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第二章・・・・亡命人 秦人

「中国人は秦の乱に苦しみ、東方へ亡命してくるものが多かった。彼らは馬韓の東に進み、辰韓人と雑居していたが、その数が多く栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌った。」
(新羅本紀 前20年)
ここでは、「辰韓(秦韓)人と雑居していた」と書かれていることが重い意味を持つ。中国流民が辰韓人とは区別のつく進入者として見られていたことが明らかだ。馬韓は百済であるから、ここで秦の流民は慶尚南道に居住していた亡命流民で、後に土地を割譲されと見られる。これが加羅一帯である。

「辰韓は馬韓の東に在り、この耆老(きろう)が言うには、むかし亡命人らが秦の賦役逃れてこの地に入った。馬韓はその東に地を割いて彼らに与えた。そこには城柵があり、彼らの言語は馬韓とは同じではなかった。国を邦、賊を寇、行酒を行觴と言い、相呼ぶのに徒というがごときは、秦人に似ている。」

(魏志の辰韓条) これは、亡命してきた秦人が、土着辰韓人の言語とは異なることの一端を説明している。
また、辰韓の中において、秦人は城柵を作っていたという意味は、 つまり、一族はかならず楼のなかで身を寄せあって暮らしていたということだ。
秦人は、城郭をつくりその中で集団生活をする慣習をもっていた。このことは、あたかもユダヤ人のがヨーロッパにおいてゲットーのなかで暮した習慣に似ている。秦人は結束力が強く、他国に移住しても城柵をめぐらして、土着の民とたやすく混血してゆくこともなく、土着文化に容易に溶けこまなかった集団だったといえよう。

*馬韓は後の百済に重なる地域 *辰韓は後の新羅

『三国志魏書』馬韓伝

 馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥(首長)がいるけれども、村落が整備されず入り乱れていたため、よく統治することができていない。人々の間に跪拝の礼がない。住居としては草屋根の土室(穴)を掘り、外形は塚のようだ。その扉は屋根のところにあって、家族全員が土室で生活している。家族の間では、長幼男女の別はない。埋葬には、遺体を納める棺がなく、槨にそのまま土葬する。また牛馬に乗ることを知らない。牛馬はもっぱら、死体を運送することのみに使用している。また珠玉を財宝として珍重し、或いは衣服に綴りつけて飾りとし、或いは頸にかけたり耳に垂らしたりしている。金や銀また錦織りや繍などは珍重しない。 馬韓の族人の性質は剛胆で勇猛、頭髪を分けてぐるぐる巻きにし、髪を露わにしている。炎天下の兵のようで、綿入れの衣と足には革の草履を履く。国中をあげて行事を行なう時、または国が城郭を築かせる時には、少年で勇健な者たちは皆、自分の背の皮に穴をあけて太い縄を貫き、そのうえ一丈ばかりの木をその縄に挿み、一日中大きな声をあげて力づけ、これを苦痛とはしない。かくて村人たちがこの作業を励まし、そのうえで少年たちを一人前の健児と認めるのである。 毎年五月には種を播きおわり、鬼神を祭る。群衆で歌舞し、昼夜飲食する。その舞は、数十人が一緒に立ちあがって調子をあわせ、地を踏んで高く低く舞い、手と足とは同じような調子で動き、そのリズム銅鐸の舞に似たところがある。十月に農耕が終われば、またふたたび同じようにする。 鬼神を信じ、国邑で各一人を天神の祭の司祭に立て、これを天君と呼ぶ。また諸国の各々に別邑があり、これを蘇塗そとという。大木を立てて鈴や鼓を懸けて鳴らし、鬼神に仕える。諸々の逃亡者が、その中に入ると、皆、無罪放免になり、これを悪用して犯罪者が増加する。その蘇塗を立てる儀式は浮屠(仏寺の塔)に似ておるが、その所行の善悪の判断は異なっている。その北方近郷の諸国は礼俗の習熟に格差があり、その遠くに住む者達は囚人や奴婢の集団のようである。 馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥(首長)がいるけれども、村落が整備されず入り乱れていたため、よく統治することができていない。人々の間に跪拝の礼がない。住居としては草屋根の土室(穴)を掘り、外形は塚のようだ。その扉は屋根のところにあって、家族全員が土室で生活している。家族の間では、長幼男女の別はない。埋葬には、遺体を納める棺がなく、槨にそのまま土葬する。また牛馬に乗ることを知らない。牛馬はもっぱら、死体を運送することのみに使用している。また珠玉を財宝として珍重し、或いは衣服に綴りつけて飾りとし、或いは頸にかけたり耳に垂らしたりしている。金や銀また錦織りや繍などは珍重しない。 馬韓の族人の性質は剛胆で勇猛、頭髪を分けてぐるぐる巻きにし、髪を露わにしている。炎天下の兵のようで、綿入れの衣と足には革の草履を履く。国中をあげて行事を行なう時、または国が城郭を築かせる時には、少年で勇健な者たちは皆、自分の背の皮に穴をあけて太い縄を貫き、そのうえ一丈ばかりの木をその縄に挿み、一日中大きな声をあげて力づけ、これを苦痛とはしない。かくて村人たちがこの作業を励まし、そのうえで少年たちを一人前の健児と認めるのである。 毎年五月には種を播きおわり、鬼神を祭る。群衆で歌舞し、昼夜飲食する。その舞は、数十人が一緒に立ちあがって調子をあわせ、地を踏んで高く低く舞い、手と足とは同じような調子で動き、そのリズム銅鐸の舞に似たところがある。十月に農耕が終われば、またふたたび同じようにする。 鬼神を信じ、国邑で各一人を天神の祭の司祭に立て、これを天君と呼ぶ。また諸国の各々に別邑があり、これを蘇塗(そと)という。大木を立てて鈴や鼓を懸けて鳴らし、鬼神に仕える。諸々の逃亡者が、その中に入ると、皆、無罪放免になり、これを悪用して犯罪者が増加する。その蘇塗を立てる儀式は浮屠(仏寺の塔)に似ておるが、その所行の善悪の判断は異なっている。その北方近郷の諸国は礼俗の習熟に格差があり、その遠くに住む者達は囚人や奴婢の集団のようである。

秦人がつくる城柵は円形だった

 現代中国の広東省(かんとんしょう)と福建省(ふっけんしょう)、江西省との狭間に1500メートル級の山脈がある。山間部に円楼(えんろう)と呼ばれる円形の城郭(木造)を作って集団生活をしているのが客家と呼ばれる人々である。彼ら客家も始皇帝の末裔とされ、北方から来てここに定住した。(*注)彼らは中国古代音を残す客家方言を話す。数字の読み方は、日本と一番近く、いっ、にー、さむ、しー、うん、るっ、ちっ、ぱっ、きぃぅーと読み上げ、中国のいー、あーる、さん、すー、うーとは言わない。客家の意味は外来の客、ゲストという意味で、その名前からして転移住者であった。彼らは集団自衛生活が特徴であり、五家族をもって連帯責任を課している。一人の違反者がでると、全員が処罰される。


(*注)
客家語の数詞は以下のようである。
一 jit
二 ngi
三 sam
四 si
五 ng
六 luk:liuk
七 ts'it
八 pat
九 kiu
十 sip

 客家語「一」の発音、「jit」の「i」は、日本のイロハの「ゐ」にあたる。「ゐ」は「い」とはどこが違うのか、これをどう説明したらよいのか・・・大変むずかしい。そこで、発音を実際にやってみてもらおう。まず、一円と発音してみよう。すると、イチィェンとなる。このときの「チ」の後ろの「イ」が「ゐ」の発音に近い。そこで、一円のイチィエンを発音したつもりで、「i」だけを抜き出して発音してみよう。すると、「ji」 とか、「gi」となってしまうだろう。なんどか繰り返して発音していると、ときどき清音にもなる。実際に発音して、ご自身で試してほしい。「二」のngiも、この「ゐ」のことで、N+ゐである。
 そこで言えることは、面白いことに、数詞の「一」は中国方言の「ジッ」が原音に違いないと言うことだ。「一」は、かつて「jit」であったのだ。日本人は
「ゐ」は、「yi」と発音記号をあてると、全く「i」と区別して発音できない。そこで、どうしても、「ゐ」は「ji」と表記する必要がある。そうして、はじめて現代日本人はこの発音を少し理解できるようになる。
万葉時代の8母音とされる、i甲音 とi乙音は、甲音は普通の「i」、乙音は、すでに紹介した「ji]であろう。それ以外、考えられない。
そこで、「いち」は、中国方言が音韻変化したものだということが明らかになる。本場では「t」の末子音はほとんど聞き取れない。発音しないからだ。しかし、子音母音が交互に並べられる日本語は、「t」を「ち」とはっきり発音するようになる。面白いのは、三、四、十である。saam,sii,sipはタイ語と全く同じである。タイ語の二はsoongだが、これは、客家語のsong(ペアー)という意味にあたるから、二の意味では同じである。タイ人がもともと中国語方言の潮州語を祖語にしていると言われているが、これは歴史的にも彼らが移住者であることは証明されている。しかし、不思議なことに、一、二、五、六、九は、タイ語と似ていない。驚くべきことに、一、二、五、六、九の5つの数詞は、むしろ日本語の方が音が似ているのである。

万葉時代に、「ゐ」や「ゑ」が、判別されていた。これは、多数の渡来人が母国語の母音をそのまま導入したからだ。しかし、遠からず日本方言に吸収されてしまったと見ることが出来る。しかし、彼ら渡来人が、明らかに南越方言の特徴を持っていたと言えるだろう。

「ゑ」というと、あの「ゑびす」様を思い出す。「ゑびす」を「えびす」と書いては、どうもありがたみがない。そもそも、「ゑびす」は、はじめから外来語だったと思われる。ちょっと末子音の脱落や、なまりぐせなどを考慮にいれると、「ゑ」は「yak」、「び」を「phii」、「す」を「suk」と解釈する。すると、「鬼ー心霊ー幸福」となり、「幸福な魂の鬼」という意味になる。これは、単純にタイ語に置き換えてみただけである。そもそも、漢読みは80%は呉音とされるが、呉方言は今の上海語の祖語なのだ。上海語は、四声があまりないところが、日本語と近親性がある。「ゑびす」も、本来意味をもっている語彙の複合名詞だろう。上海語、広東語、客家語、潮州語などから、「ゑびす」の意味が出てくるような気がする。

中国方言分布図



「客家方言」は、以外と広い範囲に分布している。

客家方言を持つ彼ら始皇帝の子孫が渡海したのが、AD284年すぎのことならば、AD300年頃から作られた応神、仁徳天皇の大古墳(最大の仁徳天皇陵、応神天皇陵はその次の規模を誇る)は、これらの人々が建設した可能性が高い。始皇帝の大墳墓、大治水工事、万里の長城などの大規模工事は始皇帝が奴隷を15万人も使って建設したもので、すべて始皇帝一代で手掛けたものだった。また、さらにわたしたちが古代の航海がもっとハイテクで盛んだったと見直すと、実に面白い文明論が生まれてくる。馬王堆の漢墓は長江の中域にあり、水運と海運でわずか9日ぐらいで大和につながっている。秦一族は弓月王集団が来る以前から海運を利用して国家的規模ですでに、多数が来朝していたのである。



 大辟神社は祭神のメインは秦始皇帝であり、功績のあった子孫・功満王と弓月王を併せ奉ったことを紹介してきた。
さて、大辟の「辟」が「酒」に転じたのは、京都太秦の神社がお酒の神様といった意味合いをだすためだったようだ。新選姓氏録によると、秦酒公(はたのさけのきみ)という5世紀頃の人が見つかる。酒公はやはり秦始皇帝の末裔とされ、雄略天皇(456~479在位)に重用され、初の大蔵の長官に抜擢された。酒造の技術をもつゆえに、「酒公」といわれた。秦氏(はたうじ)一族と酒造りのテクノロジーにも固く結びついている。松尾(まつのお)神社はやはり秦一族の勧請であるが、この神社は酒造の神様として有名である。


 また、大辟神社のもつ謎の核心は、ダビデ大王の名を隠し奉っているところにある。秦始皇帝の子孫が日本で大勢力をもっていたことは歴史ばかりか、日本人のルーツそのものに影響する。秦氏系は関東では秦野、八王子、調布、飯能、桐生、秩父、足利などに大集団がいた。いずれも養蚕に縁が深く、それぞれの土地の古社は秦族の養蚕の収益で造営されている。さらに、秦氏は九州、四国、中国、信州などにも広く分布した最大の氏族だった。宇佐八幡宮(うさはちまん)、松尾大社(まつのお)、金刀比羅宮(ことひらぐう)、伏見稲荷大社(ふしみいなり)なども秦氏族の勧請とされる。圧倒的な数の神社がすべて秦一族の系統なのである。八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮では、おどろくべきことに応神天皇を祀る。宇佐宮でなぜ応神天皇を祀るのだろうか? また、応神天皇陵の前にある誉田八幡宮も応神帝を祭り、社の縁起では我が国最古の八幡宮としるされている。 
その謎は、もう明快だ。応神天皇は巨丹(ホーテュエン)からの秦一族を半島から救出した英雄だった。そこで、秦氏の創建した神社で応神帝が祀られているわけだろう。
しかし、さらに考えられることは応神天皇自身が秦一族であることだ。宇佐宮や、琴平宮は海の安全の神である。ここで秦族の神社の中には、金刀比羅宮のような海神もあることに気付く。内陸から朝鮮経由で来た秦族は史実では弓月君の一回だけで、海を往来する海人のイメージはない。しかし、長江から海路で来た海人も秦族であったとすれば推理は可能である。そうだとすると、秦族の日本で圧倒的多数は長江からの渡来であるだろう。ここでは、さらにグローバルな秦族の首長こそ、宇佐八幡宮で祀られる応神天皇だった可能性がでてくる。宇佐八幡宮を頂点とする全国四万六百余の八幡神社は例外なく応神天皇と神功皇后を併せ祭っている。それは、ともに共立王朝の開祖であるからだ。

 さて、八幡神社、古代では八幡は「やはた」と発音していた。「はた」の音が含まれる。これはなんと、秦=幡、どちらも「はた」ではないか。四万六百余社の八幡神社に「はた」があるのにようやく気付いた。(^^ゞ、。ハタ族が国家的規模の人口を紀元ごろにすでにもっていたのではないだろうか。八幡は、ヘブル語で、”やーわだ”つまりユダヤのなまりだとする説もある。そのばあい、ユダヤの国家名ということになる。さて、幡と秦が同一族とすると、ダビデ王の末裔は日本でたいへんな規模となろう。そして応神天皇が弓月王の要請に応じて新羅に出兵したことは、ハタで共通する同じ血族の救出であった可能性が高い。幡は船の帆で、船の象徴としてつけられたという。帆はまた大きな布でもあったからだ。また、金刀比羅宮は別名「旗宮」と言われている。また、通称、コンピラさんと呼ばれている。コンピラとはサンスクリット語の「クンピーラ」で、インドのガンジス河のワニの神名である。クンピーラは、仏典では竜王で、蛇体として考えられた。

 秦氏の勧請したといわれる神社に見いだせる、秦・幡・旗に共通する音は「はた」。「ハタ」はたして何をを意味するのだろうか?


○秦をはたと読むのはなぜか?

 前200年頃のこと、徐福と、その集団が日本に渡海した。「徐は嬴(えい)姓、伯益の後、夏、徐を封ず。」とあり、また、徐氏は秦、黄、江といった姓も賜っていた。秦をハタと読むのは、伯太(はた)から来ているかもしれない。伯太は、地名としては、”はかた”(博多)とも読む。徐福らが秦始皇帝と同じ姓を持っていたことは、実に大きい意味をもつ。「徐福は平原広沢を得て、王として止まり、帰って来なかった。」(史記巻百十八・司馬遷)徐福が日本で王になっているというのである。これによれば、日本で王になっていたとしたら、なんと『嬴』という王だったことになる。紛(まぎら)わしいことに、これは秦始皇帝の姓と同じなのである。

 始皇帝の民、弓月王、そもそも彼らは海を一度も見たことがない内陸系の民族であった。加羅国まで南下して日本からの救援ではじめて渡海できた。そもそも、航海を常とする海人とは言えない。そこで、秦の「はた」が朝鮮語のバタ(海の意味)である可能性は消える。そして、駄目押しともいえることは秦族は中華(漢)人とも朝鮮族とも違うことがはっきりした。

 彼らはペルシャ人やヘブライ人をも含んでいた中国西域の多人種混合の遊牧系民、始皇帝の臣民であった。秦の「はた」は、漢借で「波多」、または「波陀」で、意味として旗のほかに着物の生地のことをさしていると言われている。
インド系の語彙で、タミル語の Pat-am(布地、旗、タコ)が「はた」と変化した。(PがHに変化する)。(小野 晋 日本語とタミル語対応表から)
秦氏らは布地の代名詞として「はた」と呼ばれるようになったのだろう。「秦」が「はた」と読まれるようになった理由に、「はた」が「はたおり」の「はた」からきているという説は、やはり本当であった。タミル語の祖語であるシュメール語では「カダ」(綿織物)である。シュメール語→タミル語→日本語に単語が流れこんでいることを感じ取ることができる。やはり織物業がすべて元になっている。明快単純にいえば、江南渡海系ハタ族は幡、西域系ハタ族は秦と区別できる。


タミール語 pat-am パタム 布・旗・タコ
中国語 パン 布の意味が主で、希に旗と意味しないこともない。
日本古語 はた ファタ 旗にイメージが定着し、布の意味はうすくなる。


 中国語音では、子音のtがとれている。日本語のほうがタミール語に近いことが分かる。ここからも様々な推理が可能となる。少なくとも、日本語が多様な語源を吸収しており、なかには中国から来たものとは思えないものが多いということである。それらの60%は南方系である。「人そのものが渡海していなければ、文化(風俗や信仰・風習)は移動しない。」これを定義的に踏まえると、タミール語の片鱗があるだけでも、南インドと日本が縄文時代に太く結ばれていた可能性がある。

(参照文献 岩田明 「日本人はどこから来たのか」・大和書房「古代日本と海人」)など・・・ 


「David And His Seed 3」
おそれるな、わたしはあなたとともにおる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあつめる。」(イザヤ書 43-5)
Fear not : for I am with thee: I will bring thy seed from the east, and gather thee from the west.

 この始皇帝の末裔が仮にダビデの子孫だとすると、この応神天皇と弓月君はともにダビデの子孫だったという歴史的大ドラマに変身する。
応神天皇がダビデの子孫であれば、この預言通りということになる。はたして預言は成就したのだろうか?


*応神天皇がダビデを祖としていることは次章で解明される。
「日本書紀」にダビデを祖とする娘オトヒメから生まれたと読める謎の一行を紹介する。


○太秦「うつまさ」の語源!?!

 秦酒公は絹、綾を織り出して献上し、天皇より「禹豆麻佐」(うつまさ)、「禹都万佐」(うつまさ)の姓を賜った。あるいは「禹豆母利麻佐」(うつもりまさ)。これらは、どちらの表記も見えるので併記した。
さて、「禹」という文字は二匹の蛇が絡まった象形文字で、蛇の交合の姿態を表現している。(ちょうど二つあみのポニーテイルように絡み合う)「禹」は虫の字が2つ組み合わせて作られている。虫は蛇の象形文字であるが、もともとすべての生き物の元祖である意味を含んでいた。そこで、虫が部首として蛇以外にも広く使われる。「かえる」「みみず」「はまぐり」「ひる」「が」「はち」「とかげ」「いなご」「かに」「あり」「かいこ」などなど。
「蠢く」などは春に蛇が二匹なにやら活動している様で「うごめく」と読む。蜿(えん)は「えんえんと続く」といった用例に使われるが、へびがくねくねとうねり行く様をいう。
「禹」を蚕(カイコ)と読むには苦しい。が、文字の象徴はどうしてもはずすわけにはいかない。
 秦の女性たちが織りだす絹、綾の生地がうずのデザインで、あたかもへびの交合の姿態を思わせた。それが蛇紋様で、そこでウツマーシャ(「禹の麻紗」)と言われたのだろう。ツは単なる助詞として見ることができる。当時、薄くて優れて肌触りがよく、しかも、非常に好まれた生地で、「うず」のような紋様であったのだろう。あるいは、新しい糸の紡ぎかたがへびのようだたのかもしれない。麻紗はマーシャが中国語音。「まさ」に五音変化した。「シャ」(Xa)が「サ」になるは凡例。また、「うず」の音は「渦」で「カタ」(銅鐸のうずまきをカタといった)ともつながる。渦巻紋は蛇をモチーフにしたもの。それが現在の太秦(うずまさ)の地名のもととなった。ウズマサとは現代でいえばエルメスのようなブランド名だったかもしれない。!


○太秦「うずまさ」の語源 その2
 
 「*禹豆麻佐」と、禹という文字で蛇のイメージをウズにあてこんだ意図は、実はおおきな謎かけでもあった。宇豆でと書いたら記紀の作者は漢字の達人とはいえなかったろう。
さすがに稗田阿礼、難解な漢字にも通じていた。もとになった古語音「ウズ」はそもそも海蛇を意味していた。「うつぼ、うなぎ、あなご、はも、うみへび」をくくった総称として、「うず」といわれていた。沖縄方言に残っている。宇豆は蛇の別名だろう。宇豆神社と書けば、蛇神社に等しい。実際に九州にこうした神社名がある。
「うずまく」「うずくまる」=へびがとぐろを巻いて姿にあたる。「うずうず」と並べれば、へびの交合の姿になる。「うず」はへびはへびでも「海蛇」という意味だ。そこで、「海へびの麻織」という意味が「禹豆麻佐」である。
 
*禹 中国の漢代の石刻画や磚画(せんが)では、伏羲(ふっき)と女(じょか)の絵がたくさん見いだせる。中国西南のミャオ族、ヤオ族の間に伝わり、人首蛇身で、腰から上は人間で、腰から下は蛇である。この男女神は尾をからませ、顔を向き合わせて描かれている。伏羲(ふっき)と女(じょか)は、大洪水のあと生き残ったあと、現在の人類の始祖となったという洪水説話に登場する兄と妹である。なぜ人首蛇身で描かれるのかはよく分からない。禹とは二匹の蛇をもって、描かれる文字であるが洪水の雷神でもあったらしい。淮南子では「女は七十たび化す」(説林訓)と書かれ、死んでも七十回、蘇生するとされる龍神である。龍=雷神をトーテムとする種族があった。
*禹 このさい禹の文字にこだわると、禹で中国人が思い当たるのは、孔子が尊敬してやまなかった夏を起こした「帝禹」だが、彼の陵には竜を貫く剣が奉じてある。治水事業で功績があった聖王。禹廟=浙江省紹興市。禹域で中国の会稽の地域を意味する。禹帝が中国全土を九州と定めた初の天帝である。会稽は魏志倭人伝にもでてくる地名であり、小康の子が封じられた地である。後に楚、呉になる。これは、つまらない解釈だが、直訳では禹豆麻佐は単純に中国の禹帝の麻織の意味にもなる。

*禹 虫と組み合わされる複合文字(会意文字)には次のような生き物がいる。「かえる」「みみず」「ひる」「が」「はち」「とかげ」「いなご」「あり」「かいこ」「ほたる」「か」「あぶ」「せみ」「ちょう」「ひる」「はえ」「しらみ」「かたつむり」「さそり」「かに」「えび」「とんぼ」などに共通して虫がくっつくのはどうも脱皮する種らしい。しかし、「はまぐり」「かき」「しじみ」「あさり」「たこ」なども虫がつく。これは脱皮しただろうか?
このほか、「わに」「はりねずみ」「こうもり」となると、はてな・・・と疑問が起きる。
 虫という字は「うじゃうじゃ、くねくねと、一ヶ所にたくさん群がって見える生物」につけられている。そこに魚類、昆虫類、両生類、爬虫類、哺乳類の区別はない。ただ、単純にそういうふうに漢字の創作者が思いついて、それなりに作ってしまった。
蝦(え)の字は「がま」で、蝦夷(えぞ)とは、「まつろわぬガマが、うじゃうじゃといる」・・・この蝦夷の文字を組み合わせた学者ほとんど悪ふざけ状態だった???
 さて、こうして漢字には作者の「考え方」や、「くせ」がおのずと封じ込められている。それが「呪い」の本質で、漢字にはたしかに広い意味で「霊力」(暗在意識にも作用を与える力)がある。「病気平癒」と朱で書いて体に貼っておけば病気が治ってしまう。護符に力がある。というのは、漢字そのものが「呪咀」のメディアだからだ。アルファベットとは大違いで、漢字はそこにあるだけで、たいへん怖いのである。扱い上の注意は正しく書くこと。棒を一本をはみだしたり、短すぎたり、文字を間違えたままにしておくと、とんでもない悪い影響がある。また、寝室には書籍や書画がやたらにないほうが、むしろ安らかに眠れる。封じることを知らない以上は、避けることがベスト。

 


○太秦「うずまさ」の語源 その3


 ウヅで「尊い、珍しい」の意味で使われる用語。「宇豆奈比」万葉(18ー4094)。これは単純だが、明快。

大酒神社3
      これが秦始皇帝を祀った大酒神社



 京都・「大酒」も赤穂・「大避」もともに「おおさけ」と読む。さらに、両社にある神楽面が近似しているとすれば、もはや動かしがたい。それがまさしく同根の神社であることを証明する。
ただ、私はいまだに、この二つの神社の神楽面が似ているかどうか、残念ながら見ていないが・・・おそらく同一に違いないと思われる。
 両社の神楽面が同一であれば、両社はダビデ大王を祖霊とし、タビデ大王を奉るヘブライ系渡来人が造成した神社ということになる。
ところで、ヘブライ人が太古からすべて一神教であると、頭から思いこむのは警戒したほうがよい。彼らヘブライ人がカナンを去ったのち、およそ4世紀後、秦として中国を統一し、日本に渡来したとしたら、それらは前206年秦の滅亡した頃の前後となるだろうか。秦の始皇帝がダビデ大王を祖霊としたヘブライ系の人であったかどうかは傍証しかないが、秦のもととなる民族はいまのウィグル地区のステップ地帯あたりで、アレクサンドロス(紀元前323年死去)の東征に押されて中国中原に進出してきたのだろう。つまりもともと西域にいた遊牧民族だった。秦はこのころまだ、小国で、政が31代の秦王に即位したのはBC247年。政、後に始皇帝を名乗る。
北匈奴と後漢がこの中国西北地方を攻防しあっていた。中国とローマ帝国との交易は、安息国=パルティアが中継貿易を行って巨利を得ていた。シルクロードに沿った都市は、当時の交易の利害に密接に絡んでいた。
ローマ共和制の末期、執政官クラッススが紀元前53年、5万人のローマ軍を率いて安息(パルティア)=イランを攻略しようとして敗死した。このときに、約6000人のローマ軍混成部隊の兵が不明となった。
不明となった兵は、ローマ軍装備を維持していたまま、紀元前36年に漢に帰順し、国境防衛任務に就いたとされる。(漢書陳湯伝)
これらローマ軍の末裔は甘粛省金昌県者来塞村に、あきらかな欧州人の風貌をした村民が100人、今もなお生活していることが報道された。(南京・揚子晩報1998・7・31夕刊)
一方、後漢も北匈奴を排除、西域の制圧を図った。攻撃に参加した班超(はんちょう)は、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」との有名な台詞(せりふ)を吐いて、この西域を制し「西域都護」に任じられた。彼は大秦国(ローマ)に部下、甘英(かんえい)を派遣したが、安息国の妨害で小アジアあたりで引き返してしまった。
9~11世紀には中国西域はトルコ系遊牧民がイスラム教に改宗して、ジハードの名のもとに移住してきた。現在、これらトルコ系住民が多くを占める。

○秦の祖神も鳥がトーテム

秦本紀には「秦の先は、黄帝の孫、帝顓頊(せんぎょく)の苗裔なり。孫を女修という。女修が機織りをしているとき、玄鳥(つばめ)が卵を隕した。女修はこれを飲み、子大業を生む。大業は小典の女、女華を娶って、大費を生む。費は禹帝を助け、功あって姚姓の王女を妻にし、舜を補佐して鳥獣を調馴した。・・・・」と、ある。
この秦の神話からは、秦の祖神も卵性説話を持っている。秦が、その祖を黄帝の末裔にすることは、その出自を華美荘厳にするためであったとも思えるが、一応、鳥トーテムを持っていたと考えられる。秦が狩猟族、あるいは遊牧族であることから、彼らが華北の騎馬民族と卵生説話を共有したとしても矛盾しないだろう。



三柱鳥居の謎

 広隆寺が建立されると同じ頃に、秦氏一族は近くの太秦森ヶ東町にある養蚕の社(かいこのやしろ)を勧請している。社内に「養蚕神社」を合祀しているので、通称で「かいこのやしろ」といわれている。社名は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という、この神社は広隆寺創建と同時期に秦氏が祀ったと言われる。木島社は大酒神社の本社に当たり、摩多羅神のお面や冠は、なんと木島坐天照御魂神社の宮司、服部さんが作っているのだそうである。(京都発見(二)路地遊行・梅原 猛から)

 漢織・呉識を召し、伝統衣装「きもの」の発祥地と称される。この社には全国で唯一の三柱鳥居がある。この不思議な鳥居はキリスト教ネストリウス派、景教の遺物とされる。ところで、渡来人たちが養蚕で繁栄すると、その財を結集して神社を造営する。そうした例は全国に至る所にある。ところで、蚕(かいこ)と桑(くわ)とは切り離せない。日本の国を「扶桑」ともいう。中国では、太陽は東海の島にある神木、すなわち桑(くわ)から天に昇るとされていた。それから、扶桑とは日の出の地、つまり日の昇る国という意味になり、転じて日本をさす言葉になった。扶桑の観念は中国の思想に由来する。

 こうした、渡来人の多くが日本に大陸の高度な技術をもたらしたのは紛れもない事実であり、こうしてむしろ日本はもともと移住民で進歩発展してきた国であった。日本人が古来から単一人種であったとし、これを疑わない有名学者もいるが、これは単純な錯覚であろう。NHKスペシャル「遺伝子」第三集 「日本人のルーツを探る」では、興味深いレポートがあった。ミトコンドリアDNA*によって、日本人のルーツを探ろうという研究が取材された。鹿児島大学の宝来 聡博士が紹介するデータによると、本州人のDNAによるルーツの構成は、以下の通り。

日本人固有のDNA  4.8%
韓国人固有の・・・ 24.2%
中国人・・・・・・ 25.8%
アイヌ人・・・・・・ 8.1%
沖縄人 ・・・・・・16.1%
その他・・・・・・・24.0%

 シェアーを特徴的にとらまえると、韓国、中国がほぼ四分の一を占めている。そして、縄文人を構成していたとされるアイヌ人と沖縄人をあわせるとやはり、ほぼ、四分の一である。しかし、5集団に属さないDNAが21%あるという。しかし、4.8%という日本人固有のDNAとは、日本でしか見つからないということなのか、なにゆえに日本人固有なのか放送からは伺い知ることができない。とにもかくも、日本列島に渡ってきた遺伝子は均一ではないことを示している。韓国では、韓国固有の遺伝子をもつ人口は、40.6%、中国では、60.6%が同一のDNAを持っている。比べると、日本には遺伝的に均一な支配的集団*が存在しないのである。こうした複合的集団のなかで古代の権力の集中化がなされたきたことを踏まえなければならないだろう。想像するにそれが聖徳太子の言った「和」であったのだろう。縄文人は複数の種族からなり、また、弥生人も複数の種族を予想しなくてはならない。

*ミトコンドリアDNAは、塩基の数は564、母親からしか遺伝子を引き継がない。従ってルーツをどこまでも純粋にたどることができる。ミトコンドリアDNAのパターン解析によって驚くべき結論が導きだされた。現代人「単一民族説」である。これは、カルフォルニア大学のアラン・ウィルソン博士が唱え、スバンテ・ペーポ博士が裏付けた。それは、現代人(ホモサピエンス)はアフリカの一人のイブ(女)から、20万年前に誕生したというのである。それ以前の人類、ネアンデルタール人やジャワ原人、ペキン原人という人種はどうしてしまったのだろうか。絶滅してしまったのだ。

遺伝的均一集団 
 このミクロ医学が生んだ遺伝のテクノロジーは既存の「人種」および「民族」といった概念にあてはまらない。”人種”は宿命であるが、”民族”は運命である。・・・という意味合いでは、m~dnaは、「人種」に近いといえる。しかし、従来の人種とは、顔つきとか、髪、骨相(短頭、長頭)などフィジカルな特徴によって分類されている。そこで、遺伝子による同一性は、人種的同一性と区別する必要がある。

 m~dnaの配列はフィジカルな外形的特徴と無関係だ。22対の染色体は父と母の遺伝子をほぼ半々で引き継ぐが、ミトコンドリアは母親のものだけが遺伝する。
 アルプスのアイスマンは、氷の中に閉じ込められて5千300年後に、冷凍ミイラで発見された。(1991年)オックスフォード大学のブライアン・サイクス博士はアイスマンと同一のミトコンドリア塩基配列をもつ現代人を探した。すると、すべてのm~dna配列が同じである人々が少なからず見つかった。平凡なイギリスの主婦マリー・モーズレーさんは、遡ること250世代前のご先祖、アイスマンに遭遇した一人である。彼女はアイスマンの子孫として報道された。
これは、面白いことになりそうだ・・・。
 20XX年のある日、わたしは”Ancestor Bank” (先祖銀行)に、できるだけ遠い処に住む人という条件で、調査を依頼した。すると、数日して返事があった。あなたと同一の”m~dna”をもった人が見つかったというのである。面会を希望する・・・にチェックを入れて、返信した。しばらくすると双方が面会を希望しているとの報告が来る。
何世代前かは分からないが、どこかの時代に同一の母から産まれ出た子孫と会えるのだ。しかし、それ以外はなにも知らされない。年齢も性別も国籍も、面会するまで伏されている。わたしはどきどきして、その時を待った。会ってみると、すぐにそれが誰なのか分かった。私は涙を流して、その人と抱き合った。だが、なんとその人は東南アジアから成田についたばかりだった。わたしはなんという奇跡に出会ったのだろう。

三柱鳥居
三柱鳥居(みはしらとりい)


大和の大神(おおみわ)神社の三輪鳥居(三ッ鳥居)とともに、三柱鳥居は、他に余り例がない。九州にもあるようだが、詳しくないが、古くから造営されていたかどうか疑問だ。


 社内にある池は湧水で、元糺(もとただす)の池と呼ばれる。
中央の石組みは本殿の御祭神(*天之御中主神)の神座で、宇宙の中心をあらわす。この三柱の鳥居が深い謎をもつことは言うまでもない。景教の名残だとされる(社伝)ので、秦一族にキリスト教の一団が存在したことを示すという。推古天皇12年勧請されたとすると、西暦606年、およそ今から1300年前のこと。キリスト教ネストリウス派が京都に伝来していたことになる。ネストリウス派は431年エフェソスの公会議で異端とされ、それ以後、東方に布教活動を移し、635年には長安に寺院が建てられた。長安の大秦寺(だいしんじ)にはその「大秦景教流行中国碑」が残されている。景教が時を同じくして日本にも来たと考えられる。長安の大秦寺と秦寺と呼ばれた広隆寺にも「秦」(うずまさ)の文字が見えるのは偶然だろうか?
 そして、広隆寺そのものが、いつのころか景教寺と呼ばれていたのも事実。しかし、三角鳥居が景教の顕著な特徴だという証拠はあまり見当たらない。この景教遺跡説は佐伯好郎翁が唱えた卓越した説で支持する人も多いが、ネストリウス派は三位一体論に組みせず異端とされたことを踏まえておく必要があるだろう。
*三柱鳥居の真ん中に鎮座する神は、「天之御中主神」は古事記では独り神といわれ、配偶者をもたない神である。男女一対の神でないことは、別天神(ことあまつかみ)と言われ、すなわちこの世が創造される以前からあった陽気だけで誕生した神ということになる。一番初めに誕生された別格な天上の神であり、どうじに決して姿を現わすことがない。したがって、「わたしはアメノミナカヌシです。」などという人格神とは全く異なる。したがって、歴史上の人物として、登場することは全くありえない。

 この神は原初の創造主であり、すべての群霊を統治する太一そのものである。天の中央の主神といえば、北極星に他ならない。道教の天空観は、北極星を太一神として、最も尊い神とする。最高の天の支配を北辰に置き、神の常居、すなわち「中宮」とする。「中宮」の次に「紫宮」または、「紫微宮」があり、これらが北斗になる。マンダラでいえば中尊にあたる神である。そこで、道教的天上最高神の日本バージョンが「天之御中主神」。「天之御中主神」も外来神なのである。別天神(ことあまつかみ)は造化三神をもって一体となり、二群霊の生みの親神となる。そこで、天之御中主神、高御産巣日神(たかずすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひのかみ)と合わせ、三柱として祀っていると見ることができる。

 ただ、私見ではこの神社は実はもっと古くからあったと思われる。すでに紹介したように「天之御中主神」は翻訳された神名であるので、この神社で後世になって御祭神に変更したのだろうと思われる。
祭神は社号は、別の神名が隠されている。社号では天照御魂(アマテルミタマ)とある。アマテルは音借では「阿麻て留」ともあり、これは音として独立して古代からあったことを示す。この神は別名火明命(ホアカリノミコト)で、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)。スサノヲの第五番目の子で、国を平定した始めの王である。霧島神社では、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」という、舌を噛みそうな超長い名前で祀っている。(あまてる・くにてる・あめの・ほあかり・くしみかまたま・にぎはやひのみこと)
 大和には、「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたま)
、播磨には「粒坐天照玉命神社」、
対馬には「阿麻邸留神社」、
河内には「天照大神高座神社」
・・・など尾張氏系とされる神社がある。
また、筑前に「天照神社」、
大和に「他田坐天照御魂神社」(おさだにますたまてるみたま)、
丹波に「天照玉命神社」、
摂津に「新屋坐天照御魂神社」などがある。

木島社は唯一の秦氏系の天照系神社である。

 さて、 三柱といえば、誕生した神を数えるのに「柱」と表記する古事記の定型的表現。墨江(住吉・すみよしの祭神)の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神(海蛇神)のように、三ッ鳥居も三柱鳥居もなにがしかの三柱の神を意味していたのだろう。

 底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命 イザナギが禊(みそぎ)をしたとき誕生した海の神だち。古事記では墨江(すみのえ)と書かれる住吉大社(大阪市住吉区住吉町)の祭神。筒之男のツツは、隼人の古語で海蛇。阿曇系海神(隼人の筑紫豪族)のトーテム「ツツ」からくる。三柱のツツ神、浅いところに入る海蛇、中程の深さの海蛇、深いところの海蛇の三神ということ。住吉大社はいうまでもなく、航海の神。古代の海神は単純に蛇であったことが決め手になる。地祇の火明命(ホアカリノミコト)を始祖とする海人津村連が住吉大社を祀る。つまり、アマテルミタマと称する神社が三柱の神を祭神とするばあい、三柱の意味としては海の蛇神しか顕れてこないのである。

桧原神社の三つ鳥居



 大神(おおみわ)神社の摂社・桧原(ひばら)神社の三ッ鳥居、中央に天照大御神、左に豊鍬入姫命(とよすきいりのみこと)を祀る。または、右にイザナミ、左ににイサナギともされる。ここは天照大神が大神(おおみわ)神社から追い出され、最初に鎮座したところである。新加羅系王朝、崇神天皇が大神神社を接収したのである。しかし、この三輪の神と対立したことによって、606年頃、「疫病多く、民が半ば尽き、百姓は流民となり反抗する者も現われた」、三輪の神の勢いを恐れて、天照大神を近くの笠縫(かさぬい)に祭るように命じたが、命じられたヌナキノイリビノメノミコトは祟りで髪が抜け、瘦せ細ってしまい、祭ることが出来なかった。高句麗の神のたたりは恐ろしく顕たかで、崇神天皇も恐れ、大田田根子命を陶村(すえむら)探しだし、祭らせたところようやく、世の中が平和になった。大田田根子命(おお・たた・ねこ)について補足すると、大・田田・根子と区切り、田田は「多田」という地名で「大神郷」(おおみわごう)を意味し、「根子」は天皇の諡名にある敬称の「根子」で、この根子の意味するところは高句麗系の出自であることを意味している。古事記では意富多多泥古(おお・たた・ねこ)で神主として招来したと記す。神武系の王族に大物主を祭らせなければ収まらなかったのである。新王朝が高句麗の祭祀と対立する宗祖をもっていて、一度は、大神大社を葬ろうとしたが失敗したことを端的に表している。崇神天皇と応神天皇は同一であると考えられる。ここでは短く書き添えるが、崇神天皇が「御間城入彦五十瓊殖天皇」書記、「御眞木入日子印惠命」古事記のミマキは任那であり、任那から来られたという意味で加羅国の王である。
この社(桧原神社=写真)は、「元伊勢第一号」と伝えられる。宮廷内大殿に大国御魂とともに祀られていた天照大神を崇神六年に、豊鍬入姫命に託して、ここ倭笠縫邑に祭った。二年間、しばらく鎮座したのち、倭姫命が鎮座の聖地を求めて各地を求めた。菟陀篠筱幡(うだささはた)→近江(おおみ)→美濃(みの)と巡り、最後に気に入られた伊勢の五十鈴川の川上に斉宮(いつきのみや)をおこしたとの伝承がある。(社伝)
 伊勢に遷幸したあとも引き続き天照大御神をお祀りし、ゆえに「元伊勢」と言われている。これが斉宮(いつきのみや)起源である。斉宮は伊勢神宮の内宮のことではない。斉宮(いつきのみや)は、『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」とあり、実は、三重県多気郡明和町に実在していた。ここが磯宮というように御所であった。ここに、奈良と伊勢に2つの王朝があったとも推測させる。
 この「元伊勢」伝承は、大物主神を筑紫で祀った神功皇后が、アマテラスである。卑弥呼が、天照大御神であるという、単純明快な回路が開けてくる。しかも、国つ神、高句麗系の神であったということである。


 ところで大和の三輪山の大神(おおみわ)神社にも三ッ鳥居がある。
天照御霊神社はだいたい地祇系で、実は祭神ニギハヤヒノミコトが同じと考えられる。司祭氏族は鴨氏であった。また、物部、尾張、海部、度会、三輪、多治比氏はすべて、ニギハヤヒから出ている氏族である。賀茂氏(かもうじ)は大神(おおみわ)神社の司祭一族の末裔にあたる。大田田根子の一代前の神主は雷神のタケミカヅチノミコト神主だった。いずれも国つ神系の古社と擬せられる。いずれも高句麗の王祖祭っている。しかし、もっと古くからなんらかの古社の継承であるとすれば、物部氏、もしくは賀茂氏(かもうじ)が勧請した小祠がこの地に移されたと推察される。これら物部氏(もののべ)の祖は水蛇神を奉ずる王朝であった。

 「秦氏本系帳」なる書には、「鴨氏人を秦氏の婿となし、秦氏、愛聟(愛するむこ) に鴨祭を譲り与う」とあり、鴨祭りはもとは秦氏の祭りだった。秦氏と鴨氏はある雄略天皇の命で同時期に一緒に山代(やましろ 山代→山背→山城)に移った関係がある。松尾神社→木島坐天照御魂神社→賀茂御祖(みおや)神社・下社→四明岳(比叡山最高峰)は地図上で一直線上に並ぶという設計が施されており、元糺(もとただす)の社と賀茂社の糺の社は濃厚な結び付きがあると推測される。

 賀茂御祖神社(かもみおや)で祭る玉依媛は大綿津見神=賀茂建角身命=スサノヲの子とされる。玉依媛は「石川の瀬見の小川に川遊びせしときに、丹塗矢(にぬりや)、川上より流れ下りき。すなわち取りて、床の辺に挿し置き、はらみて男の子を生みき」(山城国風土記)とあり、大物主大神の丹塗矢伝説を継承している。つまり、玉依比売はオオミワ神系。また、豊玉比売は、すでに卑弥呼であることは第一章で紹介した。玉依比売は豊玉比売の異腹の妹にあたり、記紀では豊玉比売の子供、ウガヤフキアエズと結婚する。ウガヤフキアエズからみると、叔母ということになる。神話系譜では玉依比売の第4子が、神武に当たる。そして、玉依比売は、伊勢の外宮、豊受大神である。
神杉

 大神神社拝殿の手前にある巳の神杉。献棚には卵とお酒が供えられている。
このあたりの人は蛇を「くつな」言い、巳の神杉に宿る神は白へびである。

○大物主神は秘中の秘、姿を見てはならない蛇(おろち)=やつ神で、ともに不思議なことに三柱(みはしら)鳥居が大和の大神神社にもあるのは偶然ではないだろう。涸れたことがないという元糺(もとただす)の池は禊(みそぎ)に使用したものであるが、わたしはこの神社の湧水池は賀茂神社、住吉大社と同様、水神系の証しと見る。この両社に共通なものはともに、河の中州にあり、三柱(みはしら)の鳥居があることである。

○大神神社の3つの謎解き
 
 大和の大神神社(おおみわ)は神奈備を依代とした古代様式である。祭神は大物主大神(おおものぬしおおかみ)が主坐にあり、大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひなのかみ)を配祀している。大物主大神を第一にして、大己貴命と少彦名神を別にしており、扱い方も格段に相違している。このことは、大神神社そのものが、大物主大神と大己貴命を、別人だと看做しているのである。大己貴命は、素戔嗚命が「雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る」と歌ったとき、奇稲田姫を妃として生んだ子で、高皇産霊命の子、少彦名命とともに国を作った。ゆえに大国主と呼ばれる。これが、第一の秘密である。

 彦名命が亡くなり、「わたしひとりでどうやってこの国を作っていったらいいのだろうか。いったい、どの神とわたしはこの国をうまく作ってゆくのがよいのだろう。」と嘆いていると、海を光らして近づく神が現れ、「わたしを倭(やまと)の東の山の上に祀れ、そうすればわたしはあなたとともに国をともに相作るだろう。もし、あなたがそうしなかったらな、国作りをなすことは、難しいだろう。」・・・そして、「吾をば倭の東の山の上に拝き祀れ」(記)と命じた。海から光の玉となって現われた神霊は、大己貴命に向かって、わたしを*三諸山、(三輪山)に祀るように命じたのだ。
「あなたは一体だれですか?」と尋ねると、神霊は「わたしは、あなたの幸魂、奇魂である。」と答えた。「そうですか、よく分かりました。あなたは私の幸魂奇魂なのですね。今、どこに住みたいと思っておられるのですか」と尋ねると、「吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き祀れ」(記)、「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ。」(紀)と答えられた。記も紀も、この神が大神の神なのだとする。
 さて、「然らば、汝はこれ誰ぞ」の問いに、神霊は答えて次のように言った。「吾は是汝の幸魂奇魂なり。」(紀)そこで、ここから、自霊尊(おのがみたまのみこと)をお祀りになったと信じられている。すなわち、大己貴命が、自分自身を祀ったのが大三輪の神だとされているのである。しかし、吾と汝が、対話形式になっているうえに、命令調になっている上記の内容からは、自分が自分と語り合っているとは考えにくい。これが第二の秘密である。

 わたしは、大三輪の大神はスサノヲだろうと推定している。このことは、上記の「汝の幸魂奇魂」が、たいへん重要なところになる。
三輪山伝説では、活玉前玉比売神(いくたま・さきたま・ひめのかみ)が見える。大神主神が、三輪山から夜な夜な通ってきて、孕ませた女である。
活玉前玉比売神は、奇魂幸魂比売神と読み替えることができる。
 それは、ただの音の写しであり、まったく別な意味をもってくる。奇魂とは「くしたま」=櫛玉である。奇(くし)は、櫛(くし)、または、御酒(みき)の意になる。櫛玉邇芸速日命(くしたまにぎはやひ)の名前があるので、この「櫛玉」を「奇魂」にあてがったのだろう。また、大物主神の御名を「大物主櫛玉命」(おおものぬしくしみかたまのみこと)と申し上げる。幸魂は、さき(先)(前)玉であろう。合わせると、「わたしは、あなたの前玉・櫛玉である。」となる。さらに、開くと、「わたしは、おまえの父だ」・・・つまり、それは、父王スサノヲを意味する。*三輪山の「みは」は、ヘビの意味で、甕は「みか」=「みけ」は、神聖な稲の意味、転じて、神に供進する食物のことを御食・御饌(みけ)という。くしは御酒(みき)のことだとすると、大物主くしみかは、大物主・酒と食の玉(霊)の命という意味になる。スサノヲの妃・櫛稲田比売の名前には、櫛と稲がともにある。これで、すっきり、単純・明快となる。考えるに「吾は、汝のさきみたま・くしみたま」は、神道理論の*一霊四魂の教理とはぜんぜん関係がなかった。一霊四魂の思想は陰陽道(おんみょうどう)が中国から入ってきてからの体系的思想でおそらく6世紀からの思想なので、呪術的な時代の大物主神が一霊四魂の概念を持っていたとは考えにくい。これが第三の秘密である。大神はまた御酒(みき)で有名。その酒の古称は、一説に「奇」(くし)であるという。記中「須須許理が醸みし御酒にくしことなぐし、ゑぐしに我酔ひにけり」また、酒の司を「くし‐の‐かみ」と言っている。記中「くし常世(とこよ)にいます、石立たす少名御神」、くしには御酒(みき)の意味がある。魏志倭人伝でも、「人性嗜酒」と書かれ、倭人は酒を好むとし、集会では、席順や立ち振る舞いに男女、父子といった上下の差別がなかったと記されている。酒の座は、そうありたいものだ。こちらのクシも関連があるのだろうか。天孫族が降臨したのは高千穂のクシフルである。


*一霊四魂の対応語彙

荒魂 荒(あら)・顕(あら)・悪(あら)・鬼(あら)
和魂 和(にぎ)・丹寸(にぎ)・饒(にぎ)
幸魂 幸(さき)・咲(さき)・前(さき)・酒(さか)・栄(さか)
奇魂 奇(くし)・櫛(くし)

○記紀神話における神々と四魂の顕現(みあれ)

*荒魂 地→ スサノヲノミコト→  行・陽
*和魂 水→ ニニギノミコト→   知・陰
*幸魂 火→ コノハナサクヤヒメ→ 情・陽
*奇魂 風→ ニギハヤヒノミコト→ 意・陰
*直日魂 空→造化三神


*一霊四魂の現代的解釈

荒霊(あらみたま) タミル語のara ヘビに由来する
和魂(にぎみたま) タミル語のnigi 光り輝くに由来
幸魂(さきみたま) サンスクリット語のsakti 生殖力に由来する
奇魂(くしみたま) サンスクリット語のkshi 支配に由来する
(神奈川歯科大教授 北村博則博士の考証)



○蛇と胡

 平成六年十一月六日に八坂神社の舞殿で、平安遷都千二百年奉祝舞楽が行われた。このなかの舞楽のひとつに還城楽(げんじょうらく)という舞が披露された。解説によると、「舞台中央に蛇を置き、胡人その周囲をめぐりつつ舞い、終わりに蛇を捕らえて持ち、喜びて舞をおさめる、西域の楽である。」と、ある。胡人とは、西域の小数民族の代名詞である。はじめは胡人、渡来第一世代が舞ったに違いない。この舞楽が西域の舞であるとされていることは、つまり、胡人の伝承に基づくこととなろう。つまり、西域から、蛇信仰が伝わったとも十分推定できる。しかし、この舞の発祥年代は900年を遡ることはないだろうが、不明である。八坂神社と蛇に関しては五章以降のテーマとなっている。

○胡からやってきた食材たち

 胡人が日本に来たことは食物の伝播で知ることができる。現在、わたしたちが食べている食材は、ほとんどが外来である。まずもって、日本で生まれた野菜類はひとつもない。野菜の種が風に吹かれて日本に飛んできたのだろうか。いや、そうではない。アジアやオセアニアなどから、栽培法を知っている集団と一緒に持ち込まれたのだ。なぜなら、種をもってきても簡単には育たない。その栽培法は単純ではないからだ。
 このなかで胡から伝播した野菜にニンジンがある。ニンジンは中央アジア原産で、中国人は胡蘿蔔(こ・らふく)(胡の大根)と呼んでいた。ニンジンは肉の臭みを消すので、遊牧民に好まれていた。しかし、華人はニンジンを好まず、なかなか浸透しなかった。日本の今日のニンジンは西洋種で、南蛮船によって室町時代に日本にやって来た。ところが、京都の金時人参はアジア種で、中央アジア原産である。例外とも言える金時人参は、異例のニンジンである。一体、いつ頃日本に持ち込まれたのだろうか。
 中国より西の野菜はこのほかにもある。ゴマ(胡麻)、ホソネギ(胡葱)、キュウリ(胡瓜)などがあり、西域少数民族の住む中央アジアからシルクロードを通って伝播した。それゆえに、「胡」の文字がつく。
ところで、キュウリだけは、シルクロードから来たといっても複雑である。なぜなら、原産はインドだからだ。インドからは北伝ルートと南伝ルートがある。
 今、わたしたちが食べているキュウリは、江戸時代にはなかった。東南アジアや、中国華南系の表面がつるつるのキュウリが、古くから日本では食べられていた。明治時代になって、現在の白いイボイボのある華北系のキュウリに変わったのだ。つまり、奈良時代から、ずっとキュウリは呉と同じ、イボのないキュウリを食べていたのである。このキュウリはインドから雲南経由で中国に入ってきた経緯がある。面白いことに、日本人は、基本的に漢字を呉音読みするが、キュウリも同様に呉国と同じキュウリを食べていたのである。
 華南での栽培種は、おおむね弥生時代までに、すべて出揃って日本に入ってきている。ゴボウ、ソバ、サトイモ、ヒョウタン、マクワウリ、穀類のヒエ・アワ・小麦・大麦・稲など。
 華南の食材が入った弥生時代。その後、中央アジア原産の食物が伝播したのではないだろうか。
 ジャガイモ・トウガラシ・カボチャ・トマト・トウモロコシ・西洋ニンジン・西洋タマネギなどは16世紀以降に日本に、南蛮船を通じて入ってきた。幕末・明治以降にキャベツ・カリフラワー・メロン・マッシュルーム・レモン・オレンジなどが栽培されるようになった。これらの食材は、古代にはなかった。これらは、中南米原産種、西洋種などの食材である。では、これら以外の食材は、すべて古く、稲を代表として、すべて中国からやって来たのである。 ○三角の底流にある古代意識

 三角形の古代的意味はいろいろとある。三角紋はへびのウロコをしめす。また、三角形はデルタでDeは女性器の意味がある。ミケーネの天井式地下納骨堂は出入り口は三角形になっている。子宮をくぐる意味があった。シュメールでは生命の血(赤色に)を塗って、再生の門とした。エジプトでは本当の血を塗ったと儀式があった。そこで、三角形は子宮の入り口を象徴し、生命を産み出し、豊穣の利益を与えるという考え方がでてくる。三角形の鳥居の深層的意味は死の再生、それは蛇の智慧と一致する。シュメールでは三角形の文字を女淫で「MI」ミ、インドでは「MA」マーになり、英語ではマザー「Mather」になった。いずれも原語は女淫をもつ人という意味で元の形は三角形である。

○木島(このしま)の謎を考える

 木国とは紀州のことで、木島もおそらく紀州をさす。しかし、木島がはたして地名
なのかどうか判明しない。ところで蚕(かいこ)とはヘブル語でシェバ(Sheba)という。有名な「シバの女王」は、「蚕の女王」の意味。イスラエルには「SHEBA」という町がある。「このしま」を、「胡能斯波」と逆古語化できないだろうか。そこで、「コノシバ」がしだいに、変化して、木島(このしま)のスマートな漢字が当たられた可能性がある。


1)柳田国男は、蚕(カヒコ)は単に「コ」とも言われていたのだという。「蚕のコだけは人以上の敬称がついている。」と書いている。「こ」に「蚕」をあてることができるだろう。「蚕能島」(このしま)となり、かいこのしまと読む。「かいこのやしろ」の冠にふさわしくなる。

2)言語学によれば、「シェバ」は「せば」に訛るはずであるが、しかし「しら」とか「しろ」に訛っている。大和や伊予では蚕のさなぎを「しろこ」といっていたという。
蚕神(さんしん)として、日本で馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が信仰されていた。馬と養蚕が結び付いた理由は、中国の伝承に残されている。
「昔、父が旅に出たので、一人娘が留守をしていた。娘は寂しさのあまり、『もしお父さんを連れ戻してくれたなら、お前のお嫁さんになってあげる』と、馬に話しかけた。それを聞いた馬は、駆け続けに駆けて父のところへ行った。父は馬を見て驚き、家に変事があったと思ってその馬に乗り、急いで家に帰った。こうして娘の希望はかなえられたが、娘は馬に嫁がなかった。馬は娘を見るたびにとても興奮した。それを見て父は不審に思い、娘に問いつめた。そして、事情を知った父は、やはり娘を馬の嫁にするのに忍びず、その馬を弓矢で射殺し、皮をはいで庭に干した。娘はその皮を足にからませながら、『畜生の分際でわたしをお嫁に欲しがるなんて』と言ってあざ笑った。そのとたん、馬の皮はガバッと起き上がって娘を包みこみ、そのまま舞い上がって桑の木に止まった。皮に包みこまれた娘は、間もなく虫になってしまった。その虫は、桑の葉を食べ、銀色の糸を吐き出すようになった。そこで人々は、彼女を馬頭娘(ばとうじょう)と呼び、養蚕の神として祀った。」(挿神記・太古蚕馬記・神女記・山海経)(以上、マンダラ博物館・西上ハルオより抜粋)

 この養蚕神の由来から、仏教が伝えられると、習合して馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が誕生した。

”東北のオシラ祀り”の次のようなあらすじの祭文がイタコたちのによって読まれる。

「長者夫婦は、観音様に祈願して、美しい娘を授かった。ところが、長者の飼っていた馬が娘に情を寄せたので、怒って長者は馬を殺して皮を剥いでしまった。すると、はがれた馬の皮は娘に抱きついて飛びさってしまった。代りにそこへ馬頭観音が現れた。そして桑の木には白い虫が現れ、蚕になった。」(仏教と民族・五木重・角川選書)養蚕と馬がこうして結び付いて、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が養蚕・機織りの菩薩として祀られていた。この信仰は、養蚕技術とともに中国から伝えられ、日本各地に広まり、おしら神・衣襲明神(きぬかさ)とか言われた信仰につながったのである。

○おしらさまはカナンのバール女神だった?


 中国の神話が、ほぼそっくり日本に伝承されていることが分かる。つまり、オシラ様とは韓半島の白山信仰の”しろ”とは関係がない。富士山東麓、甲州の郡内、府中、秩父など「おしらさま」、「おひらさま」といっている。「おシラさま」とは蚕の神(女性神)であった。(柳田国男「西はどっち」)
この方言があった富士山東麓、甲州の郡内、府中、秩父はいずれも秦氏族の居住した地盤である。このあたりで「オシラ」が残っているということは、「オシラ」が帰化した外来語だと考えられるのである。養蚕の起源伝承が中国から伝わったことは確かである。そして、「おしらさま」が女神であることは明瞭でなのである。”おしらさま”が、養蚕の女神であり、虫となった”娘”を指していることに疑問はないだろう。しかし、この固有名詞が、かいこが白い虫だからなのか、シェバが訛ったものなのか、あるいは伝来の中国名なのかはいまのところよく分からない。しかし、有力な説として、カナンの地で信仰されたバール神の一柱、オシラー女神ではないかと見られている。カナン人は木立の中で、この女神オシラーを拝していた。オシラーは神々を生む女神とされていた。アシュラーは、太女神オシラーのセム族の名である。アシュラーは天界の雌牛で、夫はエルで牡牛であった。Ashaが語源でAthも同じ。エジプトのIsisの古名はAshesh(アシェシュ)で、”Ash”の語源を含んでいる。Asheshは、「あふれでる」、とか「養育する」といった意味を持っていた。(古代インドの神、仏教の守護神Asuraではない。)ところで、Athrは、MaーAthrと綴れば、Mataraになって、摩多羅神につながってしまう。大酒神社の本社である木島社の「養蚕神社」から探っていくと、秦一族が、ペルシャ人も含む西域種族であったとしたら、カナンの神名オシラー女神を拝していた可能性は高いのである。オシラーは雌牛であるので、牛祭と摩多羅神を説明しやすい。日本での秦一族の主要な養蚕発展地では、カナンの神名オシラーが「おしらさま」として広く信仰されていた。日本にカナンのバール神オシラーが、そのままの音で崇拝されている。今も、東北地方に「おしら祭り」として生きている。加えるに、オシラー女神は”雌牛”であるので、牛祭の”牛と摩多羅神”の関係をすっきりとさせる。この場合、”牛祭”は、”蚕の祭”の変形とみることになる。
 
 さて、古事記はアマテラスとスサノヲの話にこの中国神話を知っていたとしか思えない箇所がある。


「アマテラス大神が神聖な機屋(はたや)で、神にたてまつる神衣を機織女(はたおりめ)に織らせておられたとき、スサノヲの命は機屋の棟に穴をあけ、まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って、穴から落とし入れたとき、機織り女はこれを見て驚き、梭(ひ・機織りのとき横糸を送る道具)で陰部ついて死んでしまった。これを見て、アマテラス大神は恐れて、天の岩屋の戸を開いて中におこもりになった。」

 スサノヲが機織りの聖所に投げ込んだ逆剥ぎ皮は、なにゆえに馬の皮であるのか・・・。そして、機織女がなぜ死ぬのか・・・すでに紹介した養蚕・機織りの起源をそれとなく挿入しているのではないだろうか。古事記は、明らかに世界の神話の断片をあちらこちらに散りばめている。古事記は世界神話総集編のような性格をもっているのである。


3)秦氏が来た中国西域を、奈良時代は胡と言っていた。従って「このしま」を「胡の蚕」ととるのもクールな見方になるだろう。 ○シェバと秦氏とへび

 シェバが蚕の意味のヘブル語であることは説明してきた。シバの女王のシバだ。(シバの女王は紀元前1000年ごろ、ソロモン王の智恵をためそうと多くの贈り物を携えてエルサレムへやってきた美しい女王。)ところで、「シバカミ」と音読される神社がある。寝屋川市にある柴上神社である。
京都の太秦のほかに太秦(うずまさ)の地名があるのは大阪府寝屋川市をおいてほかにない。かつて、茨田郡、秦村・太秦村と呼ばれていた。付近の史跡に茨田堤(まんだのつつみ)がある。淀川の左岸づたいに、仁徳天皇11年(324年頃)に築かれた堤防で、日本で最初の大土木工事とされる。古事記では茨田連(まむたのむらじ)が秦人を使って造堤したと書かれる。現在の枚方市から大阪市福島区の野田付近までの大堤だ。この堤の建設に集まった秦人が、寝屋川の太秦に定住したのが太秦村の始めである。

 茨田は「万牟多」と表記される。姓(かばね)は天皇が授けるもので、姓をもつ氏は、まだまだ少なかった。しかし、「まむた」は、渡海人のもともとの姓ではない。茨田連(まむたむらじ)もまた、渡海人集団だった。呉国の王、「孫晧」の末裔で、茨田勝のもともとの姓は「孫」さん。呉国から遣ってきた氏族だった。堤根神社という神社が延喜式神名帳にあった。「彦八井耳命」という、茨田氏の祖神が祀られていた。

 さて、孫一族は秦人を役(えだ)ちて、この大堤(おおつつみ)を築いた。淀川が氾濫すると、茨田池(まんだのいけ)に淀川の水が押し寄せて地域一帯が水没する。その被害の有り様は異様である。池の水表は夥しい虫で覆いつくされ、やがて、水は腐敗で臭くなり、藍色に変色した。虫とは蚕のことで、この一帯は養蚕地だった。水害の惨状は、「蚕の大量死」だったのだ。(書記の皇極二年条643年の水害)
 治水事業は、中国では皇帝の徳業だったが、仁徳13年に、茨田屯倉(まんだのみやけ)が置かれている。いわば、この治水事業は王の直轄事業となった。茨田堤は現在の淀川の水路を定め、下流の浪速(大阪)これによって、豊かになった。大阪平野部にコメ作を発展させ、河口に堀江という運河を作り、大きな船は難波をつける外港となった。仁徳陵はこうして民衆の支持の結実なのだろう。潤った貴族たちは苦役をたくさん供給できたのだろう。
 寝屋川市の太秦は町名で、近隣には太秦桜が丘、太秦中町、太秦緑が丘、太秦高塚町(ここには高塚古墳がある)といくつかに町名に分岐している。その太秦のとなりに秦町があるほか、驚くことに川勝町(秦河勝の河勝が川に変じたのだろう)という町があり、ここには、なんと秦河勝の墓(寝屋川市・史跡文化財紹介)がある。これだけでも一帯が秦氏の拠点であったことを伺わせる。奇妙な柴上神社は、川勝町のとなりの八幡台にある。
 大阪在住の鈴木さんは、この神社に興味を抱いて訪れてみた。

「神主不在で(月一回は来るみたいですが)けっこう荒れているんですが、本殿を通り越して奥のほうの不気味な森の方に進むと、柴上神社という名の小さな祠があります。不気味なんで今まで近づいたこともなかったんですが、正月に行ってみました。で、中を覗きましたところ、おもしろいですね、二匹の蛇が螺旋状に絡み合いながら、こっちを見ている像がありました。かなり不気味でしたが・・・。なんか、KurosawaさんのHP(このホームページ)を見ていたので、”おお---”と声をあげてしまいました。二歳になる娘は不気味さのあまり固まっていましたが。」(メールよりママ抜粋 大阪の鈴木さん、ありがとう。)

 この八幡台の北側は三井が丘(みいがおか)という。三井(みい)は巳(み)のみいさん(蛇神)から来た地名だったのではないだろうか。
不気味な柴上神社に、なぜ螺旋状にからみあったへびが納祀されているのか・・・謎めいた話である。驚くことに昔、養蚕地では、蚕(かいこ)がネズミに喰われないように蛇を飼育・保護し、さらに祀って拝んでいたという伝承がある。蛇は、蚕の守り神だったわけで、養蚕地ならヘビが祀られていても不思議ではない。養蚕を業とした秦氏の鎮守の杜(もり)には、ほんとうに気味悪いほどたくさんのヘビが生息していたはずだ。養蚕地であれば当然、蚕と蛇が結び付く。そこで、シェバを柴とするば、柴上とは、蚕の神・・・ということになる。
一方、民間信仰に文字どおりの柴神(しばしん)という神がおられる。道端に祀られる交通安全の神様である。不慮の事故の霊が悪霊となってこの世の人に憑くのを防ぐ力を持っていると言われている。柴神の説。また、秦氏が奉斎した白山(しらやま)信仰の韓神だと言う説。しかし、これらの説では、祠の中のヘビについては、ほとんど説明がつかない。はたして、柴上神社の真実は、どこにあるのだろうか。(鈴木さんのさらなる探索と、発見に期待したい。)

 さて、京都の葛野(かどの)は、葛野以前は、加豆怒(かずぬ)なんて書かれていた。秦氏の治水工事は山城でも行われた。葛野大堰で、名勝嵐山の渡月橋のところで堰きとめ、川の西岸に潅漑水路をつくった。この堰の発祥で、上流を大堰川(おおいがわ)といい、下流を桂川という。こちらは、秦河勝が起業した。(茨田堤よりずっと後のこと)葛野は秦氏の地盤だが、右京区太秦西影町の高台に蛇塚古墳(へびづかこふん)という、前方後円墳がある。秦氏の首長の墓だといわれている。京都市内でもっとも大きな古墳で、全長75mあった。いまは、石組みの石室しか見ることができない。太秦に”へびづか”などという史跡があるのは、秦氏とへびとの関係が偶然の一致とは言い難い。
蛇塚古墳という名称は、ほかに群馬県の伊勢崎市日乃出町にもあった。なんであれ、伊勢崎も養蚕地であった。こちらは、あとかたもないほど消失している。
第3章


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