神、応神に仕えたのがミナカノトミノミコトの義父、ニギハヤヒであった。ニギハヤヒはスサノヲそのものか、子供に比定できる大物。スサノヲーニギハヤヒーヒミコは大和創建王朝であった。
出雲からは銅鐸がたくさん出土する。また、長野県でも銅鐸がでたのはそうした出雲文化が三世紀以後も諏訪を中心に継承された証拠といえよう。

ミナカノトミノミコトは長脛彦(ながすねひこ)、別名、登美能那賀須泥毘(神武記)であり、別名アラハバギ=足長神。根の国に追放されたのは実際にはこの人物。また、ニギハヤヒはミナカノトミノミコトの娘との間に宇摩志麻治命をもうけた。宇摩志麻治命(うましまじ)は、事代主命(ことしろぬし)と同じ。出雲系、幕末の勝海舟のように国譲りをするはめになった。国譲りが応神の代で起きたこととすると、事代主命(ことしろぬし)は、仲哀天皇に比定できる。
ミナカノトミノミコトは大国主の子供ともよく言われるが、大国主を邇芸速日命にするか、瓊々杵命にするかで、まるで話が違ってくる。混乱の原因となっている。そのため、大国主と言うのは固有人名ではなく、出雲系の王の称号だった、とみるほうが適当だろう。
 出雲のために最後まで戦ったミナカノトミノミコトは諏訪に出雲の伝統を残した。諏訪大社の御柱祭は、もと出雲の祭だった可能性が高い。この出雲族を後期縄文時代からの主たる住人と看做すことができる。この出雲族も鉄器と銅器の技術をもっていた。大事なことは、彼らも南方の海蛇信仰を持っていたことである。日本古来の先住民族とは、どのあたりの時代から線引されるのだろうか。マンモスと一緒に大陸から渡って来た種族あたりを先住民というのではないだろうか。出雲族はむしろ渡来系と考えられる。

○ニギハヤギノミコトは韓半島の支配者でもあった

 出雲は地祇(くにつかみ)を祀る一大種族だった。しかし、彼らも渡来民族である。種族としては出雲=大和で、出雲は但馬、丹後、越前などは初期大和王権を支える生産基盤地であった。書紀では、「ニギハヤギノミコト、天磐船(あまのいわふね)に乗りて大虚(おおぞら)をめぐりゆきて、この郷(くに)を睨(おせ)りて降(あまくだ)りたまふにいたりて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて『ソラミツヤマトノクニ』と曰ふ」とある。また、神武天皇が大和国の山上から国見をして「蜻蛉の臀(となめ)の如し」と言った伝説がある。となめとはトンボの雌雄が交尾して互いに尾をふくみあい、輪になって飛ぶ様を言う。
ソラミツとは辰韓(じんはん)、後の新羅のことであるから、言い換えれば「新羅日本国」(しらぎやまとのくに)となろうか。「そらみつ・やまと」の概念は、蜻蛉島・蜻蛉洲(アキズシマ・アキヅシマ)」とまったく同一となる。これは、大和国の旧称だった。(のちに秋津島とも書かれる)面白いことに蜻蛉洲の蜻蛉(せいれい)は昆虫のとんぼの意味だが、これは漢借文字としては大いに笑える。日本は「とんぼ国」・・・となるからだ。「あき」を秋に掛けてトンボにしたのだろうか? そうではない。(倭の國を蜻蛉島と謂ふ・・・古事記/雄略天皇・吉野)


「とんぼ国」の作られかたは単純で、いま、仮に地図を見て対馬をトンボの尻尾にみたてれば、日本列島と半島がトンボの雌雄の交尾した形になることに気付かされる。この五世紀以前から、日本周辺があたかもそのように描かれた地図があったのだろう。秋津島という概念は韓半島が含まれていたと思われる。
古事記にはイザナキが「淡海の多賀に坐す」とあるが、近江国は出雲系の政治拠点であったと思われる。神功皇后が、宇陀の戦の後、武内宿禰と太子とを気比神社に詣でさせたのは、ここが古王朝の中心的聖地であったからだろう。気比神社は、近江からみれば眼と鼻の先、敦賀は日本海への玄関口である。神功皇后に敗れた、二人の兄弟王は最後は近江に逃げている。つまり、そこが最後の砦であったからだろう。ニニギノミコト=新王が、気比神社を訪れたことは、凱旋の意味が色濃く、国譲りの実質的な公布であった可能性が高い。

ところで、ニギハヤギノミコト、「ソラミツヤマト」と言ったにしては、まったく韓土の習俗と宗教性をもっていない。それは出雲大社と出雲の習俗についても同じことが言える。出雲族は倭人であって紀元前まで韓半島にも広く分布していたのである。それが、南下してきた扶余族(ツングース種族)に押されて出雲に逃れてきたのである。半島に居住していた倭人たちは、自分たちを辰韓や百済から来た倭人であると言ったとしても不思議ではない。そこで半島での扶余族との抗争・雑居によって、ツングース語が出雲の語彙に組み込まれたのである。出雲族(古王朝系)を騎馬民族と錯覚してしうのは倭人の進出領域を狭くとってしまった結果である。むしろ加羅からやって来た倭人集団が初期の大和王朝を築いたと考えたほうが無理がない。ここは、はっきりと、国つ神は倭人であると踏まえたほうがいいだろう。


 ニギハヤギノミコトはヤマトと辰韓を合わせた領域を支配した大王で、別格の神人だった理由は、こうした背景を踏まえてはじめて正しく理解できる。そこで、後続の九州王朝には倭人に関するこの概念は希薄だったはずだ。このことを踏まえると、面白い歴史のあやが見えてくるだろう。(たとえば、持統、元明などは女帝として藤原氏の台頭に押しまくられながら、最後の蘇我一族の意地を見せていた。そこで、蘇我氏が百済系,藤原氏は伽耶倭人系に分類できるようにみえる。源氏の尊崇したのが八幡である。源氏には新羅三郎義光=源義光の異称。頼義の三男で、新羅明神の社壇で元服したとされ、新羅と因縁があるような感じがする。が、八幡は帯方倭人の系列である。新羅に滅亡された加羅の出だとしたら、新羅は遠慮のない敵となるからだ。列島の百済勢と加羅勢は、『新羅はけしからん』ということで一致していたのだ。)

  倭人は新羅とは通訳を要したが、加羅、百済とは通訳を介しなかったと言われれているので、加羅どころか百済まで、ほとんど大和言葉が通じていたことを意味し、倭人が幅広く半島に居住していたことが分かる。
ところで、加羅は日本人の小国家であったという推測を裏付ける資料が出て来た。加羅には日本と同様に前方後円墳がたくさんあるという無視しえない事実である。2世紀から3世紀にかけて、筑紫と加羅とは文化圏としては一つであったわけである。

 長い間、前方後円墳は日本だけのものと考えられて来たが、近年、加羅からも続々と発見され、なんらかの歴史文化の修正を迫られている。なぜ加羅からも前方後円墳が発見されるのか、・・・それは、加羅の権力者も倭人であった・・・と単純に考えればよい。
民族考古学によれば、墳墓は民族の深層的特徴を如実に表す。墳墓の形式が等しいということは、国家、または地域権力者が同一の民族であった可能性が高い。そこで加羅は、なんと日本と一衣帯水であった。長期の新羅の貢献とは、日本が加羅の土地を貸借した代償だったのだろう。


 ○弥生文化は南方系


 半島からの騎馬系渡来人の移動は*須恵器(すえき)の生産が日本で始まった頃(五世紀)、もしくは大規模古墳が作られた頃と、ほぼ同時期と見ることができる。須恵器は、鉄器の生産がもたらした完全な韓半島の技術である。須恵器を生産した人々が暮らした住居はどんな住居だったかというと、大庭寺遺跡に看ることができる。須恵器の釜元で、渡海人が住んだ遺跡である。それが半島風の騎馬民族の生活、そのものであったと考えられている。
ところが、これがほとんどすべて竪穴式住居しか見当たらなかった。
・・・と、すれば、それ以前から高床式住居で暮らしていた人々はいったいどこから来たのだろう。高床式住居では、土台の柱にねずみがえしが付いているが、これは湿地稲作の特徴なのである。それらは、潅漑農耕を行っていた南方系の種族と考えられる。出雲系の建築は、太い柱を高く存分に使う。、高床式住居の源流は北方にはなく、長江流域や、東南アジア、南方諸島にしか見られない。入れ墨をした黒潮渡海(江南・インド・東南アジア・インドネシア・マレー・サモアなど)の子孫であった。
出雲と初期大和は、同一の文化だった。出雲が大和へと、国ごとの移住が行われたのである。出雲がそっくり大和に移ってしまったと考えれば話が単純で明快だ。初期の大和は出雲からニギハヤヒが移動して成立した。
 ジャポニカ米という品種は江南地方から持ち込まれた。弥生文化は長江文明を継承している。そこで、弥生式土器や、建築技術は長江文明と同じ水準の遺物となるだろう。
*須恵器 (陶器の古語=すえ)鉄器づくりの高温炉技術を陶器の焼き入れに応用して薄くて優れた硬質の焼き物を言う。
○どうやって漢字をはじめ使ったか?

 始めは異国の文字であった漢字をどのようにして吸収していったのであろうか。使いはじめは、まず一音一字をあてる。「也麻」「夜摩」「椰磨」=(山・やま)・佐米=(鮫・さめ)、阿由=(鮎・アユ)、阿佐比(朝日=あさひ)、加微能美許登(神の命=かみのみこと)、久爾(国=くに)という具合だ。これを「真がな」という。たとえば、獲加多支鹵(わかたきる)、斯鬼(しき)宮などいわゆる当て字(音借)で読んだ。
 獲加多支鹵(わかたける)とは雄略天皇(稚武天皇=わかたけのすめらみこと/幼武とも表記される。)のことで、斯鬼(しき)宮とは磯城(しき)宮(奈良県磯城郡の雄略天皇の宮)のことである。(稲荷山古墳出土鉄剣銘文=今のところ最古の金属に記された文字)
だいたい、5世紀の以前は音だけを借りていままでの単語を一音一字で表した。そこで、漢字の持つ意味をむしろ無視して、語音法則のみに徹するアプローチが始めに必要となってくる。後に、手(て)、心(こころ)など漢字の意味に古来の言葉をあてる「訓がな」が発達してくる。


 聖徳太子の時代あたりから後、この真がなと訓がなが長いあいだ混用されてきた。これを「変体漢文」という。一方、古代韓国でも吏読文(いどむん)といい、漢字を借りて古代韓国語を表した。百済第八代王古爾(こい)王(234~286在位)が、「千字文」(250句1000文字からなる中国の四言古詩)を「論語」とともに日本に伝えた。これは秦氏が日本に来たときと同じ年の出来事であった。このとき百済から来日した和邇(わに)は文首(ふみのおびと)の祖と言われる。(古事記・応神記)。平城京の宮で見つかった習書類のなかに「千字文」があり、8世紀頃まで習字の手本に使われていた。万葉集のなかには吏読(いど)読みでないと意味不明な歌が混在しており、万葉の歌は「真がな」と「訓がな」と「吏読風」が折り混ぜられている。純粋な漢文は朝鮮に多く、日本にはほとんど残されていない。とにかく、発音に合わせて漢字を借用しただけであった。もともとあったヤマト言葉の発音は母音が8つあり、ハ行は「ふぁふぃふふぇふぉ」だったらしい。さて、古事記もそういった漢字で訓を表記した箇所がたくさんある。碑田阿礼が語るところを太安万侶が変体漢文で書き記し たのが古事記で712年、ついで日本書紀が720年の成立したのである。漢字そのものは実は紀元前200年すぎから神仙とともに日本に浸透しているので、日本最古の漢字の発見はいつか紀元前のものが出てくるだろうと思われる。
(参照 「もう一つの万葉集」 イ・ヨンヒ著 文藝春秋刊1989年・「古代海人の世界」谷川健一ほか)


○女神アルテミスと聖母マリア



 ターラーはもともとヨーロッパ・ユーラシアに普遍的な最高の神で、万物を生み出す力、豊饒と生産、多産と繁栄を司る力をもっていた女神であった。プシュケ(Psyche)はギリシャの女性霊で、インドではシャクティであり、この二つは全民族において共通に見いだせる古代の英智なのだ。女性神は紀元前においては圧倒的に優勢であったのである。つまりは、太地母神こそが万物を生み出す力の源泉として崇拝されていた。農耕民族にとって、母なる愛に満ち、豊饒と繁栄と奇跡を起こす力をもっていた神は女神がふさわしい。そこで一神教以前の信仰がこうしたものであることを、いまいちど踏まえてみる必要があるだろう。女神が主流だった時代、そして生贄の身代わりとなる神々、それが古代社会だった。

○女神信仰のメッカ、エフェソス

 もともと女神信仰の地域にキリスト教が進入してきた。エフェソスは、処女神アルテミスを信じる地母信仰のメッカだった。アルテミスは処女でかつ豊饒の神であり、狩猟の神でもあった。アルテミスは、乳房をたくさんもっており、また、その姿をよく動物に変える。そのうち最もよく知られているのが、クマであった。北斗七星は女神アルテミスの雌クマとして人々に崇拝されていた。紀元前6世紀にたてられた「アルテミス神殿」は古代七不思議の一つに数えられており、エフェソスは小アジア屈指のヘレニズムの聖地だった。聖パウロは第3回伝道でこのエフェソスに3年間も長期に滞在し、キリスト教布教に勤めた。このためエフェソスではアルテミス女神を信じていた人々がキリスト教のマリアを代りにして受け入れたと言われている。


(エフェソス-Ephesus: エフェソともいう。エーゲ海をはさんで、ちょうどアテネの反対側に位置する。トルコ半島の先っぽにあたる。小アジア、人口27万人の大商業都市。聖ヨハネはガリラヤの人でイエスの使徒。晩年、司教としてエフェソスに住み、ここで黙示録は書かれた。ヨハネの福音書はヘレニズムの影響があるといわれているのはこのためである)


アルテミスのイメージ
<エフェソス出土のアルテミス>

乳房がたくさんある母神のイメージ
 <ヴァチカン美術館>

古代ローマ名ディアナ(Diana)
キリスト教になるとマドンナと呼ばれた。

 エフェソスのアルテミスは処女女神であった。このことが、聖母マリアの処女懐胎につながっている。民衆が古くから崇拝したアルテミスの空白をうめるために、マリアを聖母としたというのだ。つまり、太地母神を聖母マリアとして変質させたのである。今も地中海沿岸諸地域における聖母マリアは、太古の女神の影が色濃く残っている。
 シシリー島の中央部エンナで盛大に行われる聖母マリア祭は前史時代から、その地に栄えていた太地母神の祭祠の延長であることが指摘されている。この女神はデメテル(Demetr)で、オリンポスの12神の一神で、ミケーネでは紀元前13世紀にはすでに盛大に信仰され、ずっとキリスト教時代まで続いたという超ロングランの女神だった。
その太古からの女神信仰が聖母マリアへとトランスファーされ、やがて431年の公会議で神母としてのマリアが公認された。その公会議は、このエフォソスで行われたのである。聖母マリアを一早く祀った教会もエフェソスだった。(公認されたと同じ431年のこと)
エフェソスの人々はほとんどが聖母はアルテミスのことであり、マリアではない感じていた。ローマ教会は古代から数千年の歴史をもつ太地母神(異教の神)を排除しようとしたが、「エフェソスのアルテミスをわれわれに」と叫ぶ暴動に見舞われたと伝えられている。

 
 聖母マリア信仰は、もともと聖書を根拠したものではない。聖母マリアを信仰する理由はいくら聖書を読んでもでてこない。そこで言えることはキリスト教は拡張するにしたがってギリシャ・ローマのヘレニズム文化圏の女神を聖母マリアに変容したということだ。そこで、カソリック教会は、ヘブルから生まれ、ヘレニズム(ギリシャ思想)のなかで育ったといわれる。本地垂迹説など神仏習合のような事は独り日本だけのお話ではないのである。カソリック教会はキリストにも聖母マリアにも祈る。聖母マリアは祈りの「とりなし」をされるとされ、そこで、唯一神への信仰と矛盾していないとされている。
 そういうわけで、もう一つ言えることは、聖書を唯一の権威とする改革派(プロテスタント)は、聖母マリア信仰を認めることが難しい。一方、カソリックは聖書は教会のためにあり、教会が聖書より上位にある。

 地中海沿岸で最も有名な女神はヘラであろう。ギリシャの遺跡で最古の神殿はオリュンポスのヘラ神殿だといわれている。アテネでは女神アテネと建国を祝うパンアテナイ祭、女神デメテルに豊饒を祈るテスモフォリア祭、冬には大神ゼウスと后ヘラを祝う祭りがあった。女神ヘラ、デメテル、アルテミス、アフロディア、エイレイテュアなど神殿という神殿はほとんど女神たちのの祭祠場であったことを知っておかねばならないだろう。これらの古代の思想はほとんど神話世界をたどる以外に今は知ることはできない。


 太秦(うずまさ)の摩多羅神を理解するうえで、古代の女神中心の世界があったことを知ることはさらに理解を容易にする。女性がかつて大いなる力を持っていたこと。そして、女性神にこそ能産性と豊饒を人間に与える力をもち、呪術にたいしても祈りをかなえることができたという古代の智恵が浮かび上がってきた。そして、五穀豊穣を祈るばあいそれは女神でなければならなかった。女神信仰がインド・ヨーロッパ語族に普遍的な古代意識だったことが、だいたい分かってくる。ヒンズーでは、シャクティ(智恵)が万物を生み出しているということはじつは疑い得ない絶対の真理だったのである。古代ほど女帝が多い。日本でも奈良時代までは女性の天皇がおられた。
 つまるところ、インドにはかつての古代宗教の、そのらしさを最も色濃く残しているのだろう。つまり、インドがアリアン民族の古いイデアを残しているとすれば、それは太地母神がいまも主流で健在だからだ。そして、アイルランドやスコットランド(ケルト族)、フィンランド、スウェーデン、ハンガリー、チベットなどの風俗・習慣・祭りなどに女神は隠れている。 (フィンランド、ハンガリーは日本と同じアルタイ語族。ハンガリーはフン族が五世紀に築いた国で、不思議なことに今日ハンガリー語の基本単語に日本語との音の共通性が多々指摘されている。)

○大辟神社=ダビデ神社の謎

 秦一族の祖霊がダビデ大王と始皇帝、その民族はシルクロードから中国西域に定着後、AD3世紀に慶尚北道に逃れ、日本に大挙して渡海してきた。さて、その中に、ペルシャ系部族もいたし、ヘブライ系部族もいた。始皇帝のほかに、ダビデ大王がなぜ隠れているのか?今だ謎である。
ダビデ王をシンボルとするヘブライ人が秦一族の主流だったと考えられる。つまり、大辟神社がダビデと同一であること、その由来が最大の謎としてわれわれに投げかけられているのである。
そこで、まだ一神教になりきっていなかったヘブライ人たちが前750年頃にカナンを離れ、中央アジアー中国ー韓半島-日本と渡ってきたと仮定しよう。その間、実に600年以上のタイムトンネルがあとしよう。そして、「失われた10部族」の伝説にロマンが奔る。遠く、カナンの地、時は紀元前1000年に遡らなければならない。



○バール神のひとつ、黄金の子牛・ホルス

 かつて、ヘブライ人の多くが、バール(Baal)神を崇拝していた。
前1200年の少し前、ユダヤ人はエジプトから40年の流浪をへて約束の地カナンに入った。イスラエルの民がカナンの地についたときは、カナンにいた種族はバール信仰であった。その地のバール信仰はイスラエルの民にしっかりと根をおろした。イスラエルの人々はカナンの儀式を取り入れ、彼ら自身のヤハウェはバール神の一人(バール・ヤハウェ)として敬うようになった。ヤハウェをバール・ヤハウェつまり、神々の一人として受け入れようとした。モーセは怒り、それら民衆は背徳者とした。バールの儀式に参加したヘブライ人は男も女も一緒にことごとく串刺しにして殺した。ユダヤ人をさそったモアブ人、ミデアン人(遊牧民)はようしゃなく切り捨てた。特に、ミデアン人にたいしては少女を除いて、男のすべてと婦人はすべて皆殺しにするようにモーセは厳しく命じた。(民数記31-7・17・18)
 必要に虐殺はつづいたといわれ、このときミデアン人や、モアブ人は流出した。このとき、馴らされたラクダをもっていたのはミデアン人だけだった。前1100年頃、中央アジアからさらに東遷できる民族はミデアン人だった。バール信仰はその後、およそ5世紀のあいだカナンの地で続いたが、ユダヤ教が完全にバール神を排斥した。

 バール神は女神シオンの多数の夫たちだったといわれ、複数の神々の名前が見出せる。バールはベル、ベラス、バアリム、メロダクなどの別名があり、イスラエルの地で、崇拝されたバールの神々は次のような名前をもっていた。

  • ツロの王で太陽である”モロク”
  • エジプトの黄金の仔牛で”ホルス”
  • 男根をもつ女淫の神 ”バール・ペオル(Peor)”
  • モーセの作った燃えたつ空飛ぶ稲妻のへび”ネホシタン”
  • バビロニアの太陽神シャマシュである”ケモシ”
  • サレムの神”メルキゼデク”
  • 天界に昇ったカナンのエイタンである”エタナ”
  • ソロモンによって人格を与えられたザクロの神”バール・リンモン”
  • カナンの契約である”バール・ベリテ(Berith)”
  • 太陽神ヘリオスである”エル”
  • 部族の神々であった、”ヨセフ”、”ヤコブ”、”イスラエル”
  • カナン人の狩猟の神 ”バール・ハダデ”
  • シナイの月の神 ”シン”
  • ヤギ神の名、”バール・ガド”
  • モーセを激しく怒らせた長老アロンの作った鋳物の子牛(エジプトのホルス)・・・・・  
 などなどの神々がおられた。止まって考えるに、しかし、一族の英雄を祀るところなど、日本の八百万(やよろず)の神々とよく似ている。バールとは現在の神道のような定住民族の普通の民衆信仰であったのだ。
さて、渡来系の祖先がイスラエルを脱出したとすれば、それはいったい、いつ頃なのだろうか。

 偉大なダビデ王がイスラエルを統一したのは、エジプトからカナンについてから、約200年の後。
ダビデ王はイスラエルを統一し、40年統治した。前973年に死去。その息子ソロモンはイスラエル大神殿を建立。彼もまた40年間統治を行い、イエラエルは大いに繁栄した。前933ソロモンが没すると再び、イスラエルとユダ国に分裂した。シバの女王、契約の箱、アークの伝説はこのころのことである。イスラエルが強大な国家になったときである。

 モーゼ以来、この半世紀の間、アモス、ホセア、イザヤ、ミカなど預言者たちは激しくバール神を異端として攻撃した。と、いうことはバール信仰はこの当時、まだまだ根強く残っていたのである。ヘブライ人は、バール、アラムの神、シドンの神、モアブの神、アンモンの神、ペリシテ人の神々を信仰していた。(士師記10/6)

 イスラエルの民がバール信仰を止めないため、ヤハウェの罰を受けるとの預言どおり、前722年アッシリアのサルゴン2世に攻め滅ぼされる。北部の部族をアッシリア各地に移住させ、北部族サマリア人、27、270人は中央アジアに追放された。このとき以来、北部イスラエル人は永遠に歴史上消えたしまった。イスラエルの失われた10部族の伝説がこうして生まれた。

ユダヤ人=一神教と信じて堂々としている知識人が多い。また、キリストの使徒のうち、11人の弟子はガリラヤなどの北部人であり、ユダひとりがユダヤ人であったように、ユダヤ国も南半分を支配していたにすぎない。前722年、ヘブライ人の大半が、むしろバール信仰だったことを踏まえなければならないだろう。

 すくなくとも、これらサマリア人ほか北部10部族のすべてが京都太秦の秦族にたどりつくかどうかは歴史の証がない。しかし、秦河勝らがのダビデを崇拝し、かつバール神を信仰するヘブライ人であるとすれば、まさしく、バールの信仰を残していたこの年代に旅立っていなければならないのである。
 
 


○バールは生け贄にされる神々


 古代からのイデア・プリンシパルであった女神シオンは、殺戮という残酷な嵐によって葬られたのである。それから、女神たちの輝かしい時代は、唯一の男性神にとってかわられた。女神シオンの力はすべてヤハウェのものになった。旧約聖書では主ヤハウェはバール信仰にたいして激しく怒り、バールの名を二度と唱えることのないようにするといわれた。(ホセア書2-2-8、2-16) 女神とバールは大淫婦、姦婦、魔女とののしられたのである。複数の夫をもつシオン女神になぞらえているのだ。女神とバール神のことごとくが悪魔に転落させられたのである。 その数はそのための辞書ができるほど多いという。魔女は実は古代の女神の力を封じ込めた代名詞であったのであり、サタンとは違うのである。恋の願いと、結婚、出産に愛の恵みを与えていたゼウスの妃ヘラやアフロディアは民衆とともにあったし、民衆に愛されていた神々だった。


 古代は、おおらかな母系社会とたくさんの神々が普遍しており、女神の力が優勢だった。同時に母系制で相続はすべて女性に引き継がれていた。今日では信じられないほど女性は地位が高かった。また自由だった。日本でも鎌倉以前は、ひろく母系制社会であったことが知られている。

 バール神は18世紀までスコットランドやアイルランドのベルテーン祭の守護神だった。バールは原始時代の生け贄(いけにえ)のかわりとなるので、祭りでは五穀豊穣を願ってバルデル(Balder)は燃やされる。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、スカンジアンヴィアでは、今なお真夏に、「バルデルの大かがり火」でバールの像(ケーキで作られた人形、またはパン)を焼く。

 バールの神々は生贄の身代わりとして化身しているのである。北欧の父、オーディンもまたアーリア人の神で、タロットの12、「吊るされた男」として生け贄になる犠牲者で描かれる。また、オーディン-バルデルは異教の救世主で、キリスト教からはデーモンとみなされる。アイルランドなど妖精の信仰も強い。つまるところ地政学的に一神教の強い布教と弾圧を逃れた地域では古代の様式がいまだに残されているわけだ。

(関東で、「どんとやき」という日本の祭がかすかに記憶に残っている。炎の火柱がとても熱かったことを記憶している。どんな謂われのある祭りだったのだろうか? 日本の火祭と共通性はないだろうか?)これは大歳神を送り返す儀式である。大歳神は「アフラ・マズダ神」である。(第10章に詳細)

 もともとバール神は複数で、たくさんの神々がいる。そのためか新約・旧約聖書ともに、バール神は無差別にすべて悪魔にされ、はげしく攻撃された。
 まじないをするもの、淫婦とかはバール神を信じる者への罪状のことだった。バールの神々が排斥されたことは、同時に女神(太地母神)も追放されたことを意味する。それゆえに、女性運動は一部にキリスト教の犯してきた罪を断罪することにおいて、正当な女性の意識的復権を見いだそうとする。



 ○ばれる、ばらす・・・は外来語?

 バール神は、ほとんどこの世に化身して供犠の生け贄にされた神々であったことは紹介した。
「BALI」、または「BALA」というサンスクリット語は、バールと語源が同じで「生け贄の供物」を意味していた。さらに驚くべきことには、古代ヘブライ語に、BARER(バレル)がある。
意味は「見つけられる」、「破れて成立しなくなる」とある。
(ヨセフ・アイデルバーグ著 「大和民族はユダヤ人だった」より)

はたして、・・・「BALI」は、「BARER」は・・・「ばれる」、「ばらす」という日本語に転じていないだろうか。
ばらす
・・・と、国語辞典にあり、これは俗語となっている。ばらす、ばれるには漢字がない。当て字がない。
それは、つまり中国をへていない。音だけが日本にそのまま来ている。今で言えば、直輸入。しゃべる人々が日本に来ていたことを意味する。
ところで、奈良の大仏の開眼供養の導師はボーディセーナというインド渡来の僧だったといわれる。(奈良市冨雄の霊(りょう)山寺にバラモン僧正の墓が残されている)たしかに、インドの僧侶は日本にいたのである。
ベトナム、タイなどからも来賓があり、当時国際的な交流が意外なほど盛んだったといえる。
しかし、バレルはもともと大和言葉としてすでに古くからあった可能性もある。

「生け贄にする」と、脅されると確かに足下がすくわれるような恐怖感に襲われる。つまり、「ばらす」はサンスクリット語か、またはヘブル語?から派生した日本語である。


 その、カナンの地において崇拝されたBAAL神の一つに、エジプトの黄金の子牛、ホルス神がある。ここで、バール神のひとつ、ホルス神は金、銀でつくられた子牛である。そこで、牛を祀ることは伝承ではなく、紀元前八世紀頃のバールの神の一つだったことをふまえておこう。そして、ホルスはもともと悪魔であったわけではなく、一神教によって悪魔にされただけのことだ。像をきざんではならないというのは、バール信仰撲滅のキャンペーンだったのである。八百万(やよろず)の神々が日本で生き延びたのは実に、遠い辺境であったという地理的条件と独立国家として存続できたおかげである。そこで、中古代のヘブルの風習は日本でしか見いだすことができない、というパラドックスに、びっくり仰天することになる。


第七章
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