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第四章・・・徐福の子孫は数万家、日本に住み着いてから呉と交易していた


○秦始皇帝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像


 始皇帝は峰準(鼻が高く)、長目(切れ長の目)であった。彼は西域の首長で、漢民族ではなく、実利的で中国の礼節を尊ばなかった。かといって、遊牧民族でもない。法家(李斯)をとり、民には信賞必罰を根本にしながら、自らは神仙を信じ、六という数字にこだわった。長さは度で、一尺を23.1cm、六尺を一歩(1.31m・一歩が現代の二歩)とし、6尺を一間、60間を一丁、36丁を一里、としたのは全土統一のなった紀元前221年、始皇帝39歳の時(度量衡の統一)だった。また、公用文字を秦の文字に統一した。

戦国時代の馬の文字
* 春秋戦国時代・秦の恵文王(けいぶんおう)嬴駟(えいし)が、六国の馬の字がパピルスに書いて、文字を統一したいという願望を表す場面。(中国ドラマ「ミ・ユエ」のワンショット)
左から、秦魏趙韓齊楚。・・・楚の文字は絵文字のようで面白ですね。


 秦は礼儀をしらない。首功(戦でたくさん首をとる)で人を評価する野蛮な国だ。(史記)とし、中国人は秦をひどく嫌っていた。秦は敵を血まつりにする殲滅作戦だった。実際、秦では戦で首を取った功績で恩賞を与えた。これを「首功」といったが、血塗ぬることに恐れがない。これは後の日本の戦の特徴でもあった。長野市南部、千曲川と犀川(さいがわ)の合流点付近の地、川中島の戦いでは武田信玄と上杉謙信が1553年から、計五回戦った所。ほとんどが睨みあったままであったが、この四回目の川中島の戦いでは不幸なことに濃霧に包まれて、敵味方入り乱れ、なんと2000もの首が落とされた。これが日本の戦(いくさ)で過去最大の死者をだした悲劇的合戦であった。秦の戦は、日本の戦とと非常に似ていたのである。日本の戦も首を切り取って持ち帰る。城内の井戸で女婢が忙しく首を洗う。こうして首を献上して、報奨を受け取るということでは、日本の戦国時代も首狩り合戦であった。
 ところが、古代の漢人は首を斬られることだけは、最も恐れていたのである。首と身体が別々に葬られることは、二度と生き返ることができない。すると、地上をさまよう幽霊になる。幽霊になると、腹がすいても食べることができない。人間に物乞いしても、人間は自分たちの姿が見えない。だから、寺に行って、供え物を食べることになる。そう漢人は信じていたので、これ以上ないというほど首功に恐怖感をもっていた。秦の民は、漢人のように、「首領(首)を保つ」という感性をまったく持っていなかった。征服された六国の民は奴隷というより奴隷以下にされてしまった。秦では労役を課した農民でさえ処刑に猶予はなかった。
戦後、中国人が日本人を警戒して、いまでも信用しないのは、日本刀での「首切り」という秦の再来ともいえる恐怖感を与えたことも一因であろう。とにかく、秦の軍は民も生き埋めにしてしまうほど敵に容赦がなかった。

 秦はもともと中原にいた民族ではなく、遊牧の首長を中心に勃興した。のちに現れるチンギスハンや、ティムールの首長もそうであったように、命令に絶対背いてはならないという鉄の掟があり、強力な独裁権力をもつ。一方、漢民族はほとんど農耕民族であり、議論することに重きをおいて、主従の関係で、なにがなんでも服従するという意識は希薄だった。組織への忠誠心はさらさらないので、自己都合で裏切ったり、主人を変えることに憎悪感はない。その点では、遊牧民よりずっと温厚だった。
 秦は法家の厳罰主義を取り、秦が帝国となってからの刑罰は「五刑」と言われ、鯨(いれずみ)、ぎ(はなきり)、ひ(脚きり)、宮(きょせい)、死であった。そのほか、罪に対して語るにも無惨な刑罰はたくさんあり、漢人を畏怖せしめるには十分すぎるほどである。隋・唐・清にしろ、非漢人の王朝は、いずれも劣らぬ残虐刑を行っていた。ある民族を征服した別民族が最も容易に服従せしめる方法である。ところが、日本も刑罰史をひもとけば、宮を除いて、ありとあらゆる残酷刑をもっていることを知らなくてはならない。日本も農耕民族のうえに、外来の部族が支配していた可能性は十分ありうる。

○秦の盛衰

始皇帝(Shǐ Huángdì)
小篆体で書かれた「始皇帝」

秦は実利主義で有能ならば、六国を始めとして外国人もどんどん重用した。実際、財務関係はペルシャ人が多かった。とくに、職人を非常に大切にし、多くの人材が咸陽(かんよう)に集まった。秦の政治を整えた法家の商鞅(しょうおう)や李斯(りし)も客人であった。しかし、猜疑心が異常に強く、意のままに仕えないときは捕らえたり、処刑した。
秦の軍勢は統率がよくとれ、指揮官の命令に絶対服従で、前進は太鼓を叩き、後退は鐘であった。このような歩兵戦法は中原の国にはなかった。鉄器による兵器で武装は格段の差があったようである。中原の諸国は馬に頼るところが多く、歩兵の戦は得意ではなかった。六国を統一すると、郡県制を敷いてすべて権力を咸陽に集中させた。西安に阿房宮の建設を着手、自身の墓を長安の東郊外に造営を始める。兵馬俑には秦兵を擬装した埴輪を大量に作らせた。天下太平となったとき、武人としての始皇帝は役割を無くしたのである。始皇帝は太子を立てない(後継者の宣言)まま50歳で亡くなった。宦官・趙高は、始皇の遺詔を改竄、胡亥(こがい)を皇位につけた。 二世皇帝は胡亥(こがい)、末子でもっとも無能だったとされる。宦官・趙高(ちょうこう)は、賢者だった長氏・扶蘇(ふそ)および将軍蒙恬(もうてん)は偽の勅書で死罪にすると、趙高は李斯をも処刑にしてしまう。こうして、趙高はすべての実権を握った。趙高は始皇帝の命で胡亥の教育をしていたから、胡亥は自分の意のままにできたのである。故意に鹿を馬であると胡亥に言って献上したことから、いわゆる「馬鹿」の故事が生れた。どんな教育をしていたのか、知れたものである。趙高は一族を率いてクーデターを起こし、その結果、胡亥ですら捕らえられ24歳で自殺させられた。趙高は公子嬰を三世皇帝とするもB.C.207年8月、劉邦との陰謀が発覚し、公子嬰に殺される。9月には項羽の軍に秦の降兵20万人が穴埋めにされるなど、咸陽の落城は目前だった。咸陽ははじめ劉邦が一足早く陥落させたが、12月に項羽によって三世皇帝・子嬰は殺され、秦王朝は幕を閉じる。趙高40年辛抱して嬴政に使えた宦官が「朕が法である」という始皇帝を知り尽くし、ついに野望を剥き出しにしたため、秦は腐敗し、項羽と劉邦の反乱で、あっけなく滅びてしまう。しかし、秦が滅びた原因は、万里の長城の建造のためにあまりにも農民の犠牲を強いたことだった。万里の長城の壁のなかに奴隷を人柱(ひとばしら)として埋めたというのはうわさではない。周辺の墓穴からは人骨が夥しく発見される。奴隷は額に焼鏝(やきごて)で入墨を入れ、逃亡は至難だった。奴隷が、楽になるためには死ぬしかなかった。苦役を逃れ逃亡する民も少なからず、後の慶州南道に定住した民は秦の流人だった。建設中に死亡した人数は60万人とも言われる。奴隷ばかりでは足らず、農民にも労働が課せられた。男手を奪われ田畑は荒れ果てたたうえ、女ばかりのうえに重い税を課せられ、人民は疲弊しきっていた。食料は平原から集めて運搬したので、華中のほとんどの人間が飢餓に直面した。そして、とうとう反乱が起きた。陳勝・呉広の乱である。前209年、陳勝(河南陽城の人)は呉広(河南陽夏の人)と共に秦に叛した。この乱は秦将章邯の軍に破られ失敗したが、これが秦滅亡のきっかけだった。匈奴という外敵ではなく、統一後の人民の離反が秦を滅亡に追いやったのである。


○始皇帝と「焚書坑儒」

始皇帝は儒教と市井の書物を焼き捨て、咸陽に集まっていた儒学者を抗埋めにしたのである。郡県制に対峙して封建制を説いたために、始皇の怒りにふれたのである。それで、一時的に儒学は崩壊したかにみえた。だが、その瞬間に、人々は、(李斯の法吏)権力にからめられたのである。なんであれ、人々は韓非子の権力の洗礼から逃れられない。
「明君の国には、竹簡にしるした書物はない。法律が教えである。先王の言葉はない。官吏が教師である。私闘の猛者はいない。敵の首を斬ることが勇者である。かくて国中の民は、談論する者は必ず法にのっとり、行動するものは功績を基準とし、勇気を示すものは戦闘で力を尽くす。ゆえに平時には国が富み、戦時となられば兵が強い。これを王資という」。韓非の「五蠹」(ごと)である。5種類のキクイムシのことで、「学者、弁舌家、侠人、側近、商工」の民が排撃されている。秩序は時世を知らぬ学問によってはもたらされない。儒者は時世を知らず、全く政治の何たるか、その「いろは」も知らない。学問は世を惑わし、学者は社会の害虫だ、とその弾効は容赦なく烈しいものだった。モラルに制約される政治家は失格である。暴力と恐怖こそが正義であり、秩序ある服従をもたらす。」
そこで、韓非はまず、「虚飾を説く学者や、つまらない政治家・重臣を消し去らなければならない」、と考えた。古典や歴史を学んで、政治に口出しする青臭い書生を馬鹿にしていたのだ。実は、始皇帝は、この韓非の「孤憤」「五蠹」(ごとつ・五つのキクイムシ)を耽読していた。韓非に会えることなら、「死んでも悔いることはない」とまで心酔していたのである。史上、最初に全国を中央集権的な帝国に統一した秦の始皇帝が敢行した「焚書坑儒」は、この教えを淵源とする。ところで、韓非は、韓の使節として秦に赴き、始皇と三日三晩語り明かした。「故国に帰らず、ずっと秦に留まって、教えを乞いたい」と、始皇は、ひざまずいて韓非の両手を握りしめた。いまや故国を飲み込もうとする敵の王が、これほどまでに自分の書を読んでいたとは・・・韓非は感激して許諾した。始め始皇に「韓非子」の写本を薦め、類いまれな奇才と褒めたたえたのは秦の丞相(じょうしょう)李斯であった。李斯(りし)は、韓非とともに荀子(じゅんし)の門下生だった。しかし、現実に韓非が現われ、秦に仕えるとなると、丞相の地位も奪われかねない。恐れた李斯は、手のひらをかえ すように、始皇に、韓非を抹殺するよう説いた。始皇帝は屈した。李斯は韓非を牢に入れ、さらに赦免を恐れて、決められた処刑の日の前に毒殺してしまった。韓非を疑ったことを悔いた始皇帝は赦免した。が、すでに韓非が死んだ後だった。疑わしい臣下を見分け、警戒することを説いた「説疑篇」が、当の自分に向けられるとは。皮肉なことに、「矛盾」という言葉は、韓非の造語であった。(前233年)

しかし、すべて、この世の中で人工的につくられたものは、それ自体の中に亀裂や盲点を含まないものはない。それは制度であれ、城郭であれ、法律であれ、すべて同じことだ。始皇帝のゆるぎない支配と法家の制度が中国にすみずみまで及んだとき、始皇帝にとって「韓非子」は逆転の思想に転じてしまった。強者に敵対する弱者は、相手のルールに従う必要はない。卑怯だの、不埒だの、非合法などとい批判も、つまりは、権力者が弱者にかける呪文にすぎない。なればこそ、皇帝を殺すことも、革命を起こすことも、歴史的に容認される。「不随適然之善、而行必然之道」と、韓非がいうとき、毛沢東の「造反有意」と、実はどこも違っていない。中国史上、真に革命を成し遂げたのは秦の始皇帝と、毛沢東の二人であった。そして、この二人の革命家が、ともに、韓非の真の弟子といわれるのは、韓非が「権力」というものをことごとく教えてしまったことによる。
老子曰、「・・・・権勢を絶ち、知謀を捨てれば、人民は安楽になる。
仁義を強制しなければ、人は本然の情愛に戻るだろう。術策や利害を超越すれば盗賊はなくなる。権謀、仁義、術利の三者は、虚飾だ。おのおのが社会構造における、自分の位置と役割を得て本来の姿に戻れば、自己顕示や私利私欲は、はびこらなくなるだろう・・・・。」
老子の説く、本来の姿(常、初)に戻るとは、原点に帰る(見素抱撲)つまり、造機にあわせ、玄気に乗ることを指す。老子の「無為」「無思」にして、やたらに動かさずして、しかも成し遂げざるものはなし・・・と言った根源である。「陰陽不測之謂神」と易経の繋辞伝はいう。造機の根源たる神とは陰と陽の計り知れざる働きだというのである。権力も過大に使えば、亀裂や矛盾も大きくなる。器と時宜に適わない、またはそれらを越えた行いを「無理」という。



 秦の戦法は兵馬俑坑(へいばようこう)のようすから最近分かってきた。したがって、白兵戦では非常に強かった。また、命令に従わなかった者は厳しく処罰された。また、敵兵の殲滅にも容赦なく、捕らえては首を落とし、のこらず生き埋めにした。
一方、窮地に陥って後がなくなると、殉死する。殉死も、捕らえられて残酷な殺され方をするより、ずっと楽だったからに違いない。

3Dプリンターで作ったようなリアリティがある。

 ところで、日本には鉄のつくりかたは、たたいて鍛える鍛鉄法であり、これは西の方で起きた製鉄技術であった。中国の他の国では鋳型でつくる鋳鉄法であった。鉄は溶解するのに1525度の高温を必要とするが、褐鉄鉱(赤土)から、わずか800度ぐらいで可鍛鉄を得ることができる。はじめは粗悪な還元鉄であるが、これを何度も火に入れ、叩いたり打ったりして鍛造する。これにたいして精練製鉄はタタラとよばれるふいごを持った高温精練法で砂鉄を原料に使用した。日本にのこる西域の技術、風習はこればかりではない。日本には秦の末裔でなければありえない特徴が多く、それらはバビロニアやフェニキアなど優れた地域の技術が移転したのだろう。ユーラシアメタルロードといわれるトルコからモンゴルにわたりセム族の製鉄炉遺跡からは、鉄の炭窯が西アジアから東遷していることが明らかになっている。慶州王陵(新羅)では西域のローマグラスやケルト文化固有のトルクが由来の十二支像が発見されているが、唐からの移転かどうかは不明である。


秦が強勢だったのは兵器が優れていた。兵馬俑からでた秦の刀剣や武器は平均10~13ミクロンのクロームの層があり、未だに刃には輝きがあり、2000年たった今日でも物を切ることができる。後の漢代に作られた剣は、どんなに保存状態が良くてもぼろぼろに腐食している。秦の時代だけにクロームメッキが施されていたのだろうか。水銀アマルガム法で兵器までもメッキを施したとすると、大量の水銀生成技術があったのだろう。始皇帝陵の周囲の溝には水銀が流されていたとの話は真実味を帯びてくる。

いまだに色艶のよい秦の刀剣

ぼろぼろになる漢代の剣



○徐福(じょふく)伝説

 驚くべきことに、秦始皇帝は金丹(不死の仙薬)をもとめて日本に徐福(じょふく)という人物を派遣した。金丹の「丹」は朱(赤い)の意味のほか、質の高い、ほんものの、汚れを浄めるなど・・・の意味において、魔除けに使われた。また、丹という文字の形は、神社の鳥居にそっくりである。赤鳥居は丹、神仙思想の魔除けそのもの?・・・どうしてすぐに気付かなかったのだろうか?(^^ゞ。丹心は「きよきこころ」、一方、黒心「きたなきこころ」はその反対。また、青にもきよい意味がある。青山とはきよい山となる。


「秦始皇、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて敢えて還らず。遂にこの洲に止まる。」「後漢書」倭伝


さて、徐福らは始皇帝に仙人になる不老長寿の薬を持ってくるように命じられた。仙薬は水銀がもととなる。このため、辰砂(水銀と硫黄の化合物・深紅色をしていた)を探しに来たといえる。辰砂(しんしゃ)は仙薬の主成分であり、丹薬に欠かせない。徐福は斉の沿岸で盛んになった神仙術の求道士のなかでも、医・薬・化学に通じた最高の方士だった。中国では錬金煉丹術は、化学の基礎でもあり、後に医療、漢方医学・気功・鍼灸などとして発展した。そうした流れのなかで、あの火薬も発見されたのである。ヨーロッパでは、錬金術は蒸留や昇華や熱処理などを通じて基礎的科学の発展を支えた。今日では、水銀は少量であれば強壮効果があるが、多量になると毒物にになる。薬は毒の副作用で効果を得るということでは、今も昔も「毒にも薬にもなる」とは、何でも度が過ぎるといけないという意味なのだろう。 人間の生命は、「気」に由来するのだから、もし「造化の気」(自然にみなぎる力)に集中し、「宇宙の気」のカラクリを応用すれば、やがて「仙道」にいたれるだろう。高祖の孫にあたる准南王の劉安は、とくに際立った存在であった。幾人かの先輩仙人から、仙術の虎の巻「玉丹経」三十巻を授けられ、ついに奥義を極めたという。
ところで、仙人と神とどっちが偉いのだろうか。中国では、なぜか仙人は神よりも尊ばれていたらしい。「真人」(しんじん)とは、「高きに登るも慄れず、水に入っても濡れず、火に入っても熱からず、雲気をしのいで永久に生きるもの」(荘子・大宗師篇)とされ、始皇帝になってから、陛下と呼ばせ、はみずからを「余」から「朕」と名のった。さらに、方士に耽溺していらい、「真人」と称し、「朕」(ちん)とは言わないことにした。
* 天下太平を成し遂げたとき、自称を「余」から「朕」。命令を「制」から「詔」に、呼称を「王」から「陛下」にした
原初において神とは、陰陽の元をさして言った。それは人格を持たなかった。しかしやがて、日月星辰や丘陵墳衍などの自然が元を具現した「群神」となった。さらには、歴史上の偉人傑物や、人それぞれの祖先の霊が、「人格神」として加わった。そして、これらが「神」だった。こうした「神たち」は人間の仲間だった。そこで、「神さまっ」と親しく呼び掛けることができた。すべての「もの」の生成消滅も、人間の生死も、実は陰陽二気(つまり玄気)の結集したもの・・・という意味にで仲間だったからだ。・・・中には間抜けな神様や、お酒好きの神様もいるといった調子で、さらに、小説や民間伝説によって、ますます「神」の地位はさらに、さらに低下する。例えば、太公望が「打神鞭」という鞭をもって神を叩いて叱り付けていたという逸話がある。「神」という文字は”ゴッド”の意味とはおそろしく様相が違うのである。
ところで、煉金煉丹術では、人間は玄気を集中し丹薬を飲むことによって、仙人になれると考えられた。しかも、「仙」は「神」よりも、道教では上位に位していたのである。不滅の人間とは、つまり仙人(真人)である。仙人はいわゆる人間ではないのである。

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐一の船の画。

 仙丹は、その後の皇帝にも愛用されたが、その結果は惨澹たるものであったらしい。唐の王朝は、二十二名の皇帝をもったが、その中の六人は丹薬で中毒死したという。
あの則天武后も懸命に丹薬を服用したが、彼女だけはしぶとく長生きした。               
こうした仙人になりたいという宮廷貴人はのちの日本にもたくさん居られたらしいのである。吉野は丹砂(朱色が特徴)の産地でもあり、神仙境であった。さらに、宮廷、貴族と密接な土地だった。吉野には、丹生川という川がある。いわゆる、天皇の行幸はおびただしい数に上り、なぜかくも歴代の天皇が吉野に惹かれたのかは、神仙思想が濃厚にあって、どうも仙薬を求めてのことらしいのである。不思議なことに、持統天皇は31回も行幸している。丹水は禊(みそぎ)に用いた。水銀粒(ミズガネ)で浄化した聖水を丹水と言ったのだろう。女帝は沐浴に丹水を用い、体の邪気を追い払ったのであろう。飲むだけではなかったのである。

 どうしたことか丹は意外な場所に使われている。それは、貴人の埋葬に使われているのである。古墳の石室の下には朱色になっている場合が多いので、見た事がある人も多いことだろう。死者に辰砂またはベンガラを施す。これを「施朱の風習」という。身分が王であれば、辰砂が厚く大量となり、刀剣、銅鏡も一緒になる場合が多い。辰砂は顔料としては非常に量が少なく、高価であったので一部の貴人にしか施されなかった。これは、神仙思想の「除魔」および、「きよめ」だった。黒塚古墳ではこの施朱もみられたが、奈良・黒塚古墳から34枚の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土。実は鏡も刀剣も神仙では重要な魔除けの品物だった。「施朱」は迷信的であるようだが、水銀化合物はたしかに強力な防腐効果をもっている。腐敗防止の埋葬技術であったのだろう。とくにミイラには多量に用いられた。
ところで、埋葬の民族的特徴はそうころころと変わるものではない。

石室底部
黒塚古墳の施朱の跡

○朱の入墨

また、紀元頃は男子は丹(赤土)を用いて顔に赤い刺青(いれずみ)をしており、刺青の位置や形で住んでいる所や地位と身分をしめしていた。(異處以朱丹塗其身體如中國用粉也〉魏志倭人伝はこれらの人々を倭人と云っているのだ。会稽の周辺には楚に滅ぼされた越人が黥面文身していたがたいがい黒い入れ墨だ。朱丹は当時、格別の超高級品で、今日のダイヤモンドにも劣らない貴重品だった。わたしは入墨は、身分の高い人は黒でなく、絶対に赤であったと信じている。丹砂は、太陽から生じた気の凝縮したもので、朱は火であり血であるとも信じられていた。神仙に依れば、最上が丹として服用したのは太陽の精と見ていたからだ。倭人の語源は、顔の入れ墨であった。一方、秦の民は入れ墨を決してしなかった。そこで、倭人の民族に少なくても2層の渡来民族がおり、さらに縄文時代の種族との混血した特異な民族であると言えよう。

○ミズカネ

 のちに、仏像の金泊には水銀を必要とした。金をコガネ、銀をシロガネ、銅をアカガネ、水銀をミズカネと呼んでいた。水銀(みずがね)のつくりかたはだいたい次のようだったと言われる。辰砂(硫化水銀)を採集して、土器の中で熱する。すると水銀が気化する。このガスを竹筒に通して水中で急冷すると、コロコロとした水銀の小球が生じる。こうして水銀を得ていた。次に金鉱石(砂金)を粉末にして水銀に混ぜてから加熱する。水銀はなぜか金のみと化合し、不純物とは決して合金しない。そして、乳白色をしたアマルガムとなる。これを仏像などに塗り、350度に熱すると水銀は蒸発して、あとに純金の被膜が残される。こうして絢爛たる金装飾がなされていたのである。*中国の史書の梁書では、「その王(文身国)の居るところは飾るに金銀、珍麗を以ってす。屋を繞(めぐ)りて、塹(ざん)をつくり、広さ一丈、水銀を以ってし、雨は則ち水銀の上に流れる。」と書き記している。なんと屋敷に3メートルの堀をめぐらし、そこに水銀を溜めているというのである。なんのためか、さっぱり分からないが、羨むほどの贅沢ぶり。どうも邪気払い、魔除けのためらしい。始皇帝の陵墓、驪山(りざん)の陵の方形周囲も3メートルの溝に水銀を流していたという。とにもかくも、日本は水銀の大産地でたくさんの鉱山技術者がいたことは確かなことだろう。
さて、辰砂(しんしゃ)と呼ばれたのは次のような理由があった。中国の湖南の辰州で、最上の丹が採れたところから辰砂と呼ばれるようになったのである。

*梁書 南朝の梁の4代の事跡をしるした史書で、636年成立。唐の姚思廉・魏徴が奉勅撰。

○鉱山技術師の集団
 
 なにしろ、中国では皇帝が仙人になろうとして、不老長寿の秘薬を得ようとしていた。つまり、値段が付けられないほどの貴重品だった。ところが、日本は一大水銀産地だった。水銀は、素早く大金を得ることのできる事業だった。そして、徐福以来、水銀を生成する技術をもっていた渡来人の子孫たちは、丹生都比売を祭神としていた。この女神は、豊受大神宮として伊勢神宮の外苑に招致された。豊の文字があるのは、辰国大王、別称、胸形大神の娘だったからだ。天照とは嫁と姑の関係である。物語では豊玉姫として伝承されている。龍蛇をトーテムとした一族だったと思われる。丹生神社のあるとところは、辰砂が採掘された地域と当然一致する確率が高い。朱丹の取引きで繁栄した土地に鎮座すると考えられるからである。もちろん例外もあるが・・・。一説によると、高野山も水銀の産出地であったとの説がある。


徐福は日本の最初の王だった!?

 始皇帝はたいへん神仙にこっていた人で、方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは(BC219)で、失敗している。「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」、徐福はそう奏上した。さて、二回目の奏上では、大船40艘、良家のけがれのない少年・少女3000人を所望し、船工・百工・方士、金銀珠玉、五穀と機材を積んで神仙の山、蓬莱山(ほうらいさん)、方丈山(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)山の三神山をにむけ、およそ100艘の大船団を出発させた。(紀元前210年)いき一郎氏は良家の子女には、付き人を想定すると1万人規模になろうと計算する。始皇帝は滄海郡(旧斉国)に命じて船を建造し、河北と山東省の省境に千童城・丱兮城(かんけい)を築いて、これら技術者や童子を集めて渡海訓練をしている。この大プロジェクトに、始皇、巨大な費用を惜しみなく出した。始皇は徐福に八洞神仙に到達したら爵位を与え、水夫の税を免除する報償を約束した。
まず、琅邪(ろうや・山東省東南部)を出発したが、始皇帝は自ら強い弓をもって乗船して、鯨が邪魔をしたら自ら射撃しようと成山まで同行したが、鯨には遭遇しなかった。成山頭で下船して徐福らを見送ったが、始皇、なんという入れこみようだろうか。「煙台」(イェンタイ)に至り、大魚に出くわし、これを射殺したという。(史記・秦始皇本紀三七年)

 始皇帝は、東の聖地、山東半島の*「煙台」を、五回の巡行のいうち三度も訪れている。始皇帝は大まじめに、蓬莱山はここにあると信じて訪れたのだろう。
それにちなむのだろう、岬の先に「蓬莱閣」という名刹がある。ここから、「八福神」が日本に海を歩って渡ったという伝承がある。八福神がなにゆえに日本に渡ってから、七福神になったかは、さっぱり分からない。なんでも、一人は溺れて亡くなってしまったのだという。単純な答えだが、それ以上のことは古老にも分からない。ともかく、この渤海湾の伝説の港町「煙台」から徐福一行は中国本土を離れた。

煙台

*大船団 当時の大型の外海に出る最大船は90人ほど、積載する荷物を加えると3000人の航海には、どう見積もってもで50隻以上が必要だ。漢の武帝(前2世紀)が朝鮮の楽浪郡を攻めたときに、水陸両面から攻めた。海軍は江南から7000人、渤海湾を直進して半島に上陸している。当時の軍船は「楼船」という大帆船だった。その大艦隊の司令官を「楼船将軍」と言っていた。呉越の時代から水軍は江南が強かったことは三国時代の「赤壁の戦」でも伺われる。


○徐福は日本の最初の王だったのか!  徐福ら、たどりついたところは三重県とも佐賀県吉野ヶ里の近辺ともともいわれている。また和歌山県熊野にも徐福が着いたという伝説が残っているが、伝説のあるところがたくさんあって定かではない。始皇帝は一日千秋の思いで帰りをまったが、徐福らは帰ってこなかった。
 秦の法では、「二つの方術を兼ねおさめることができず、術をおこなっても効き目がなければ、その場で死刑」といった調子であった。なにしろ、不老不死の薬などあろうはずもない。徐福一団は、永住するに耐える準備をことごとく備えて、はじめから返ってくるつもりがなかったのだろう。元斉人である徐福には、秦は「虎狼の国」で、始皇帝は「天性剛情」、「暴虐」、「死刑をもって威勢を示した」など、悪評が耳に入っていたに違いない。始皇帝の誅をおそれて、徐福ばかりか盧生まで逃亡した。それに、怒った始皇帝が、抱えたいた諸生(儒生)を糾問して、460人も穴埋めにしてしまったのが「坑儒」の真相であるらしい。なんでも始皇帝は立腹してしまうと、周囲にいたものを見境なく処刑してしまう。これでは害がいつ自分の身に及ぶかわからない。そこで皇帝の周囲は甘言者 ばかりとなった。それを見かねた長子・扶蘇は「方士の背信で、儒学を奉ずる諸生まで罰するようでは天下が案じられる・・・・」と、進言したが始皇帝は耳をかさないばかりか、かえって怒り、この長子を遠く上郡(匈奴の北伐)へ追放してしまう。賢い扶蘇を追いやり、結果として、愚かな末子、胡亥が世を継いだため秦はあっけなく滅びてしまう。その遠い原因は、どうやら徐福への怒りと大の儒学嫌いにあったらしい。後の儒学者が始皇帝を、極悪非道の暴君にしたてあげたことは言うを待たない。

 とにもかくも、徐福らは日本に定住してしまったことは間違いない。
びっくりすることに、和歌山県新宮市(しんぐうし)には、まさしく徐福の墓(リンク)がある。また、丹後半島、京都府伊根崎に徐福を祀る新井崎(にいざき)神社があり、この神社の東にある冠島には、この地域でしか見られない唐よもぎ(黒茎の蓬)が自生する。不老不死の薬草だと伝承されている。地名も、「丹後」(京都府北部)というが、仙丹の「丹」が残ったとも考えられる。

 徐福らがどこに定住したかは、伝承はたくさんある。しかし、五代後周のとき、(紀元951~)、義楚六帖に、「徐福らは日本の富士山麓に住み、今子孫は秦氏と言っている」と、記載がある。「富士山をまた蓬莱山とも言う」と、入唐した日本僧、弘順が語ったことを、義楚はそのまま書いたとされる。富士山麓では、「富士古文書」、別名「宮下文書」なる古代を記した古文書がある。麓の秦氏は江戸時代末期、羽田(はだ)と改名し、正次郎という人が山中湖村字新畑の田から徐福が使ったのではないかと言われる古印を発見した。富士山が東海上の名山であり、神仙の青山になったのは徐福以来のことなのだろうか。富士本宮浅間神社(富士吉田市)は室町時代から江戸時代まで、400年間、隆盛を誇った富士信仰のメッカだ。富士信仰は密教と習合して、富士山頂は三尊の仏が宿る聖山であった。右が大日如来、中央が阿弥陀如来、左が薬師如来。この思想から、富士山の山頂は3つに分れている山水画が伝統的な描かれ方だった。

 「徐は嬴(えい)姓、伯益の後、夏、除を封ず。」とあり、除という国があった。伯益は通称、「益」、堯、舜、禹の三代に仕えた賢臣で、禹のもとで宰相を務め、やがて禹から禅譲によって帝位を継いだ。
禹が没した後、3年の喪があけて禹の息子である啓に帝位を譲った。徐が氏で姓は嬴、 始皇帝と同じであり、徐福の先祖は禹帝に仕えた宰相の末裔ということになる。啓の子が魏志倭人伝に登場する小康である。啓が2代目、小康は6代目になるが、この間は小康の叔父たちが王位を継いでいたのである。伯益の名が出る逸話が残っている。

「帝政に従おうとしないミャオ族について、舜が禹に討伐を命じる。禹はそれに従って諸侯を集め出軍した。しかし、三十日たってもミャオ族は従わない。これを見た配下・伯益は、舜の経験を引きながら、軍を引いて徳を修めることを進言する。禹はこれを容れて軍隊を引き揚げた。そして徳政が施されたところ、ミャオ族は帰服した。」 禹王と日本人(NHK出版)より抜粋
 賢臣ならではの話だが、徐は伯益の末裔で、諸侯につらなり、除国の王であったようである。


大禹陵 (浙江省紹興市)



魏志倭人伝では、小康の子が会稽に封じられるが、禹祭を守るためだと伝える。今の、紹興市に禹廟があるのはこの時以来なのだろうか。

 除という国は、周代になって、楚に滅ぼされた。驚くことに、徐姓は秦、黄、江といった姓も賜っている。秦をハタと読むのは、伯太(はた)から来ているかもしれない。伯太は、地名としては、”はかた”(博多)とも読む。徐福らが秦始皇帝と同じ姓を持っていたことは、実に大きい意味をもつ。「徐福は平原広沢を得て、王として止まり、帰って来なかった。」(史記巻百十八・司馬遷)徐福が日本で王になっているというのである。
これによれば、日本の最初の王は、なんと『嬴王』だったことになる。(前200年頃のこと)

 中国では徐福が史実であることは、すでに疑問の余地がない。また、始皇帝は海外にも秦国の威勢を拡大しようとしていた。徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。ただ、報告をせずともよい、と言ったかどうかは明らかでない。徐福が「東海王」の異名をもっていたのは事実であり、徐福が日本で王になったとしても始皇帝の咎を受けないという約定があったと推測される。
そもそも徐福は、精鋭の秦の兵を伴うことを断っている。「仙人の怒りを買わないためです」と言うような理由では始皇帝は納得しないであろう。つまり、この徐福一行の役割が、蛮夷の征服ではなかったことが明らかで、不老長寿の仙薬を手にしたいという始皇帝の望みは純粋なものだったと思われる。

「徐福一行は出雲族なり」とする孟憲仁が考証した説がある。また、王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定している。徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県西部)に結集した。郭沫若は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたというのである。そうすると出雲神話は中国殷王朝の原始巫教に源流があると見做(みな)すことができる。中国の白蘭族の歌を始め、屈原の『少司命』『湘夫人』など、すべて五・七言であるので、素戔嗚の八重垣歌は五・七調の最古の歌謡と言われているが、中国の踏襲ということも言える。そこで、素戔嗚は東夷の王の一人であったとも推測される。殷の王は鬼神を尊び、民を率いて神に仕え、何事につけても甲骨に卜占(ぼくせん)をしるして占いをもっぱらにして、族邑(ぞくゆう)を束ねていた。前1400年、殷の中心が河南省の安陽市付近にあったことは殷墟の発掘で明らかになった。河南・山東は、後の六国の「斎」で、とくに崇神の念の強い地域だったと言われ、鬼神を畏れる人々だった。このことは魏志の「名曰卑弥呼。事鬼道、能惑衆」、卑弥呼の鬼道と気脈を同じくすると思われる。斉が殷の習俗の色濃い土地であることは確かである。そして、徐福の童子(わらし)3000人が斎人であれば、なおさらのことである。しかし、始皇帝の鍛冶集団はすでに鉄器時代になっていた。

○徐福ゆかりの地
佐賀県 佐賀市金立 金立神社
_ 諸富町 _
_ 武雄市 _
_ 山内町 _
福岡県 八女市山内 _
_ 筑紫野市天山 *童男丱(かん)女の岩
鹿児島県 串木野市 _
_ 坊津町 _
宮崎県 延岡市 _
:_ 宮崎市 _
山口県 上関町祝島 _
広島県 宮島町巌島 _
高知県 佐川市 _
三重県 熊野市 _
和歌山県 新宮市 徐福の墓
名古屋市 熱田区 熱田神宮
_ 小坂井町 _
静岡県 清水市美保 _
山梨県 富士吉田市 _
_ 川口湖町 河口富士浅間神社
東京都 八丈島 _
_ 青ヶ島 _
京都府 伊根町 _
秋田県 男鹿市 _
青森県 小泊村 _
*韓半島 徐福島  山東輿図(中国図・広輿図)
徐福集団渡来と古代日本(いき一郎著)





*上記の詳細は、徐福関連リンク→検索《徐福伝説伝承地》でご覧になれます。

*童男丱(かん)女の岩 太宰府天満宮から南5kの宮地岳(338m)の山腹にある。海抜150mもあるところに、船繋(ふねつなぎ)岩とも言われるのは不思議である。現在の川沿いは入りくんだ湾であっただろう。麓に流れる宝満川は奥湾であったので、曳航した船をこの小山に引き上げて隠したのであろうか。なんであれ、ここに良家子女が到着し、船を繋いだ岩だったということらしい。里民が童男丱(かん)女の岩と伝えるほか、いっさい文献はない。
周辺は童男山古墳群(どうなんざんこふんぐん)がある。


呉の孫権は日本侵略に失敗した!

■AD230 呉の孫権 日本侵攻を命じる《徐福の集団のその後》
三国志 第一~第三にあるという記述

呉の武将、衛温(えいおん)がA.D.230年、孫権の命令で諸葛直とともに夷州と亶州を探しに、兵1万人を連れて航海に乗り出した。夷州は台湾、亶州は日本、種子島などの説がある。秦の時代、徐福は始皇帝に不老長寿の薬を捜すことを命ぜられた。徐福は童子、童女数千人を連れて亶州にたどり着き戻らなかった。その子孫が時々会稽郡に来て商いをしたり、会稽の人間が嵐に遭って亶州にたどり着くこともあるという。結局、亶州は見つからず夷州から数千人を連れて帰ったが、それより多くの兵を病気や嵐で失ったので孫権に罪を問われ殺された。


『始皇帝は方士の徐福を遣わし童男童女数千人を将いて海に入り蓬莱の神山・仙薬を求めさせたがこの州に止まって還らず。子孫は数万家ありその上の人民は時に会稽に至り貨布を得る。会稽東県の人が海行しやはり風に遭い亶州に漂着するものがある。在る所絶遠でにわかに到ることができない。ただ夷州の数千人を得て還る。』



西暦230年、孫権が皇帝位についた翌年である。始皇帝に習ってのことか、孫権は日本に一万人もの兵を送った。命じられた武将が衛温で、日本にたどり着けなかった。夷州(台湾)から数千人の奴隷を取って帰還した。ここで、徐福の童男童女は3000人であったが、その子孫は数万家とあり、およそ15万人にも膨れあがっている。徐福の船団が出発したのは紀元前210年であるから、440年後の出来事であるが、徐福の一団が15万人にもおよぶことを事実だとすると、斉からの移住民が国を作っているはずである。そして、会稽にやってきて交易をしているということから、国として成立していなければできないことだろう。であれば、日本は移民国家として成立したことなろう。
 魏志倭人伝からも700戸の小さい族邑をも国といっていることから推察すると、徐福集団は中国人国家を日本に作っていたに違いないと思われる。このことは、始皇帝が文字を統一制定すると同時期に来ていることから、徐福の子孫は日本で漢字(春秋戦国時代の文字)を使っていた可能性が高くなる。
 また、漢字といっても、斉の小篆体が初めに日本に持ち込まれたわけで、始皇帝の後の文字とは異なっていた。

 百済から和邇吉師(わにきし=王仁)が論語十巻と千字文一巻王をもって来朝したという記述が応神紀16年に書かれている。書紀では、同年に百濟阿莘王(書記では阿花王)が亡くなったとも書かれるので、これが間違いでなければ405年のことである。和邇吉師が百済から来朝したから、百済人と考えられているが、「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」とあり、祖寧は確かに中国皇帝の王族だったのである。論語をネイティブでない百済人が高説するというのは、ちょっと止まって考えれば変なのだ。ただ、呉音で読む発音は、このときから始まっていると言わなくてはならないだろう。古事記・日本書紀にはまったく消されているこの徐福集団は、日本の正史では復元されないが、王仁以前は漢字を知らず、文字がなかたというのは再考されてしかるべきだ。徐福は仙道の道士で、文字を知らないどころか、化学や薬草学や医術を記録する一流の文筆家だったろう。紀元前から日本に文字はあったのだ。


 最近、神武天皇(イハレビコノミコト)=徐福説が中国で注目されているらしいが、徐福の率いたのが童男童女であったことを考えると納得できないところがある。神武は日本書紀では三足烏を紋にする高句麗の一軍にされているように、高句麗の第三代大武神王(諱は無恤)の投影なのだ。いずれも徐福は日本の降臨伝説にひっかからない。どの王統記にも徐福に結びつけるのは無理がある。天照大神がまだ生まれていないころのこと、徐福が仙薬をもとめて日本に渡来したのである。始皇帝のいわば仙人になりたいという願望から、日本の国家起源が始まった・・・という話は荒唐無稽ではない。新井崎神社と籠神社、そして気比神社、富士浅間神社、熱田神宮、金立神社など徐福は深く繋がっている。古代王朝と徐福は切り離せないのだが・・・。

○徐福がもたらした水稲技術

 紀元前200年すぎのこと、弥生時代への移行期にあたり、徐福は日本に稲作をもたらした伝来の祖とも言われる。稲作がいつ頃から盛んになったのかというと、起源はかなり古い。神武東征のおり、紀伊半島南端潮岬から北上、白浜町にいたる途中に「すさみ町」(周参見)という町がある。
このすさみの海岸の沖合いに「稲積島(いなづみとう)」という大きな島がある。漁民からは神聖なる場所とされる。ここにある伝説はこの周参見沖で暴風雨に襲われたとき、神武天皇は小泊に避難し、兵糧として稲の献上を住民に命じという。つまり、それらの稲をこの島に積み上げたので稲積島と呼ばれるようになったという。二~三世紀には、稲作は西日本ではすでに広く行われていた。(すさみ町史・和歌山県聖跡) 徐福らは、たくさんの五穀の種米(たねまい)をもって渡来してきた。水稲に適した種米が日本に到来したことだけは確かなようだ。彼らは、これを栽培してまず自営生活を始めただろう。とうぜん、水田を作ったのは彼らが初めてだった可能性もある。

 稲の栽培は、なんと紀元前6000年ころからすでに行われていた。岡山市津島東、朝寝鼻貝塚の土層から「プラント・オパール」を検出した。(1999/04/21 岡山理科大 小林博昭)これによって、日本で最も古いジャポニカ種の稲の栽培を行っていたことを証明された。縄文時代から、すでに農耕生活を営んでいたのである。
 書紀では「イザナミノミコトが火の神を産まれたときに、(ホトを)灼かれて神退去(かむさ)りになった。そこで、紀伊の国の熊野の有馬村に葬(かくし)まつる。」とあり、母神イザナミノミコトが熊野市有馬村に花の窟(いわや)に埋葬された。一帯は古く牟婁郡(むろぐん)といわれ、蛇室(むろ)に通じている。熊野は神武天皇が大和を平定するのに、わざわざ熊野から大和に向かったことが書かれている。また、神武天皇の兄、三毛入野尊(ミケイリヌノミコト)は「浪秀を踏みて常世郷に往でましぬ」とあり、熊野灘から朝鮮半島に帰ってしまった。この熊野は神仙の霊地、常世との境界とされ、秦韓から到着した地点であり、秦韓に帰るのもこの地であったらしい。国の始まりになんであれ深い縁(えにし)を持つ。神武天皇が即位したのが吉野の近く、橿原であった。また天武天皇や後醍醐天皇が、一度は吉野に引きこもってから政権を取っている。十津川街道、高野街道をむすんで大和と熊野の境目、吉野にはなにか巨大なミステリーがある。白河天皇はこの地に34回も行幸している。熊野は海路の重要な拠点でもあった。海路に目を向けなければ解けない。吉野のあの山奥からふって 沸いたように2000人もの中核となる軍勢を徴集できるわけがない。

 徐福らの末裔が秦と名乗ったことが中国史に残されている。そこで、徐福一団は秦姓のルーツの再古参となるだろう。また、応神天皇の御代に新羅から海路で日本にやって来た秦氏の集団の経緯が見えたところで、秦氏のルーツは複雑な様相を帯びてくる。
また、始皇帝の末裔は、いっぽう山東半島や広州に多数残ってる。新羅と山東省、日本は秦の子孫のトライアングルを形成し、その同族意識は気脈を一にしていただろう。

○中国の始皇帝の末裔は客家

 今日、中国で見いだせる始皇帝の末裔は客家(はっか)である。客家は華僑の中心勢力である。中国の広東省(かんとんしょう)と福建省(ふっけんしょう)、江西省との狭間に1500メートル級の山脈がある。ここに円楼(えんろう)と呼ばれる円形の城郭のなかで集団生活をしているのが客家と呼ばれる人々である。彼ら客家も始皇帝の末裔とされ、北方から来てここに定住した。彼らは古代音を残す客家方言を話す。数字の読み方は、日本と一番近く、いっ、にー、さーむ、しー、うん、ろっく、ちっと、ぱっと、きぃぅーと読み上げ、中国のいー、あーる、さん、すー、うーとは言わない。山間部で、城郭のなかに住んだのは、つねに外敵から守るためである。客家の意味は外来の客という意味で、その名前からして移住者であった。タイではケークという単語は客人という意味でインド人のことだが、マレーやインドネシアでも客人はインド人を意味する。客家は西域の民族であり、インドドラヴィダ族系の言語であった可能性が高い。とりわけ近年では、伽耶語と政治的恩恵を受けられなかった異民族の彼らは集団自衛生活が特徴であり、五家族をもって連帯責任を課していた。一人の違反者がでると、全員が処罰される。この文化をもっとよく掘り返してみると日本人の精神性の雛形が出てくるかもしれない。中国人は一般に「よい人は兵隊にならない」といって、軍人や警察官になるのを好まないが、客家は「軍人か強盗にな れば成功する。」と軍人・警官になることを好む。
客家精神は4つあり、「克苦耐労」「剛健弘毅」「創業勤勉」「団結奮闘」と言われる。とくに女性はよく働き、古くから中国の纏足(てんそく)の習慣は客家にはさらさらなかった。祖先を崇拝することに厚く、春分の日には墓参りを行う。華南経済大発展は、地縁・血縁を守る海外客家人が出身県への再回帰によってもたらされている。広州・福建省は今や北京とは一線を画した経済圏となり、政治は南がやがて北をのみこんでだろうと言われている。広州軍区はいまや内戦になっても十分北京と対抗できる。
 中国革命の父といわれる孫文(そんぶん)、鄧小平、李鵬、台湾総統・李登輝(りとうき)、また、フィリピンのアキノ元大統領、シンガポール建国のリークアンユーといった顔ぶれが客家の血を引いている。客家の人口は現在およそ4500万人、海外に500万人。およそ、一国の人口を有す。

<客家の血を引く有名人>
中国人民解放軍の朱徳・叶剣英・賀竜元元帥。
太平の乱を起こした洪秀全
孫文の夫人宗慶齢
陽明学の王陽明
朱子学の朱子
万金油・タイガーバームガーデンの胡文虎



○秦王国は筑紫にあった。

もうひとつ、随書では日本に「秦王国」がある・・・とした記録がある。


「大業四年(608年・推古天皇16年)、上、文林郎・裴世清(はいせいせい)を遣わして倭国に使せしむ。(一行は)百済を度り、行きて竹島に至り、南に済州島を望み、対馬国を経、はるかに大海のなかに(俀国が)あり。また、東へ進んで壱岐に至り、また筑紫国に至り、また、東して秦王国に至る。その人華夏(夏王朝)に同じ、以って夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。筑紫国より以東は、皆俀に付庸す。」 随書俀国伝(ずいしょついこくでん)

 これによると、一行は百済の南道を通りぬけ、半島南部の耽津船出をした。この時の百済王は武王だった。南に耽羅(済州島)を望み、壱岐島を経由して、そのまま呼子(唐津)に着く。筑紫の中央、久留米から東に120kmほど進み、九州の東海岸に着く。そこに、秦王国があった。7世紀初頭、裴世清が見聞した秦王国は中国の皇帝に勝る天帝だった。「日本は未開の東夷であるはずなのに、どうして夏の禹帝の末裔がいるのだ。また、中国と同じような高度な文明が栄えているのか?」と、びっくりするばかりだった。隋国使者は、「以って夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。」と記録した。「中国人がたくさんおり、ここは蛮夷でなく、中国ではないのかと思われる・・・なぜなのだろうかと疑った」というのである。これが大和王朝の前に存在していた(幻の)九州王朝でなくてなんであろう。消された王朝のことである。随書は俀国(ついこく)と書き、倭国とは書いていない。歴代の中国王朝が倭国といっていた国とは違うことに気づいたんだ。
それも、裴世清の路跡を随書が書き残してくれたおかげである。

 秦氏が大挙渡来しすでに300年を経た頃であり、始皇帝の末裔が目をみはる土木建築のハイテクニックを見せつけていた。そこで、「秦王国」と書いたのだろう。秦は中国語でチンと発音され、いまのチャイナの語源でもある。なにしろ、他周辺国に冊封下(さくほう=臣下として扱う)に置く宗主国の使者が、日本に中国人がいると記録したことは重い意味をもつ。裴世清はさらに、驚きをもって中国に等しい文化をもっていると書き記したのである。これは秦氏一族が部族としては中国人としてみなされていることを意味する。

 607年遣隋使の国書は次のように書かれていた。

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや云々」と書かれていた。 
随書に記録されているのは書き出し一行のみである。
 それに対して、「帝悦ばず。曰く、蛮夷の書無礼なるものあり。またもって聞することなかれ」とあり、煬帝(ようだい)の怒りをかった。そのころ、天子は皇帝の称号でそれ以下は王と号するのが常識であった。それも、中国が官を与えた上での称号である。帝はあやしんで使者の帰国にさいして、わざわざ答礼の使者文林郎裴世清(はいせいせい)を同行させることにした。「裴よ、このような書を書く人物がなぜ蛮夷の王におるのか、高句麗のように脅威となるやもしれん。しかとかの国を見届けてくるのだ。」
 そこで、この使者(小野妹子は書記の捏造)の帰国にわざわざ同行してきた裴世清(はいせいせい)とともに、日本に帰ってきたが、妹子は煬帝(ようだい)から下賜された返書は百済人に奪われてしまったと報告した。紛失を偽装したのではないかといわれているが、裴世清一行は(三国史記 武王9年)に記述があるので、確かに百済の南路(街道)を通過していることだけは確かだ。裴世清が本国にどのように報告したか。実はこの報告はその後の日本の歴史を大きく左右した。それによって、日本は大きく待遇が変化したのである。まず、中国の支配(冊封)を免れ、化外慕礼の国として扱われるようになったのである。(中国の支配の及ばない国だが、親中国の国)これは、驚くことに、日本がサラセン帝国(アッバス朝)と同じ待遇になったことを意味する。また同時に、はじめて日本の権力者が「王」の称号から「天子」または「天皇」「天帝」などの称号を持つことが可能になったのである。

 第一回目の国書で「天子」の文字を対等に使用し、隋皇帝煬帝(ようだい)の怒りをかった。「天子」の号は中国皇帝のみが使用し、従属国は「王」とされていたからである。にもかかわらず二回目の国書に太子が「天皇」の文字を堂々と使用することができたのは、この裴世清(はいせいせい)のおかげなのである。誤解か、策略かはわたしにも分からないが、「秦王国」「その人華夏人に同じ」と報告されたことは結果として疑いなく日本の歴史を変えた。華夏とはあの禹帝が国祖である。魏志倭人伝にも、「夏后の小康の子」という一文に夏王朝に触れているところをみると、筑紫には古の夏王朝の末裔が王、いや、本物の天帝がいた。タリシヒコが夏王朝の徐の末裔ならば、天皇の称号は当然、理に叶う。ところが、天皇の位は7世紀末に新たに忍び込んだ扶余族に乗っ取られてしまった。こうして、タリシヒコの末裔、徐の民は、みな蝦夷にされてしまったのだ。

 実際に大和朝廷で「天皇」という文字が公けに使われたのは天武朝以後のことだ。大和王朝とは7世紀後半、クーデターで蘇我氏を倒して王権を手にした百済武王の子である姉弟が建国した国で、それ以前の記紀の天皇諡号は扶余の王統紀を参考に模写した作文なのである。聖徳太子とは、東宮ならいざ知らず上皇などという称号になって飛鳥にいたことになっているが、該当する実名の人物はタリシヒコである。
随書で書かれた秦王朝の「タリシヒコ」は九州にいた。百済の武王は裴世清一行が百済を経由して九州に向かったことをつぶさに知っていた。親書を盗んだかどうかは不詳だが、自国を素通りして行ったことに道理が無いと見た。上下関係を第一に気に掛ける儒教国家だから示しがつかないのだ。この九州にある王朝が中国からは百済の上位にある貴い国とされたことは我慢がならず、激怒した。なぜなら、百濟は中国に封じられていたからだ。こうして、武王が送り込んだのが、鎌足であり、後の藤原氏である。


○秦河勝

 「厩戸(うまやどの)皇子」と言われ、イエスの誕生をコピーしていることから、太子自身がヘブライ系だとする説もある。少なくてもだれがこうしたキリスト誕生の知識をあたえたのか疑問となる。厩戸皇子と呼び、彼をキリストに擬したのは景教の信徒であったと思われる。キリスト教の伝来は聖フランシスコ・ザビエルの伝道が初めてではない。

○隋の煬帝を怒らせえた国書の秘密

日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや云々」と書かれていた。 

 さて、このフレーズは実は旧約聖書から引いている。煬帝は怒りが静まるとしばらくしてこのことに気付き、なぜなのか不思議に思った。そこで、(小野妹子)の帰国にさいして、わざわざ答礼の使者文林郎裴世清(はいせいせい)を同行させることにした。
その太子の使った聖書の引用句はつぎのようである。


日の出る処より日の没る処までわが名はほめられるべし (詩編113-3)
  From the rising of the sun unto the going down the same the Loard's name is to be praised.

日出る処より日の没する処まで国々にわが名はあがめられている。(マラキ書1-11)
For from the rising of the sun unto the going down of the same my name shall be greate among the Gentiles;

わが名を呼ぶものを東からこさせる。かれはもろもろの王子を踏みつけて漆喰のようにし、陶器師が粘土をふむようにする。(イザヤ41-25)

from the rising sun shall he call upon my name: and he shall come upon princes as upon morter, and as the potter treadeth clay.

ここに共通するフレーズは、「from the rising sun」である。
日の昇るところから・・・・というのは聖書の慣用句なのである。隋はこのあと、すぐに滅びて唐になった。日没する処の皇帝は、書翰のとおりになった。"The rising sun"と言えば今日、欧米では驚異的な経済発展を成し遂げた日本の代名詞にもなっている。

ついで、第2回目の国書には、つぎのような書き出しになる。

「東天皇、敬って西皇帝に白す」(原文は漢文)

 はじめて「天皇」という文字が見いだせる史上最初の文献である。太子の造語だとされるが、はたしてどうだったのだろう。それ以前は大王であった。太子どころか、本物の禹帝の苗の天帝だったのだ思える。天皇と皇帝とどちらが偉いのかといえば、天皇のほうが上位であることは明らかだ。

「多くの人が東から西に来て、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブとともに、宴会の席につく・・・・」(マタイ 8-11)

Verily I saw unto you, I have not found so great faith, no, not in Israel. And I say unto you, That many shall come from the east and west, and shall sit down with Abaraham, and Issac, and Jacob, in the Kindom of heaven. (St.Matthew 8-11)


「おそれるな、わたしはあなたとともにおる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあつめる。」
(イザヤ43-5)

Fear not : for I am with thee: I will bring thy seed from the east, and gather thee form the west.


だれが正義の人を東からおこしたか、足下によびつけ、国を奪い、王をうわまわる権威をあたえた。(イザヤ 41-2)

Who raised up the righteous man from the east, called him to his foot, gave the nations before him, and made him rule over Kings?


「みよ、イスラエルの神の栄光東より来たれり」 (エゼキエル43-2)

And behold, the glory of the God of Israel came from the way of the east:


 ここで共通なフレーズは、[from the east]であるが、長い間、十字軍のときも、蒙古の侵入のときも多くの人々が東方からキリスト教を信じる軍勢が助けにくると期待し、それを信じていた経緯(いきさつ)がある。
「光は東方から」というので、旧約ではキリストは東からくると信じられていた。秦の始皇帝が遠く東を望んで神仙の国を思い描いていたことは、中国でも東がもっとも貴ばれたからである。東岳大帝が一番偉いのだ。
ヘブライ人も東に礼拝する習慣があったとの記載がある。現在でも欧米宣教師などは、東を日本と考え、日本になにか期待するヴィジョンをもっている。 

 書紀によれば、厩戸皇子の教育には、高句麗からの渡来僧「慧慈」(えじ)が内教(ほとけのみちのり=仏教)について教えられたとされる。
さらに外典(そとふみ)を「覚袈」(かくか)が教えられたと伝える。仏教から外典といえばバラモン教だが、覚袈が外国人であることは確かだ。当時ペルシャ人をハシ人とよび、波斯人と書いた。カクカがペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほのはしひと)と書かれているからである。間人(はしひと)とはペルシャ人のことである。太子の母がペルシャ人の娘であり、厩戸皇子が赤い髪の毛をしていたという伝承はさらに謎を深める。また、仏像が弥勒であることは、ミトラ教の影響があったことを意味する。「秦河勝」は厩戸皇子その人であったのだろう。
広隆寺や中尊寺の「半跏思惟像」は、ガンダーラ仏に似た弥勒菩薩なのである。
かつて、広隆寺が「景教寺」と呼ばれていたことは一体なにを意味するだろうか?


第四章

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