HOME-TOPへ

摩多羅神はどこから来たのか? ~ダビデの子孫~

第五章 ・・・


○高句麗の残像 物部氏(もののべうじ)は高句麗出身だった!

  百済が高句麗から分離、建国されたのは371年ごろで、391年には倭国は渡海して百済と一緒に高句麗を攻めている。「倭、辛卵年を以って来たりて海を渡 り百殘 ・新羅を破り、以って臣民となす。」(好太王碑文)だが、407年に高句麗の好太王に大打撃を受け敗走した。 その後、遠征は途絶えていたが、623年には蘇我馬子が加羅国(任那)を百済に服属させるため、対新羅戦に出兵しているが、まもなく百済国が唐羅連合軍に 滅ぼされてしまう(661年)。唐は熊津都督府(ウンジントドップ)に兵一万を残し、義慈王(599-660)(ウイジャワン)と王族ほか一万二千人の捕虜を連れて撤収した。 日本にいた扶余豊を戻し福信(ポクシン)将軍ともに、復興軍を組織して反撃についた。百済復興のために日本軍が663年8月28日、白村江(はくすきの え)で交 戦、陸軍2万7千、日本水軍1万という大軍勢を派遣した。倭済軍(日本軍と百済軍)は一体で、唐・新羅軍には倭軍としか映らなかった。白村江(はくすきの え)で、2日間の激戦のすえ唐羅軍に敗退。日本軍船400隻が炎上、燃え上がる炎で海が真っ赤に染まった(旧唐書)。周留城で日本の援軍を待っていた豊王 子は高句麗に逃れる。大和朝廷は七世紀半ばまで、日本が一貫して百済に援軍を送っていたが、この戦で唐の軍事力の強さを目の当たりにして、唐の冊封を受け 入れた。そこで博多都督府が一時置かれた。朝廷は唐の冊封(従属国)を離脱するために国家意識を高め、化外慕礼(けがいぼれい)の国(中国の支配 圏の外だが、 慕って朝貢する国)になろうと努めた。これは、唐の則天武后によって認められた。

百済滅亡後、高句麗は南の防御に備える間もなく、668年高句麗も唐・新羅に滅ぼされる。唐は平壌城(ピョンヤンソン)に安東都護府を設置して丸都督府の 42州と100の県に分けて統治した。およそ3万人を唐に奴隷として抑留、北方に逃げた民は流民となった。(北方での流民は大祚榮テ・ジョヨンに集合して 698年に渤海国を建国する)176城、69万戸 あった高句麗は滅亡したが、このとき日本に逃れてきた(666年10月)のが若光王(じゃっこうおう)で武蔵国、いまの埼玉県入間郡に居住を許された。日 高の*高麗神社で祀られている。(高麗神社入り口には、「天下大将軍」、「地下女将軍」と書かれたのチャンスン(韓国の村落、寺院の入り口によく見られる 標識)がある。)高句麗・百済を唐に支配されては新羅の大義は建たない。売国奴の汚名を晴らすべく、670年に新羅は唐に反旗をあげた。673年、金官伽 耶の王族だった大将軍キム・ユシンが享年77歳で死去する。679年唐のイ・グネンは20万の兵を京畿道の買肖城(メチョソン)を襲うも大敗する。羅唐戦 争は新羅が元高句麗の南半分から唐を駆逐し、ようやく三韓統一が実現。統一新羅が起きた。


*高麗神社 (高句麗神社)続日本紀「駿河・甲斐・相模・上総・下総・下野の七国の高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡を設置す。」大宝3年(703年)。若光王 は、「ここは、まるで祖国のようだ。」と、日高の風光をたいへん気に入った。礼をもって国を与えられた若光王は、一族郎党をこの地に集め、窯陶や養蚕で繁 栄した。彼らは14世紀まで一族以外の者と結婚をしなかったと伝えれる。第59代高麗澄雄宮司に至るまで、高句麗の子孫であることを恩恵と考え、今もその 文化を継承にしている。「山かげに獅子ぶえおこる しし笛は 高麗のむかしを思へとぞひびく」と*釈迢空(しゃくちょうくう)は詠んだ。また、文学者坂口 安吾はその独特の獅子笛に感激し、特別な思いを綴った。例大祭のはげしい獅子舞は、1300年前の高句麗のおもかげをに今に伝えている。なぜか、この社は 出世神社とも呼ばれている。
祭神は三神で、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)(主祭神)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)である。
*釈迢空;折口信夫(おりくちしのぶ)の歌人としての雅号。



高麗駅前のチャンスン

「わたしは目をみはり、耳をそばだてた。わたしの心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そして獅子の舞にふさわしくないもの悲し い笛の音だろう。獅子は舞ながら太鼓をうつ。この太鼓が笛の悲しさに甚だしくツリアイがとれている。」「高麗神社の祭りの笛」坂口安吾著 (例大祭10月 19日ごろ)
 この笛は高麗楽からの外来楽器であり、6孔を備えた狛笛(こまぶえ)である。およそ1300年前の音色である。その音には感慨深いものがある。
この社の祭神は、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)と高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)である。猿田彦大神は天狗面で現れ先頭を歩く。宮子はその後を 着いて歩き、裏山に登る。先頭を歩くのは、ニニギノミコトの先導役を務めたという故事に基づくもので、猿田彦大神は神輿の先頭を歩く天狗として、全国の神 事に見られる。かくのほど、猿田彦大神が、高句麗の系譜にある社の際神となっていることは見過ごすことができない。この社が純粋に高句麗の王の末裔が渡来 し、日高に落ち着いた証が十分であり、かつ、この社でサルタヒコの巡行祭が行われているということは、どう考えてもサルタヒコが高句麗の初代王に比定でき るのである。

■高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の王陵

若光王
高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)

 聖天院は、高麗神社から南西方向に徒歩5分ほどのところにある。高麗神社の参道から横道に入り、静かな住宅の間の道を歩いていくと、広々とした寺の駐。 斜に沿って建てられた伽藍が木立の間に見える。そこが聖天院である。埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺である。
聖天院楼門の脇に高麗王若光の王陵がある。左奥の霊廟にがある。天智5年10月条 高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」が見られる。
若光が来日したのは666年は高句麗滅亡の2年前である。続日本紀の文武天皇大宝3年(703年)の條に従五位下高麗若光に王姓を賜うとあるので、高麗王 (こまのこきし)の氏姓を賜与された。高句麗の王族と推定され、一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物とする。
高麗王は代々高の姓を引き継いだことから、高麗王の直系であることは証明はできないが、王族であったことは間違いないだろう。

聖天院
大韓民国の元首相・金鐘泌氏の揮毫で「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っている。

高麗王廟(朝鮮様式の若光王の墓)

■サルタヒコは高句麗渡来、高霊は朱蒙か!
 高麗神社の祭神に猿田彦と武内宿禰であることは、当の猿田彦と武内宿禰が高句麗系渡来人であることを明かしている。高句麗の伝統神社で百済や新羅系の英雄をを祀るとは考えられないからだ。



八 咫烏は3本足のカラスであり、日本書紀の神武東征神話に出てくる熊野越えで、彦火火出見の夢の中にアマテラスが現われて「頭八咫烏を遣わすから郷導者とし たまえ」とおっしゃった。古事記には出てこない。八咫烏は明らかに高句麗の朱蒙のイメージキャラ。この八咫烏=三足烏は、日本では千年以上前から和歌山県 の熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)をはじめ、全国2000余の熊野神社の共通の紋章である。また、奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天 井壁画の太陽図に三足烏が書き込まれていた。この三足烏は高句麗建国のシンボルであり、三足烏と言えば、高句麗の始祖・朱蒙(Jumong)である。チュ モンが率いた軍旗でもあった。これらはすべて、熊野系が日本書紀にそって高句麗の門下にあったといえよう。

圖: 古代壁畫中的「三足烏」形象(中国前漢頃の壁画/これが古朝鮮以来のシンボルである。漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいたが、この三足烏の形象は東夷族の ものだと認識している。この壁画のあった高句麗壁画は中国中原にあり、朝鮮族がもともと居住していた動かぬ証拠となる。)


三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様。このところ韓国ではちょっとした高句麗(BC37〜AD668)ブーム。韓国の電化製品メーカーのLG電子がこの夏(2011)制作した「三足烏」文様。
昔から漢および高句麗では三本足のカラスの伝説がある。高句麗の三本足の鳳凰。頭の後ろに長く伸びるたてがみから、カラスでなくて鳳凰である。独立博物館 にある金の高句麗鳳凰と同じものである。三本足のカラスは、高句麗に入って三本足の鳳凰に変わったらしい。高句麗建国!伝説の英雄「朱蒙(チュモン)」で は、「三足烏文様」をデザインしたステッカーにもなった。




熊野古道、熊野本宮大社の神の使者と言われる八咫烏(やたがらす)。高句麗のシンボル三足烏は、日本では八咫烏(やたがらす)と称された。どれもくちばしが右向きになっている!

*奈良県橿原市五條野町にも、八咫鳥を祀った八咫鳥神社がある。
2002年に奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に、三本足のカラス「三足鳥」とみられる絵が見つかった。
*八咫烏は加茂建角身が化身した姿だといわれており、建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社(京都)の祭神。賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神。
*奈良県御所市の高鴨神社では、祭神の味耜高彦根神と八咫烏を同一だと見られている。
*それで建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏 帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。
美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏、兎もそれぞれ日神と月神を象徴
穏地郡武良郷、中村の御客 祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭である。ここに古式の的射神事が残されている。その的となるのは遠来の神、日神たる「烏」の図像である。武良郷全体の大 祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)も、また日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を、祭りの旗印(御神体)とする。
*。「三島」という名前が付く神社は全国に1万社以上あるといわれますが、その総本山は、静岡にある「三島大社」。『延喜式』によると、三島大社はもとも とは、伊豆国賀茂郡にあった。伊豆は、かなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であり伊豆諸島の神社はことごとく事代主命を祀っている。

■物部大連はなんと高句麗の王族出身だった。

三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)が日本で祀られていることは理解されたうえで、こうした神社が多々あるには相当な勢力(軍事力)があったものと考えられる。高句麗を出自とした渡来人は物部氏である。

  *▲『続日本紀』巻■ 延暦九年(七九〇)十一月壬申《十》◆壬申。 外從五位下韓國連源等言。 源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。 各因居地行事。別爲百八十氏。是以。
源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。 故改物部連。爲韓國連。 然則大連苗裔。是日本舊民。 今號韓國。還似三韓之新來。至於唱■。 毎驚人聽。因地賜姓。
古今通典。伏望。 改韓國二字。蒙賜高原。 依請許之。
<br>
外従五位下韓国連と除されたのは、私ども源は物部大連の苗裔す。物部はいま、別れて80氏になります。先祖と祖国名によって物部と韓国と付けられたのでしょうが、・・・・今、新しく来た新しい渡来人もが韓国と称します。これでは私たちの面子が立ちません。韓国という姓を「高原」と改姓していただくよう伏してお願いします。

九州に韓国岳という高山があるが、韓国は祖国名、物部は先祖名ということになろう。物部大連の苗裔だから、高原という「かばね」にしてほしいというのである。
ここで、源さんは、韓国連を高原連と変えてほしいと、陳情している。高原がその先祖の国名であると思しき主張である。


句麗国の王を継承して高句麗としたのは、句麗国の王の姓が「高」だったからだ。「高」の持ちがキーワードである。
高原とは、あの卒本城があった一帯の地名・国名の由来だろう。
解朱蒙が高朱蒙と姓を変えたのは「高」氏の婿になったからである。
高御産巣日神、高木神は高句麗と百済の両国を建国に導く功労がある。桂婁(ケル)の王延陀勃(ヨン・タバル) 卒本の王である。
天津日高日子穂穂手見命は百済建国の温祚(オンジョ)である。
こうした高を付すのは、その出生をしめすだけではない。
地名にも表れる。
高天原は卒本である。
日高とは東扶余城である。
高志国は玄莬城である



志登神社

そ こは韓国を遠く見渡すことができる。糸島郡前原に日向峠(ひなたとうげ)である。ここに、大きな山城(やましろ)をまたたく間に作った。この城は筑紫城 (紀)と呼んだが最初の宮処でもあった。後に紀国に遷宮する。書記では、「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降りまさしめき」とあるのが、この「筑紫 の」が重要である。

ここから上陸したのだろうか。志登神社(しとじんじゃ) 海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしい。ここはかつて港だった。
ご祭神の高祖明神とは、高句麗開祖のことだろう。

糸島市(旧前原市)、JR波多江駅から北へ500m強の畑の中にある。こんもりとした鎮守の森の中に鎮座。
延喜式の古社 御祭神 豊玉姫命
相殿 和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿祢命
相殿 高祖明神 志賀明神 神功皇后 高良明神 『和漢三才図会』
相殿 高祖明神 神功皇后 高良明神 『筑前国続風土記』


手前の杜が志登神社、後方に高祖山(たかすやま)

高祖神社(たかすじんじゃ)
南西の雷山であると考えられるから、雷山神社が本来の宮であり、こちらはその分社であると考えられる。


高祖神社(たかすじんじゃ)の位置A点(古代の海岸にあたる)

城を築いたのは高祖山だろうか?雷山川(前原市の船越湾に注ぐ全長14.4km)がほぼ直角に曲がる場所にドルメン、 即ち「支石墓」(しせきぼ)が10基存在している。支石墓は高句麗渡来人がこの近辺を拠点にしていた証拠である。高句麗の文化は石の文化だといわれる。キ トラ古墳は高句麗の横穴式石室といってもいい。


江華島の支石墓 韓国語ではコインドル、この支石墓は最大級で、他に韓国全土に3万石あると言われているが、分布図を見ると不思議なことに新羅にはない。仁川州広域市江華島には120基あり、世界文化遺産になっている。


江華の支石墓は北方式、和順(約442基)は南方式。高敞(500基)は北方式と南方式が混在する。和順には、前方後円墳がぞくぞくと発見されているの で、歴史認識に物議を醸している。単純に言えば、倭族がこれらの地域を支配していたことになる。任那があったかなかったかの論争は過去のものとなった。











飛鳥石舞台古墳。上円下方墳と推定されるが,あまりに有名なこの古墳,蘇我馬子の墓(桃原墓)といわれている。








支石墓の構造






この高句麗系の王は神武天皇で語られているようである。降臨神話はもう一つニニギノミコトで、こちらは「日向の襲の高千穂峯に天降ります~略~ソシシの空 国(むなくに)を~略~吾田の長屋の笠狭岬に到ります」と、明らかに鹿児島に降臨したと記す。これは、二重の降臨場所があるということは、別の王が侵入し たということである。鹿児島に上陸した王朝こそ、「はつくにしらすすめらみこと」と称される応神天皇であり、熊襲と云われた軍の王である。魏志では狗奴国 と書かれ、王の名を卑弥弓呼であると記す、その人は応神天皇(ホムタワケノミコト)である。

■大物主は、高句麗の王族か

謚名(おくりな)で、「足(タラシ)」が入る天皇、または「根子(ねこ)」が入っている天皇は高句麗直系である。これは神武天皇の系譜である。これに対して、「別(わけ)」が入る天皇は傍系を意味する。簡単に言えば、兄弟継承か片親だけ直系王族であることを意味する。だが、血脈が切れている可能性も秘めているので、ここは慎重にならざるを得ない。そして、天皇の諡に「神」「入」がある天皇は天孫であることを示しているので、渡来してそのまますぐに王位に即いたことを意味する。


糸島富士と呼ばれる可也山の展望。山頂では神武天皇を祭る「可也山神社」がある。

■上陸地点からは3系統の王朝が並立していた。
 神系  王名  謚号  祖神 渡来元  日本に入植した場所 王祖神  シンボル
 出雲王朝  須佐之男命系   ペルシャ (天竺の北)  西域  出雲ー吉備に本拠(岡山)  牛頭天王  八雲紋(氷川神社、出雲神社)・木瓜紋(八坂神社)
三輪王朝 神武天皇系  ネコ系  ペルシャ 高句麗   筑紫の日向の高千穂のクジフルタケ( 筑紫糸島)=古事記の降臨地 スサノオ  三足烏紋(熊野神社)
九州王朝   応神天皇系  ワケ系  ペルシャインド  百済 日向の襲の高千穂峯・ソシシの空国(むなくに)を~略~吾田の長屋の笠狭岬(鹿児島)=日本書紀の降臨地 百済初代王  亀甲紋(出雲神社、香取神宮、厳島神社)、三つ巴(宇佐神宮)・巴紋(八幡神社)

■高句麗は消されたのであろうか?

米UCLA大学のジャレッド・ダイヤモンド博士と豪州国立大学(ANU)のピーター・ベルウッド博士は2003年4月25日付のサイエンス誌に発表した論 文で、15の主要語族の拡散現象を農耕文化の伝播と関連づけて説明し、このような主張を提起した。論文によると、日本語は、紀元前400年ごろに韓半島か ら日本南部の九州に渡り、稲作農業を北部地域に伝えた農耕民の言語に由来するという。論文は、当時の韓半島には新羅(シルラ)・高句麗・百済(ぺクジェ) の3国時代が維持され、それぞれ異なる言語を持っていたと指摘、現在の韓国語は新羅語で、日本語は高句麗語に由来する可能性があると主張した。

■高句麗系王朝は伊勢にあった。

塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)。実は、佐田彦大神とも猿田彦大神とも言われ、別名、多く、天火明命、天照御魂神・天照国照彦火明命とも呼ばれる。史話になると、武内宿祢と 名前を変える。日本書紀では、さらに海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)塩土の翁とか、猿田彦とか海神とか、ころころ名前を変え謎めかしている。紀(二> 九)では伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に鎮まるとするが、伊勢を中心として紀伊半島に大きな基盤があったようである。この神名は、大綿津見神【お ほわたつみのかみ】のほか、賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】と同一ともされ、竜神にも変貌する。伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれたとされる。雷神や道祖神、海神(わたつみ)の神にもあり、また行列を先導する天狗として庶民の尊崇を集めてい た。古事記では、瓊々杵命に一に二もなく恭順したような物語に仕立てているが、そんな小者ではない。
猿田彦大神の別称を探ると、次のようになる。

1.佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社
2.鹽土老翁神【しほつちおぢのかみ】名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ)
3.塩椎神【しほつちのかみ】古事記
4.塩筒老翁神【しおづつのおじのかみ】御釜神社(オカマジンジャ)
5.事勝国勝長狭神【コトカツクニカツナガサノミコト
6.大綿津見神【おほわたつみのかみ】
7.賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】

塩土翁、この神は、伊勢、宮崎、滋賀、に多くまつられており、およそ1500社あると云う。
上記の三社以外、主だったところ、次のような神社で祀られている。

塩竃神社[宮城県塩釜市一森山ほか各地]
胡宮神社[滋賀県犬上多賀町]
青島神社[宮崎県宮崎市大字折生迫]
塩津神社[滋賀県伊香郡西浅井町]
益救神社[鹿児島県熊毛郡上屋久町]
胡宮神社[滋賀県犬上郡多賀町]

合祀されている神社
都萬神社【つまじんじゃ】宮崎県西都市

塩槌翁がニニギノミコトと卑弥呼を娶せたのは西都市であった。サルタヒコのここ一番の功績を遺した地である。縁結び、今日の仲人役を果たしたと俗に言われ る。このとき、和平にあたっていた人物は、吉備臣の祖・鴨別(かものわけ)である。塩槌翁は鴨別とも重なる。


この国は、もと長狭(なさ)が住む地(くに)だったが、今は、天尊ニギハヤヒに恭順しています。ともかく勅意のままになされなさい。」

長狭(なさ)が先住民として国をもっていた。高句麗の龍をトーテムにするニギハヤヒ(大国主)が王となっていた。そこへ天つ神の第二陣金官伽耶国のニニギ ノミコト(鳥をトーテムとする)が現れた。この塩槌翁は河南省か、山東省からの夏王朝の末裔であろう。雷神信仰の王である。が、ニニギに王座を禅譲したと いう大筋となる。ミケ王朝とワケ王朝が共立和合したのはわずかな期間で、応神は、王位につくやいなや塩土の翁を失墜させる。ニニギは非情で残酷であるが、 旧王朝の祭祀だけは侵害しなかった。祟りを恐れたこともあるが、国譲りの条件として誓約したことでもあった。ゆえか、大衆の人気は大国様やその子、恵比寿 様に向かった。猿田彦(三輪王朝の王)は巨大な存在である。記紀はどうしても、あまりにも巨大な王猿田彦を家来に貶(おとし)めた。その目論見は三輪王朝 の王朝の影響力を排除しつつ、その正統性を継承をしたかのように擬することである。王権の正統性の称揚だったことは疑いない。

大分県の宇佐神宮の門外不出の古文書では、宇佐神宮は応神天皇を祀る前の主祭神は「猿田彦大神」だったとあり、猿田彦が伊勢、丹後、播磨および国東で活躍 した王であったと思われる。この天狗で現出する猿田彦大神が、高麗神社の主祭神である。このことを手繰り寄せると猿田彦が高句麗から来た胡族であり朝鮮族 を率いて渡海した王であることが判かる。胡族といっても、契丹などの騎馬民族ではなく、パルティア王の末裔である可能性が高い。

猿田彦は大分に伝わる秀真伝(ホツマツタエ)で「我は伊勢の祖、サルタヒコである」と述べた主の名称は「ナガタサタヒコ」であるとあり、「長田」という姓が出てくる。長狭(ながさ)という記の名称と近い。

この名称の長田佐田彦(ナガタノサタヒコ)は秀真伝(ホツマツタエ)では、伊勢の祖であると云う。秀真伝(ホツマツタエ)の伝承の信憑性を確かめておこう。伊勢にはたして猿田彦が居た証拠はあるのだろうか。
この大神、伊勢の一の宮として鎮座する。猿田彦大本宮 椿大神社【つばきおおかみやしろ】(三重県鈴鹿市山本町)である。この社は、全国2500社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮とされる。
このほかに、都波岐神社・奈加等神社【つばきじんじゃ・なかとじんじゃ】(三重県鈴鹿市)、都波岐神社もまた伊勢国一宮と伝えられる。さらに、三重県伊勢 市宇治浦田、伊勢神宮内宮の近くに「猿田彦神社」がある。サルタヒコが五十鈴川の川上に鎮まったというのである。本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な 妻入造である。ここに「さだひこ」という語は、佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社の神名と同じである。猿田、佐田、長狭、長田などの関連 語の読みが[Xia]であったようである。

書記では、武内宿祢の弟が「三韓を招きて己にしたがわしめて」王の座に就こうとしているとに讒言され、応神天皇は謀反の罪で「武内宿祢を殺さしむ」という 驚くべきことが書かれている。武内宿祢が嘆いていると、壱技直の祖真根子(いきのあたいのおやまねこ)が、大臣のきよき心を明かしてください。ここはお逃 げになって帝に罪なきことを明かしなさいと、身代わりとなって自害した。武内宿祢は筑紫から船にのり、紀伊に向かう。九州を南端を迂回して黒潮に乗る海 路、これは、筑紫から紀伊水門(きのくにのみなと)=熊野に停泊して大和入りするときの航路で、かつて大和攻めのとき武内宿祢の男軍(をいくさ)を率いた と同じ経路である。これを「南海道」という。

紀伊の港から大和入りし、弟の甘味内宿祢(うましうちのすくね)と二人とも応神天皇に捕えられた。対決は武内宿祢が勝ち、応神天皇の勅により紀直(きのあ たい)に身柄を預けた。いまでいえば、紀州に遠流(おんる)したのである。応神が命は許したもの、紀州に蟄居させたと書かれる。五十鈴川の川上、今の伊勢 神宮がある地が、武内宿祢が鎮まった地である。すなわち、武内宿祢=猿田彦=天照御魂が没した地に、天照大神と豊受大神が元伊勢から伊勢に何故遷宮したの か。ここは人脈を開く大きなポイントである。
武内宿祢=猿田彦=天照御魂とは天照大御神の父であろう。
関連として、出てくる「長田」も調べてみよう。長田神社【兵庫県神戸市長田区】にも縁の社となる。1800年を越える歴史を持つ古社であるが、主祭神は猿田彦の子供、事代主神で、「恵美主様」「福の神」である。この神社も猿田彦が先導して歩く神輿行列がある。


このことから、サルタヒコが紀記の記述のような天尊したニニギを先導したとうただの従者の役より、ずっと大きな存在としてが見えてくる。国つ神とニニギは 言うが、竜神を祖とする王であるので、天尊(中国から天下った)王である。天つ神ニニギに国譲りした当の主だったのではないだろうか。ニニギの国づくりの 先導役という記紀の描写だけでは、これらの多くの神社が存在するわけがないだろう。武内宿祢=猿田彦=天照御魂とは天照大御神の父であり、伊勢に隠れたといわれる。そこで、高御産巣日神、高木神は高句麗と百済の両国を建国に導いた功労があった桂婁(ケル)の王延陀勃(ヨン・タバル) 卒本の王であることが判明する。



元伊勢 籠(この)神社は丹後一の宮。御祭神が豊受大神である。奥宮として真名井神社があるが、最奥にある「鹽土老翁の磐座」(いわくら)大綿津見神とも記されている。
真名井神社は「丹後国の比治の真奈井から御饌都神である等由気(豊受)大神を、伊勢国の度会に移し祭ったのにはじまる(雄略)」とある。また、イザナミオミコトは紀伊国熊野の有馬村の斎祀られたとあり、伊勢には偉大な因縁がある。

猿田彦が終末に鎮座したのが伊勢である。亡くなれてから、伊勢に葬られたと考えるのは早計である。単に遷宮されたとも考えられる。応神新朝の明宮【あけの みや】)(橿原神宮あたり)に対して斎宮【いつきのみや】また、磯宮【いそのみや】と称したのはこの故だろう。その斎宮とは、いったい何処にあったのだろ うか。松坂市に至る20kmに、「斎宮」(いはいのみや)があった。なんと、近鉄山田線に斎宮駅(さいぐうえき)という、その名のとおりの駅がある。ここ に1990年からある発掘調査が始まった。この発掘でなんと斎宮が、「幻の宮」ではなく、史実であることが判明した。国史跡「斎宮跡」は、東西約2キロ メートル、南北約700メートル、約137ヘクタールという規模で、壮大な宮であった。単に、記紀に「斎宮」と記されたばあい、伊勢神宮ではなく、別に あったのである。それは、猿田彦、ニギヤハヒ大物主の宮だったということになる。天武

 では、「斎宮」が猿田彦の王都たっだのか、よく考えてみよう。斎王の始まりは、垂仁天皇紀では「斎宮(いはいのみや)五十鈴川の川上に興(た)つ。是を 磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記しており、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所伊勢神宮である」、さあ、どうだろう。明らかに斎宮は伊勢神宮より古 いのである。(参考:三重県多気郡明和町 斎宮歴史博物館)。
さらに、斎とは接頭語で、神聖なという意味(大辞泉)である。斎王は「神聖な王」という意味になる。神前にそなえるサカキは齋木【ゆき】というが、斎は 【yi】と発音された。ここから伊勢も【yise】で、聖なる支配者という意味に転ずるのである。では、禊、清めるその奥の力は、龍神・蛇神である。猿田 彦が殷・夏の祭祀性の強い王朝であったことが透けて見える。この宮には禊祓(みそぎはらえ)をする池の跡が必ず見つかるだろう。

*斎宮 100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて 500人を越える人々が起居していた。発掘によって、都市は碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市で、その内部は、斎王とそ の世話をする人々が暮らす内院、斎王の巫女たちの斎宮寮の中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物があった。これは唐の行政組織 に習った行政庁ともいえる。規模ばかりでなく、ここは祭祀だけをおこなっていた所ではなく、政庁の機能を備えている。ここは、高句麗系の王朝があったとい うことだろう。共立王朝とは言っても、都が2つあったと考えると、その共立が緩いただの休戦協定だった可能性も覗えるのである。
 この宮は斎王の住居と斎王(神巫女)に仕えた役人・女官らがいる斎宮寮とで構成される。
 斎王(神巫女)は天皇が即位すると卜定(ぼくじょう:亀の甲羅や動物の骨などを使った占によって選出)によって未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれ、 天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた。斎王は天皇が譲位したり崩御したりするとその任が解かれ都に戻ることができるが、それまでは一般の社会とは隔絶される。 「斎王群行」「斎宮行列」と言われる行事は、天皇が御代りになる度に皇女を京から斎宮に送る行事である。


 672年、大海人皇子は壬申の乱での戦勝を願って朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とほがわ)ほとりで伊勢の方を向いて宮を拝んだという。見事大願成 就し、天武天皇になると、これまで途絶えていた斎王の制度を復活させたという。その意味するところは、天武天皇は高句麗王の末裔だったということである。 その出自は天皇の外戚の后が誰であったかによって決まる。大海人皇子と大田皇女(天智天皇の皇女)との子で大津皇子の実の姉でもある大来(大伯:おおく) 皇女だった。伝承による斎王には垂仁天皇の時代の倭姫命(やまとひめのみこと)らがいるが、大来皇女は万葉集や藤原京跡で発見された木簡によって実在した と確認できる最古(初代)の斎王(神巫女)となっている。斎王(神巫女)の仕事は伊勢神宮の祭りに参加することで、正月の神宮遙拝や三節祭(さんせつさ い)とよばれる6月・12月の月次祭(つきなみのまつり)と9月の神嘗祭(かんなめのまつり)への奉仕が主であった。

斎王になる皇女は交代するまで処女でなければならないが、不倫した斎王(神巫女)もいたのである。処女を失うと斎王を解任され、京に帰される。その御一人に推古天皇の皇女・莵道貝蛸皇女(うじのかいたのひめひこ)がおられる。
ここで、斎宮ではその天皇が神意に適うかどうか神のお告げを卜占していたのだろう。スメラミコトは、伊勢の神が最高位で、天皇は伊勢の神に承認されて王位 につけるという構図である。琉球王朝では、宮中にあるノロ200人(巫女)の頂点である「聞得大君」(チフジンガナシ)が最高の地位にあった。守護神のオ ナリ神に直結するからである。王たりといえども神の威光の下におかれるという構図がここにも見える。

こう考えてみると、応神は法家の流れであるが、ニギハヤヒの奉ずる龍神の異文化に対抗することができなかった。応神は祭祀性がなかっただけに、龍神の祟り には恐れおののく他なかったのだ。また、応神もこの神を奉じないと国が乱れることを知った。そこで、応神天皇は祭祀は聖域とせざるを得なかった。今日ま で、多くの猿田彦系の神社が継承されてきた大きな理由であろう。
 紀伊は古くは徐福が王となった噂のある地である。徐福伝説(四章)が伝説でなく、史実として解れてくる可能性がある。

聖王であるニギハヤヒを塩土翁に変名し、あたかもニニギの臣下にしたのだろう。


高麗の獅子






 高麗神社の獅子

■朝鮮式山城が築かれた背景

 白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗戦後、百済からは多数の亡命者が来朝した。司馬遼太郎は百済の国ごとの引っ越しとも評した。万葉歌人山上憶良はこのときの一人。(見直される古代の日本と朝鮮 金 達寿)
律法、兵法、薬学、五経にすぐれた学士や、工匠、画工、楽人など、身分の高い人々は賓客とされた。多くの官職を新に設けて天智天皇は百済の要人を多数官職につけた。(天智紀671年)
 これら百済亡命官人は唐羅軍侵攻防衛のために、664年、北面の四王寺山(しおうじやま)に大野城を、南面の基山(きやま)に基肄城(きいじょう)を築 き、これらを結ぶ平野部に水城を築造した。石垣などの石組みや石材加工にすぐれた築城の技術職人がおり、百済では一般に石が得意な職人が多く、新羅は木の 加工が得意だったと言われている。



*これらの城は水際で戦うために築かれたのではなく、もろとも逃げ込むために作られた城である。朝鮮式山城は敵に包囲させて、持久戦に持ち込んで敵の戦意 喪失を待つという粘っこい戦術のもとに作られる。日本の築城では、加藤清正がその発想を取り入れて熊本城を築城したので難攻不落になっている。山の周囲に 土塁や石垣を巡らし、真っ直ぐには侵入できないようになっている。中には食料庫、武器庫、兵舎、井戸、民間人の家屋など籠城に数ヶ月耐えられるようになっ ている。なかなか落ちないようになっており、逆に敵軍の食料が尽きて退却するまで耐えに耐えるといった戦法をとる。これは少数の兵力で大軍を相手にする状 況に対応している。敵の消耗を持続させ、援軍の到来を待ち、後方から敵を挟み撃ちにするのである。他方、都市をまるごと高い城壁で囲む宮城は中国式とほぼ 同一である。

だが、わずか5年後にはすでに唐の出先機関である「筑紫都督府」が置かれている。(天智10年11月=669年)ここに大きな矛盾があって悩ませるとこ ろ。すでに郭務淙ら唐から二千人の進駐がありながら、そもそも侵攻に備えた築城(大野城等々)は意味を失っていた。筑紫太宰(おおみこともち)を見下ろす四王寺山の山城は、むしろ都府楼を守るために存続することになった。
「筑紫国は辺賊の難を守るために、城を高くし、溝を深くして海に臨んで守りを固めているのに、なんで内賊を守らなければならないのだろう。」と、筑紫太宰栗熊王(くるくまのおほきみ)にも苦しい胸中があった。内賊とは、郭務淙等二千人のことである。




 博多には「都府楼跡」 が残されている。それと同様に敗戦国の高句麗には平城都督府、百済には熊津(こむなる)都督府がそれぞれ置かれている。都督府は日本だけに設置されたので はない。都督府は中国の郡(地方)に設置されていたいわば地方管理機関であった。そして、支配国を管理する行政機関も都督府といったのである。「都督府」 とは唐の行政名称であったことを踏まえておこう。

*「都」は政庁と訳したが、統治を執行する行政府であり、天子はそこには居ない。「都」は、徴税、および警察権を行使する地方の統治を目的とする実行機関である。天子が住む所は「宮(みやこ)」である。


「また、大唐、郭務淙清等二千人を遣して来らむ。」(日本書紀)とあり、このとき2000人という人数が派遣された。通例の使節にしては多すぎる。

 郭務淙は「今われわれの人数も船も、数がとても多い。このまま博多にいけば防人(さきもり)たちが驚き立って、戦ってくるだろう。船は47隻、その人数 2000人、いま比知嶋に停泊しているので我らが来朝の意を披き陳そう」と大和に使いをよこした。「いま再び戦えば国が滅亡するかもしれない。」スメラミ コトの詔は不戦だった。主だった重臣にそれを固く誓わせた。

 47隻は大艦隊である。2,000人を単純に割ると、一艘あたり42.6人が乗ってきたことになる。当時の外航船、または軍艦は一艘で40人ぐらいが乗 れたらしい。全長やく20メートルないし24メートル、推進に帆をもつほか、オールを左右15から16列もっていた。外海にでる船は、高波を乗り切れるよ うに船首がそりたつように高くなっていた。)これは唐の海軍といわず何といえようか。歴史において、日本が中国軍に蹂躪された経験がないというのは事実で はない。だが、長いあいだ政治的な支配を受けた実感がないというのがほんとうのところだろう。

 唐の文官、軍人が筑紫太宰に進駐してきた。筑紫大郡館(つくしのおおごおり・天武朝創建)は賓礼を饗応した儀礼所だった。今で言えば、外務(使節への饗 宴)と移民局と貿易管理を兼ね備えたようなところ。(後に、筑紫館→鴻臚館(こうろかん)と発展した)筑紫はやがて開港された貿易都市になっていった。 (博多商人の繁栄)



都 督府とは中国の対外支配体制の中央府で、都督の下に評督が任命される。評督は「評」を行政区画として管理した。これを日本では、評(こおり)制といった。 中国側は従前から倭王を都督として任命していたので、行政は713年まで「郡」という名称ではなく、「評」という名称に従っていた。つまり、「都督府」は 「中央」であり、評は「地方」である。ようするに、都督府が置かれたとき、博多が当時の日本の事実上の政庁(都)となった。郭務淙が来てから約30年間が 問題の期間である。唐の行政単位「評」(こおり)を改めたのは713年、このとき評のとき、一文字であった地名は二文字にあらためた。たとえば、群馬はこ のとき始めて生まれた名前で、それ以前は車だった。評が全国的に実施されていた事実は藤原宮出土の木簡に記されていることによって証明されている。どうも 歴史は、日本がある期間であれ、唐の統治下にあったことは認めたくないということらしい。

*都(ツ)とは周代から冊封地の府をさし、天子が住むところを京(みやこ)としていた。


663 年8月28日、白村江(はくすきのえ)で交戦後、新羅が668年に高句麗をも滅ぼし、統一新羅を建国する。生っ粋の百済派の天智天皇(てんじてんのう) は、近江大津京では百済亡命人を多数官職につけた。が、弟の大海人皇子(おおあまおうじ)の壬申の乱(672年6月24日)が起きる。高句麗系氏族を越か ら集合して、武力で天智天皇を倒したのだが、この二人は異母兄弟であるとされるも、祖霊は異なる。そもそも天皇をを外護するのは実母の氏だから。大海人皇 子(おおあまおうじ)は天武天皇となって始めたことは、まず宮廷内のしきたりを唐風に改めた。(古来より、天皇の御前ではひざまづいて両手をつけて出入り していたが、これを中国風の立礼にした。)
また、聖徳太子以来の衣冠、衣服を唐風に改めたりもした。いわば、中国風に政治・文化改革をしているのである。
天武天皇は飛鳥嶋宮(しまのみや)に凱旋、翌年即位、飛鳥浄御原(きよみはら)を宮とした。また、681年には碑田阿礼に国史の研究を命じた。
 百済派の天智天皇は反唐抗戦派だった。これに対して危機感から巻き返しが壬申の乱だった。唐の冊封を受諾し、唐に服属しただろうことは、はずせない事実だろう。さて、唐の文化を受け入れつつ、高松塚古墳(690年頃)は西壁面の女子群像 が高句麗の装束であり、天井には北斗七星と星座、壁には四神が描かれている。あたかも高句麗の高貴な人の墓ではないかと思わせる。天武天皇は神仙思想に通達した人で、たいへんやりてだった。唐は当時、道教を国教としていたが、天孫の基盤である仙道はのままだった。冊歴や国教までは受け入れなかったのだろう。しかし、当時貴族たちの一世を風靡していたのが唐文化だった。


大和朝廷が 再び西側全土に実権を取り戻すのは、701年大宝律令を発布、「評」を「郡」と改称した時点、持統天皇のつぎの文武天皇、大宝元年(701年)のことで あった。これは中国に対して独立宣言をしたに等しい画期的なことである。また、702年6月、32年ぶりに粟田真人(あわたのまひと)を執節使とする遣唐 使が出発した。このとき、「倭」をやめて「日本」という国号を承認してもらう任務をもって出港している。このとき、百済人の山上憶良(やまのうえおくら) も書記官として同行している。
 粟田真人(あわたのまひと)なかなかハンサムだったのか、かの有名な則天武后にかわいがられて首尾よく帰還した。国書「新唐書」には、長安城の宮殿で、 則天武后の宴に招かれた粟田真人の立ち居振る舞いが立派だったと書き残されている。粟田真人が接見したのが、中国史上初の女帝、則天武后、当時76才。 14才で美貌のゆえ後宮に引き抜かれた山西省の材木商の娘で、後宮ドラマではこれほど運の強い女性は他に見当たらない。太宗の後宮に入ったが、死後、尼僧 になり一生皇帝の菩提を弔うのがしきたりだった。皇后も感業寺の尼僧となったが、その尼僧姿も妖艶さを隠しきれなかった。息子の高宗も父同様に自分の後宮 に彼女を召し上げた。とうとう正皇后になったのち、病がちの高宗のかわりに政務をとった。唐は李氏から皇后の一族、武氏のものになってしまった。粟田真人 の名の、「真人」というのは中国では神仙号であり、聖神皇帝と同格である。つまり、真人は国王でも名乗ることをはばかるほどすごい名前だった。真人(まひ と)と読むとわからないが漢字は意味を通す。中国側も粟田真人は蓬莱の仙人なのか・・・と、あやしんだはずだ。歴史にもしも・・・だったらは付き物で、歴 史にも運が大いに影響する。粟田真人(あわたのまひと)が、もしもハンサムでなかったら、日本国は独立を失していたかもわからない。なぜなら、この女帝、 専制的で100人もの宗家の者や貴族を滅ぼしている。
 そこで、実際に日本が化外慕礼の国となったのも大宝律令の完成と、粟田真人が唐との交渉が成功したのをもって、702年と見る。「天皇」という尊称が名 実ともに朝廷内で使用され、ヤマトを「日本」と表記するようになったのもこの年からだろう。そこで、冊封の痕跡を排除し、古来からの国としての自負と名誉 を取り戻そうとする時代意識が生まれ育った。こうしたウェーブのなかで、飛鳥宮も平城京も華麗に創建され、古事記や日本書紀が生まれていることを踏まえて おこう。日本が国として独立したのは702年というわけだ。


■書記の言語表記
書記の崇峻天皇以前紀には天皇の言葉におかしなところがある。それは、物部守屋大連の私兵、萬を征伐するくだりで、「な怠りそ」である。原文では、「可不怠歟」である。このうち、可不は助動詞としてみると、 可不(kěbu)で、現代中国語の日本語訳は「そうだとも」になってしまう。ここは、「不可」でないと意味をなさない。


不可
(簡繁同形:, ピンイン bùkě) 」
(不能)~できない。
(回避義務)~すべきでない。
(禁止)~してはならない。
*上記のように現代中国語では、不可と書かなければならない。



「可不怠歟」の日本語の訳、「な怠りそ」は、前後の脈絡からは「怠ってはなぬぞ」あるいは、俗語的な意訳では「ぬかるなよ」であろう。前節が「速やかに族 を滅ぼすべし」なので、ここでは「~するな」の助動詞と見られる。さて、可不では意味が通じない。書記の原文「可不」は、逆さまで「不可」が正解である。 そこで原文がいかなる中国語で翻訳されているかが焦点となる。

「な~そ」の構文は禁止を表す古語で、古語林では「そ」を終助詞としている。そして、鎌倉・室町時代に多く用いられた。上代では、「雲なたなびき」のよう に、「な」単独で動詞の上につけて柔らかい禁止の意味を表していた。こうした用法は実は南方孤立言語に顕著な文法形式であり、動詞の前に否定語を付けるの はS+V+O形式に他ならない。
現代の北京語では、不可なのに、書記では可不と書いている矛盾は、実に書記の文法が順行構造だとみなければならない。つまり、修飾語が動詞や名詞の後ろに つくという中国語の南方言語だということだ。おそらく、漢字が渡来した時期によって、呉音読み、漢音読み、唐音読みがあるように、口語では呉の文法形式を もっていたのだろう。

他方、「怠り」が連用形なので、可不の修飾は「歟・そ」になり、「~ます」のような助動詞となる。これは韓国語と見なければならない。韓国語「カムニダ」 が目上の人に使い、「ヨ」「、「-요」」の語尾は目下、あるいは、同等の場合であり、日本語にすれば「~だ」で「~ます・です」よりくだけた表現である。 「-요」」の場合は前の動詞は連用形になる。天皇の勅語なので、目下に使っていることは疑いないから、「ヨ」に相当する。そこで、この末尾音を口語として みると「ヨ」は韓国語の訛であろうと解される。

「可不~歟」で構文とみるか分かれるところである。語尾の「歟」は、音読みでは「ヨ」、訓読みでは「か、や」である。これは、接尾語であるが、「~しろ」 という命令の終助詞だとみる。「雲なたなびき」のように、「な」単独で動詞の前につけて柔らかい禁止の意味を表すので、「な」が否定の修飾詞で、たなびきは連用止めになる。歟は文末助詞(柔らかい表現にしたり、依頼、軽い命令、念押しなど話し手の気持ちを表す)と解する。
 そこで、岩波文庫での表記に戻る。「なおこたりそ」って、古語ではあるが、もともと何語なんだろうか。「な」を否定詞として文頭にもってくる日本語なんて変なのだ。「だめ・怠り・よ」という語順は日本語らしくないのである。「怠り」は連用形であるが、ほんらい「怠るな」のように、「命令形+な」、または未然形「怠らないでね」とはなっていないのである。この場合、「怠り」は、体言として考えるべきである。「だめ・怠り・よ」・・・よは、依頼または命令の終助詞とみるのである。すると、それは南方孤立言語系の用法と同じである。そこで、こういうクレオール言語があったとすれば、天皇は今日で言えば、倭語の複雑な動詞変化に慣れていない「カタコトのへんな日本語」をお語りになっていたと言えるのである。
■莫(まな)の研究
 マナは外来語、貊族の言葉だろう。禁止を表す副詞。用例としては、日本書紀には随所にある。天武天皇4年「比弥沙理・梁を置くこと。また牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食らうこと。以外は禁の例に在らず。若し犯すことあらば罪せむ」とのたまふ。これは仏教の非殺生の戒である。漁師・猟師に罠をつくるな。庶民にも牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食ったら罰すというのである。古語辞典では莫・勿「まな」で、「~するな」「いけない」とある。「まな」と発音したことは間違いないのだろう。勿もまた、「まな」と発音たようだ。中国語で勿はでウーと発音され、意味は同じ禁止表現である。前述の、「な~そ」とは、「な」が共通する。ところが、原文では、文頭にきているので、いったい動詞の後ろで言ったのか前なのか訳者は実はわかってい。だから、「マナ、食、牛・馬・・・・」のように言ったかもわからないのである。韓国語では、行かないをアンカンダと言うがアンという否定の副詞が動詞の前にくる。~ではないは韓国語ではアニダであるが、口語では動詞の前に来る。中国語では「別・bie」の後に動詞がくる。タイ語はmai,ラオス語はbooであるように、この語は独立してして使用される。莫(まな)も、単独の副詞と見ていいだろう。孤立言語の文法で使われる、この語は庶民語からは浮いた口語で、定着しなかった外国語だ。
 

の禁止

○卑弥呼は神功皇后だったという日本書記の成立したころからある古い説

*このトピックスの文頭にあたって 天皇・皇后の称号は8世紀半ばまで存在しなかったので{}付き、または()付きにして、混乱しないように配慮した。
            
 ところで、邪馬壹国の女王卑弥呼がこの世を去ったのは西暦240年ないし248年の間(北史という史書)であるので、ちょうど百済第八代王古爾(こい)王が日本に「千日文」を送ったり、秦一族が来日したAD284頃より少し前で あった。卑弥呼は、その弥生時代風のイメージほどには古くなく、すでに*漢字は知られていた。それどころか、卑弥呼は*「墨子」をよく心得て、中国鬼道 (初期の道教)を実践していた。*鏡は道教のもっとも重要な魔除けであり、卑弥呼が鏡を欲しがったのは道教の祭政そのものに因っている。また、魏へ貢献し ていること、また援軍を要請したことなど、中国との深い関係を裏付けている。卑弥呼の神去りは240年以後だとすると、女王卑弥呼=(神功皇后)(気長足比売尊・おきながたらしひめのみこと)の可能性が非常に高い。神功皇后(気長足比売尊・おきながたらしひめのみこと)。卑弥呼(ビミファ)は中国でおくった名称。中国古音でビミファと発音されたいたらしい。日本でビミファと呼ばれていた可能性はぜんぜんない。臣や民が「ヒミコ」と呼んでいた 可能性も全くない。魏の長政がつけた宛字が、さまざまに音読される結果となっている。第2章でのべたように、卑弥呼とは弥という中國的な姓氏で妃をその夫の姓で表したものである。
卑弥呼の知る文字とは、亀甲文字から銅に刻む段階になった金文であろう。亀甲文字は殷で卜占の説明に使われた文字。周になって、金(銅)文があるが、いず れも漢字の元となる文字である。周の時代の文字は会意文字としてだいぶ整えられており、組み合わせはほぼ現代漢字に近くなっている。倭人伝のはじめに、 「今、使訳を通ずる所三十国」とあるが、魏の使者とは漢人であり、主に通商を兼ねた役人で通訳でもある。

 
亀甲文字(殷)
 
金文文字(周代)
 




出雲大社秘蔵(日本では神代文字として、古式神社などに残されている。出雲神社には出雲文字があるが、焚書を逃れた貴重な文献という認識に立つ必要があるだろう。


象形文字→金文文字→現代漢字への進捗


会意文字の成り立ち



*墨子(ぼくし) 前5世紀の思想家。善政道を説く。八巻明鬼の中で、為政者は鬼神の誅罰を畏れて行為を慎むべきであるとする。鬼神の存在と鬼神の誅罰を証し、鬼神・神霊を 祀ることが国家万民を治める聖王の勤めであると説く。墨子は儒家の虚礼と虚偽を剥ぎ、真に人民に利する実のある仁政を説いた。そのなかでもとくに厚葬久喪 は人民を貧しくするだけだとし為政者のおごりと虚栄を諌め、また攻伐は天下の害とし、天下を富ませ、人口を増やし、治安をもたらす道具として「天」の義法 を重視する。天思に順う義政と尊び、天意に叛くは力政であるとした。そのため、さまざまな祖先神や土着神を祀るおおもとの思想ともなっている。俗に「お天 道様に顔向けできない・・・」など言われていたが、それは墨子である。また、義は生に優るとし、武士道の根幹で、兵法の「一向二裏」も墨子から出ている。

*魔除けの神具とされたもの= 鏡・櫛(くし)・剣・桃の実・髪飾り・鈴・朱=丹粉など。(鈴などは現在のユダヤ教の魔除けとしても見いだせる。)このうち卑弥呼は鏡をとりわけ好んだ。

 このときの倭の女王は、近江出身の姫「息長帯比売=オキナガタラシヒメノミコト={神功皇后}(じんぐうこうごう)」。魏志の伝う邪馬壹国が狗奴国と和 することがなかったの一項は、古事記の{神功皇后}の熊襲の鎮征のことと一致する。こうして、オキナガタラシヒメが{神功皇后(じんぐうこうごう)}= (仲哀天皇の后)=卑弥呼(pieg-miə̌-hag ビミファ)の推理が成り立つ。{仲哀天皇}は長門の豊浦宮、筑紫の香椎(かしいの)宮にあって世を治めた。つまり、{仲哀天皇}は大和を離れて遠く、筑紫 に宮を置かれたので、{神功皇后}(卑弥呼)がもまた筑紫にいた。このことは魏志倭人伝と矛盾せず全く問題がない。
*近江町はかつて息長邑と呼ばれていた。出身は、古くはすべて母系で語られていた。



  さて、卑弥呼とぴったりと年代が一致する{仲哀天皇}と{応神天皇}の空白の35年間に着目してみよう。このとき{神功皇后}が事実上の倭王であった。日 本書紀は「魏志に伝く・・・」として、魏志という史書を意識している。中国に貢ぎをしている実年が中国の文献にあることを知っていたので、あえて巻第九に は「魏志に伝く・・・・」として、次のように紹介している。「東晋の武帝泰初二年(266年即位)に、倭の女王、通訳を同行させて貢献せしむ・・・と伝 う」と、神宮皇后記に補筆して中国の年号をあえて載せている。「魏志にもこうかいてありますよ」といっているのである。
そこで、このあたりだけはいったい何年の出来事なのか、後の世に照らし合わせることができる。そのことを日本書紀の編集者も十分知っていたのだろう。
そこで、この仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇あたりは、いつごろの出来事なのか、その年代はもっとも信頼性があることになる。言葉をかえればごまかしようがなかったので先手を打ったと思われる。

 こうしたことで、卑弥呼の時代がいわば”外圧”によって、かなり特定できることは、逆にこのあたりが歴史年代の基軸となりうると言える。これは、なんと 幸いであろうか。その日本書紀ではヒミコを神宮皇后として物語ったことは明らかである。あとは、書記がはたして卑弥呼の真実をどこまでを語っているかの問 題となる。かつてわたしは邪馬壹国論争等々で{神功皇后}になぞらえる主張は読んだことも聞いたこともないが・・・かつて本居宣長や新井白石がそう考えた という。あまりにもスタンダードな考えらしい。魏志倭人伝だけが史実としかみなさないとすれば、それは出発の定義のずれとしかいいようがない。そこで、日 本書紀がいわゆる”史書”としては”とんでも本”であるということを踏まえてみても、事実の片割れのようなものはあるだろう・・・という立場で論考できる と考えられる。源氏物語の蛍の巻では、光源氏は「日本紀などはただ片傍(かたそば)ぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」と言っている。紫式 部は、日本書紀を、極めてわずかな部分しか記していない、物語にこそ神代からの世の事を記していると言い捨てている。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は 実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本書紀には、もっともらしいことは一つもな いと言い放っている。さて、卑弥呼がこの世にあることの空白を埋める人物は神宮皇后であったが、・・・もっともらしいかどうか、浅学ながら一石を投じてみ よう。(c1998/04/04)



仲哀天皇}は「わたしはこれから*熊襲を撃とうと思う。オキナガタラシヒメよ。これから、わたしが琴を弾いて神を招きよせる。いまより神がかりして託宣せよ。」と述べられた。オキナガタラシヒメは神がかって、*住吉大社の三神が憑いて神の言葉を語りだす。このとき審神者(さにわ)として立ち会っていたのは*中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)。



 琴を弾いて神を降ろす「弾琴巫術」(だんきん-ふじゅつ)は、日本に始まったのではなく、古代中国から渡来した。この「神降ろしの巫術」は源流は紀元前 4000年のメソポタミアにすでにあった。卑弥呼は日女神といわれるシャーマンであった。降りる活霊は住吉の三柱の神と書かれる



○蛇と卑弥呼

 オキナガタラシヒメは神がかりして託宣をする巫女(みこ)でもあった。卑弥呼の卑を僭称とすれば、弥呼(みこ)は巫女(みこ)に等しい。(古事記)これは卑弥呼が霊媒力が強く、「鬼道につかえ、衆を惑わす」(魏志)に一致する。卑弥呼は{仲哀天皇の后}で九州筑紫にいたことはこうして古事記から裏付けられる。{仲哀天皇}が崩御されると、斎宮(いはいのみや)を造り、自ら神主(かんぬし)になった。(記紀)
卑弥呼が託宣を修する巫女であったことは、神宮皇后=オキナガタラシヒメに見事にオーバーラップしてくる。ところで、卑弥呼に憑いて、託宣した神とはいったいどんな神だったのだろうか?

○卑弥呼の意味は「蛇女神」だった!

インドには古代広汎な蛇神崇拝があった。その神名は「ナーガ」Nagaで、男性、「ナーギィ」は女性の蛇で、龍神と言われるが神体はコブラである。古代の 日本では、ナガ、ナギ・ナダ・ニギになまっている。オキナガタラシヒメノミコトの御名には、インドの神名「ナーガ」が含まれている。オキ・ナガ・タラシ。 異腹の兄弟の弟「忍熊皇子(おしくまのみこ)であるナガスネヒコは、ナガ・スネで、ともに、「ナガ」が組み込まれている。「ナーガ」とはインドの蛇神名で ある。蛇身人首の蛇女神は中国では女媧、古代エジプトではイシス神、古代メソポタミアではウヌグ.キ神、さらに、古代ミノアにも存在した。蛇を象徴する女 神は古代では普遍的に見られる。

*「へび」は、和製インド語。南インドでは、Pavu、Pabiと言う。パヴ、パビが、沖縄ではファミ・ファプになり、ハミ・ハプになった。与論島ではパ ブである。ハミは、毒蛇のこと。PがFに、さらに時代を追って、Hに変化する明瞭な例。縄文語には、インド語やラオ語と同じ語源である単語が多数あったの ではないだろうか。「カカ」、「ハハ」、「ヌカ」は日本古語、常陸風土記に登場する羽はヌカヒコ、夜ごと通って一子を儲けるが、小さなヘビである。奄美の 伝承にあるマッタプ(赤又蛇 )は、美男子に化けて人間の娘を孕ませる。このプはハプ(首里方言)のプである。

*大蛇は「羽羽」、奄美では水神(竜神)は「ミヌマ」

 大蛇「羽羽」は、日本古代では「ぱぱ」と発音されていた。中古代では「ふぁふぁ」に変化している。ところで、ニギ・ハヤヒには「ナーギィ」が変化した 「ニギ」が見える。「ニギ」はインドのナーギ(へび)の音からきている。日本の初期大和王朝は、完璧に「龍族」であった。古代日本は「龍崇拝国」で、これ は中国が「ロンの国」と言われるのと共通している。龍神は夏王朝のトーテムであり、蛇と同一である。夏王朝を開いたのは禹帝である。現在の河南省、洛陽一体に宮所があった。史記には「夏本紀」にあるが、BC2000年の頃と推定される。
卑弥呼がビミファと発音されたというのはNHKの歴史発見で放送されたという。「ビミ」「ベミ」とは古代朝鮮語で、「日」、「光」、そして、「蛇」の意味 があるという。「ミファ」は神という意味。すると、卑弥呼は、「日神」または「蛇神」という意味となるある。これは、朝鮮語と中国語のピジン語となる。こ の当時の異名同神を探ると、日本語、中国語、朝鮮語、女真語、インド語、インドネシア語、*マレー語などの複雑な組み合わせがあって、どうも日本語は大ア ジアピジン語の様相をもっている。邪馬壹国にすでに魏と深い関りをもっていたことは、すでに漢字を直接読めたか、そうとうな通訳がいたといえる。漢字を まったく知らずに鬼道をおこなえるわけがないからだ。

*マレー語
ヒミコの次に倭王にたったトヨも蛇姫の意味を持つ。
トヨの別名の神名、ウカノミタマはウカがマレー語の蛇の意味をもつウラであるという説(吉野裕子)がある。ウラがウカに転じているというのである。トヨも また巫女であり、神懸かりした。したがって、ヒミコと同じタイプの蛇女神であるこ可能性が高い。ウカノミタマは倉稲魂と書き、稲荷神社の祭神である。ま た、伊勢の皇大神社の豊受大神に比定される。

*住 吉大社の三神  福岡県博多区住吉 延喜式神名帳にある古社。祭神は底筒男神・中筒男神・表筒男神の三海蛇神。「ツツ」は雷神=水蛇の古音。神宮皇后の韓派兵のときに出現したとある神。表筒 男(うわつつのお)・中筒男(なかつつお)・底筒男(そこつつお)は、海蛇神である。

* この三神は、はじめ安曇族によって奉斎されていた。筒男(つつのお)は阿曇族が祭祀していたときの初期の名で、綿津見は天尊属が海上安全の守護神とし て奉斎してから後に付けられた神名。(表筒男・中筒男・底筒男)は、(上津綿津・・中津綿津見・底津綿津見)と、全く同一神格である。目の縁に入墨をして いたのが阿曇目(あずみめ)と呼ばれていた。出雲の佐田神社(さだじんじゃ)でいつき奉龍陀はセグロウウミヘビ。出雲の古社、杵築神社(さつき)、日御碕 神社、美保神社など、すべて海蛇を神とし、「竜蛇さま」と呼んでいる。
 「うわつつのお」は、「うわ・つつ・のお」が正しい音節で、「のお」は、之男(のお)に等しい。つまり、須佐之男(すさ・のお)(のお)が、それにあた る。さて、本居宣長は、建御雷之男(たてみか・づちのお)の「づち」は、「つつ」と同義であるとする。「つつのお」は、「都知(つち)」に等しく、意味は 「都」は「の」と同じで、「知」は男の尊称であるとする。

 さて、金星を「ゆうづつ」と言っていた。そこで、「つつ」が星の意であることから、住吉大社の三神はオリオン星座の三つ星のことだと、現在では流布されている。しかし、「海運を守る住吉の三神は天空に輝くオリオンの三つ星」とは捏造である。


*神奈備 (かんなび) 「かん」は神、「なび」はインドのナーギ(へび)の音からきている。かんなびの意味は神蛇となる。蒲焼きのうなぎの古語はむなぎ、「なぎ」はインドのナー ギ(蛇の語彙)の音がぴったり。うなぎの祖語はインド古代語。あなごの「なご」も海蛇を意味している。出雲で信仰の対象になった特別の山を神奈備山(かん なび)といったが、出雲風土記には「茶臼山」「朝日山」「大船山」「仏経山」の四つの山の名前が記されている。

*中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)。近江の比売オキナガタラシヒメ(卑弥呼)に仕える隼人の久米部の軍事的首長であった。新羅征討に従軍し、大功 あって後に*雷命(いかつちのみこと)として祀られたと言われる。(雷命神社・対馬下県巌原阿連)中臣の文字があるので、藤原の祖であるとも言われる。対 馬・壱岐の卜部が藤原鎌足の出自だという。

*雷神(いかづち)は水神系の蛇神(龍神・雷神)である。ミホトを焼いてカグツチ産んだあと神去り、イサナミが黄泉で八の雷神(やくさのいかづち)におお われている醜い姿をイザナギが見てしまった。ミホトを焼いて産んだカグツチの首を斬ったとき飛び散った血から生まれた八柱の神々もそれら蛇神である。カグ ツチ・イカツチ・雷神も蛇神であることはいうまでもない。「八龍大明神。神躰無之。榧(かや)の木を祭来る也」対馬神社史。鹿島神宮、春日大社のタケミカ ヅチノミコトとは雷神であった。

○もう一人の主役、事代主命

 仲哀天皇の死後は、武内宿禰(たけうちすくね)が琴を弾き、中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者(ト部(うらべ))となる。この弾琴巫術のトリオは、みな蛇の刻印を見て取れる。
 かつ出雲の主流・武内宿禰が蛇とどう結び付くのだろうか。石上神宮の大本の神は、武内宿禰(猿田彦=天狗)ということになっている。「猿田彦」は容貌魁 偉で「鼻長七咫(ななあた)、身長七尺(ななさか)余り。当(まさ)に七尋(ななひろ)といふべし。・・」とされる天狗である。そして、「口尻(くちわ き)明(あか)り耀(かがやけ)れり。目は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、絶然(てりかがやくこと)赤酸醤(アカカガチ)に似たり」(紀)カガチと は、恐ろしい赤い蛇のこと。アカカガチは「ほおずき」の意味。大蛇の目を連想させる。また、猿田彦は「アメノヤチマタ」に居たと書紀は書く。アメ ノ・・・・どうやら天狗=武内宿禰もヤチマタと呼ばれていた外国からやってきた。武内宿祢=猿田彦であることから、龍神・雷神であり、猿とは全く関係がな い。また、琉球語のサダル=案内するから来たという説があるが、ニニギを先導したという記紀のこの行(くだり)は事実ではないので、この説は空説である。

 春日大社の第一殿、武甕槌命(タケミカヅチノカミ)鹿島神宮から招き寄せられた。第二殿は、経津主神(フツヌシノカミ)は霊剣の神格であり香取神宮と共 通する。この神は物部氏(もののべうじ)の奉じた神宝剣である。第三殿の牧岡神、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)はタケミカヅチノカミの神話上で比定 される神格である。

 武内宿禰は猿田彦に比定され、その妻は元祖踊り子、天宇受売命(アメノウズメノミコト)。第三殿、牧岡神は天児屋根命の妻、天美津玉照比売命(あまみつ たまてるひめのみこと)。それと同一神格が、やっぱり天宇受売命(アメノウズメノミコト)だ。やはり、タケミカヅチノカミ=武内宿禰であった。
カヅチが蛇ノ古語であったことを思い出してほしい。タケ・ミ・カヅチ、ここにもカズチ=蛇の古語が隠れている。

 そこで、藤原一族が支えた大本の神も武甕槌命(タケミカズチノミコト)であると言われる。中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)に比定される。武内宿 禰とともに雷神である。春日大社は中臣鎌足が殺した蘇我入鹿(いるか)の祟り(たたり)を鎮めるために創建したという説には信憑性がない。藤原の姓は天智 天皇に賜ったと伝われる。中臣も中臣連の官職名だが、祭儀を担う重鎮であり、藤原鎌足の祖はタケミカヅチであろうことは、疑う必要がなりだろう。

 春日大社の最後の第四殿の比売神(ヒメガミ)は、誰なのだろうか?
比売神(ヒメガミ)には、何々の比売という固有名がなく、平安初期の法制書、「延喜式」にも単に「比売神」と書かれた謎めいた神名である。平安後期から、 天照大神だという信仰が広まったと言われている。これを紐解くと、宇佐八幡神宮の第二殿の祭神「比売大神」である。当時、神といわれる巫女は、卑弥呼に独 占されるので、疑いなく卑弥呼のことだろう。藤原不比良の祖は、豊前国(大分県)神津郡中臣郷に本願地があったのではないかともされる。こちらは宗像三 神、おきつしまひめ、いちきしまひめ、たぎつひめの宗像が尊崇した朝鮮渡来の三美人神を指す。

○猿田彦命は天狗面

「猿田比古」は、天津神を先導した功労者とされるが、卑弥呼の弾琴巫術を助けていた、あの武内宿禰(たけうちすくね)だったことの意味は大きい。

 仲哀天皇が崩じた四ヶ月あと、中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者(さにわ)をし、武内宿禰(たけうちすくね)が琴を弾いた。卑弥呼は、仲 哀天皇を指導していた神は誰ぞと、七日七夜待ちつづけて答えを得る。名前がでたのは、伊勢の度会(わたらい)氏が祀る五十鈴宮の神、尾田の吾田節の淡郡 (あわじ)に居る神、そして厳事代主命(いつのことしろぬし)であった。(最後に住吉の三柱の神)。ところで、崇仁天皇から仲哀天皇までは、創作上の天皇 名であることはすでに第一章で紹介した。

 事代主(ことしろぬし)=ウマシマジは、素戔嗚の孫、猿田彦の子で由緒正しい後継者だったが、国譲りをあっさりと承諾した最後のオオミワ王朝の男王であ る。ニギハヤヒの子。では、この人物は蛭子。この神は西宮神社(にしのみや)で祀られる恵比寿様である。大漁満足・海上安全・商売繁昌の神「えべっさん」 として人気がある。全国に3500あるというえびす神社の「えびす宮総本社」として有名である。

西宮神社の御祭神:
第一殿 西宮大神(えびすさま)第二殿 天照大神 大国主大神
第三殿 須佐之男大神
 


 「大国主(ニギハヤヒ)が、いまは政治はすべて息子の事代主命にまかせている。わたしの一存では決めかねるので、事代主命に相談してみるがよい。」と 言ったので、タケミカヅチの交渉の矛先は事代主命に向った。美保の岬(島根県美保ケ崎の美保神社)で魚釣りをしていた事代主命は、「この国土は天津神の子 に奉げることにしよう。」と言って、さっさと引退して、その後は大好きな漁を楽しんで暮らした。事代主は、あの恵比須様となって古来漁師からあがめられて きた。釣竿を持ち鯛(たい)を抱えた七福神のえびす様は、福の神である。

 事代主神は先を見抜き、話の分かる神とされている。記紀では国譲りを容易にした功労者であった。邇芸速日命の子、宇摩志麻治命(うましまじ)、この宇摩 志麻治命が事代主命。いくつもの固有名が同一として連なったことになった。宇摩志麻治命が帰順したが、邇芸速日命が娶った姫の父、長脛彦は、天津神がふた つもあろうはずはない。あとから来た天津神はいんちきであろうと、天尊ニニギに最後まで抵抗した。


○邪馬壹国は邪馬壹国のこと。「ヤマト=倭」ではなかった。
 「やまと」は、3世紀には、「夜麻登」(古事記の雄略天皇の自作歌)となどとも表記されていた。四世紀には「山跡」と記されている。真がなのバリエー ションと捉えれば、「夜麻登」、「山跡」、「邪馬台」、「大和」はみな同じ音ということになる。(リンク:*神奈備へようこそ>邪馬壹国へようこそ
百済を「クダラ」と読むのは古代朝鮮語読みである。同様に、「や」は韓国語で”川”、「ま」は”山”、「と」は”場所”を意味し、驚くことに、邪馬台を慶尚道古方言で読むと、「やまと」となる。つまり、新羅方言では「やまたい」は「やまと」と読まれていた。
ヤマトの表記は「倭」「倭文」「大倭」「大和」「和」「和徳」「和戸」「大養徳」「家満登」「夜麻登」「屋麻戸」「山跡」「山人」「山入」「山和」「山 外」「山戸」「山登」「山砥」「山遠」「山都」「養徳」「山門」「矢的」「邪馬台」「東」「日本」など、27もある。さらに、「大弥麻登」は、大和神社に 見いだせる。随書では「邪靡堆」の字も見える。言えることは、さまざまな漢字を仮名と同じように使っていた。たくさんの文字があてられることは、漢字がま だ、日本語として未発達であったとも言える。
 ピジン語とは、複数の言語が交じりあっておのおのの元の言語と異なった特有の言語が形成されることを言うが、日本語はピジン語であることを誰も否定でき ないだろう。歴史と文化を考えるうえで、2000年前に、統一された言語があったわけがない。なぜなら、国家権力が中央集権化してはじめて標準語が制定さ れるのであって、その逆はありえない。
当時、日本国内でも通訳が必要だったほど、多数の言語があたりまえのこととして跋扈(ばっこ)していたと考えるべきであろう。方言とは、外国語のなまりであるというバイリンガル思考が学問として発達すべきだろうか。



○三角縁神獣鏡の真相

「(倭国の地勢は東高くして西下り、邪靡堆(やまと)に都す、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬壹の者な り」(『隋書』倭人伝)とあり、隋の頃には倭国を大和と同一と看做(みな)している。「やまと」とはもともと地名であって、大和=倭であった。魏志倭人伝 は魏の使者・長政の長期滞在をもとに書かれている。なかでも注目されるのが、卑弥呼が鏡を欲しがったという記述だ。そこで、奈良・黒塚古墳から33枚の三 角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の墳墓からの出土は極めて重い意味をもつ。三角縁神獣鏡は邪気を払うために、死者とともに埋葬された。鏡は、卑弥呼の蛇信仰にとって、蛇の目が 転じた照り輝く呪物(じゅぶつ)だった。卑弥呼の鏡は太陽ではなく、それは「蛇の目」の象徴だった! 三角縁神獣鏡の装飾では、龍の鱗形(うろこである三 角紋)が周囲に二重に施されている。これはヘビ神の「子宮」をデフォルメした特殊なデザインである。前方後円墳のバチ型は「子宮」である。死して母胎に帰 るという神仙思想から墳墓全体が子宮を模っている。

*三角縁神獣鏡は中國では発見されない文様であるが卑弥呼が自らデザインを注文したので、中國で特別に製造した個数限定の貴重品である。




写真提供「神奈備へようこそ」99/09/26
 
 右が北方で、埋葬者の頭は北に向いていた。この溝は前方後円墳の縦全長に対して、直角に掘られている。三角縁神獣鏡がほとんどを占める異例の古墳。卑弥 呼の墳墓と言われる箸墓とは眼と鼻の先と言っていいほど近い位置にある。卑弥呼が自分の命として崇めよと述べた三角縁神獣鏡がなんと33枚もあった。この 事実は黒塚古墳が卑弥呼の実際の墳墓であること物語っている。
ひとつ言えることは邪馬壹国畿内説が確定的になってきた。というより、九州説と大和説がどちらも成り立つことになった。
私見では、卑弥呼は大和から、九州筑紫に移動し、10数年後ふたたび大和に戻った。つまり、卑弥呼は九州にも大和にも存在した。そういうわけで、どちらの説も成立することになる。めでたし、めでたし。



箸墓(はしはか)
箸墓
中央のこんもりとした山がそれ。


 大和迹迹日百襲姫尊(やまとととひももそひめのみこと)の墳墓。久しく卑弥呼の前方後円墳と言われている。当時の王は墳墓の建設を生前から着手するもの だったが、卑弥呼は民の労役を嫌って自ら生前に墳墓を造らなかった。したがって、この墳墓は卑弥呼の死後に造営されたものである。

○前方後円墳の真相

 古墳は墳墓である。死生観と切り離すことはできない。前方前方後円の形は、実は女性の子宮を模したもので、母の胎内から生まれ、死ぬとまた帰ってゆく、という「母体回帰」の思想が元になっている。
人の一生の時宜を東西南北に四聖獣を配し、四季をを巡ったのち死ぬと再び子宮に戻るというものだ。
沖縄には、亀甲墓(かめこうばか)があるが、この古来からの墓の形は亀の甲羅に似ていることから名づけられたが、実は、子宮をかたどったものである。墓の中はあたかも胎蔵界なのだ。驚くことに、この形がちょうど前方後円墳にそっくりなのである。
そこで辿ってみると、この子宮をかたどった墳墓は、沖縄だけでなく、台湾香港中国本土では福建省など中国南 部に多くあり、なんと、そのルーツは倭人の渡来ルーツと同じなのである。応神陵、仁徳陵などがなぜ前方後円なのか、卑弥呼の祭祀であり、かつ、この新王朝 が渡来であり、出雲の「四隅突出型墳丘墓」とは一線を画すのは、大きな意味がある。「四隅突出型墳丘墓」は朝鮮由来であるのに対して、前方後円墳は中國に 源流がある。それも、中国南部だということになろう。埋葬習俗は民族の固有なものであり、とくに中国人は海外にでても祭事を変えようとはしない。
こういう部族的風習・伝説は、歴史をひもとく鍵となるのである。
屋根を覆う形は子宮なのだ。中は人が立って居られるぐらいの空間があるが、そこは子宮の中である。



 HOME-TOPへ