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第二章・・・・須佐之男は誰?


■古事記上つ巻の原型

須佐之男は東明王の別称・卒本の
三国史記・高句麗本紀は1143年執筆開始、本紀と列伝からなる紀伝体の史書として1145年に完成した。古事記は712年(和銅5年)、日本書紀は720年(養老4年))である。古事記・日本書紀のほうが古いのである。『日本書紀』に引用のいわゆる「百済三書」は、「百済記」が五カ所、「百済新撰」が三カ所、「百済本記」が十カ所、合わせて十八カ所におよぶ。これらは百済三書はすべて逸失してしまっている。ただ、もう一つ幻の史書があった。その書は 近肖古王(346-375)が発起し、博士・高興に書かせた百済の国史である「書記」である。この「書記」は泗沘城(サビソン)の王庫が延焼して(660年)、灰になってしまった。現代まで写本すら見つかっていない。「書記」の消失を知った天武天皇は残念に思い、遠祖の王統紀である「書記」の復元を発願する。「書記」、もっとも古い編纂の扶余紀の内容は「書記」を読んだことがある者だけが記憶しているはずである。そうした人物を探しだす必要があった。日本に避難してきた百済の官吏のなかに、稗田阿礼がいた。舎人稗田阿礼は28歳の聡明な男性で、抜群の記憶力を持っていた。稗田阿礼が記憶するところの「書記」だけが、このときの扶余の正史に他ならない。「偽りを削り真を定めて、後葉に伝えむと欲ふ」という天皇の発願は扶余史の記憶をもとに、王統家の祖神神話から扶余色を一掃し、日本の建国神話に置き換えることだった。百済が滅亡したがゆえに、天皇家にその災いが及ばないように日本にあつらえた王統紀を作ったのである。太安万侶(おおのやすまろ)が古事記を、藤原不比等(ふじわらのふひと)が書紀を創作するという大仕事だった。こうして、「真を定める」ことになるのであるが、そのため族譜などを焚書にし、その秘密を隠した。だが、紫式部は、日本書紀を、極めてわずかな部分しか記していない、物語にこそ神代からの世の事を記していると言い捨てているが、そのコアな物語まで隠すことができなかったのである。古事記は「扶余紀」を日本紀につなげたものであり、武烈天皇以前は元号や歴代をばらばらに繋ぎ合わせたのです。

■物語にこそ真実がある。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っている。

「物語にこそ神代からの世の事を記している」と言い放った紫式部のように、そこで語られた物語の中にこそ真実が眠っている。古事記で綴られた(公式な)物語は、民間の物語のほうがより詳しいということなのだ。

 物語の中のモチーフは共通の意識が眠っている。これを理解すると、史実(リアリティ)は物語(神話)の奥底にあると言わざるを得ない。<名前>も<地名>も変えても物語のコアなストーリーはかわらない。「物語にこそ神代からの世の事を記している」、それならば、物語を下敷きにして真相を見つけていくアプローチは学問的にも成り立つはずである。それは、神話対比学の一ジャンルになる。ギリシャの吟遊詩人ホメロスの「イリアッド」の話を、ドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンが信じて、周囲の嘲笑にもめげず、1870年に発掘を始め、1873年ついに、トロイ遺跡を発見した。どんな神話もリアリティに基づいているのだ。



五人の大国主解明

古事記の物語をシナリオ風に直して時系列に並び替えると以下のようになります。小見出しの列で、古事記の順列である番号を配列し直しています。大国主は一般名詞で最大敬称なのです。古事記の元型ストーリーから5人の大国主をつぶさに明かしてみよう。
岩波文庫版に準拠  シラバスを場面ごとに大国主の実名を記す。5人が該当する。
原形のストーリーから、順序だてると見出しの段は沼河比賣求婚・:須勢理比賣の嫉妬が先頭にならなくてはならない。
以下は、ラフなシナリオ。
ロケーション  小見出し  小見出し(時系列順に再配列) 主な主人公
根の国  大国主神4 :沼河比賣求婚   ここでの①大国主は金蛙王,その妃・柳花(河伯の女)
伊邪那岐命=八千矛神と伊邪那美命の出会い。夜這い婚の話
八島国  大国主神5 :須勢理比賣の嫉妬  金蛙王,その正后(牛加の女)柳花を嫉妬し苦しめる悪女。
八島国  伊邪那岐命と伊邪那美命3 .三貴子の分治  金蛙の3人の子 1,带素2,朱蒙3,曷思王子 1と3は:須勢理比賣の生んだ子。2は沼河比賣の生んだ子。
稲羽  大国主神1. 稲羽の素兎  ここでの②大国主は朱蒙。
帶素の召西奴への求婚の旅の途中の出来事。,濊族の流民とその長,が漢の常備軍に身ぐるみを剥がされる。带素と末子、朱蒙の三貴子の対応を八神比売に報告する。
八上比売は召西奴の青春時代の名前になる。
八島国  大国主神2 .八十神の迫害  召西奴, 朱蒙,、八十神は带素,曷思王子
八島国  伊邪那岐命と伊邪那美命4.. 須佐之男の涕泣  金蛙王,朱蒙は母の故郷に行きたいと泣く。
八島国→出雲  天照大神と須佐之男命3. 根の国訪問  柳花、子供の朱蒙を卒本に逃がす。 ここでの須佐之男は高无胥(コソモ)王,その二娘、朱蒙に一目ぼれ、朱蒙婿となり、建国、解氏から高氏に姓を変える
根の国   天照大神と須佐之男命6.  須佐之男の命の大蛇退治   涓奴加の王子,その妻,娘・多勿軍創設。
稲羽  天照大神と須佐之男命1.. 須佐之男の昇天 朱蒙、召西奴との間に子をもうけるも女の子だった。
出雲/高天原  伊邪那岐命と伊邪那美命3 .須佐の男の勝さび  召西奴は失意、わが子を世継ぎにできず、朱蒙のなすがままに従う
 八島国  伊邪那岐命と伊邪那美命6. 黄泉の国  金蛙王,その妃柳花(朱蒙の母)を殺す。
出雲/高天原  天照大神と須佐之男命4. 天の岩屋戸   朱蒙,召西奴の二人の兄弟を自分の子でないと、仲たがい。
  ロケ地移動    これより漢江(天安川)、ソウルに移動
水穂国 天照大神と須佐之男命1. 天の安の河の誓約   召西奴,南進の誓約
八島国 大国主神8. 大年神の神裔  ここでの③大国主は帶素。若いころの八十神が王位についたこと。
高句麗の敵国、東扶余王になった帶素の系図
水穂国  芦原中国の平定 1. 天菩比神 召西奴,その父,それに従う王族将軍
 芦原中国  火遠理命  海幸彦と山彦.1  火遠理命、実は兄沸流(山幸彦)、火照命が弟の温祚(海幸彦)、この段では古事記は兄と弟を逆にしている個所が2か所あり、次の海神の宮訪問ではもとに戻る。
 胸形の宮  火遠理命  海神の宮訪問.2  温祚(海幸彦)と豊玉姫の出会い。三年一緒に綿津見神=辰国大王の宮、胸形の宮(月氏国牙山・アサン)で夫婦生活を過ごす。物語での竜宮城の如し。
 芦原中国  火遠理命  火照命の服従3.  兄の沸流が弟の温祚に降参。
 芦原中国  大国主神  少名毘古那神と国作り  ここでの④大国主は綿津見神=辰国大王。胸形の三女神の父。ここでの大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)は余温祚、少名毘古那神は兄沸流、兄は常世の国に行く(死んでしまう)。
胸形の宮  芦原中国の平定 2. 天若日子 辰国大王は,兄沸流に一女嫁がせる・弟温祚は兄沸流死後、二女と結婚、このとき兄嫁との兄弟婚を断る。
 胸形の宮   天照大神と大国主神5.  五穀の起源  辰国大王の一女の死。沸流に嫁いだ姫のこと。
 芦原中国  芦原中国の平定 3  建御雷神 建御雷神は高木神と天照に仕える将軍?饒速日の抵抗。
 芦原中国  芦原中国の平定4  .事代主神の服従  辰国大王の嫡男・豊芦原中津国を譲ることに同意。
芦原中国  芦原中国の平定.5.. 建御名方神の服従  辰国大王の孫(男)が抵抗
芦原中国  芦原中国の平定6. 大国主の国譲り   ここでの⑤大国主は辰国大王、余温祚を葦原中津国王と認めて、国づくりをする。建御雷神、事代主神、胸形の三女神の父。
豊芦原中国  邇邇芸命. 天孫の誕生.1  邇邇芸命は余温祚・十済国建国。(伯濟建国の条・後の百済とは国祖が異なる)天忍穂耳命の弟が邇邇芸命だが、古事記では弟を天忍穂耳命の子供に変えている。天照大御神の父が高木神・天照大御神の御子・兄弟が天忍穂耳命(火遠理命)と邇邇芸命(火照命)。ここでの万豊秋津師比売命は天照大御神の別名。
 〃  邇邇芸命.  猿田彦神.2  綿津見神=辰国大王
 〃  邇邇芸命.  3.天孫降臨  余温祚の建国
 〃  邇邇芸命.  4.猿女の君 木花佐久夜比売のこと。海神・猿田彦の二女・弟温祚に嫁いだ。死んだ兄の嫁岩長姫を拒む。これは兄嫁婚(レビラト婚の風習)。 岩長姫=下照比売、海神・猿田彦の長女、嫁いだのは天若日子= 火遠理命=山幸彦=兄の沸流
 〃  火遠理命  4.鵜茅草葺不合命  豊玉姫=木花佐久夜比売の出産

古事記の元型ストーリーの時系列にそって3列目の各小見出しの段落を並べ替えている。
こうして、物語として一貫性をみて、時系列を加えると、歴史に近く構成できる。

ところで大国主が一人の名称だというのは勘違いもはなはだしいのです。古事記を読み切れていないのです。上の図のように段ごとに大国主を比定することが肝要です。①~⑤まで大国主という器には5人の人物が入るのです。
ですから、須佐之男の大蛇退治の段では、「大国主、亦の名は①大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は②葦原色許男とひ、亦の名は③八千矛神と謂ひ、亦の名は④宇津志国玉神と謂ひ、併せて五つの名あり。」と書いています。これを一人一人別人だということに気付く人少ないようです。ひとりの大国主の別称が5つあると勘違いしています。
五つの名あり・・・という訳し方をどうしてしたのでしょうか。「色許男神色許二字以音・亦名謂八千矛神・亦名謂宇都志國玉神宇都志三字以音、幷有五名」、併有五名」と注のような文があります。五名有ると書いているのに、なぜ直訳できなかったのでしょう。ここに呪いと暗示がありますよね。五人の名前だとは考えにくかったからでしょう。おそらく古典は文学者が訳し、歴史家が訳したのではなかったと考えられます。学問の世界も縦割りなのが気になります。


大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)は朱蒙・余温祚の二人の代名詞、
葦原色許男(あしはらしこを)は朱蒙
八千矛神(やちほこのかみ)は金蛙王
宇津志国玉神(うつしこく)は綿津見神(胸形の奥津宮(月氏国俗称龍宮・現牙山市)に座す大王、宗像三女神の父に当たる)

補足:大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)も代名詞です。王なった人物の若い時の称号。事実上の太子を云う。

宇津志国玉神について補足します。「阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。宇都志三字、以音。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。宇津志国玉神は安曇連(あずみのむらじ)の祖あるとあり、現在の住吉大社の大神だったのです。安曇連は本家が阿曇氏のこと。本貫は志賀島の神で、志賀海(しかうみ)神社を奉祭しています。阿人といえば、阿曇氏だったのかもしれませんね。(本貫=氏族集団の発祥の地を指す)
宇=底筒の男命、都=中筒之男命、志=上筒之男命となります。大国主の国譲りの段の大国主は「すみよっさん」と(その御子)「ゑべすさん」だったのです。葦原中津国(現ソウルと仁川)はこの大王が所有していたのです。別名、「意富加務豆美命」。少名毘古那神を(余温祚=邇邇藝命)助け、国を譲ったのです。別名、天狗面の猿田彦大神。そういう意味では、慰礼城伯濟系王統建国の大恩人なのですね。ここでの大国主は、国を譲るかわりに、「我をば青垣の東の山の上にいつきまつれ」と命じたのですよ。
ここまでに4人です。あれ、一人足りませんね。
もう一人は誰でしょう。
大年神です。大国主神 8.の「大年神の神裔」の段の大国主です。大国主のもう一つの別名は大年神で、八千矛神の長男、帶素王です。これで、5人揃いました。

さて、大国主だけでも、~の投影ではないか、といった説は今までにもありましたが、五人も実在していたのです。そこを大国主が一人の固有名詞で出雲の神だと思い込んでいる学者が古事記について講演するのですから、さらにストーリーがめいちゃめちゃになりますね。また、須理比売と須理比売は母子ほど年の差があるってことも分かっていません。

須勢理比売は八千矛神(大国主)の正妃です。大年神の母です。河比賣は八千矛神の神の測女です。
須世理毘賣は沼河比賣の子である大穴牟遅神(大国主)の正妃です。根の国にいた須佐之男の二番目の娘で、王城から亡命してきた朱蒙にぞっこん惚れてしまう姫です。

 もっとも、混同するのも無理はありません。原文に当たってもまちがいがあります。「故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、」、古事記のこの一文の須勢理毘賣は須世理毘賣でなければつじつまがあいません。原文でさえ、須勢理毘賣と須世理毘賣を取り違えていたのす。ストーリーをしっかり理解すればわかります。
さて、大国主と書いた次の行には八千矛神と同一のキャストの名前がころころ変わります。これが現代語訳版でも神名は神名のままですから、大国主の”五体”がちんぷんかんぷんです。ある著名人は「古事記は日本の聖書」だと言っているようですが、「日本の絶対書物」ということになりますが、ほんとうにストーリーが読めているのでしょうか?紫式部は、日本書紀は、極めてわずかな部分しか記していない、物語にこそ神代からの世の事を記している」と書き残しています。もう一度、かみしめて読んでください。

物語として一貫して読めるようになると、あたかもシナリオのように登場人物とそのせりふさえもわかるようになります。

「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。」 少名毘古那神は神產巢日神の御子であるので、神產巢日神は天照大御神です。天照大御神の若いころのお名前は八神比売です。このようにシナリオに転じると、ひとりのキャストが複数名前で重複して、ころころと変わります。場面場面で別名を使って同一人物が代わるがわる登場します。ですから、ストーリーのシナリオ分解が必要なのです。神名は、ときどきによって絶対敬称や別名に使い分けられています。たとえば、場面では本来は王子のキャストでも、太子、日嗣の命、御子、などを使うなら分かりますが、後の敬称、まあ、大王に即位した後の敬称をつかいます。大国主というのは絶対敬称の方便です。このような敬称の使い方は日本語のカテゴリーにはありません。いったん古事記を日本語から突き放して読む、おかしな言い方ですが、外国語だと思ったほうがいいのです。

天孫と蝦夷

倭人の定義 、「如墨委面」が倭人の語源。第7章から

廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。

景行紀『二十七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東国より還て奏して言さく、「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け身を文けて、為人勇み悍し。是をすべて蝦夷と曰う。』

日本書紀に出てくる文身=蝦夷の習俗に髪を分けて結い身体に入墨をしているとある。

第一の倭人と第四の倭人は文身(入れ墨)を入れているという特徴で一貫している。
第一の倭人が第二、第三と移動したことが分かれば、第一の倭人と第四の倭人は民族学でいう日本人であり、人種的にも一貫していると看做すべきだろう。3000年前に住んでいたところが違っていたということはショックなことだが、倭人は海人であり、海洋国家を築いていて、海原を超えて国を作り変えた来たと解釈すればいいだろう。


■天孫降臨の物語 <以下かんたん神話学より抜粋。>

紀元前五十九年の四月八日、天から不思議な一行が降りてきました。白鳥に乗って羽衣を翻した百人あまりの天人が、天空を駆ける五龍車につき従っています。清らかな楽の音が高らかに響き、鮮やかな雲の間をかきわけて、まずは熊心山(ウンシムサン)に降りました。そこで十日あまり過ごし、ついに地上の訖升骨(フルスンコル)という城に降臨しました。
宣帝3年(紀元前61年)、現在の中国東北部の松花江流域に天帝の子解慕漱(ヘモス)が天下り、日神の子だと名乗り、国の号を北扶余と定めました。(中国史ではBC240年頃。天神と畏れられた。天狗の原形のような異形相で、鳥型エイリアンのよう?)

「御龍車に乗って天降り、従えてきた百余人のお供はみな白鵠に乗って羽衣をひるがえし、清い音をしょうしょう(清楽動鏘洋)と奏で、楽の音が雲間に響き、彩られた雲が 湧湧と浮かんでいた。一行は熊心山に留まって十余日を過ごしてから、やっと天降られた。(解慕渤は)頭に鳥冠をかぶり、腰には龍光の剣をさしていた」

 御龍車に乗っていたのは天帝の太子で、解慕漱(ヘモス)と言います。頭には鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣さしていました。慕漱はそこを都に決めて自分のことを王だと名乗り、国の名前を北扶餘と名づけます。やがて解夫婁(ヘ ブル)という王子も産まれ、彼が成長すると国を継がせたのでした。


 解ヘという姓は「日ヘ」に、夫婁ブルという名前は「火ブル」にひっかけたものだと言われます。つまり、「太陽・炎」という名前です。天から降りてきた一族は、太陽にちなんだ名前を持っているのでした。


 こうして夫婁が王として北扶餘を治めていたとき、大臣の阿蘭弗(ア ランブル)は不思議な夢を見ました。天帝が夢枕に現れて、遷都せよと命じるのです。

「この地は、今まさに余の子孫が国を建てるべき場所である。よって汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。

 東海の沿岸に迦葉原カソヴォルというよく肥えた地がある。そこがお前たちに向いておるであろう」

 あのぉ、自分の子孫の場所だから立ち退けって、そんな……。そもそも、夫婁王はあなたの直系の孫息子ではなかったんですか? それに、どうして直接王様の夢枕に立たず、大臣の夢枕に立つんですか。

 かなり謎ですが、大臣に遷都を奨められた夫婁王はあっさりと従い、東に進んで王都を迦葉原に移しました。そして、国の名を東扶餘に変えたのです。 

*迦葉原カソヴォルは今の琿春(珲春)の地
かんたん神話学 より)
(*へブルはへモスの5世代あと。北扶余はへブルがカソボルに東扶余を作った後に吉林の北にあった扶余の古地にできた国名(BC86年)、中国の史書に拠っているのが見え見えだが、へモスの生きていた年代はまるで違う。半島史観では、へモスをどうしても紀元前40年ごろにしたいのは東明王と重ねたいのだろう。)




高句麗~カエルの王子さま
北から東に国を移す前のこと。

 夫婁王は年をとっても子供を授かりませんでした。王は山や川の神を祀っては、跡継ぎが授かりますように、と祈っていました。天の祖父ちゃんには祈らなかったみたいです。何か思うところがあったんでしょうか。

 ある日のお祈りの帰り道、鯤淵という池にさしかかったところ、王の乗っていた馬が大きな石の前で立ち止まり、動かなくなりました。何度もいなないて、あまつさえ「俺は今モーレツに感動している!」と言わんばかりに涙を流しています。不思議に思った王は、人に命じてその石を転がさせてみました。

 すると、そこには男の子がおりました。具体的にどういう容姿なのかはわかりませんが、まるで金色のカエルのようだったそうです。石で潰れていたのでしょうか。

 王は「天が私に子供を授けてくださった」と大喜びして、その子を連れて帰り、金蛙クムワァという名前をつけました。大きくなると太子の位につけ、やがて夫婁王が死ぬと、金蛙は王となってこの国を治めたのです。
かんたん神話学より)





高句麗~河の娘
そんなある日、金蛙王のもとに不思議な相談をしてくる漁師がありました。彼は太伯山(今の白頭山)の南にある優渤水(ウバルス)という沢で漁をしているのですが、最近、魚を盗んでいく獣がある。しかし、その正体が分かりません、と言うのです。金蛙王はすぐに「網を投げてその獣を捕まえよ」と命じましたが、引き揚げてみると網が破れています。そこで鉄の網を投げ、ようやく石の上に座っていたその獣を捕まえました。

 捕らえてみると、それはまことに奇怪な姿のものです。女性のようですが唇が異様に長く、そのために口もきけない様子です。三回なんども唇を切り取ると、ようやく人の言葉を話し始めました。

「わたくしは青河(今の遼河)の河伯かわのかみの娘で、柳花ユファと申します。

 わたくしには萱花、葦花という妹がおり、いつも三人で水面をかきわけては青河を出て、熊心淵の辺りで遊んでおりました……」

 

 花のごとく美しい妖精たちが川辺で遊ぶと、腰に下げた宝石の飾りものがシャラシャラと音を立てます。夢のように美しい光景です。

 この様子をじっと見つめている男がいました。北扶餘を打ち建てた天帝の太子、解慕漱です。たまたま狩に来てこの様子を目にした慕漱王は、側にいたお供に言いました。

「水神の娘を妃にしたならば、我が跡継ぎにふさわしい息子を得られるだろうな」

 けれども王が姿を見せると、三人の娘たちは たちまち水に飛び込んで隠れてしまいました。周りにいたお供たちが言いました。

「王よ、宮殿を建てておいて娘たちを待ち構え、入った所で戸を閉めてしまいましょう」

「うむ、そうだな」

 王が馬の鞭で地面にさっと線を引きますと、瞬またたく間に金色に輝く銅の宮殿が建っていました。部屋の中には三つの席を作り、お酒もたっぷり用意しておきます。そうして姿を隠していると、やがて好奇心に駆られた娘たちがそろそろと水から上がってきて、美しい宮殿を見上げたり、そっと中を覗き込んだり。すると綺麗な部屋の中にパーティーの準備がしつらえられていて、席もちゃんと人数分あるではありませんか。とうとう我慢できなくなって、中に入り込んで美味しいお酒を互いに注ぎあって、すっかりいい気分で酔っ払ってしまいました。

 そこに、慕漱王が入ってきたのです。

 三姉妹は驚いて、逃げ出そうとして足をもつれさせ、倒れたり転がったりしました。なにしろ、とても酔っていましたから。おまけに、慕漱王は出口の前に立ちふさがっています。それでも妹二人は逃げおおせたのですが、長姉の柳花は捕らえられ、そのまま強引に妃にされてしまったのでした。

 逃げ帰ってきた娘たちにこれを知らされた父の河伯は、烈火のごとく怒りました。直ちに使いを走らせ、問いただします。

「一体そなたは何者か。我が娘を捕らえ、乱暴を働くとは」

「余は天帝の子だ。よって、家柄のよい娘を妃にしたかったのだ」

「結婚とは大切なことだ。そなたが天帝の子で我が家門との婚儀を望むと言うならば、当然、仲人を立てて結納品も送り、正式な手続きを踏まなければならない。それを、突然娘を捕らえるとは、何故そうも礼儀を知らぬのか」

 それはもっともなことだったので、慕漱王は恥ずかしくなって反省しました。今からでも河伯の住処である龍宮を訪ねようと思いましたが、深い水の底なので行くことが出来ません。諦めて娘を返そうと思いましたが、柳花は既に慕漱王の虜トリコになっていたので、「あなたと別れたくありません」と嫌がります。よほどのテクニシャンだったようです、慕漱王。流石は天帝の太子だ。

「河伯の国へ行く方法はあります。龍車を使えばよろしいのですわ」

 それを聞くと、王は天空を指して龍車を呼びました。たちまち五頭の龍にひかれた車が降りてきて、王が柳花と一緒にそれに乗り込むと、一瞬で、風雲と共に龍宮に着いていました。

 河伯は礼儀正しく慕漱王を迎え入れて席に座らせてから、「何故 礼儀やしきたりを無視して我が家に恥をかかせるのか」と責め立てました。

「大体、そなたは天帝の子というが、どれほどの事が出来るというんだね」

「好きなだけ試してごらんになればいい」

「ならば、術比べをしよう」

 河伯は庭先の水に飛び込み、鯉に変身しました。すると慕漱王はカワウソに変身し、これを捕らえようとしました。河伯は雉になってかわしますが、慕漱王は鷹に変身して追います。河伯は鹿となって引き離そうとしましたが、慕漱王は狼となって追いすがるのでした。

「まいった、まいった。そなたは間違いなく天帝の子だ!」

 慕漱王を認めた河伯は、柳花との正式な婚儀を執り行いました。けれども、天の子が本当に我が娘と添い遂げてくれるのか、一時の遊びではないのかという不安が拭い去れません。そこでパーティーを開くと、音楽を演奏し、お酒を沢山すすめて、慕漱王をぐでんぐでんに酔わせて深く眠らせました。そうして柳花と一緒に革の輿に閉じ込め、龍車に乗せました。こうすれば、柳花も一緒に天界に連れて行ってもらえると考えたのです。

 しかし、龍車は何故か水から出ることが出来ず、水の中を漂っていました。河伯の酒は醒めるのに七日かかります。七日後に目を覚ました慕漱王は、静かに立ち上がると柳花の金のかんざしを取って輿に穴を開け、そこから煙のように抜け出して、一人で天に昇っていってしまいました。


「慕漱王さまは二度とお戻りにならず、取り残されてしまったわたくしを父は叱りました。そして周りの人に口をねじって引っ張れと命じましたので、わたくしの唇は三尺(約91cm)も伸びてしまいました。それから男女の召使一人ずつだけを付けられて、優渤水に追放されたのです」

 そのように、不思議な女は語り終えたのでした。
 (かんたん神話学より)



高句麗~魚の橋

 兄王子たちは またもや朱蒙を殺そうと計画を練り始めていました。密かにそれを知った朱蒙の母は、息子にこう告げました。

「この国の人々は、今まさにあなたを殺そうとしています。あなたならばどこへ行っても立派にやっていける。このままこの国に留まって恥辱を受けるよりは、遠くへ行って有為な仕事を成しなさい」

 朱蒙は国を出る決意をしましたが、母を連れて行くことは出来ません。恐らくは今生の別れとなるでしょう。朱蒙が辛そうにしていると、母は

「私のことは心配いりません」

と言って、五穀の種を包んで渡してくれました。新しい国で蒔まくように、というのでしょう。

 

 鳥伊、摩離、陜父という三人の賢い男が友となり、朱蒙の旅立ちに同行しました。四人は馬を駆って淹滞という河に至りましたが、橋も船もないので渡ることが出来ません。後ろからは兄たちの差し向けた騎兵隊が追ってきているというのに。

 朱蒙は馬鞭で天を指し、「ああ、 私はここで死ぬわけにはいかない」と嘆きながら言いました。

「我は天帝の孫、河伯の外孫なり。今、難を逃れてここに至ったが、追手が迫っている。天神地祇よ、この孤子を憐れみて、今すぐにこの河を渡らせたまえ!」

 そして弓で水面を打ちますと、どうしたことでしょう、魚やスッポンが沢山浮かび出てきて、頭を並べて橋を作りました。河伯のお祖父さんが願いを聞いてくれたのでしょうか。

 朱蒙たちは魚の橋を急いで渡りました。次いで追手たちもその橋に馬を走らせましたが、橋はたちまち散り散りに消え失せて、追手たちは水の底に沈んでしまいました。

 

 さて、こうして東扶餘を逃れた朱蒙でしたが、別れの悲しみのあまり、母から渡された五穀の種を忘れて出てきていました。

 朱蒙が大樹の下で休みながらそんなことを思い出していると、二羽の鳩が飛んでくるのが見えました。鳩の喉が膨らんでいたので、朱蒙は

(あれはきっと、忘れた五穀の種を運んできた母上の使いに違いない。)

と咄嗟にひらめき、弓を引いて一矢で二羽をしとめました。そして喉を開いてみますと、果たして、五穀の種が入っています。それを取り出してから水を吹きかけますと、鳩は生き返って飛び去っていきました。

高句麗~建国

 朱蒙は毛屯谷(または、普術水)に着いたとき、三人の男に出会いました。一人は麻衣(麻で作った白い服。僧侶の衣)を、一人は衲衣のうえ(糞掃や死体の包装などに使用した穢れた布を縫い集めて作った衣。または、その精神にのっとった僧侶の衣)を、一人は水藻の服を着ていました。

 朱蒙はその三人に言いました。

「お前たちは何者か。姓名を名乗れ」

 麻衣を着た男は答えました。

(われらは、このあたりに住んでいる桂婁(ケル)族の頭であります)

「我が名は再思(チェサ)」

 衲衣を着た男は答えました。

「我が名は武骨(ムゴル)」

 水藻の衣を着た男は答えました。

「我が名は黙居()ムッコ」

「名は分かったが、姓はなんと言うのだ」

「………」

 三人は黙っていて答えません。名字がないのだか、答えたくないのだかは謎ですが。

「分かった。では、私がお前たちに姓を授けてやろう。再思は克(クク)氏、武骨は仲室(チュンシル)氏、黙居は少室(ムッコ)氏だ」

 朱蒙は勝手に(?)三人に姓をつけてしまうと、世間に向かってこう公言しました。

「我は大命を承り、国家の基もといを開こうとしているところである。今、偶然にもこの三人の賢人に出会ったが、これは天からの賜りものに違いない」

 家で苛め殺されそうになったのに耐えかねて逃げ出してきたのだとばかり思っていましたが、いつの間にか、天から国作りの特命を受けたことになっていたみたいです。

 とにかく、三人にはそれぞれの能力に応じた仕事を与え、一緒に旅して卒本川に着きました。

 ここは肥えて美しく、山河も堅固ないい土地でした。ここには卒本扶餘という国がありましたが、王には跡継ぎの息子

がありませんでした。王は朱蒙が常人離れして優れているのを見て取ると、自分の三人の娘のうち、次女を妃として与

えました。やがて王が死ぬと朱蒙は王位を継ぎ、国の名前を高句麗としました。また、名字を改めて「高朱蒙」と名乗り

ました。太陽は高い場所から世界を照らすものですから。

 高句麗の王となったとき、朱蒙は二十二歳でした。紀元前三十七年のことだと言われています。人々は天(太陽)の子である彼を東明王と呼びました。
かんたん神話学より)

高句麗~国争い

国を建てると、四方から評判を聞いて人々が集まってきて、次第に賑やかになりました。周囲の他部族を攻撃して従えさせ、概ね平和に過ごしていました。

 そんなある日、朱蒙が沸流水という河に行きますと、上流から菜っ葉が流れてくるのを見ました。さては、上流に人が住んでいるな。それに気付いた朱蒙は狩をしながら上流を目指して行きますと、やはり狩をしている貴人の一行に出会いました。彼は沸流水の上流にある沸流国の王で、松譲(ソンヤン)と言いました。

 松譲は朱蒙の様子が常人とは異なるのを見て取り、彼を引き寄せて一緒に座って尋ねました。

「私は僻地に住み、これまで君子に出会うことがなかった。今日は図らずも出会うことが出来て幸いである。ところで、そなたは何者で、何処からおいでたのかな?」

「私は天帝の孫で、この近くに都を定めています。あえて尋ねるが、君王はどなたの後裔であるか」

「私は仙人の子孫であり、何代にもわたって王業を続けてきた」

 いつものように、朱蒙は必殺技の「天帝の血筋」を出してみましたが、なんと相手は仙人の子孫です。よく分かりませんが、なんだか凄そうです。しかも、何代にもわたる地元の王の血筋であるというのですから、正統性では圧倒されています。

 実際、松譲は朱蒙の出自を聞いても大して怯まず、「この辺りは二人の王を受け容れるには狭い。そなたはまだ都を定めて日が浅い。我が沸流()の属国となり、私の従者になるのがよかろう」とさえ言いました。

 これを聞いて、朱蒙は怒りました。

「何を言う、そなたこそ我が従者になるがよい! 私こそが神の後を継いだ正統な王だ! そなたは神の子孫でもないのに勝手に王を名乗っているが、もし私に従わぬのなら、必ずや天罰が下るであろう!」

 天帝の血を引く、ということは彼の存在意義アイデンティティの全てでした。何をするにも、天の子であるからこそ正当であり、周囲にもそう理解されて当然だったのです。

 しかし、松譲は朱蒙が「天帝の孫、天帝の孫」と繰り返すのを生暖かい気持ちで聞いていました。ならばどの程度のものか試してやるかと思い、弓術の勝負を持ちかけました。……朱蒙は弓の名手だったのに、マズい方法を選択したものですね。

 松譲は鹿の絵を掲げ、百歩離れたところから射てちゃんと当てました。ただし、中心に的中はさせられませんでした。一方、朱蒙は宝石の指輪を百歩離れたところに吊るして射ましたが、指輪は一発で粉々になりました。この神業に、松譲は大いに驚きました。

「なるほど、そなたは優れた力を持っているようだ。だが、我が国は古くからこの地にある歴史ある国。天が我が一族にこの地を下された証として、鼓、笛といった伝来の神器を授かっている。そなたにそれがあるのかな?」

 そんなものは持っていませんでしたので、朱蒙はショックを受けました。それらがないので、沸流国の使者がやってきても王としての威儀を整えることが出来ず、馬鹿にされていると感じて悩みました。


朱蒙がこのことを漏らすと、聞いていた臣下の扶芬奴が進み出て言いました。

「臣が大王のために沸流の鼓を取ってまいりましょう」

「よその国のものをどうやって取って来ると言うのだ」

「それは天が与えたもの。そして我が大王は天の血筋です。どうして取って悪いことがありましょう。

 それに、大王は様々な危地を乗り越えられて、今、この地でお名を馳せておられます。大王が扶餘で困っておられた頃、誰がこのような未来を予想したでしょうか。これほどのことを成し得たのも、それが天命だったからに他なりません。天がついているのですから、どんなことでも出来ないことはないのです」

 おいおい、それは屁理屈だろう。しかも電波入ってるし。

 しかし、扶芬奴は実行しました。仲間二人と共に沸流に潜入し、まんまと鼓と笛を盗み出してきてしまったのです。

 すぐに、沸流からの使者がやってきました。朱蒙はバレるのではないかとヒヤヒヤしましたが、鼓と笛の色が褪せて前よりも古い感じに見え、違う者のようであったので、松譲は「盗んだな」と言えず、この件はそれで終わってしまいました。なんてこった……。

 また、松譲は言いました。

「この地に二人の王は納まらぬ。どうだ、どちらが王都を開いたのが先か、それによって優先されるべき国を決めようではないか。やはり、歴史ある国の方が主となり、歴史浅い国は属国となるべきであろう」

 そこで、朱蒙はわざと古い柱を使って宮城を建てました。そのために一千年も経っているように見えたので、松譲はそれを見て、もう「歴史」のことは言わなくなりました。

 このように高句麗と沸流は小競り合いを続けてきたのですが、ついに決着のつくときがやってきました。

 朱蒙は西の地方を巡幸していたとき、雪のように白い大きな鹿を捕らえました。これは神の眷属に違いない……そう思った朱蒙は、蟹原という地で 逆さてるてる坊主のように白鹿を逆さ吊りにして、このような呪文を唱えました。

「さあ、大雨を降らせ。降らして沸流国をそっくり水の底に沈めよ。さもなくば、お前を決して放しはしまい。お前が我の憤りを晴らすのだ!」

 鹿の悲しげな鳴き声は天にまで達し、果たして、天の池の底を突き破ったような大雨が七日間も降り続けました。洪水となり、朱蒙の望みどおりに沸流の都は水の底に没しました。そして、高句麗も水の底に没していました。って……。これって、単に平等に地上に天罰が下ったってだけのことなんじゃあ。

 朱蒙は馬に乗って水の中を泳ぎ渡り、葦の束を流れの中に横に渡して、自分の国民をそれに捕まらせました。それから馬鞭で水をさっと掻きますと、水は直ちに引いたのでした。……そんなことが出来るなら、葦の束を渡す前に水を引かせればいいのに……。

 紀元前三十六年の六月、松譲が来て、国を挙げて降伏しました。洪水の被害で句麗と張りあってはいられなくなったのでしょう。朱蒙は沸流を多勿郡という名にし、松譲をその主に封じました。高句麗の言葉で「多勿」は「古い土地を取り戻す」という意味です。他人の国を取ったのに、朱蒙的には「取り返した」ということになっていたようです。「地上の国は全て天から与えられたもの。であれば、もともと天帝の孫の私の持ち物だったのだ」という理屈なんでしょうか。すばらしきジャイアニズムです。王たるもの、このくらい図々しくないといけないのかもしれません。


 その一ヵ月後、鶻嶺という山が黒い雲に覆われ、下から見えなくなりました。ただ、数千人が土木工事をしているような声や物音だけが聞こえてくるのです。朱蒙は「天が私のために城を築いているのだ」と言いました。果たして、七日目に雲が晴れ、立派な城が姿を現しました。朱蒙は天に向かって礼拝すると、そこに移り住んだのでした。

 沸流国(ふるこく)始祖神話-『民間伝承』

 建国の評判を聞いて四方から人々が高句麗に定住したので、次第に繁栄していった。  そんなある日、朱蒙が沸流水の上流から野菜が流れてくるのを見つけ、上流に人が住んでいることに気付き、狩をしながら上流を目指すと、やはり狩をしている一行に出会った。 「私は沸流水の上流にある沸流国の王で松譲と申す。僻地に住み、これまで君子に出会うことがなかった。今日は図らずも君子に出会うこと叶った。幸いなことではあるが、あなたは何者で、何処から到来されたのですかな?」と松譲が朱蒙に訊いた。  二人の間では、いずれが高貴な血筋かの主張が交わされたが、天帝の子の朱蒙に対して、仙人の子の松譲では勝負がつかなかった。 「この辺りは二人の王を受け容れるには狭い。あなたは都を定めて日が浅い。我が沸流の属国となり、私の従者になるべきである」と松譲が言い放った。  朱蒙が怒りだし、結局は弓での勝負をすることになった。当然、名手の朱蒙が勝った。  すると今度は、天から土地を授けられた証としての神器の有無が問題となった。  このような口合戦が延々と続くが決着がつかない。  そんなある日、朱蒙は西の地方を巡幸していたとき、雪のように白い大鹿を捕らえた。神の眷属に違いないと思った朱蒙は蟹原という地で、この白鹿を逆さ吊りにして洪水を起して沸流国を水の底に沈めないと、永遠にこのまま吊るしておくぞ」と脅かした。  果たして天池の底が抜けたような大雨が七日間も降り続け、洪水となり、朱蒙の望み通りに沸流の都は水底に没した。だが、同時に高句麗まで水底に没してしまったが、朱蒙が鞭で水をなでると瞬く間に水がひいた。 紀元前366月、松譲が来て国を挙げて降伏した。朱蒙は沸流を多勿郡と命名して、松譲を領主に封じた。その一月後、鶻嶺山が黒い雲に覆われ、下から見えなくなった。だが、数千人が土木工事をしているような声や物音だけが聞こえてきた。  朱蒙は「天が私のために城を築いているのだ」と言った。七日目に雲が晴れると、そこには立派な城が姿を現した。朱蒙は天に向かって礼拝すると、そこに移り住んだ。
沸流国の王松譲と朱蒙の勝負するところが面白いですね。消奴加の王で五部族のなかでは筆頭の王です。二人とも天孫の血統を自負していました。すると、岩見神楽 「天神」での争いは天孫(天つ神)同士の正統争いということになりそうですが、古事記では八俣の大蛇の話に転じます。

この神話で重要なのは、松譲(ソンヤン)が朱蒙を立派な男だと認めて、
朱蒙のために鶻嶺山に城を立てたということです。この鶻嶺城は古事記で言う出雲国にたてられました。七日目に雲が晴れると立派な城が築かれていました。そこで、「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに その八重垣を」と須佐之男が詠います。八雲は出雲という地名にも掛けています。出雲は「い・ず・も」と読まれますが、「い・づ・も」だったようです。発音はイジュモといっていたのですが、ジュというような二重母音の音は日本語にはありませんから、ずとかづと変わります。出雲の地名は鶻嶺、卒本、五頭山、須、などたくさんの古名がありますが、現在名は五女山です。いずれにしても出雲国の須賀の地に、宮がさだまったといえるのです。松譲王は古事記では足名椎神(あしなづちのかみ)とお呼びしています。須世理比売の別名が櫛名田比売です。松譲王は沸流国の王ともいわれていました。布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)の布留(ふる)は、沸流の日本語なまりです。物部氏の遠祖は松譲王ということになり、古事記では饒速日命(にぎはやひもみこと)になります。饒速日命は天璽十種瑞宝を携えて、多くの供(とも)を従え、天磐船(あめのいわふね)に乗って降臨する神話の主ですから、天孫であることはたしかですね。
東明聖王すなわち朱蒙のことです。では、妻籠みのことが書かれていませんね。ソンヤンは娘を嫁がせて朱蒙を養子とし、朱蒙が解(へ)氏から、高(こう)氏に姓を変えて王位を譲りました。この城は松譲(ソンヤン)が娘の結婚の門出に贈った新居でもあったのです。須佐之男の須は音が異なりますが都と同じです。出雲の別名が須です。須佐之男は出雲の王という意味です。転じて、大国主という共立王の絶対敬称が出雲の王に使われるのです。松譲(ソンヤン)は古事記では、最初に登場する須佐之男です。その娘が須世理比売ですから、葦原色許男は朱蒙の別名です。葦原色許男の絶対敬称が大国主命(おおくにぬしのみこと)で、かつ、須佐之男とも呼ぶことができるのです。
神」> 





鶻嶺山(オウリョンサン・遼寧省桓仁満州族自治県桓仁鎮の北8km)
中国名 五女山山城(wǔ nǚ shān shān chéng) 
史上に纥昇古城(hé shēng gǔ chéng)、合羅城、五滝山、五老山、郁霊山、于郎山、五余山などの名づけがあった。
かんたん神話学より)


八俣の大蛇 

こうして追放されて出雲国の肥河(ひのかわ)の川上の鳥髪(とりかみ)という所に降り立ちました。

この時、箸がその川から流れ下りてきたのです。

そこでハヤスサノヲ命は、人が川上にいると思い尋ね上って行ってみると、老夫と老女の二人がいて、童女(をとめ)を中に置いて泣いていました。


そこで、「あなた方は誰ですか」と尋ねました。


その老夫が答えて言うには、
「私は国つ神の大山津見(オホヤマツミ)神の子です。私の名は足名椎(アシナヅチ)と言い、妻の名は手名椎(テナヅチ)と言い、娘の名は櫛名田比売(クシナダヒメ)と言います」。


 また、「あなたはどうして泣いているのですか」と尋ねると、答えて言うには、
「私の娘は元々八人いましたが、あの高志(こし・漢の玄菟郡治)の八俣の大蛇(ヤマタノヲロチ)が年毎に襲ってきて食べてしまいました。今年もやって来る時期となったので、泣いているのです」
 そこで、「どのような形をしているのか」と尋ねると、答えて言うには、

「その目は赤かがちのようで、身一つに八つの頭・八つの尾があります。また、その身には蘿(こけ)や檜や杉が生え、その長さは八つの谷・八つの峰にわたります。その腹を見れば、ことごとく常に血がにじんで爛れています」と言った。ここで赤かがちと言うのは、今の酸漿(ほほづき)のことである。

 そこでハヤスサノヲ命がその老夫に言うには、「このあなたの娘を、私の妻に下さらないか」と言うと、「恐れ入りますが、貴方様のまだ名前を存じませんので」と答え、ました。
これに答えて言うには、「私は天照大御神の弟です。そして、今天から降りてきたところです」と言いました。


そこでアシナヅチ神・テナヅチ神が言うには、「それならば恐れ多いことです。差し上げましょう」と言いました。

 そこでハヤスサノヲ命は、その童女の姿を神聖な爪形の櫛に変えさせ、みづらに刺して、そのアシナヅチ神・テナヅチ神に言うには、「あなたたちは八塩折の酒(やしほをりのさけ)を造り、また垣を作り廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの佐受岐(さずき)を作り、その佐受岐ごとに酒桶を置き、その酒桶ごとにその八塩折の酒を満たして待ちなさい」と言いました。

 こうして、言われた通りに準備して待っている時、そのヤマタノヲロチが本当に言葉通りの姿でやって来た。


すぐに酒桶ごとに自分の頭を垂れ入れて、その酒を飲み出した。そこで飲んで酔ってその場に伏せて寝てしまいました。


そこでハヤスサノヲ命は、その身につけている十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、そのヲロチを切り刻むと、肥河が真赤な血となって流れました。


 そして、命が中の尾を切り刻んだ時、剣の刃が欠けたのです。


そこで不思議に思い、剣先を刺して裂いて見ると、都牟羽の大刀(つむはのたち)がありました。
そこでこの太刀を取り、不思議な物だと思って、アマテラス大神に申し上げ奉った。
これが草那藝の大刀(くさなぎのたち)である。

 さて、こうしてそのスサノヲ命は、宮を造る土地を出雲国に求めました。
そして須賀の地に到り、「私はここに来て、私の心はすがすがしい」と言って、そこに宮を造って住んだ。それでこの地を今、須賀と言う。

 この大神が、初めて須賀宮を作った時に、そこから雲が立ち昇りましたので歌を作りました。
その詠んだ歌は、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

盛んに立ち昇る雲が、八重の垣をめぐらしている。新妻を篭らせるために、八重垣をめぐらしている。あの素晴らしい八重垣よ。

 そこでそのアシナヅチ神を呼び、「あなたを私の宮の首長に任じよう」と言い、また名を与えて、稲田の宮主須賀の八耳(イナダノミヤヌシスガノヤツミミ)神と名付けました。

*アシナヅチ神=松譲王(ソンヤン)は高豆莫婁・東明王が北扶余から来都した時、王を禅譲し、自らは多勿候に封ぜられました。原初は沸流国王「松譲」の所在地は、現在の富尔江流域に在り、沸流江が郡内を流れ、大同江に合流する。のちに高句麗に統合され涓奴部になります。須賀之宮は卒本で沸流国の北西、嶺山(オウリョンサン)でです。国つ神とは天孫系でない王のことをいい、大山津見神とは松譲王(ソンヤン)となっているが、沸流王の解氏です。


そこで、(スサノヲ命)そのクシナダヒメ(松譲の娘)と夫婦の交わりをして生んだ神の名は、八島士奴美(ヤシマジヌミ)神と言う。
やはり朱蒙がこのアシナヅチ神の娘の櫛稲田姫との間にが産まれた子がいたのです。多勿軍ができたのは、朱蒙がようやく力をつけ始めた初期のころです。八上比米が全力で支援したのはこの多勿軍だったのでしょう。朱蒙も恋多き英雄だったのでしょう。櫛稲田姫と八上比米、二人の女性が朱蒙に貢いでいたのですね。



 また、(クムワ王が)オホヤマツミ神(松譲(ソンヤン)の娘)、名は神大市比売(クムワ王正妃)を妻として生んだ子は、大年(オホトシ)神(帯素)、次に宇迦の御魂(ウカノミタマ)(帶素は長兄、曷思王・(諱不明)中国正史では三弟、朝鮮史では末弟)。二柱。

 この兄のヤシマジヌミ神が、オホヤマツミ神の娘、名は木の花知流比売(コノハナチルヒメ)を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴(フハノモヂクヌスヌ)神(都頭王・帶素の弟か)。


 この神(金蛙王)が、オカミ神の娘、名は日河比売(ヒカワヒメ)を妻として生んだ子は、深淵の水夜礼花(フカフチノミヅヤレハナ)神です。


この神(金蛙王)が、天の都度閇知泥(アメノツドヘチヌ)神を妻として生んだ子は、淤美豆奴(オミヅヌ)の神。
 
この神(金蛙王)が、布怒豆怒(フノヅヌ)神の娘、名は布帝耳(フテミミ)神を妻として生んだ子は、天の冬布(アメノフユキヌ)神である。


 この神(金蛙王)が、刺国大(サシクニオホ)神の娘、名は刺国若比売(サシクニワカヒメ)神)を妻として生んだ子は、大国主神ですが、ここでの大国主は朱蒙です。刺国若比売(サシクニワカヒメ)神)の別のお名前が沼河日売(ぬなかわひめ)です。(柳花王妃)です。

大国主は、またの名は大穴牟遅(オホナムヂ)神と言い、またの名は葦原色許男(アシハラシコヲ)神と言い、朱蒙のことです。大国主、またの名は八千矛(ヤチホコ)神と言います。は八千矛(ヤチホコ)神、この神は金蛙王のことです。大国主のまたの名は宇都志国玉(うつしくにたま)の神と言います。もう一人の大国主神は、胸形の興津宮におり、事代主神の父王になります。馬韓を支配していた辰国王です。こうして、大国主には、三柱の神に合わせて五つの別名があります。


<石見神楽 大蛇(おろち)>

 石上神宮(いそのかみ)は、宝剣そのものが依代(よりしろ)という異例の社である。石上坐布留御魂神社(元名)の「ふるみたま」の「ふる」は布留(ふる)は、沸流が語源ということになる。
。「ふる」というのは固有名詞で、沸流(비류/piryu)である。あの、国つ神・松譲王のいたところ。もっと分かりやすくいえば八岐大蛇を退治した場所である。出雲国の肥河(ひのかわ)の川上の鳥髪ということができる。さて、実在する場所は後節に書く。玄莬郡(漢の直轄地)の西に隣接する地域である。石上神宮(いそのかみ)の宝剣は素戔嗚が、はじめ紀伊国熊野邑に上陸したときから持っていた神宝剣で、佐士布都神(さじふつのかみ)、又の名を甕布都神(みかふつのかみ)、又の名を布都御魂(ふつのみたま)とも言う。石上神宮はこれを祀った物部氏の氏神であり、その権力の象徴であった。石上神社=物部氏=沸流国=おろちの尻からでてきた剣の等式がなりたつ。物部氏始祖は高句麗5部族の王権を持つ涓奴加/ソノの出身である。

さて、沸流の王は長らく玄莬郡の漢の太守に婢(貢女)を毎年、差し出すことに苦しめられていた。なんとか、漢に対抗できる強い王が現れないかと待ち望んでいた。

ここで、八岐大蛇の話から分かることを整理すると・・・
*後漢の勅使と官吏が「おろち」、
*足名椎(アシナヅチ)が松譲王の王子
*貢女が櫛稲田姫、松譲王の末娘
*東明王(朱蒙)である。
*貢女(こんにょ)漢の皇帝に貢ぐ婢
*高志(こし)国は玄莬郡。
*沸流水(비류/piryu) 渾江の上流、もしくは富爾江現在の浑江(渾江)の最大支流の周辺。


高句麗~太陽に昇る琉璃

 朱蒙が高句麗王となって数えで十四年目、母の柳花が亡くなりました。金蛙王は皇太后の待遇で彼女を葬り、神廟を建てました。それを知った朱蒙は金蛙王に感謝し、使者を扶餘に遣わして高句麗の産物を贈ったのでした。

 その五年後のことです。朱蒙のもとに、彼の息子だと名乗る若者がやってきました。扶餘から逃れて来たと言い、その母だという女性を伴っています。

 朱蒙はこの地で結婚した妃との間に沸流プルと温祚オンジョという息子をもうけていましたが、それ以外の子供が………実は、いたのです。東扶餘から逃亡するとき、彼は既に禮一族の娘と結婚していたのですが、彼女を連れて行くことが出来ず置き去りにしたのでした。その後で禮氏は琉璃を産んでいたのです。

 琉璃は語りました。

「私が幼い頃、道で雀を射て遊んでいて、誤って水汲みの女の水がめを割ってしまいました。女は私を呪って言いました。

『これだから父親のない子は!』

 私は恥ずかしくなり、帰って母に問いました。『私の父は誰なのですか? どこにいるんですか』と……」

 

 琉璃に尋ねられると、母は「お前に定まった父はいないのですよ」と答えました。「私にも、誰がお前の父親なのだか……」

 これを聞くと琉璃は涙を流しました。

「父親が誰かも分からないだなんて、世間に顔向けできません」と言って首を刺そうとしたので、母は慌てて止めて、
「冗談が過ぎたようです。お前の父は常人とは異なっていたので国に受け容れられず、南の地に逃れて国を開き、王になっています」と明かしました。

「それは本当ですか!」

 琉璃は喜びましたが、やがて悔しがりはじめました。

「父は王だというのに、子の私は人に仕えて暮らしているなんて。才覚の差というものでしょうが、恥ずかしいです」

 すると、母は言いました。

「国を出るとき、あなたの父上は仰いましたよ。

『生まれた子が男児ならば、その子に言いなさい。私の形見の品が七稜七つ角の石の上の松の下に納めてある、それを探し出せたなら間違いなく我が子であると認めよう』と」

 母の話を聞いた琉璃はすぐにその形見を探しに山や谷に行きましたが、見つけることが出来ず、ただ疲れて帰ってきました。

 そんなある日のこと、琉璃が堂の上にいると、柱を支えている礎石の下から何かが聞こえるような気がしました。見ると、礎石には七つの角があり、柱は松で出来ていました。こここそが父の言い残した場所だったのです。琉璃は柱の下を探し、折れた剣を一振り発見しました。

 

「その剣を持ち、屋智と句鄒と都祖の三人を共にして、私は父上に逢いにやってまいりました。どうかこの剣を見て下さい!」

 琉璃は語り終えると、大事に持っていた折れた剣を差し出しました。朱蒙が自分の折れた剣を出して合わせますと、剣は血を流してくっつき、一振りの剣になりました。朱蒙は更に琉璃を試して言いました。

「お前が本当に我が子ならば、何か神術ができるだろう」

 すると琉璃は天空の太陽まで昇って見せました。……おいおい、そんなこと父ちゃんの朱蒙にも出来ねーよ。才覚がナイなんてもんじゃないって。(余談ですが、琉璃は父に負けず劣らずの弓の名手でもあります。)

 これらを見た朱蒙は喜び、高句麗で出来た二人の息子を差し置いて琉璃を太子に定めたのでした。

 これも天の計らいだったのでしょうか。それからたった五ヵ月後の秋、朱蒙は四十歳で昇天しました。琉璃は遺品の玉と鞭を龍山に葬り、王位を継ぎました。

 なお、朱蒙の故郷であった東扶餘は、帯素王(朱蒙の長兄)が高句麗の三代目の王・無恤王(朱蒙の孫)に討たれたことによって滅びました。西暦二十二年のことです。帯素は朱蒙が東扶餘に災いを成すとして殺そうとしましたが、図らずもその危惧のとおりの結末を迎えたのでした。(かんたん神話学より)

高句麗~建国のエピソード 古事記をもとにした創作です。


金蛙王には全部で7人の息子たちがいましたが、柳花の息子に勝る者は一人もいませんでした。この子はあらゆる面で優れていましたが特に弓使いが達者で、そのことから朱蒙(チュモン)と呼ばれるようになったのです。(当時扶余では弓の名手を朱蒙と言いいました)
金蛙王の長男・ 帯素(テソ)はそんな朱蒙を疎ましく思い、王に朱蒙を亡き者にしようと建議しました。そんな帯素の思惑に対し王はいつまでも明確な答えを出そうとはしませんでした。王は内心、朱蒙を何よりも大切に思っていましたが、そうした周囲の状況を察した朱蒙は次第に警戒を強めていきました。あの手この手を使って殺そうとしましたが、朱蒙王子はそのたびに窮地を逃れました。
テソ王子やその家臣たちの多くが朱蒙を疎ましく、恨めしく思う様になっていることを知った柳花夫人は、そうした人々に襲われる前に朱蒙を遠くへ逃がそうと考えました。

このパートは、扶余の神話と記紀の神話との類似性にかなり関わっているので私見ということで加筆することにします。

(物語のエピソード:古事記、大国主 1 稲羽の素兎、『其の八十神、各(おのおの)稲羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)を婚(よば)はむの心有りて、共に稲羽に行きし時、・・・中略・・・此の八十神は、必ず八上比売を得じ。袋を負へども、汝命(いましみこと)獲たまはむ。』


テソ王子とカルサ王子はソソノ様を得られないでしょう。たとえ袋を背負わされ賤しい奴隷のように扱われておられますが、あなた様こそソソノ様と結ばれるでしょう。」、ウサギが縁結びをしたというので、島根には縁結びのご利益があるという「白兎神社」があります。大国主と八神姫とウサギが揃ったモニュメントの写真があったので載せておきます。

 稲羽は玄菟郡の中の一地方です。八島国は金蛙王や河伯の女、八十神こと帶素や朱蒙が育った東扶余国ですね。高志国は河伯族がいた土地、河伯の女こと柳花の故郷です。稲羽は八神比米のいる地名であることがはっきりしています。そこで、八神比米に求婚しようとしたのは八十神こと八島国の嫡子の帶素王子です。旅立ったのは帶素王子と末子の王子と朱蒙王子の三人です。向かったのは八上姫がいる稲羽ということになります。八神比米は召西奴であり、東扶余から卦婁の領域、南部にある稲羽に桂婁の国があったのです。兎という文字を見てください。玄菟の文字は兎と草かんむりの組み合わせでできています。 ちょっとばかり古事記にヒントが残されていたのですね。白兎は玄菟郡内を移動中の卦婁族の集団だったのです。召西奴は卦婁の王(卦婁)の二番目の娘です。非常にしっかりした美人だったのです。玄菟郡の軍の常備兵にひどいめに遭わされた民が白兎に擬態化されています。略奪されたのかもしれませんね。なんだか、身ぐるみを剥がされたうえに鞭打たれたか、体にも傷を負ったようです。丸裸で傷だらけになった、それらの民を帶素王子はうとましく思い、朱蒙は傷を癒す方法を教えて助けのです。この経緯を八神比米こと召西奴に報告したのですね。「召西奴お嬢さま、嫁ぐならわたしたち部族を奴隷にしか見なかった帶素王子よりも、わたしたちを助けてくれた情けのある朱蒙王子をお選びなさい。」 と 、告げたのです。やがて、帶素王子がやってきます。帶素は召西奴に求愛しますが、古事記では、「吾は汝等の事は聞かじ。大穴牟遅神に嫁はむ」と書いています。召西奴が帶素を拒んだばかりか、朱蒙に嫁ぎたいときっぱりと返事をしたのです。さて、帶素はメンツをつぶされたばかりか、袋を背負わせて従者のように従えていた義弟を選ばれたのです。日頃、蔑んでいた朱蒙に嫁ぎたいと言われたのですから怒りが煮えたぎったのです。火病(ふぁびょん)は民族性なのだそうですが、自己反省ができません。その怒りの矛先が朱蒙に向けられたのです。その後、朱蒙が必要に命を狙われることになりました。恋敵に向けた嫉妬は陰湿でした。つぎの、「八十神の迫害」では、豚のような大きな焼き石を崖から落として、大穴牟遲神=朱蒙が「死にき」と書かれています。重傷を負ったのでしょう。古事記では、母の乳汁を塗って蘇生したと書かれています。

 この段の書き出しは「故、この大国主神の兄弟、八十神坐しき。」
と書いています。ここでの大国主神とは大穴牟遲神が別名です。大国主神と書いた直後に「大穴牟遲神に袋を負わせ・・・」と書いていますが、同一の人物なのです。古事記では、ほんとうに、主役の名前がころころ変わるのです。あなた、朱蒙が王子の頃の話なのですが、正史ともなると、大国主神と最大美名を使うのです。それは、若いころの諱があっても死後の諡(おくりな)を使うのです。記紀では、~天皇とか、~皇尊(スメラミコト)など、太子であったときの出来事でも、すべて死後に付けられた尊称で書かれているのです。



白兎神社(はくとじんじゃ)参道左横にある大国主、八上姫ウサギの塑像。縁結びのパワースポットとして知られる。鳥取県鳥取市白兎592。
  ○記紀でもスサノオと天照大神は男女関係!」

 古事記の解説では、普通、スサノオは天照の弟であるとしています。
 伊呂勢(いろせ)と言う言葉、ヤマタのオロチの項で、スサノヲが「吾者天照大御神之伊呂勢者也」・・わたしは、天照大神の伊呂勢だ」との記述になっています。「いろせ」とは、古代、愛人という意味なのですが、どうしたわけか、岩波の読み下しでは「同母弟」なり」と書いて、「イロセ」とカナをつけています。おかしいですねえ。原文の文字を変えて読みだけイロセとしているのです。(岩波文庫 古事記 天照大神と須佐之男命 1.須佐之男命の昇天)
 
 書記に「兄」を「いろね」(伊呂禰)と呼び、弟をいろど(同母弟)、神代巻ではコノハナサクヤヒメが姉に「いろね」と言っています。「いろ」は、同じお腹から生まれた(兄弟姉妹)という意味の冠語です。今日では、実母の「実」にあたり、実母のことを「いろは」と言う。「いろ」は、「同母」という意味なのです。「ね」は年上の、という意味。上の2つの用例からは、「いろね」は、「同じ(いろは)母親から生まれた年上の姉いうになるのです。そこで、同じ母親から生まれた兄弟姉妹の呼び方は、それぞれ、「いろ」がつくのですね。すると、次のようになります。「いろえ」(兄)、「いろね」(あね)「いろど」(おとうと)、「いろも」(いもうと)。これを踏まえて、下の表を作成すると、ちょっと面白いことが見えてきます。

実母=ilo-ha
実兄=ilo-e
実姉=ilo-ne
実弟=ilo-do
実妹=ilo-mo

兄弟姉妹の日本古語である以上からは、スサノオが天照大神の弟ではありません。
  実母  実兄   実姉 実弟  実妹 
日本古語   i lo ha  i lo e   i lo ne  i lo do  i lo mo
 客家語  Ah Mak  lo ko  Ah tci  lo tai   lo moi
客家語では、moi は女という意味。e は子息という意味。
いろの「い」は、[ji]で、「jit] のtがとれたもの、つまり、一、一つのという意味だろう。「ろ」「lo」は、単純明快に同母の一族を示す*類別詞(るいべつし)と解すことができます。すると、(客家語の母は、アマ、姉はアチである。天照の「ama」は、母という意味。姉の「ane」は「Ah tci] が訛った可能性があることがすっきりと分かります。


2、息子と娘
客家語 lai e moi e
ここでは、「e」が「子供」の意味になる。「e」、単独では実子(男子)になります。
laiは男子を、Moiは女子を意味することになり、そして、Seは恋人か愛人関係を表しています。
カップルのことは、se imo !

彼氏=waga se
彼女=wagi mo
古代の日本での表現。「いも」は、今の妹(いもうと)のいもに残っていますよね。

 さて、スサノオが山川国土を振動させながら、天照大神のもとに参上するとき、アマテラスが、「わが那勢(なせ)命が上がりくる由は、必ず良き心ならず。わが国(葦原中国)を奪わんとおもうか」と、言い放ちます。ここで、天照大神がスサノヲを「那勢(なせ)」と呼ぶのですが、アマテラスがスサノヲを「なせ」と呼ぶのは、他に数ヶ所あります。この二人の述べた言葉を重ね合わせると、共通する語は「勢」です。「せ」は、「せこ」と並んで夫婦、男女の関係を言い表し、単純に「愛人の男」の意味である。異性関係で男性を「せ」、女性を「いも」と呼んだ。「わがせ」が男性の恋人、「わが(い)も=わぎも」が女性の恋人のことなのです。
那勢の「な」は、「私の」という意味。「私の恋人」が上洛してくる。謀反をもって、国を奪おうと思ってのことであろう。」としか言えませんが、かつて恋仲だったのが、いざ、自分の国にないって来ると国を盗みに来たのではと疑ったようです。ほかに解釈することができません。ここでは、スサノオが天照大神の国に来る前から愛人関係にあったという時制からは、どんな男女関係にも誤解が生じるぐらいのことで理解しておこう。
そこで、どうして「あなたの本心をどうやって知ることができるのですか」という問いかけに「子を産んで確かめよう」と返事をしたわけだ。出産したのが女児だったので、「我が心清く明かし。我が生める子手弱女(たわやめ)を得た。だから、「私の勝ちだ」とウケヒをわが物にしたあと、居直って狼藉をさんざん働くことになる。このことから、スサノオは、天照大神はスサノオとの間に一子を儲けたことになります。しかし、天照大神すでに二人の男子を産んだやもめ(未亡人)であったので、女の子を産んでしまっては、スサノオを罰することができません。畏まって天の岩戸に隠れるという自罰行意をとります。これは歴史というよりドラマのような話です。天照の若いころの名前が八上姫こと、召西奴であったとネタバレすれば、古事記のストーリーは実にすっきりする。稲羽の素兎では、八十神こと帶素とその弟に袋を背負わされて従者のように扱われていた朱蒙のほうが好きだった。帶素ら二人の王子の求愛に「吾は汝らの事は聞かじ。大穴牟遲神に婚はむ」(古事記)と、きっぱりと答えたのですね。帶素と弟が怒り、朱蒙を殺そうと謀ったのは、激しいジェラシーだった。こうして古事記からも、ドラマが展開できるといえる。

 母が異なる異母兄弟姉妹の間の結婚は許されていたが、同じ母の兄弟姉妹との結婚は固く禁じられていましいた。古事記の中には、興味深い話があります。允恭天皇の世継ぎであった木梨之軽太子、皇位を受け継ぐはずでしたが、実の妹の軽太郎女と不倫を犯した。二人の愛は会わずにはいられないほど熱烈でした。禁じられた愛ほど、ときめき、燃え上がるのでしょうか。そのため、捕らえられて島流しにされ、結局、二人は共に自害したのです。兄の失脚で、弟の穴穂御子が即位したのが第二十代安康天皇です。古事記の挿入物語にしては妙にリアルで、悲劇のようですね。同母の兄弟姉妹の恋愛は不倫として許されなかったのです。
 では、スサノオとアマテラスが岩波の古事記で「同母弟」と書いたら、あなた、おかしいと思いません?でしょう。どうしてまぐわって木俣神という女の子をもうけたのでしょうか。スサノオとアマテラスが近親婚になってしまうではありませんか。

中国の氏と姓と名前と結婚

 貴族の女性は姓を称し、男性は氏を称した。一般の平民には姓も氏もなかった。天子から庶民までいずれを問わず一人一姓になったのは、秦統一以後秦漢の頃で、それ以後、氏は姓に吸収され、姓と氏の区別がなくなった。他方、少数民族の姓氏はその音訳をもって表現したので、2文字や4文字、中には7文字といった多字姓になる。中国人の命姓では複音姓氏は省略して読みやすく一文字に簡素化して新姓とすることが多く、ほとんどの姓氏が単音であり、双音姓氏は10%以下で、そのほとんどは満州族の姓である。封建制度のなかでは、姓に貴賤があり、姓氏そのものが社会的地位や昇進、婚姻を制約した。門閥制度があり、朝鮮でも長らく続いた。近年でも、男性も女性も「李」姓であったばあい、結婚は許されない。ところが、「李」姓の人があまりにも多く、子供が「恋しちゃったのよ」の時は、家の礼節を破るとして、親は決して婚姻を許さない。今日でも悲恋ドラマの人気第一位のテーマである。余談になるが、中國で第一位は「李」(リー)、第二位は「王」(ワン)、第三位は「張」(ジャン)である。(大姓が12億の人口の大半を占めるので同姓同名が大量にでてしまう。今後中国は単名よりも2字にする方が増えるだろう。一般の平民は名のみで、姓氏を持つことを許されていなかった。今日では、名は、同等の者が日常呼ぶときのニックネームであり、「名字(みんず)」と言うばあい正式な書き文字としての名前である。辛亥革命以後、名のみを用いる習慣になっている。(一名主義)

物語のエピソード:古事記から読み解く 八十神の迫害

 八上比賣=ソソノ、八十神=テソ、大穴牟遅神(オホナムヂ)=朱蒙、
御祖の命=ユファ夫人、神産巣日神 金蛙王(クムワ)王と登場人物が揃っていますね。

「ここに八上比賣、八十神に答えて言いしく、「吾は汝等の事は聞かじ。大穴牟遅神に嫁はむ。」
テソとカルサ王子の求婚を拒み、朱蒙と結婚します。と、はっきりと答えています。分かりやすですね。
猪を待ち取れと命じ、打ち取らなければ殺すぞと朱蒙に言っておいて、焼き石を落として朱蒙を殺そうとします。
「御祖の命、哭き患ひて、天に参上りて、神産巣日之命に請しし時、・・・」
ここは母ユファ夫人が心配して王に助けを求めたということです。
「おまえがここにいると、しまいには大勢の家臣たちに殺されてしまうでしょう。須佐之男のいらっしゃる卒本に参り向かいなさい。きっと、須佐の王はお前を取り計らってくれるでしょう」
;物語のエピソード:古事記 八十神の迫害 「その子に告げて言いしく『汝、此間にあらば、遂に八十神のために滅ぼさえなむ。』
・・・中略・・・「須佐能命の坐します根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神、議(はか)りたまいなむ。」


*根の堅州国に居られる須佐能命の存在が、朱蒙ではないことがわかります。朱蒙が逃避する目的地なのですから、すぐに分かりますよね。根の堅州国にはスサノオがいたこと、その娘が須世理比売なのです。
*ここで、6黄泉の国とは根の堅州国なのでしょうか。 

 *伊邪那美は柳花王妃、伊邪那岐はクムワ王である。6黄泉の国はクムワ王が柳花王妃に降りかかった高句麗との内通の罪で死刑となるのを、自らの手で殺したと考えられます。自害であれば国葬ができない。また、処刑であれば死体は打ち捨てられる。従って王自らの手打ちにして、王妃の名誉を守った。愛があるから最愛の妻を自分の手で殺した。その結果、柳花王妃は国葬となり、神廟が作られ高句麗も使節を立てて葬儀に参加した。こんな風に考えられるのです。犬猿の間柄のテソも朱蒙の葬訪を受け入れたということですね。
古事記,黄泉の国では、クムワ王が深い後悔のもと柳花夫人に「自分のもとに還るべし」と語ります。自責の念と未練が大きかったことを物語ります。が、柳花はそれを許さなかったという後日譚であろうか。男女の別れた後の思いの違いをひしひしと感じます。

こうして、朱蒙は育った王城を去るのです。
朱蒙は心から信頼できる者数名と共に南方へ向かいました。

それを知った扶余王族はすぐに軍隊に朱蒙一行を追い掛けさせたましたが捕らえる事は出来ませんでした。

朱蒙は奄利水(今の鴨緑江の東北部)に着くと「我は天帝の子・河伯の孫である! 橋が無くて河を渡ることが出来ず、後ろからは敵が追ってきているがどうしたら良いか!」と叫びました。すると、河の中から多くのスッポンが出て来て道を作ってくれました。
よく、河伯の女が日精に感じて朱蒙が生まれたという伝承が渡来人の口からでます。金蛙王は大石の下から拾われた金色に光った蛙で、解夫婁王が持ち帰ると王子になったということで、金蛙王は、いわば捨て子だったわけで、天孫とは程遠いのです。どうしても朱蒙は天帝の子であるとするためは、解慕漱の子にするか、あるいは太陽の光に照らされて生まれたのだとか脚色しなければなりません。河伯の孫とは、どういうことでしょう?河伯神女とは、高句麗の神廟では木を刻んだ女人像として扶余神と号して祀られました。河伯(はべく)の女といえば、だれでも知っているほど有名です。また、神廟は左右に分かれ、登高神と呼ばれていたのが朱蒙です。これは三国志魏書、高句麗伝に書かれていますので、ほぼ史実なのです。河伯族の族長には3人の娘がいたようですが、その真ん中の娘だったようです.。実は、金蛙王がよばいしたとか、河伯族を滅ぼした傍ら瑞厳女を連れ帰り第二夫人にしたとか伝承として投影されています。この章のここかに書いていますが、は備後国風土記では、金蛙王を武塔神、河伯族長を南海の神とします。南海国の族長は、別称蘇民将来で、古事記と似ているところは、王がよばいにでかけたが、日が暮れててしまったというようなところです。
  
無事に奄利水を越えた朱蒙一行は鴨緑江の中流地域である卒本につき、須佐之男の御許に参上すると、その娘が出てきました。

「超イケてる!ヤバイ、ヤバイ」、姫は朱蒙にたちまち一目ぼれしてしまいました。

そこで、須佐之男が出てきました。「こいつは敵国からやってきたキモイやつだ、どんな輩か知れたものではない」。須佐之男はさまざまな苦難を与え、それでも死ななかったら天孫の子だと認めよう思いました。

始めに毒蛇の室に投げ込みました。姫は「へびの*首かけ布を与えて、「蛇が噛みつこうとしたら、この布を三度振って打ち払いなさい]、と言いました。朱蒙はその通りにすると、蛇は自然と静まりました。

つぎに、ムカデと蜂の入った室に入れられました。姫はムカデの首かけ布と蜂の首かけ布をお与えになりました。朱蒙はまたも無事でいることができました。

 ここでの須佐之男はBC59-37、高无胥(六代)、男子に恵まれなかった。豆莫汗は5代・東明王・卒本城と改称

須佐之男は朱蒙を野原に連れていき、鏑矢を射ると、「あの矢を取ってこい」と命じました。

朱蒙が野原に入って矢を取ろうとしたとき、須佐之男は矢継ぎ早に火のついた鏑矢を次々に放ったので、野原は炎で包まれました。

朱蒙は炎にすっかり囲まれて、どこから逃げ出せるのか戸惑い慌てていると、ネズミが出てきて、「この下に穴があるよ」、と言いました。その場所を踏み込むと、内はぽっかりと洞窟のように空間になっていました。その穴に落ちて隠れていると、野原の炎は通り過ぎて行きました。

やがて、ネズミが一本の鏑矢を口にくわえて持ってきました。その矢の羽はネズミの子等が全部食べてしまいました。

姫は朱蒙が焼け死んだと思い、弔いの道具を持って、大声で泣きながら野に来ました。父の須佐之男はすでに朱蒙が死んでしまったと思い焼け焦げた野原に入って行きました。すると、朱蒙がぱっと現れて、「王様が放ったあの矢を持参しました。どうぞお受け取りください」と、朱蒙はまたもや試練に勝ったのです。

須佐之男は朱蒙を王宮に連れて行って、牢屋にいれ、須佐之男の頭の虱(しらみ)を取らせました。須佐之男の頭にはムカデがたくさんいました。そのムカデは毒をもっています。

すると、姫は椋の木の実と赤土を持ってきて朱蒙の口に含ませて吐き出させました。スサノオは朱蒙が真っ赤な血を吐いて倒れているのをご覧になると「ムカデを噛み砕いて口から吐き出したのだな」と言うと、心なしか可愛いやつだとお思いになって、寝込んでしまいまいた。

王が寝込んでいる隙に、朱蒙は王の髪の毛を垂木に結わえておきました。そして、神宝である生太刀と生弓矢、沼琴を盗み出し、姫を背負って逃げました。

沼琴が木に触れて大きな音がしました。スサノオは起き上がると、その室を引き倒しましたが、髪の毛が垂木に結わいてあるので動けません。髪の毛を解くのにたいそうな時間がかかりました。

その間に、朱蒙と姫はすでに、遠くにお逃げになった。須佐之男は国境まで追いかけましたが、もはやどこに逃げたのか探すことができません。須佐之男は遥か遠くの山を見上げて、朱蒙に伝わるように大声で叫びました。

「お前が持っている生太刀と生弓矢で、帯素(テソ)王子と曷思(カルサ)王子の兄弟、その大勢の手下どもを山の尾根に追い込み、河の瀬に追い払って、お前が王となり、わが娘を正妻とし、鶻嶺山(オウリョンサン)の麓に城をつくって住むのじゃ。よいか、こいつめ」
須佐之男、朱蒙を天孫の子と認めることにしました。そして、大事な娘と神宝を一度に盗まれて、とうとう王座を譲る決心をしました。須佐之男は男子がおらず、3人の娘がいました。父として、たくましい婿が後を継いでくれるように願ったのでした。

こうして、朱蒙が初めて国をお作りになりました。句麗国に前王の高氏の高を頭に付けて、国号を高句麗と改めました。朱蒙は即ち、高句麗の始祖であり、おくり名は東明聖王とされ、末永く讃えられています。時に、朱蒙22歳、紀元前37年のことでした。朱蒙は、こうして宮を作ったあと、先に契りを結んだ八上姫を連れて宮に戻ります。八上姫は、王城に正后、須世理比売がおられるので畏まらなければなりませんでした。ご自分の生んだ子を木俣に挟んで置き去りにしてしまいます。この子は古事記では木俣神とも御依井神とも謂うと書かれています。前に戻ると速須佐之男とうけひをして産んだ子は手弱女(たわやめ)でしたが、女の子であったのです。女の子であったことがどれほどショックなことなのか、現代人には想像してもわかりませんが、わが子が王位を継ぐことができなかったことを嘆いて天岩戸に隠れたのが真相ではと私には思えるのです。召西奴こと八上姫は、夫優台が早世してしまい、すでにやもめでした。優台との間に二人の男子を産んでいました。父の延陁勃(ヨンタバル・卦婁加の長)に無理やり朱蒙に嫁がされた身上からは、察しがつくのですが。高句麗の王位争いをして国の乱れるのを避けて、南に新たに国を作って二人の王子を王にするのが願いだったのです。後に百済国祖母として奉られるのです。
神産巣日神(かみむすひのかみ)というお名前で、語られる言葉を噛み締めて読んでみると、「こは実に我が子ぞ。この中に、我が手俣より漏くきし子ぞ。故、汝、葦原色許男と兄弟となりて、その国を作り固めよ。とのりたまひき。故、それより大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。さて後は、少名毘古那神は常世国にわたりましき。

実像の二人の子供は、兄の沸流、弟の温祚です。古事記では、沸流を少名毘古那神、温祚を大穴牟遲神に比定しています。理由ははっきりしています。兄の沸流が先に死んでいるからです。
*大穴牟遲神とは、これも朱蒙と沸流にあてはまるので固有名詞ではありません。葦原色許男は朱蒙ですが、ほかに該当する人物は見当たりませんので固有名詞です。もどると、大国主とは大王の意味がぴったりです。固有名詞ではありません。須佐之男の須佐は音を引いていますので、須佐はおそらく地名の固有名詞でしょう。須佐之男とつなぐと、須佐に坐す王となり、そこに宮を置いた王は、何世代かありますから、須佐之男は固有名詞ではありません。注意したいのは、
建速須佐之男(たてはやすさおのお)と、速須佐之男(はやすさのお)と、須佐之男と3つの文字列で使い分けられています。同じ宮処でも世代を異にする別人の王とみなすべきでしょう。
朝鮮の物語では


 朱蒙が背負って一緒に逃げた姫は須佐之男の2女、日本の古事記では須世理比売と書かれています。この物語は朝鮮の史書には書かれていませんが、朱蒙の正妃は礼氏です。礼氏の出自は朝鮮史では曖昧で、古事記の物語のほうが正説だと思われます。大国主という名称は日本書紀にはありませんが、大国主神とは大王の変体名詞で、時々の王朝によって変わります。)この大国主は、大穴牟遅(オホナムヂ)・葦原色許男(アシハラシコヲ)神・宇都志国玉(うつしくにたま)神など別名があります。(古事記)
 この物語では大穴牟遅神こと朱蒙はまだ大王になっていませんが、「大国主」という絶対敬称で書いたのです。大国主とは敬称ですから、古事記の段の初めの方は八千矛の神こと金蛙王、中段では朱蒙、大年神こと帶素、後段では八重事代主の父、辰国大王と四神が大国主と称しています。 すると、大国主を固有名詞だと考える学者は大国主を出雲におられた神という以外、複数の場面シラバスを全く理解することができないことになります。古事記の解説本は、名前をそのまま記しているのですから、書いている著者にも「大国主」の相関図が判らないのでしょう。ですから、読む方もまたさっぱり理解できません。 須世理比米の父は、
 物語のエピソード:古事記 3 根の国訪問

「その八上比賣は期(ちぎり)のごとくみとあたわしつ。故、その八上比賣をば率いて来ましつれども、その嫡妻須世理比賣を畏みて、その産める子をば・・・・故、その子を名づけて木俣神と云い、またの名を御井神と云う。

超訳:ソソノは朱蒙と祝言をあげ、朱蒙に従って卒本城に来たが、そこには正妃(嫡妻)須世理比賣がおられて、ソソノは>須世理比賣に傅(かしずく)かなければならなかった。ソソノが朱蒙との間に生まれたのは女の子で木俣神という。
須世理比賣の父は高无胥(六代)です。先代が句麗国と東明国を合わせ東明王を自称していましたから、その二代目になります。古事記では須勢理比米の父を須佐之男と書いています。そして、須世理比売を背負って逃げた朱蒙に向かって、次のように呼ばわります。「汝が庶兄をば、坂の御尾におい伏せ、また河の瀬に追い払いて、おぬしは大國主神となり、また、宇津志国神となりて、わが娘須世理比米を嫡妻(むかひめ)として宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽觚たかしりて居れ」、高无胥が朱蒙に告げたこの言葉は、大事です。まず、自分の娘を正后にせよ。と命じています。なぜなら、この時、すでに八上比米という妃がいたことを知っていたのでしょうか。
朱蒙がスサノオを頼って東扶余城を出奔した。このときスサノオは「根の堅州国」に居たはずです。。この時のスサノオは、根の堅州国の王でその娘が須世理比賣(スセリヒメ)と続くと、宇津志故国は八島国と同じで、八十神がいたところ、八千矛神の領土を奪えというこです。今でいえば、東扶余を追い込んで東扶余王となり、宇迦の高天原に太い柱で宮をつくれと命じたのです。須世理比賣は第六代 高无胥 (コソモ) BC59-37の二番目の娘ですが、朱蒙がやってくると、「目合して、相婚ひたまひて、還り入りて、その父に曰ししく、「少し前に麗しい神がおいでになりました」・・・朱蒙が城に入る前に出会ったのでしょう。目が合ったとたんに、たちまち恋に落ちたのです。ドラマのワンショットになりそうですね。一目ぼれっていうことです。この姫は城に帰って父に「すごいイケメンよ、やばい」とかなんとか、告白したんですね。ところが、父親はすぐには警戒をゆるめません。蛇室に閉じ込めたり、ムカデの室に入れたりします。姫がそのたびに助けるのです。最後には野原の中に鳴鏑を放ち、その矢を取ってこいと命じ、矢を取りに朱蒙が野原に入ると火をつけてしまします。愛おしい男性がなかなか戻ってきません。この次に「妻須世理比売は弔いの喪具を泣きながら野に行ったのです。ここに既に妻・須世理比売と、妻の文字を冠しています。もう、できていたんでしょうかね。須世理比売ももう死んでしまったと思って大泣きしていたのです。ちょっとドラマのシナリオにしてもいいぐらいドラマチックですねえ。その様子を見て葦原色許男(しこお)なんて呼び捨てにしていた父も心なしか、ちょっとやりすぎたのかなと、淋しくおもったのです。そこに、ネズミの穴に隠れていた朱蒙がぱっと現れて、ネズミに食いちぎられたぼろぼろの矢をもって、「さあ、矢を受け取ってください。」と言いました。父王は朱蒙を城に連れ帰ることにしました。こんどは、頭のシラミを取れと命じます。ところが、シラミは毒ムカデでした。姫は椋木の実と赤土を朱蒙に渡します。これを含んで吐き出すと、まっ赤な血のように見えます。父王は毒が回ったと思い、安心して寝てしまいます。朱蒙は目を開けて父王が寝たことを窺うと、父王の頭の毛を部屋の柱に縛り付けて、部屋の戸を大きな石で塞いで、父王の大きな刀と弓矢、神器の琴を盗んで、須勢理比米を背負って逃げます。名場面ですが、いままで映画にするアイディアはなかったのでしょうか。その持ち出した琴が木に触れて、地が震えるほど大きな音を出してしまいます。父王(大神)はその音に驚いて、起き上がろうとしますが、髪の毛が柱に縛られているので起き上がれません。先に、髪を焦って解こうとしますが、こんがらがって髪がなかなか解くことができません。その間に遠くに逃げます。いていますが、いる

■根の堅州国は古事記では出雲国、場所は須賀の地、五女山の麓であると解す。後には高原。故に、高天原とは卒本。卒本扶余の発祥地である。

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そして、ここでの須佐之男とは天神ヘモス王の子孫、5代目(北)扶余の王で卒本扶余を初めて建国した高豆莫です。高豆莫は天孫の子で叔父のへブルをカソボルに追い出しました。へブルにも子がなくある時、大石の下から金色の蛙が現れ、連れ帰ると立派な男子になりました。へブルはこの子に金蛙(クムワ)と名を付けました。その側室である柳花が河伯族の姫です。柳花は朱蒙を産んだのですが、クムワ王は朱蒙が自分の子ではないと疑いながら、柳花を寵愛しているゆえに朱蒙を太子にしようとも考えました。クムワ王の正妃はたいへん柳花に嫉妬しました。金蛙王は、古事記では八千矛神(やちほこのかみのみこと)ですが、ここでは大国主神と表記されています。
八上比米(召西奴)と結ばれた大国主神は朱蒙のことですから、大国主神の主体となる実像は複数の人物が代入しなければ文脈が掴めません。大国主神には5つの別名があることはすでに古事記に書かれていることですから、意味の通るお話にするのが現代語訳には必要です。そうでなければ、物語にならないのです。主役が分からないシナリオを読まされてもチンプンカンプンです。このことは現代語訳のライターの最低限の責任があるのではないでしょうか大国主神を出雲神話から引いて一人だと認識して日本古代史を講演する人がまだまだおられます。古事記では原文に須理比米と須世理比売の区別がついていないところがあります。根の国訪問の段です。

ここの原文の間違いを載せます。

「故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、①其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言「甚麗神來。」爾其大神出見而、告「此者、謂之葦原色許男。」卽喚入而、令寢其蛇室。於是②其妻須勢理毘賣命、以蛇比禮二字以音授其夫云「其蛇將咋、以此比禮三擧打撥。」故、如教者、蛇自靜、故平寢出之。

亦來日夜者、入吳公與蜂室、且授吳公蜂之比禮、教如先、故平出之。亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢、故入其野時、卽以火廻燒其野、於是不知所出之間、鼠來云「內者富良富良此四字以音、外者須夫須夫此四字以音」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。

於是、③其妻須世理毘賣者、持喪具而哭來、其父大神者、思已死訖、出立其野。爾持其矢以奉之時、率入家而、喚入八田間大室而、令取其頭之虱、故爾見其頭者、吳公多在。於是其妻、取牟久木實與赤土、授其夫、故咋破其木實、含赤土唾出者、其大神、以爲咋破吳公唾出而、於心思愛而寢。」

「一行目①と二行目の②の須勢理毘賣はまちがいです。須世理毘賣に訂正すべきです。須世理毘賣は独身のうら若い娘です。須勢理比米は先代の八千矛神の正妻ですから親子ほど年齢が違います。古事記は人間関係についてはかなりずさんというかいい加減です。上の原文中の須世理毘賣須勢理毘賣との間違いなどは、すぐ見破れるはずなのですが、とくに系譜がおかしいのです。どういうことかというと、恋愛関係にある他人を兄弟にしたり、兄弟関係を親子関係にしたり、故意に変えていることです。単純な誤植の枠を超えていることだけは確かです。名前も故意に、ころころ変えているのですから、どんな探偵でも分かりません。騙されてしまいます。
みなさん、物語を知りましょう。この段落での大国主は朱蒙ですよ。

 

<以下に続く。>


須勢理毘賣は八千矛神の神の正妃、須世理毘賣は須佐之男の娘、一世代の差がある。
 

竹田恒泰先生のご本、「現代語 古事記」の”解説”部分ですが人物比定が混乱しています。、上記したように原文にも間違いがあるのですから無理からぬところもありますが、基本的には大国主を一人物の固有名詞と考えているからおきる迷走です。
「現代語 古事記」P72、八千矛神の神の段落を以下抜粋します。
「ところで、㋐大国主にはすでに①八神比売という妻がいらっしゃいました。そこへある日、㋐大国主神が②須勢理毘賣という新しい妻を連れてお帰りになったのです。八神比売は③須勢理毘賣に遠慮して、自分の子を木の俣に挟んで実家に帰っていきました。それで、その子を木俣神、、またの名を御井神といいます。一族の繁栄のためにはたくさんの子どもを儲けなくてはなりませんが、それにしても㋑大国主神は恋多き神でした。ある時、㋑大国主神は、高志国(越国、北陸地方)に沼河比売という美しい姫がいるとお聞きになり、求婚するためにその家に出掛けて、次のお歌をお詠みになりました。」

とても読みやすい現代文ですが、①八神比売は須世理比売です。➁須勢理比米は八神比売です。須勢理毘賣は須世理比売です。
以上①~③を置き換えるとすっきりします。
「それにしても大国主は恋多き神でした」から上の段落での㋐の大国主は大穴牟遅神(オホナムヂ)=朱蒙の物語です。
下の段落は八千矛神とその妃(きさき)沼河日売の物語です。㋑の大国主は八千矛神です

竹田恒泰は大国主が、一人の人物だという見解に立っていると思われます。
物語の時系列では、「それにしても大国主は恋多き神でした」の下の段が先代王で、上の段がその王子の物語です。前後がさかさまなのですよ。


八千矛神の神の命は八島国にいらっしゃいましたが、高志国に賢くてすごい美人がいるという噂をお聞きになり、その噂の乙女、沼河日売をよばはむと、遠い遠い道のりをお行きになりました。八千矛神には須勢理比米という正后がおられましたが、枕を共に愛しあうことがありませんでした。そこで、八千矛神は沼河日売によばいすることにしました。太刀も腰につけたまま、馬に乗っていた時の装束も脱がないで、脱兎のごとく、乙女の寝ている部屋の板戸をなんども押したり引いたりしました。その音で、青山の鵺(ぬえ)が鳴き出し、野の雉が騒ぎ出し、やがて明け方になり庭の鶏も鳴き出しました。八千矛神頭、じれてとうとう切れてしまいました。とうとう。鶏に八つ当たりを始めます。この鳥どもは天翔ける使いだったらなおさらぶっ殺してしまおう。とうとう、待ちきれずヤケクソになってしまいます。それでも、沼河日売は戸板を開けて、八千矛神を中に入れません。少しばかり開いて、その隙間から一首を歌って気持ちを伝えました。
沼河日売が高句麗神話の河伯の女(はべくのおんな)です。古事記では沼河日売として、歌を一首、つぎのように詠っています。
『なよなよした草のような女ですから   (河面に流れる浮草のように心が揺れている)
わたしの心は入り江の洲いる鳥のようです。(干潟の渡り鳥のように何処へ行くのか定まらない様子)
いまのわたしは一対の相手のいない鳥
やがて、寄り添うあなたの鳥になりましょう。
(夜明けに雉や鶏がやかましいのでぶっ叩いて絞め殺したいとおっしゃられた)
あのわたしの鳥の命はどうぞお助けになってください。
青い山に日が沈んだならば
(ぬばたまの)夜にあなた様はおいでくださいませ
あたかも朝日のように、にこやかに来られて、
(楮の綱のような)白い私の腕、
(泡雪のような)わたしの胸を
やさしく愛撫し、
また愛撫し抱擁し
あなたの手とわたしの手を絡み合わせ
*股ものびのびと お休みなさいましょうものを 
いまむやみに 恋なさいますな』
ヤチホコ神の命(クムワ王)よ
 この歌は古事記にあります。八千矛の神(クムワ王)が、沼河日売(柳花)を訪ねて求愛中の時の歌です。あなたの女になりますから、明日の夜にまた来てね。すこし焦らしたほうが、よけいに燃え上がるのでしょうか。八千矛の神は、この乙女を八島国(東扶余の王宮)に連れ帰って、側女にしました。どうやら、すっかり河伯の女の魅力の虜になったようです。すでに正妃須勢理比米がおられましたが、八千矛の神は毎晩、沼河日売の寝所ばかりに通い、とうとう正妃の目もはばからなくなりました。
正妃は床干しにあって沼河日売(柳花)を嫉妬します。古事記には「この神の正妻須勢理比米は、たいそう嫉妬深くいらっしゃった。」と書き記します。次の一首は須勢理比米のクムワ王への返歌です。須勢理比米は牛加の姫というほか、朝鮮の神話ではお名前が伝わっていません。 おそらく、沸流国王解氏(へ)松譲王の娘でしょう。古事記では大山津見神、その娘が神大市比売です。須勢理比米は神大市比米(かむおおいちひめ)の別名です。大年神(帶素)と宇迦之御魂神(曷思)の二人の王子をお産になりました。

あなたは男でいらっしゃるから
ぐるりと巡る磯頭のどこにでも
(なよやかな)妻を置いておられましょう

でも、わたしは女
あなたのほかに 男はいない
あなたのほかに 夫はいない(だから、もっとお出でになってください)
(泡雪のような)若やいでいるわたしの胸を
(楮の綱のような)白い私の腕を
やさしく愛撫し
また愛撫抱擁し
あなたの手とわたしの手を絡み合わせ
*股ものびのびと お休みなさいませ
この美酒を お召し上がりなさいませ
>この歌はクムワ王の王后の歌です。この訳は、読みやすく現代風にデフォルメしています。


どうか、寝所に来てほしいという正妃の歌。でも、床枯れのまま、后の嫉妬はつのるばかりでした。
正妻須勢理比米の子がテソ王子とヨンポ王子(これはドラマで作られた名前で、史実上の名前は伝わりませんが、曷思王子ガルチャワンジャのこと)。正妃の嫉妬の矛先は朱蒙にも襲いかかるのでした。

*「股ものびのびと お休みなさいませ」 の原文は「毛々那賀爾」(ももながに)である。「に」は格助詞で体現につく。「ももなが」で一語とすると、これは「ももなか」の音写であろう。「ももなか」の朝鮮語発音では、「ももなが」となる。そこで、辞書は「股長」とし、「のびのびと足を伸ばすようす」と訳す。これが通説になっているが、やや意味不明である。
そこで、「ももなかに」と読めば、股(もも)の中でという意味になり、いわゆる「膝枕」のようにして寝かしつける様となる。「膝枕で」と訳すのがいいだろう。朝鮮のチマは股が大きく開くことができ、和服よりずっと活動に適している。あぐらをかくことも容易で、女性の場合は片膝をたてることが多い。膝枕は女性は正座ではなく胡坐(あぐら)で、男性の頭を股にのせる。


「毛々那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐岐許志」は、「ももなか・に いはなさむ・と あやに な・こひ・きこし」と読む。

「いはなさむ」の「い」は寝ることであるが、横になるということで眠ることではない。

「はなさむ」は、終始言葉を交わして交際することだが、男女が仲好く楽しむ様を言う。そこで、「ねんごろになる」とか、「
戯れる」がいいだろう。

「いはなさむ」は寝ながら楽しい会話することであろう。

「あやに」、はわけもなくとか、無為に、であろうが、ここでは、「たしなみもなく・いたずらに」とする。

「な・・・」、はやわらかい禁止の副詞。通例、「な・・・・そ」で懇願するような気持ちで、・・・しないでくださいね。といった表現句。

「きこし」は、きこしめすの省略で、貴人にたいする丁寧語。「どうぞ、私の言う事をお聞きになってください。」!

通解すると、「わたしの膝枕にて寝ながら戯れましょうとも、いたずらに恋をなさいますな」、ということになるだろう。

クムワ王には正室がおり、自分は愛人の身になるので、わたしに「いたずらに心を寄せてはいけませんよ」と、側室になる女としてのたしなみを述べたのか、逆説的に遊び心で恋するなら止めなさいと諌めたのか、そこのところは曖昧である。私的には、「真剣に愛してよ」が本音だろうと思う。すると、ちょっとした脅し(ブラフ)が加わっていうようである。

他方、正室の歌では、この禁止句はとうぜんない。わたしの膝枕にて寝ながら戯れ、美酒をお飲みなさいませ」となる。

*クムワ王の正室は韓国ドラマ朱蒙では馬加(マガ)族族長の姪となっています。「加」とは族長や高官の称号で、動物名が付けられています。扶余では六畜あったと言われています。→虎加(諸加統率)、馬加(文書)、牛加(農業生産)、熊加(国防)、鷹加(刑罰)、鷺加(保健)、鶴加(道徳倫理)、狗加(地方官統率)の八加でに分かれています。馬加は書類や奏上文、勅書などを書く役割がある官職です。正妃はその官職を担う一族ですが、その部族の氏姓は不明です。王妃を代々出す部族と決まっていたのでしょう。所領も大きく軍も持っていました。クムワ王は解・夫婁王のいわゆる拾い子ですが、正室の第一妃は王の姓を以て称されるので「解氏」と称されていたでしょう。正室の解氏の長男・帯素(テソ)は遅くとも紀元前7年には金蛙王の後を継いで王となりました。それにしても、一族が馬・牛・熊・鷹、鷺、鶴、猪などの名前で呼ばれていたのです。ちょっと驚きですよね。

この八千矛の神こと金蛙王(クムワ王)は『隋書』東夷 高麗伝では、扶余王の嘗[ナメ]という名前になっています。河伯の女を得たと記されていますから同じなのです。『隋書』にも書かれるほど、有名な物語です。長く伝承されていたという証拠として以下に、その参考文献として残しておきます。


『隋書』 卷八十一列傳第四十六東夷 高麗  
「高麗之先,出自夫餘。夫余王嘗得河伯女,因閉於室內,爲日光隨而照之,感而遂孕,生一大卵,有一男子破殼而出,名曰硃蒙。夫余之臣以硃蒙非人所生,鹹請殺之,王不聽。及壯,因從獵,所獲居多,又請殺之。其母以告硃蒙,硃蒙棄夫余東南走。遇一大水,深不可越。硃蒙曰:「我是河伯外孫,日之子也。今有難,而追兵且及,如何得渡?於是魚鱉積而成橋,硃蒙遂渡,追騎不得濟而還。硃蒙建國,自號高句麗,以高爲氏。硃蒙死,子閭達嗣。至其孫莫來興兵,遂並夫餘。」

「高句麗の先は扶余から出ている。扶余王の嘗め[ナメ]は河伯族の女を得て室内に閉じ込めたところ、日光がまにまに射し込んで河伯の女を照らした。この日光に感じてついに妊娠した。大きな卵が生まれ、殻を破って男子が誕生した。その名を硃蒙と云う。扶余の家臣らは硃蒙を生かしておいてならないと殺すように口をすっぱくして王に請うた。王はこれを聞き入れなかったが、血気盛んに狩をすることを理由に有力者の居並ぶ大殿で又殺すことを奏上した。その母は硃蒙に逃げるように伝え、硃蒙は扶余を捨てて南に逃げた。大水に行き当たり、その川が深く超えることができなかった。硃蒙は叫んだ。「われは河伯の外孫である。日神の子である。馬に乗った追手が迫っている。どうやって渡ることができようか。すると、ここにすっぽんが現れ、積み重なって橋を作った。ついに硃蒙は渡った。追手の騎乗兵は渡ることができず、還るできず溺れてしまった。こうして硃蒙が国を興し、国の名を高句麗とし、自ら高氏と号した。その子、閭達が次の王になり、その孫の莫來が兵を興し、ついに扶余を併合した。」

『隋書』東夷 百濟伝では、高麗王と侍婢なんて名称になっていますが、日精に感じて妊娠したことが共通です。
『隋書』 卷八十一列傳第四十六東夷 百濟 
 「百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。」

「百済の先は高句麗から出ている。その国(古の稾離国)の王は側室を持っていた。たちまち妊娠したので、王は自分が懐妊させたとは思えずこの側室を殺そうと思った。その側室が言うのには、「ひなどりのような物がわたしに入ってきました。それに感じて妊娠したのです。」と言った。王はこの側室を捨て置いた。その後、一男がついに生まれ、豚小屋に捨てたところ、死ななかった。それゆえに、神となし、この男子を養うよう命じた。その男子の名を東明といい、長ずるに及んで、稾離国の王はこの男子を亡き者にしようとした。東明は畏れて淹水まで逃亡した。扶余人は東明をそろって共に奉じた。東明王の後尉仇台という王が仁信に篤く、帯方の故地において国を初めて建てた。漢の遼東太守の公孫度は娘を妻として与え、尉仇台はだんだん隆盛となり、東夷の強国になった。百家をもって海を渡った。これに因んで百済と号した。14代を経て中国に忠を尽くしたので、前史を詳しく載せることにした。開王の元年、百済の余昌(第22代昌王/ 在位554-598)の遣使が貢献してきた。昌王を上開府・帶方郡公・百濟王に叙した。

*東明とは朱蒙の諡(おくりな)_死後につけられた称号です。

*嘗[ナメ]とは、意味語としては貴人が薬を服用する際の毒見役の意味だそうです。

*稾離国(こうりこく) 迦葉原夫餘は中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する「琿春」が有力地。東夫餘城の位置。迦葉原とも岔陵と伝える。別名、古の稾離国とも言われている。稾離国は遼河と鴨緑江中流に挟まれた遼東東北部から、図們江河口付近まで最大領域があったと推定される。南に高句麗、東北に挹婁との間にある。」卷八十一列傳第四十六東夷 百済  百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。



○牛頭大王(ごづだいおう)と婆利采女(ばりうぬめ)は天竺の北方、ペルシャから来た?



 京都の祇園八坂の地で奈良時代の後期、970年6月14日、御霊会が行われた。記述によると、神輿(みこし)の還幸行列が行われたとある。行列の順番は次のようであった。
 


 これで行列は・・・終わったという。この祭りは、朝廷から馬や田楽が、民衆から芸能の奉納があり、にぎわいは沿道ことごとく人で埋め尽くされたほど。以後、祇園御霊祭は官祭となったとされる。京都四条通の突き当たりに八坂神社がある。七月の祇園祭で知られているが、この神社がスサノヲの命を祭神に八坂神社と社名を改めたのは明治元年のことで、それ以前は祇園感神院と呼ばれた宮寺で、天台座主が別当をかねていた。祇園祭(ぎおんまつり)の前身が祇園御霊会だった。



 さて、蛇足となるが、祇園(ギオン)はシオンが転じたものだとういう説は、イギリスの商人マックレオドやユダヤのラビ、トケイヤーが唱えたところから始まる。このことは大正時代から繰り返し言われてきたことだが、シオンの丘が由来とされる。しかし、むしろBAALの最高神・女神シオンから由来したとみたほうがいいだろう。とにかく、この神社は古来から実に国際色に溢れているのである。


 もともと祇園感神院とよばれていた当時の本尊、牛頭大王(ごづだいおう)と婆利女(ばりめ)とは、いったいどんな由来があるのだろうか。インド起源説、朝鮮渡来説、また、海外に源流をもとめるのは難しいとする説などさまざまだ。どうもスサノヲと同体と見られることから新羅からの渡来の神であるらしいがはっきりとは分からない。しかし、牛頭天王信仰というものが、かくも盛大な朝廷の公認の祭りのメイン・キャスターとして登場していた史実は見逃すことができない。



 こうして、京都の祇園という地に「牛頭大王」と、「婆利女」の痕跡が浮かび上がってくる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲を地盤にした韓半島「新羅」から渡来した神人であることは動かしがたい通説といえるが、牛頭(ごず)になにゆえに祀られたのかまったく分からない。韓国には牛頭山が幾つかあるというが、土着神なのだろうか。


 さて、稲田比売命(いなだひめのみこと)
は、ヤマタノオロチへ人身御供される哀れな女(クシイナダヒメ)であるが、スサノヲはその彼女を救い結婚するというモチーフをもつ。
これは、古代の宗教観念(生け贄)を覆すかに見える。かつて崇拝された古来の神、ヤマタノオロチを邪悪な神として殺してしまう。しかし、ウケモチを殺したところ、たくさんの食物が出てきて、人間に利益をもたらしたというモチーフが国造りの一貫したテーマだとすると、なんであれ、蛇神が殺されることは人間に多大な利益をもたらすのかもしれない。ヤマタノオロチが死ぬことによって、河川の氾濫はなくなり、日照りはなくなり、多大な水に関する利益をもたらす。これは古代インドの伝承でもある。もともと、創造の神話には蛇を殺すことによって水が生まれ、天地が誕生したという元型がどっかりと存在しているのである。


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■八坂神社ではソシモリは韓国の牛頭山と比定しているが・・・?

1870年に出版された『八坂社舊記集録』上中下(紀繁継 『八坂社旧記集録』『八坂誌』ともいう)巻頭に承暦3年(1079年)の年代の記された記載を謄写したという「八坂郷鎮座大神之記」を紹介する。

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八坂郷鎮座大神の記
 齊明天皇即位二年丙辰八月韓國の調進副使 伊利之使主 再来の時新羅国牛頭山座須之雄尊の神御魂齋祭来而皇国祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造の姓十二年後 天地天皇御宇六年丁 社號為す威神院宮殿全造営而牛頭山坐之大神牛頭天王奉称祭祀畢
淳和天皇御宇天長六年右衛門督紀朝臣百継尓感神院祀官並八坂造之業賜為受續
奉齋御神名記 神須佐乃男尊   中央座

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(A)が江原道の春川市(チュンチョン)
 
 ここでは新羅国牛頭山とある。スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から降臨したとの記述があるが、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味している。このことから、八坂神社サイドでは大韓民国江原道の春川にある牛頭山だとする。春川は『冬のソナタ』のロケ地でも知られるが、山岳観光の拠点でもあり、自然に恵まれた景勝地である。


ここは三国時代は新羅ではなく、高句麗の領土だった。ここに何故こだわるのかというと、春川牛頭山がスサノオの出自だとして、スサノオを祭神とする熊野神社が、高句麗の開祖のチュモンが奉ずる三足カラスを紋にしていることからみると、スサノオは高句麗の王だったと考えるほうが自然なのである。


>■三国志に出てくる牛頭山


(A)地点は中華人民共和国四川省広元市元ハ区元壩区大朝郷牛頭村
。牛頭山、海抜1214m。中華人民共和国四川省に位置する。

三国志では、228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始した。
240年、隴西方面へ姜維(きょうい)が出陣したところから、北伐は始る。
この戦いは、魏将郭淮の勇戦により、姜維は敗走。
247年、羌族の魏への反乱に乗じて姜維は出陣。
この戦いは郭淮・夏侯霸らの活躍により羌族の反乱も鎮圧された。
249年、姜維は魏から寝返った夏侯覇と共に、兵1万を率いて北伐を開始。
この北伐は、「牛頭山の戦い」で鄧艾に補給物資を奪われ、本営のあった牛頭山に敗走することになった。

三国演義、第一百七回「魏主政帰司馬氏、姜維兵敗牛頭山」の中で記載されている。延熙十二年(西暦249年)に姜維が北伐を開始。牛頭山に本営を置き、近くの麹山には句安、李歆の二人を派した。これに対して魏の都督郭淮は雍州刺史陳泰の意見を容れて、徐質や鄧艾などとともに麹山を包囲し物資の輸送を阻止する。これを救おうと姜維は牛頭山を出て麹山に向かうが、陳泰の固い守りを破れずに膠着状態に陥る。その間に郭淮が姜維の裏へ回り込み退路を断つ恐れが生じたため、姜維は句安らの救出を断念し退却することとなった。これが、牛頭山の戦いの経緯である。

牛頭山の戦いの後、姜維は翌255年は魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破し、この功績により翌256年に大将軍に昇進した。しかし、同年、「段谷の戦い」で魏将鄧艾に大敗し、後将軍・行大将軍事へと降格。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができず、蜀の衰退を招く。このとき、丞相諸葛亮の死後に劉禅に寵愛された宦官「黄皓」は、景燿5年(262年)、大将軍の姜維を追放し、代わりに閻宇を立てようと画策した。姜維は追放され、成都に居られなくなり、漢中で屯田の指揮をしたと言われる。姜維(きょうい)、字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。
牛頭大将軍と呼ばれた人物は、蜀の姜維(きょうい)だろう。牛頭山には姜維廟があったという。

牛頭山、もともと摩雲寺という名刹があり、後に姜維廟なども建立されたが現在は残っていない。しかし、山頂付近には今でも姜維井や点将台などが残っている。文字通りの牛頭山だが、朝鮮読みでソシモリと称したのだろう。この場所が匂うのは実は始皇帝の咸陽が近いことである。唐代は長安と呼ばれたが現在の西安である。国際線が西安咸陽(せいあんかんよう)国際空港となったのは、現在の咸陽市(かんようし)は昔、西安市に編入されていたからである。中華人民共和国陝西省に位置する地級市咸陽は始皇帝の首都から始まる。かつて阿房宮という大規模な造営工事が行われた。

○本当の牛頭山は五女山だ!

 須佐之男が須賀の宮として入城したのが何処か分かれば、そこが牛頭山である。


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■「備後国風土記」、「祇園大明神縁起」(8世紀初めに編纂)


クムワ王は武塔の神と書かれる。妻がいなかった。山鳩のお告げで、東扶余を旅立って南海(ナメ)国に向かった。(小古・巨旦・古単・古端などの表記があるので以降>南海(ナメ)国龍王をコタン王とする。)

その兄の蘇民将来は貧しかったがクムワ王を丁重にもてなした。>クムワ王その蘇民将来の娘を正妃に迎え、8人の子を産んだ。(>(6人の説もあるが祇園祭り=八王子の語源だろう)

 正妃を娶った8年後、このとき、蘇民将来の二女(瑞厳女)は>コタン族長龍王の妻となっていた。蘇民将来は自分の娘を助けてくれるよう申し出ると、王は「茅の輪を腰に巻き護符を付ければ守られる」と告げ、服属しないコタン王一族郎党を皆殺しにした。(茅の輪くぐりの元だろう)
こうして、波梨采女=瑞厳女=柳花王妃は救われた。>武塔の神(クムワ王)は柳花王妃=瑞厳女を扶余に連れ帰り自分の第二夫人(側室筆頭)にした。クムワ王は正室(妹)よりも柳花をこよなく愛していため、正室・須勢理比米の嫉妬は古事記の恋歌で十分読み取れる。また、クムワ王に愛された柳花王妃の歌も正室でに対する微妙な意識を読み取れる。これが波梨采女の神話の深層である。

*コタン族龍王は>蘇民将来の弟になる。
*柳花王妃=瑞厳女は高句麗国祖母として祀られた。朱蒙の生母である。
*蘇民は周王朝の氏族で、周を起こした「姫」(き)氏の血を引く一族であった。海南国(コタン族)・河伯(ヘベク)族とも称されている。
*海南国(ヘナム)はユファの故郷、根の堅州国、>コタン族のいた所の等式が成り立つ。鴨緑江中流一帯に分布し、龍をトーテムとする倭人部族国家だった。
*

■蘇民将来と波梨采女って?

日本の逸話では、ふたりの妃とも蘇民将来の娘ということになる。最初の正妃・海南氏も同じ氏称をもつので、
二人の波梨采女がいるということは、波梨采女という意味は「神巫女」の代名詞と見たほうが正しいと思われる。
古事記の二つの恋歌の姫の名前が1文字違いで同音であることも興味深い。スセリはスサにも繫がる。
すると、スサノオが牛頭天王である関係を合わせると、「すさ」は出雲=卒本の地名である。

>この海南国が東扶余には小舟で行ける距離であったようだが、波梨采女=柳花はどこにいたのか、調べると現在の
北朝鮮の平安南道あたりという説がある。・・・・らしい。「蘇民将来之子孫海州后入」の文字を赤紙に書いて門に貼る風習があったという資料が発見されたというのですが、蘇民将来の子孫は海州に妃に入ったという呪符は伝搬したので、この地方だけの風習だとは言えない。海州の王妃となったということがどうして護符になったのかかが問題になろうか。

この朝鮮の護符ではっきり言えるのは、当時の東扶余城があった地方を日本の蘇民将来の伝承では」海州」と称していたこと、そして姫たちの故郷を南海国と仮定しよう。このことから南海(ナメ)国龍王と祇園神社に伝わったのだろう。>
いずれも現在の吉林省よりみて海側にあるのだろうか?
紀元前20年頃の歴史物語である。
東扶余があった場所は下の画像地図で確認できる。



京都・北野天満宮 『茅の輪くぐり』 毎年6月に行われる神事
茅の輪も当初は伝説のとおり小さなものを腰に付けるというものでしたが、しだいに大きくなって江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって罪や災いと取り除くという神事になった。というのが由来です。
二十二社註式 祇園社(群書類従)

>■蘇民将来は>武塔神(クムワ王)が関係する

 「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って、饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」

備後国風土記逸文

 「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」



娘は三人いたが、蘇民将来は二人とも妻にするよう要請したが、クムワ王は長女は選ばなかった。ということは、正妃になったのは兄の蘇民将来の三女であり、武塔が「蘇民将来之護符」を渡して救ったのは、姉となる二女である。なんと茅の輪とは殺されないための護符だったのだ。生き残ったのは護符を目印とした姫だけだったという、ほんとうは怖い昔の伝説です。例えると、柴田勝家と伴に自害したお市の三人の娘は秀吉に救い出され保護され、長女はご存じ秀吉の側室の淀君。2女のお初は、京極高次に嫁し、3女お江は徳川家康の3男で2代将軍となる秀忠に嫁いだのですが、いずれも国を滅ぼされたことが原因です。
>東扶余王「金蛙」は、日本でも「淡嶋神社」では少彦名命の使い神、伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており、松本市には「蛙明神社」がある。


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■東扶余と高句麗

13年、帯素は高句麗へ侵攻するも、高無恤(後の大武神王)によって撃退されます。22年2月、今度は逆に大武神王が率いる高句麗軍に攻め込まれ、帯素王(대소왕)はあえない最後を迎えます。末弟の曷思王子(갈사왕자)は兄を見殺しにし100人の従者を連れて逃げ回り、鴨綠谷に至って、海頭国を奪い曷思王と称し、東扶余を継承します。この国を曷思國(갈사국)といい、また曷思扶余(カルサプヨ)と呼んでいるようです。

『朱蒙 -チュモン- Prince of the Legend』より
帯素の弟。一度見たら忘れないひょうきん者 ヨンポ王子=>曷思王子:ウォン・ギジュン 

 この>曷思王の従弟に都頭(도두ドデゥ)がいました。
後東扶余の系譜は 都頭王 ▪ 慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王 ▪ 依虑王 ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王と続きますが、>高句麗の第6代の王(在位:53年 - 146年)の時、AD68に、都頭王が国ごと高句麗に降伏して、東扶余の後裔国は消滅してしまいます。都頭王は高句麗に投降して、于台の官を授けられたといいます。しかし、その子の慰仇太は遼東の方に逃げて扶余王を名乗り、やがて公孫度にかわいがられて強大化しました。これが、遼西百済の始まりでしょう。遼西百済は河南伯済の檐魯國ではないことがはっきりします。AD214に尉仇台は亡くなります。いずれにしても、尉仇台が分岐する前の国は曷思國であったのです。


『三国史記』高句麗本紀 大武神王
扶餘王帶素弟、至曷思水濱、立國稱王。是扶餘王金蛙季子、史失其名。初、帶素之見殺也。知國之將亡、與從者百餘人、至鴨綠谷。見海頭王出獵、遂殺之。取其百姓、至此始都。是爲曷思王

西暦22年・夏四月、扶余王帯素の弟、曷思水の濱に至って、国を立てて王を称した。これは扶余王金蛙の季子((末っ子)だが、史籍には、その名は消失している。彼は初め、帯素を見殺しにした。国のまさに滅亡を知り、従者百余人と鴨緑谷に至る。海頭王が出会い、狩りに出て、遂にこれを殺す。その百姓を奪い取り、ここに至って都を始めた。これを曷思王となす。

秋七月、扶餘王從弟謂國人曰「我先王身亡國滅。民無所依、王弟逃竄、都於曷思。吾亦不肖、無以興復。」乃與萬餘人來投。王封爲王、安置掾那部、以其背有絡文。賜姓絡氏。

都頭王(曷思のいとこ)、「我が先王(帯素)は身を亡ぼし、国を亡ぼす。民は依るべきところをなくし、王弟(曷思王)は逃げ回り、曷思にみやこを置いた。私も不肖ながら、扶余を復興することができない」、と言って、国を挙げて高句麗に降り、東夫餘候に封じられる。都頭を名付けて于台とする。椽那(ヨンナ)部の王とし、背に絡文が有るので姓を絡氏とする。

太祖大王(47年 - 165年 高句麗の第6代の王)に時代になって、西暦68年8月に曷思王の従弟の都頭が国を挙げて投降してきた。




曷思國/갈사국の位置 黒線は推定逃走経路で推定 東扶余城について:夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。戶八萬,(魏志東夷伝)からは、南に高句麗、東に挹婁とあるので、だいぶ北にある。挹婁在夫餘東北千餘里とあり、扶余は挹婁の西南1000里、約60kmの所になる。
長城の北という、その長城とは万理の長城ではなく、千里の長城といわれた漢と東夷の境に作られたもの。玄菟から千里は方向としては東北とみるとこの地図は正解のようだ。弱水が黒竜江の支流だと推定できる。 玄菟郡はヒョウンドグンと書かれている薄緑の領域だが、玄菟郡と遼東郡と楽浪郡も全体的に南に傾いている感じがする。挹婁は北沃沮と接している。


都頭は曷思の孫これを踏まえると、68年、曷思王の孫の都頭王が国ごと高句麗に降伏して、東扶余の後裔国は消滅した。都頭王は高句麗に仕え、于台の官を授けられた。
翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、*夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。扶余王は都頭王は80才以上長寿となる。高句麗の太祖王も93年在位しているので、この間の西暦比定が高句麗からは難しい。
(214)尉仇台死す。嫡男・简位居が扶余王に立つ。
景初二年(238年),简位居死す。简位居の死後、卑弥呼が王后として扶余王に即位。異母弟、庶子の麻余が佐治する。
景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。

正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。(同年、幽州刺史毌丘儉、討句麗。倭の難升米は黄憧を拝受される。十月、宮(東川王)丸都城から東沃沮に逃亡。

正始6年、楽浪太守の劉茂と、帯方太守弓遵が句麗に属する領東の濊を師を起こしてこれを討伐した。不耐侯はあげて投降した。
其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。 韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。
 正始8年、不耐王は朝貢し、不耐濊王に任じられた。民間に雑居して、毎日楽浪郡の郡治に詣でている。楽浪帯方郡は賦調や労役を民に加えた。韓は帯方郡の南にあり、東西は海で、南は倭と接する。方4千里といえるだろうか。
  玄菟郡太守王頎が、帯方郡の官につく。卑彌呼は使いを出し、高句麗を相攻撃する状を王頎に渡す。張政が到着、  正始9年、扶余王麻余薨じ、東川王も薨じる。卑彌呼もこの年に崩御した。  正始10年、張政帰還、壹與が13歳で王に立つ。扶余王に依蘆が6歳でたつ。
魏志東夷伝では高句麗という名称が8カ所、句麗が19カ所、下句麗が1カ所あって、高句麗と句麗は相前後して使われており、その使い分けは「句麗名城也」と書かれているので、句麗というのは直接的には城の名前ということになる。
 正始6年の魏の軍事行動は、幽州勅使母丘儉が高句麗中枢を攻め、楽浪郡はの南北沃沮を制圧した。高句麗を東西挟撃したことがわかる。卑彌呼の軍とは難升米(扶余王の別称)で、楽浪郡の師を立てて攻撃した師にあたると考える。

曷思國(갈사국ガrサグッk)はどこにあったのか。
  曷思は鴨綠谷に来て、海頭王を殺して領土を奪って曷思國を立てた。『三國遺事』卷3「興法」<順道肇麗> (條) "遼水一名鴨綠 今云安民江"とあり、鴨綠が遼河を指しているようである。海头国は、遼河の南東にあり、都は南東県(现)溶解性(海城)地域であると主張する学者もいる。




中国のウィキペディア 「曷思王」
曷思王,是東扶餘君主金蛙王的第三子,帶素之三弟。公元22年,帶素被高句麗第三代君主大武神王率軍擊殺。帶素死後,当年四月,金蛙王第三子繼承了東扶餘王位。他逃至曷思水濱,殺死了出獵的海頭王,取其百姓,以曷思水濱建都,故号曷思王。大武神王的好童王子,就是曷思王孫女(大武神王之次妃)所生。
*前扶余> 解夫娄 · 金蛙王 · 帶素王 · 曷思王

ここに、面白いことが一つ書かれています。あの自鳴鼓(チャミョンゴ)伝説の好童(ホドン)王子はまさしく曷思王の孫娘が母(産みの親)なのだそうです。 曷思王は孫娘を無恤(在位:18年 - 44年)の次妃に嫁がせたようですね。姫を出すのは、おおかた人質に等しい政略結婚です。それで、東扶余は 曷思王のあと3代続いた訳が分かりました。残念ながら曷思王の諱(いみな)・諡(おくりな)は伝わっていないのですが、史実では実在したと言えるでしょう。


*首かけ布、古事記では領巾(ひれ):薄く細長い布。古代に害虫・毒虫などの難をのがれる呪力があると信じられたもの。(奈良時代から平安時代にかけて、盛装した婦人が肩にかけて左右に長くたらした薄い布。)

*好太王碑の碑文冒頭に惟昔始租鄒牟(チュム)王之創基也。出自北夫余天帝之子、母河伯女郎‥‥」とあり、北扶余の天帝は解慕漱(ヘ・モス)です。
その嫡孫で、卒本扶余を建国したのは高豆莫で、すでに、五代目でした。朱蒙は鄒牟・東明王とも称されますが、北扶余初代 解慕漱(ヘ・モス)BC238-BC194の子とするのは朱蒙を華美にする意図のようです。高豆莫が北扶余を卒本扶余と改めたとき、 鹘昇骨(フルスンゴル)=忽本城(チョルボンソン)=(古事記では須賀宮)はありました。すでにヘモスが生きた時代と朱蒙とは200年、6世代もの違いがあります。朱蒙の出生は謎がありますが、なんであれ、天帝・解慕漱の嫡男にまでしたかったのでしょう。上の物語は須佐之男(高・豆莫)が娘と神宝を盗まれて、句麗国を譲ったという筋書きですから、朱蒙が柳花夫人の子であることは確かですが日精に感じて生まれた子、太陽の神の子と出生を美麗にしたかったのだろうと推理する以外ありません。


■柳花王妃は沼河比賣として古事記に登場する。水神、汗人(倭人)だろうか。

須勢理比米と須世理比売を混同してはいけません。1世代違いますし、全くの他人です。
須勢理比米は帶素と弟の母親です。須世理比売はスサノオの娘で朱蒙と結ばれる乙女です。ストーリーからみて、住んでいた場所も違います。須勢理比米は八島国、須世理比売は根の堅州国にいたのですが、どうして記紀のリサーチャーの方々は勢と世の文字の違いを無視して同一人物にしてしまうのでしょうか。ついでに沼河比賣は、高志国出身で八島国にいました。須勢理比米が嫉妬するのは沼河比賣です。沼河比賣は朝鮮では河伯の女で、日精に感じて朱蒙を産んだ神母です。・・・女性の相関関係から歴史を知ることも大事ですよ。
そんなある日、金蛙王のもとに不思議な相談をしてくる漁師がありました。彼は太伯山(今の白頭山)の南にある優渤水(ウバルス)という沢で漁をしているのですが、最近、魚を盗んでいく獣がある。しかし、その正体が分かりません、と言うのです。金蛙王はすぐに「網を投げてその獣を捕まえよ」と命じましたが、引き揚げてみると網が破れています。そこで鉄の網を投げ、ようやく石の上に座っていたその獣を捕まえました。

 捕らえてみると、それはまことに奇怪な姿のものです。女性のようですが唇が異様に長く、そのために口もきけない様子です。三回なんども唇を切り取ると、ようやく人の言葉を話し始めました。

「わたくしは青河(今の遼河)の河伯かわのかみの娘で、柳花ユファと申します。]








注:この囲み内はですます調です。

上の図でLiaoとあるのは遼河です。内モンゴル・遼寧・吉林の三省が交わる付近で東遼河と西遼河の2つの河に分かれます。西遼河Xiliaoの上流はさらに2つに分岐します。北源のシラムレン(西拉木倫)河は内モンゴル自治区克什克騰旗南西の白岔山から流れ出ており,南源の老哈河は河北省平泉県の光頭山に源を発しています。光頭山は白石山、能高山南峰に連なっています。

次に下の図を見ると老哈河水系は水源は内モンゴルから河北省平泉県(HBEI)に入っています。
次に、三番目の図を見てください。河北省には最大の河川、滦河(らんへ)がほぼ河北省の中央を流れています。

河北省から遼寧省や吉林省に行くのには、この老哈河、西遼河を下り、合流した東遼河をさかのぼれば、水路で容易く着くことができます。

扶余の故地は松花江のあたりと言われていますが、ここに金蛙王(クムワ)王がおり、光頭山周辺を追放された柳花が出会うのは決して不可能なことではありません。

私は、柳花(ゆふぁ)は倭人であるという説を展開するに当たって、河を重視します。金蛙王が網を投げたところ柳花が捕らえられたという経緯から、どうしても河川を考えざるを得ません。

次に、河伯族とは、日本語に直せば河童族ですから、どうしても水神を意識することになります。「女性のようですが唇が異様に長く、そのために口もきけない様子です。三回なんども唇を切り取ると、ようやく人の言葉を話し始めました。」、このような柳花の現れた姿は水神のようです。扶余では河伯神女として神殿に祀られますが、もともと滦河(らんへ)あたりまで住み着いた倭人じゃなかったかと思えます。

鮮卑の檀石槐は、東へ向かい、魚をとるのが上手い「汗人」を、内陸の遼西郡の老哈河のほうへ数百戸も強制移住させたという記事があります。(168-189) 
>実は三国志集解という書物に、この「汗人」とは、「倭人」の別名であるとされています。

 「東して倭人の国を撃ち、千余家を得た。徙して秦水の上に置き、魚を捕らさせて、もって糧食の助けとする。」范曄の『後漢書』(卷九十、鮮卑伝)
*『三国志』鮮卑伝では汙人、『後漢書』鮮卑伝では倭人と表記。

檀石槐(呉音:だんじゃくえ:だんせきかい137年~181年)。鮮卑の大人で、モンゴル一帯を統一し、鮮卑の全盛期を築いた大人で、正史『三国志』にも、連年、後漢を苦しめていた様子が描かれています。檀石槐という人も出生を疑われていますので、倭人の母の間に生まれた可能性があります。倭国との関わりは、はっきりしています。では、この倭国とはどこにあったのでしょうか。檀石槐は楽浪郡の汗国を攻撃して汗人(倭人)を移住させています。あるいは、逃亡した倭人を奴隷として引きもどしたとも考えられます。鮮卑族は魚が取ることができなかったので、倭人に魚を取らせて食料を補給したのです。ともあれ、遼西部から東に向かって倭人を捕らえに出向いたのです。倭人が生活するのは楽浪郡の中にある海沿いか河川の周辺です。倭人の国はおそらく鴨緑江と清川江、さらに、大同江あたりまで分布していたのでしょう。楽浪郡都督の冊封の範囲に倭人が居住していたことは、これではっきりします。「汗人」は「韓人」も、どちらも”ヘニン”と発音しますが、文字として別々に使われていることは特に注意を要します。『後漢書』鮮卑伝では倭人と書かれますので、「汙人」は倭人と同義です。倭人が楽浪郡にいたとしても決しておかしくないことが分かりました。そこで、第二の倭国と第三の倭国はともに成り立つと思われます。(国といっても、数千戸で、しかも、それぞれ王と称しているというのが魏志倭人伝にもありますので、今日的には市長村ぐらいの人口規模です。それらの族長が王を僭称するので、それらを統括するのが大王です。そういう意味では、卑弥呼は倭国大王と呼ばねばなりません。)

檀石槐(三国志簡約)

○父に追い出される
鮮卑の酋長の家に生まれたが、父が遠征中に生まれたため、母が不貞を疑われ、母子ともども実家に送られたという。

○父に才を買われる
母の実家で育った檀石槐は勇敢さと統率力に長け、その評判が父の耳に届き、父は檀石槐を認知し、戻ることを許したと言う。

○鮮卑をまとめ巨大化
鮮卑の部族間の抗争で檀石槐はその勇猛さと統率力を発揮し、鮮卑の各酋長達を恐れさせ、ついには競って各部族が忠節を誓い、檀石槐は大人に推挙され、鮮卑統一を果たした。さらに匈奴や烏丸の一部の部族までも進んでその傘下に入ったため、モンゴル一帯の統一をも果たした。
 霊帝(在位:167年 - 189年)の時代になると、鮮卑は幽州,幷州,涼州の3州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は、鮮卑からひどい損害を受けない年はなかった。

熹平3年(174年)冬、鮮卑は北地郡に侵入し、太守の夏育は休著屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。

熹平5年(176年)、鮮卑は幽州を寇掠した。

熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠した。そこで朝廷は護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。
延熹9年(166年)夏、鮮卑は、南匈奴,烏桓と連合し、数万騎を分けて縁辺九郡に侵入させ、吏人を殺掠した。これに対し、朝廷はふたたび張奐を派遣してこれを撃ち、鮮卑は塞を出て去った。朝廷はこれらを制止できないことを患い、遣使に印綬を持たせ、檀石槐を王に封じ、鮮卑と和親をはかろうとした。しかし檀石槐はこれを拒否し、侵入略奪はますます激しくなった。



○官軍にも負けず
檀石槐の勢力を恐れた後漢朝は、張奐を討伐に送り込んだが、張渙は檀石槐の見事な采配に大敗、逃げ戻った。すると今度は檀石槐を王に封じるとの使者を派遣してきた。檀石槐は「俺は漢の奴隷になるつもりはない」と言って断り、あくまで鮮卑の上位に居ようとする後漢王朝に怒り、幽州や并州を略奪して回った。
檀石槐は死ぬまで後漢領土への略奪侵攻をやめなかったと言う。これに対して霊帝は何度も討伐軍を送ったが、檀石槐の連戦連勝に終わった。



 霊帝(在位:167年 - 189年)の時代になると、鮮卑は幽州,幷州,涼州の3州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は、鮮卑からひどい損害を受けない年はなかった。

熹平3年(174年)冬、鮮卑は北地郡に侵入し、太守の夏育は休著屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。

熹平5年(176年)、鮮卑は幽州を寇掠した。

熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠した。そこで朝廷は護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。



○倭人とのかかわり
官軍と戦っていたとき、食糧難に陥ったことがあったと言う。そのため檀石槐は魚の獲れる地域に移動したが、鮮卑に魚を獲る技術がまったくなかったため、食糧難は解決しなかった。そこで檀石槐は、魚を獲る技術に長けた倭国から人を捕らえて移住させ、魚を獲らせたと言う。

*『三国志』鮮卑伝では汙人、『後漢書』鮮卑伝では倭人と表記。
 光和元年(178年)冬、鮮卑は酒泉を寇掠した。このころ、鮮卑の人口が急激に増え、農耕・牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという。
>

○死後の鮮卑
檀石槐の死後は子の和連が継いだが、檀石槐が広大になった鮮卑の領土を分割して統治していたことと、その後継ぎ和連が淫乱で欲深く、不公平だったことにより、鮮卑は分裂してしまった。


 

■烏侯秦水は、遼河の支流をなす老哈河(ラオハホー)である。下の地図の緑色の線を辿る。





この地図の青い一本の河川は滦河(らんへ)(河北省)といい、河北省では黄河についで大きな河川である。冬季には凍結するので、木造船は下流域のみ航行できる。『万里の長城は東は遼水に至る』(呂氏春秋)とあるので、滦河(らんへ)の秦代の名称は遼水である。


実は、この河川流域に倭人がたくさんいたのである。
この流域の民は河伯、日本語では河童(かっぱ)の部族。扶余の金蛙(クムワ)王の后は、河伯神女とよばれた。柳花王妃のことである。
彼女は前4 世紀末、河伯ハベク(水神または海神)の長女として生まれた。河伯ハベクを水神としているのは無理からぬことである。朝鮮民族は河童を見たことがないからである。河童の源流は呉のような南方の神話だからである。

ここが第二の倭国であるのは扶余の王妃・柳花王妃が河童神女(河伯神女)とよばれたことによる。つまり、その出自を問題にするのである。

妃の子供朱蒙は「わたしは母の国、根の堅州国に行ってみたい」と、大声で泣いていたので、金蛙(クムワ)王(伊邪那岐)はたいへんお怒りになって、「それならば、お前はこの国に住んではいかん。」と述べられた。古事記の須佐之男の涕泣の段である。置き換えると朱蒙は母の国に行きたいと云って出奔した。柳花王妃、古事記では伊邪那美であり、沼河比売である。そして、須佐之男が行きたかったのは根の堅州国である。では、そこがどこなのだろうか?

これが河伯族の国、一説によるとコタン族の別称がある。河伯から紐解くと、いずれも大きな河の流域であり、どの河だったのかは韓国でも決定打がない。韓国では「魚晹(オーヤン)」から来たとするも、それが灤河(란하)ナンハであるする説もあるが、他方、遼河(ヨハまたは古くヨス<スは水の意味>で、鴨緑江(アムノックガン)であるとする説と、ほぼ二分されている。この論争はこの両河とも現在中国領になっているため、関心が薄いと云う。結論は鴨緑江の中流である。渾江という支流がある。その一帯である。)

この柳花王妃がどこから来たのか探索すると、灤河(란하)ナンハ=滦河(らんが)(河北省)にも行き当たる。
クムワ王の后が河伯族の族長の娘とされるからである。クムワ王は蛙だし、柳花が河童だなんて、たんなる語呂合わせ的なお伽話じゃないかと思う方も多いだろうが、神話には何かしらのキーワード含まれるているはずである。

では、いったん河伯族とはどのような種族だったのというと、丸坊主で素っ裸、身長が低い族であり、倭人の特徴を持っている。形態的特徴に河童像に文身(体に入れ墨)が見いだせれば、それこそ100%倭人である。
中国で云う河伯、水虎、水妖がトリガーになるだろう。日本のカッパとはまったく形が違うらしいが、河伯、水虎、水妖といえば、たいがいの中国人は知っているようである。そうです、河伯とは中国語では河童という意味だったのだ。




楽浪と帯方郡の位置について



現在の遼寧省(りょうねいしょう、中国語:辽宁省liáo níng shĕngnaの南部が楽浪郡、激戦の地『龍城』は楽浪郡にある。『史記』の「太康地理志」には「楽浪遂城有る碣石山 長城所起」とある。碣石山は長城が始まる起点にあると書かれている。山海関から南へ約5キロの老龍頭(老龙头lǎo lóng tóu)が万里の長城の起点。
始皇島から15km。現在の長城は明代に造築されている。この地には始皇帝の刻石があり、第4回巡行のときに訪れている。隋・唐代では臨楡関(インミュグァン)となり、10万の常備軍が配置されていた。楽浪郡はA点である。

後燕・慕容熙の王城が『龍城』で、広開土王がここを攻めて勝利した。(401年五胡十六国時代)龍城は臨楡関と遼東のほぼ中間にあり、さらに遼東側の前哨には宿軍城、遼河よりに大牙城、その南に瀋陽城がある。龍城は遼東と中国を結ぶ要所である幽州を守る位置にある。幽州には柳城があり、契丹道と営州道の交わるところで、その先は北京に届く戦略上の要所であった。

*前燕は慕容垂が華北東部と遼西を領有、中山(河北省正定県・北京の近く、天津の西)を都にした。(395)北魏の拓跋珪が中山を攻撃し、慕容宝は龍城に遷都。(397)慕容盛は高句麗の新城を攻めて一時期遼東を制す。(400)慕容盛は弟の慕容熙に暗殺される。広開土王に攻められ前燕は滅ぶ。漢人将軍馮跋が高雲(慕容雲=高句麗の貴族・国相の子とされる)を擁立して後燕(北燕)を起こす。その2年後に馮跋が自ら天王に即位した。馮跋が自ら太祖文成帝(馮跋、在位409年 - 430年) に即位した。弟の馮弘は華北を統一した北魏の圧迫を受け、436年高句麗に亡命した。馮弘は高句麗から宋への亡命を希望したが、438年北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害された。後燕は、黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)を都とし、主として遼西地方を領有。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。高句麗は契丹を制する北魏との緊張した外交関係に移る。489、北魏は南斉と国交を結ぶ高句麗の脅威に曝されたが、高句麗との交流も活発化し、高句麗の国際的地位は最強に達した。

地図:龍城(遼寧省朝陽市)







『史記』「太康地理志」では「楽浪遂城有る碣石山 長城所起」、ここが楽浪の遂城があったところ。隋・唐代では臨楡関(インミュグァン)となり、10万の常備軍が配置されていた。この碣石山は楽浪郡の領域にあった。


帯方県は『後漢書 郡国志』で、「西安平 帯方県並属遼東郡」としているので、帯方県は平州(遼東)にあったことになる。(倭の正体参考)
西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で、帯方県が遼東郡に属しているとしている。



①B.C.108年武帝は衛氏朝鮮を破り、4郡、楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡の直轄領を設置する。武帝(在位:A.D.141年-A.D.87年)の当時、前漢側が玄菟(げんと)と呼んだ地域は、高句麗側では丸都(がんと)と呼び、衛氏朝鮮側が遼東と呼んだ地域は、前漢では臨屯と呼んだ。


A.D.132年に、高麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡の都督が当時遼東郡西安平県(遼東)にあったと考えられる。

②「後漢書~東夷伝」昭帝の始元5(B.C.82)年、臨屯郡と真番郡を廃し、楽浪郡と玄菟郡に併せた。臨屯郡と真番郡は楽浪郡に統括され、B.C.75年、玄菟郡は西方に縮小された。臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを嶺東七県(日本海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として楽浪東部都尉が置かれた。この結果、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。大楽浪郡を最大版図にして、王険城(平壌城)に郡都を移動したので、前75年ごろ(大楽浪郡時代)だと現在の平壌から北部のほうにまたがっている。

③新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。王莽による新朝が成立すると楽浪郡は楽鮮郡と改称され、諸県も名称変更された。その後の新末後漢初の混乱期に、西暦30年、楽浪郡の豪族の王調が反旗を掲げ、半年以上も楽浪郡を占領した。建国初期の後漢には辺境の経営にまで手が回らず、この反乱を機に植民地政策を変更し、郡に所属する都尉を廃止し、各民族の長師や渠帥(きょすい)を県候に任じ、不耐・華麗・沃沮は候国として自治を認めた。

④西暦37年 高句麗大武神王が楽浪郡を襲い、これを滅ぼす。
ここには楽浪国があったとされる。漢に侯国として冊封されていた。
西暦44年光武帝は海軍を差し向け楽浪を撃った。薩水(大同江)以南を奪い漢の郡県とする。翌月、高句麗第三代王無恤(ムヒュル)は死ぬ。光武帝は大同江以南を奪い返す。高句麗は清川河(チョンチョンガン)以北に後退したが、鴨緑江河口は占有した。


④後漢末期の混乱期・184年、黄巾の乱が勃発すると、玄菟郡の太守であった公孫康は、豪族化、遼東郡を支配し、A.D.204年には楽浪郡の屯有県(楽浪郡中央)以南を帯方郡とした。『魏氏韓伝』に「これより後、韓倭帯方に属す」と公孫氏は韓と倭を支配し、後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。
遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばしその支配下に収めた。楽浪郡から帯方郡を分置したといっても、実際には帯方郡のほうが大きく楽浪郡はそれに比べて主役の座を譲った格好になった。

⑤238年、三国魏の曹叡皇帝から上洛を命じられた公孫淵は魏に反旗を翻し、燕王を称す。一度は幽州刺史母丘倹の軍を退けたが、太尉司馬懿の討伐を受け、国都の襄平を包囲され、一族ともに滅ぼされた。楽浪・帯方二郡は再び中国の支配下に置かれた。

⑥265年、西晋の支配下に入る。

⑦313年、高句麗が楽浪郡を陥落させる。


■帯方は遼西から渡来した王が支配していた。

三国時代には魏が238年に楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年) 倭国は公孫燕が滅びると、魏の明帝は帯方郡の国邑の長に侯国の印綬を送り、自治国とした。卑弥呼は明帝に特別に憐れみを受けて帯方の太守になった。265年魏に代わった晋が引き続き支配したが、八王の乱以後は衰退の一途を辿り、313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人(準王・崔理(チェリ)及び倭人も含む)達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。


楽浪郡の初期の位置と後期の位置は異なってくるのである。したがって、朝鮮の学会通説の楽浪郡は③以降の領域をさしている。楽浪郡が遼東にあったという異説は①の楽浪郡をさしている。しかし、中国や日本の学界では全く認められていない。要するに、楽浪郡の位置の比定は時代時代によって異にしていることを考えると、通説は異説を排除するべきではないだろう。

*『臨屯郡』(りんとんぐん)
紀元前108年、臨屯国の故地に置かれた郡。郡治は東陁県(江原道の江陵付近)。臨屯郡は南に日本海に面し、十五県が帰属していたとされる。臨屯郡は濊貊族の支配が直接の目的とされ、その統治区域は江原道(北朝鮮)全域で、郡の南境は江陵以南、三陟(江原道)以北に推定されている。


*『真番郡』(しんばんぐん)

 紀元前108年、真番国の故地に置かれた郡。郡治は雲県。
真番郡には十五県が帰属していたとされるが、南在説(楽浪郡の南)と北在説(楽浪郡の北)があり、南在説が有力とされるが、この南在説にも各説がある。真番の名は早くから漢人に知られ、燕は真番に朝貢させていたという記録がある。衛氏朝鮮も漢の外臣となったのち、真番族・臨屯族を服属させていた。紀元前82年、真番郡は、臨屯郡とともに廃止された。


『三国志魏書』扶余伝


扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻余がいた。位居が死に、諸加(重臣たち)は麻余を共立した。牛加の兄子で位居という者が大使となし、財政を改善し善政をしたので、国人はこれを副官とし、毎年、遣使として京都(洛陽)に貢献させた。


北扶余の玄菟郡にあった扶余族が遼東に高句麗とともにあった時期がある。高句麗の膨張とともに、遼西に追い出された。遼東太守の公孫度は仇台を婿とした。さっそく、仇台は玄莬城を襲った高句麗を撃退した。仇台勢力は強大となり、東夷の強国となった。公孫燕にとって、尉仇台は頼もしい傭兵とみえただろう。この緩衝国ともいうべき扶余は漢江の百済とは王族のルーツが同じである。

後東扶余の 都头王の次、慰仇太王がいる。はじめから高句麗とは戦う宿命にあった。漢江伯済とは別な意味で高句麗とは好戦的であった。漢江伯済から渡海した王族で、済とは海を渡るという意味で、百は雑多な民という意味で、百済とは遼西百済ができて初めてに付けられた国号である。高句麗は温祚が継承した正統な漢江伯済ではなく、この遼西百済とは同じ扶余族でも王系が違うのである。

幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に派遣。位居は大加を郊外に派遣して、軍糧を提供して王頎を歓迎した。牛加の季父に二心あり、位居は季父父子を誅殺して財物を没収し、徴収簿を官に送った。古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任に帰すとされ、易が当たるか、あるいは殺(死罪)に当たるかと言われる。

牛加は扶余の官名王である。『国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。』

後漢の献帝は魏の曹操に実権を奪われ後漢が弱体化、AD237公孫淵は魏に背いて滅ぼされた。その同年に「親魏倭王」の金印紫綬を卑弥呼に仮授している。

これが「景初三年公孫淵誅後卑弥呼始遣朝貢」・「男生口四人・女生六人・班布二匹二丈」がこれである。明帝は喜んで、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、「假金印紫綬」を与えた。同時に、なんと「帯方太守」に封じたのである。どこまでの領域を指すのか。帯方太守ならば、実に韓国と日本のほぼ全域の統治をまかされたのである。ここでは卑弥呼を倭国王と認め、一大率の統治を任じたのである。ここで、魏の明帝によって238年に卑弥呼は公孫氏が滅亡したあとの統治を引き継いだということである。卑弥呼が帯方の地に居たから帯方太守を除したのではないだろうか?

214年尉仇台は遼西から帯方に国を作った。214年尉仇台が死すと、卑弥呼が自ら王に即位した。卑弥呼が親魏倭王となり、尉仇台の嫡男の難升米が黄幢をさずかり帯方の司令長官になって、まずは一安心したが、239年正月に明帝が崩御。だが、時の難升米こと简位居も死んでしまった。
247年、帯方に王頎を着任させた。魏の斉王は前王の勅命に反していることを知り、即座に長政を遣わし、黄幢を再び難升米(麻余)に拝受し、木簡に記して告諭した。黄幢は皇帝の代理を付与したに等しい。黄幢が陣中にあれば、そこに皇帝がいるという印でもあったからだ。同盟を結ぶ意味は、共通の敵があるはずである。その敵は東北の「高句麗」だった。245年、魏は高句麗に侵攻。卑弥呼も魏とともに軍をだして戦った。高句麗の第11代の東川王は、248年に暗殺された。同年、卑弥呼も亡くなる。帯方郡に大きな衝撃が走ったが、洛陽にも司馬懿のクーデターが勃発。壹與は使者を朝貢できず、張政が勅使として激文で王になすという有様だった。

ここにおいて、その後、帯方の倭は、313年高句麗に滅ぼされるまで存続した。

「公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の阿扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいて、まるで亡命者のようだと言った。」

 238年遼隧の戦いで公孫淵が死んだとき、魏の毌丘倹が後漢が郡治を置いた玄菟城(ヒョンドソン)に入城した。探すとまだ宝物が残っていた。濊城は戦っていないのに、そこの王はまるで亡命者のようだった。印璽には「濊王之印」とあった。が阿扶余だろう。扶余は貊族。解すると、漢の郡司がいなくなって久しい第二玄菟城に想わぬ宝物が眠っていた。それはどうも濊王のものだったようだ。第二玄菟城は第三玄菟郡治に移動したあと、濊城と名前を変えていたようだ。

*濊城の記載があるが、吉林省の東団山一帯から周囲2kmの濊城とみられる城が発掘されている.




女王 卑弥呼が居たのは帯方である。卑弥呼は帯方太守であり、すなわち卑弥呼は倭国王である。帯方郡=倭国の等式がなりたつのである。


■高句麗の建国をめぐる女性たち

朝鮮では、こんな物語になっています。

そこは肥沃な土地でしたが、すでに卒本扶余という国が在りました。だが、その王には継嗣がいませんでした。


 そんなある日、朱蒙が沸流水の上流から野菜が流れてくるのを見つけ、上流に人が住んでいることに気付きました。狩をしながら上流を目指すと、やはり狩をしている一行に出会いました。

「私は沸流水(佟佳江)の上流にある沸流国の王で松譲と申す。僻地に住み、これまで君子に出会うことがありませんでした。今日は図らずも君子に出会うことが叶いました。幸いなことではありますが、あなたは何者で、何処から到来されたのですかな?」と松譲が朱蒙に訊ねました。

 二人の間では、いずれが高貴な血筋かの主張が交わされたが、天帝の子の朱蒙に対して、仙人の子の松譲では勝負がつきませんでした。

「この辺りは二人の王を受け容れるには狭い。あなたは都を定めて日が浅い。我が沸流の属国となり、私の従者になるべきである」と松譲が言い放ちました。

*沸流国は順奴(スンノ)部族 当時、東濊(靺鞨マルガル族の国)に境していて、防衛に力を注がねばなりませんでした。

 朱蒙が怒りだし、結局は弓での勝負をすることになりました。当然、名手の朱蒙が勝ちました。

 すると今度は、天から土地を授けられた証としての神器の有無が問題となりました。

 このような口合戦が延々と続くき決着がつきませんでした。

 そんなある日、朱蒙は西の地方を巡幸していたとき、雪のように白い大鹿を捕らえました。神の眷属に違いないと思った朱蒙は蟹原という地で、この白鹿を逆さ吊りにして洪水を起して沸流国を水の底に沈めないと、永遠にこのまま吊るしておくぞ」と脅かしました。

 果たして天池の底が抜けたような大雨が七日間も降り続け、洪水となり、朱蒙の望み通りに沸流の都は水底に没しました。しかし、同時に高句麗まで水底に没してしまいましたが、朱蒙が鞭で水をなでると瞬く間に水がひきました。

 紀元前36年6月、
 沸流国の松譲が来て国を挙げて降伏しました。朱蒙は沸流を多勿郡と命名して、松譲を領主に封じました。沸流国は順奴部です。後に東部(左部)として高句麗の五部族に加わります。その一月後、鶻嶺山(オウリョンサン)が黒い雲に覆われ、下から見えなりました。だが、数千人が土木工事をしているような声や物音だけが聞こえてきました。

 朱蒙は「天が私のために城を築いているのだ」と言いました。七日目に雲が晴れると、そこには立派な城が姿を現しました。朱蒙は天に向かって礼拝すると、そこに移り住みました。

 桂婁(ケル)の君長 卒本の王延陀勃(ヨン・タバル)は朱蒙が常人離れして優れているのを見抜き、自分の三人の娘から次女を妃として与えました。やがて延陀勃(ヨン・タバル)王が死ぬと、朱蒙は王位を継ぎ、国名を高句麗と号し、解(ヘ)姓も改めて高朱蒙(コ・チュモン)と名乗りました。ときに朱蒙二十二歳。紀元前37年のことだと言われます。

後に人々は天(太陽)の子である彼を東明王と呼びました。

建国の評判を聞いて四方から人々が高句麗に定住したので、次第に繁栄していきました。


朱蒙が高句麗王となって十四年目、母の柳花が亡くなり、東扶余の金蛙王は皇太后の待遇で彼女を葬り、神廟を建てました。それに対して、朱蒙は金蛙王に感謝の意を込めて高句麗の産物を贈りました。その五年後、朱蒙のもとに、彼の息子だと名乗る若者が扶余から逃れて来ました。その母だという女性を伴っていました。


 朱蒙は東扶余から逃亡するとき、すでに禮少椰(イェソヤ)の娘と結婚していましたが、妊娠中の妻を連れて逃げることができないので、心ならずも置き去りにしてきました。

「生まれた子が男児なら、その子に言いなさい。私の形見の品が七稜の石の上に立つ松の下に納めてあるので、それを探し出せたなら、間違いなく我が子であると認めましょう」

 そう言い残して扶余を出たのです。そして、その後、 禮少椰(イェソヤ)は無事に琉璃を産みました。

 母から話を聞いた琉璃は、形見を探しに山や谷に行きましたが、見つけることが出来ず疲れて帰ってきました。そんなある日、琉璃が堂の上にいると、柱を支えている礎石の下から、何かが聞こえるような気がしました。見ると、礎石には七つの角があり、柱は松で出来ていました。そこが父の言い残した場所だったのです。琉璃は柱の下を探し、折れた剣を一振り発見しました。

「その剣を持ち、屋智・句鄒・都祖の三人を連れて、私は父上に逢いにやって参りました。どうかこの剣を見て下さい」と言って折れた剣を差し出しました。朱蒙が自分の折れた剣を出して合わせると、剣は血を流して接着し、一振りの剣になりました。

 朱蒙は「お前が本当に我が子なら、神術が使えるはずだ」と琉璃に言いました。すると琉璃は天空の太陽まで昇って見せました。これを見た朱蒙は喜び、高句麗で生まれた沸流(ふる)と温祚(おんす)の二人を差し置いて琉璃を太子にすることにしました。

 その五ヵ月後、朱蒙が四十歳で崩じ、琉璃は遺品の玉と鞭を龍山に葬り、王位を継ぎました。王の姓は高でした。

 西暦22年、朱蒙の故郷である東扶余の帯素王(テソワン・朱蒙の義兄)は、高句麗三代目の無恤王(ムヒュル朱蒙の孫)に討たれて滅びました。


 卒本は高い山と渓谷の多い所でしたが河川沿いに広がる土地は肥沃で、多くの国々と隣接しており、高句麗の征服活動と膨張には格好の条件が揃っていました。朱蒙は旺盛な征服欲で付近の松譲国・人国・北沃沮などの国を併合すると、その評判を聞いて周辺の国々が進んで高句麗に集まって来る様になりました。

卒本(ソルボン)には桂 婁(ケル)族、沸流(ピリュ)、橡那(ヨンナ)、貫那(カンナ)、桓那(ファンナ)の5部族があった。このうち、桂 婁(ケル)族の族長が真っ先に朱蒙に従いました。 


「高」は東明王の姓と同じであるということが分かる。このように、「高句麗」は一つの単語ではなく、「高」と「句麗」の合成語である。
それ以前は解(へ)氏が氏姓だった。扶余の正統な王族は皆、解(へ)氏だった。

高句麗、百済の建国と召西奴


召西奴(ソソノ)は高句麗(コグリョ)の始祖王東明(トンミョン)王の第2 夫人で、高句麗及び百済(ペクチェ)の建国に尽くした女性である。

彼女は句麗(クリョ)国(鴨緑アムロク江中流地方)の五部の一つである卦婁(クァル)部(桂婁ケル部)の最上層貴族・延陁勃(ヨンタバル)の娘で、前3 世紀初め北扶余(プップヨ)王解扶婁(ヘブル)の庶孫優台(ウテ)に嫁いだが、夫の早世で故郷卦婁部に帰り、父の別宅で独り寂しく暮らした。とはいえ、彼女はまだまだ若く、しかもその美貌のゆえに近隣の評判となっていた。その頃、扶余を脱出した高コ朱蒙ジュモン(東明王)は、10 余名の仲間と共に、卦婁部北辺の卒本(チョルポン)川(沸流水)流域の荒れ地に居住地を定め、持参の5 穀を種子として田畑を起こしていた。


ある日、卒本川のほとりで猟をしていた朱蒙らはかなり疲れた身で、日暮れ時、ある瓦葺きの一軒家の門を叩き、一夜宿を取りたいと願った。一行の装束に目を凝らした家の主とおぼしい女性は、彼ら、とりわけ朱蒙がただならぬ人物だと察して快く承諾した。この女性がほかならぬ召西奴であった。


彼女は朱蒙といろいろと話しているうちに、彼が将来を約束された若者だと見て取り、自分も資金の面で力になりたいと申し出た。召西奴の財政的援助で朱蒙は、付近の山に城柵を巡らして武器や装具を蓄え、兵を募った。

 このソソノと朱蒙の出会いのエピソード:古事記 天照大神と須佐之男命
古事記ではソソノは「我が国を奪はむと欲ふにこそあれ」と警戒した。「然らば汝の心清く明きは如何にしてしらむ。」の問いに、朱蒙は「各誓ひて子を生まむ。」と言った。生まれたのが女の子で、手弱女=木俣神であった。理由はわからないが、賭け(うけひのこと)に勝ったのは朱蒙だった。こんなふうに置き換えられます。
*注:ここでの物語では、天照大神は、出会い、即く男女関係になっています。分かりやすくて良いですね。神にしてはとても人間味があるのです。


こうして朱蒙は1 年足らずのうちに卒本で大きな政治勢力にのし上がったのである。
当時、北方から靺鞨(マルガル)族がしばしば当地に襲来し、人民を苦しめていた。朱蒙は兵を率いて靺鞨軍営を奇襲し、彼らに二度と侵略をしないと誓わせた。

この出来事を通して朱蒙の名声は一段と高まり、朱蒙への召西奴の恋情も深まった。
召西奴の父親延陁勃は、朱蒙が並々ならぬ人物であると知り、婿に迎えようとした。ところが娘はかぶりを振った。

「いけません。朱蒙さんはただの人物ではなく、雄大な志を持つすぐれたお方です。わたしのような平凡な女、しかも一介のやもめがあのようなお方とつり合うはずがありません」

これは召西奴の真情であった。朱蒙に恋心を抱きながらも、自分の境遇を考えざるを得なかったのである。父親は腹を立てて娘をなじった。


「お前はいつからこの父親の言葉も聞かなくなったのじゃ。わしは朱蒙をわが卦婁部の代表者に推挙するつもりだ。朱蒙がわが卦婁部を統率することになれば、わしは死んでも本望だ」

延陁勃はこう言うと、問答は無用だと言わんばかりにそのまま寝室に入ってしまった。召西奴は正座した膝を崩そうともせず、はらはらと涙を流した。父親の叱責が嬉しくもあり、悲しくもあった。1 年が過ぎた。

その間、召西奴は父親の意に沿って朱蒙に嫁ぎ、自分の全財産を夫の事業につぎ込んだ。彼女は扶余から優良種の馬を大量に買い入れて軍馬とし、馬具や武器、布地や糧米も整えた。こうして1 年足らずの間に朱蒙の勢力は強大になった。


朱蒙は、自分の今日あるは、身の危険を省みず後押ししてくれた母親のお陰であると考え、その姿をしばしば思い浮かべていた。このような時、3 人の娘を持つだけで王子のいなかった句麗王(消奴部・沸流部の解氏)は、堂々とした風采とすぐれた知略を兼備した若い朱蒙に目を付け、彼を婿に迎えようとした。朱蒙は困惑した。召西奴を捨てる意向がまるでなかったのである。
ある日の夜、浮かぬ顔でげっそりして庭園を行きつ戻りつしている朱蒙を見て、召西奴はその前に立ちふさがった。


「今後の句麗国の運命は、誰の肩にかかっていましょうか。たかが一人の女のために大業を徒爾に終わらせてよいものでしょうか。ためらわずに国王の婿になってください。そうすれば句麗の全土を配下に置くことになりましょう。句麗はもはや衰えた国です。傾いた国運を立て直し、きっと富強な大国を建ててください」


低いながらも厳しくこう言った召西奴は、月光の下でこうべを垂れ、静かに立ち尽くした。その姿は、一輪の百合のように美しく、清らかだった。朱蒙は彼女の言葉に感動し、ほれぼれとその姿に見とれた。

それからしばらくたって、朱蒙は句麗王の第2 女と結婚し、前37 年、句麗王が世を去ると、句麗国全五部の統治者となり、国名を高句麗と改めた。


召西奴は領土拡大に奮闘する朱蒙の連戦連勝の報に喜び、その間二人の息子沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)を生み、建国の礎になってくれるよう頼んだ東明王の言葉をいつまでも忘れず、高句麗の建国と発展に人知れぬ力を注いだ。扶余から朱蒙の最初の夫人礼レ氏とその息子孺留(ユリュ)が尋ねて来、王が孺留を太子に封じたときも、召西奴は、王位継承の問題について難しく考えなかった。


彼女は東明王の言葉を絶対的なものとして受け入れ、無言で従った誠実な妻であった。朱蒙はそんな美徳の持ち主である召西奴を有難く思い、孺留と沸流、温祚との関係を良くしようと努めた。彼は、自分の死後、万一、彼らの間に不和が生じ相争うようなことになれば、高句麗の基盤が崩れるであろうと憂慮して、召西奴にこう言った。


「そなたが生んだ沸流と温祚は共にしっかり者だ。しかし、わしが死ねば内輪もめが起こらないとも限らんから、そのときは二人の子を連れて南方の地へ行き、わしの志を実現するいま一つの国を建ててもらいたい。これがわしの念願だ」

召西奴は「わたしは息子たちを助けて、南方の地にあなたが望んでいらっしゃるいま一つの国をきっと建てるようにいたします」と真心をこめて答えた。

そのしばらく後のBC19 年9 月、東明王は急病に倒れ、40 年の生涯を終えた。

召西奴は葬儀を終えると、直ちに沸流と温祚を伴って南方の地へ向かった。このとき、10名の重臣のほか少なからぬ人たちが彼らに従った。(初め十済という国号)この南方進出は、東明王の聖旨を実現するうえでの重大な出来事であった。

召西奴一行は漢江(ハンガン)下流の漢山に至り、一番高い負児(プア)岳の頂に立ってまわりの地形を見渡した。兄の沸流は、西方の海辺に国を立てようと言った。

重臣たちは漢江の南方を指差しながら、「この辺りは大きな川が流れて、北方は高い山岳に守られており、南方には肥沃な平原が広がり、西方は大海が横たわっています。このような要害の地を他に求めることは容易でありません。ですから、ここに都を定めるのがよかろうと存じます」と進言した。

召西奴は彼らの意見をもっともなものと考え、二人の息子にそうするよう勧めた。思慮が浅く粗暴で平素から母親の言葉によく従わなかった沸流は、この時もみんなの意向を無視し、大勢の人を引き連れて海辺の彌ミ鄒忽チュホル(今日の仁川インチョン地方)へ行ってしまった。


一方、幼少の頃から母親の言葉を尊重し、こせこせしたところのない温祚は、漢江下流の慰礼イレ城に都を定め、この小国を百済(ペクチェ)と名付けた。百済としたのは、温祚が慰礼城に来るとき百姓たちが喜んで従って来たからである。

この百済封建小国は、領土が四方10 余里にすぎず、まだ辰チン国(馬韓)の属国であった。

召西奴は第2 子の温祚が、東明王の意に沿って百済小国を建てたことを祝福し、当地に東明王の祠堂を建てることで、百済小国が高句麗の継承国であることを明確にした。

沸流は彌鄒忽地方で暮らしたが、その土地は湿気が多く、水は塩からくて生活に適さなかったので、やむなく母親と弟のいる慰礼城にやって来た。そこでは、温祚が亡き父王の意向通りに母親の助力で国を建て、なごやかな生活を送っていた。沸流は自分の不明を恥じ、情けなくもあって重病を患い、ほどなく死去した。


召西奴は、東明王の意に沿って百済小国の強化に努める温祚に力添えしながら、慰礼城で幸せな余生を送った。BC1 世紀に建てられた百済小国はその後、領土を拡大し、国力を充実させて、前1 世紀末には、独立した封建国家百済国へと発展した。

このように召西奴は、高句麗、百済両国の建国に貢献した女性であった。

出典:歴史に名を残した朝鮮の女性たち 朝鮮・平壌 外国文出版社 チュチェ100(2011)年

 上記の物語では、BC19 年9 月、東明王は急病に倒れ、40 年の生涯を終えたとしている。
確かに、「三国史記・高句麗本紀」でも、BC19年に朱蒙が死亡したと書かれているのである。

しかし「後漢書高句麗伝」によれば、新を開いた王莽(おうもう)が臣下に命じて、高句麗候の騶(すう)を誘い出して殺害させたと書かれている。騶(すう)は、朱蒙(鄒牟)のことで、この事件の年代は、「漢書王莽伝」によれば、AD12年になる。急死であることは確かである。この物語のようにユリとの再会を果たした翌年に死亡したとすれば、朱蒙王がユリを立太子をしていた可能性は薄い。召西奴が朱蒙の急死の直後、直ちに南方へ旅立ったというのも確かではない。急死チョガ会議は長い間、おそらく数年の間、共立王を決めることができなかったに違いない。
召西奴一行が、漢江(ハンガン)下流、今のソウルに到着した。しかし、漢山とか、漢城とかの名称は、百済立国後につけられた名称で、時代を逆のぼって名前が使われている。召西奴が到着した場所は葦がうっそうと群生する原野で、名前もなかった。そこで、思えるのが記紀の葦原中津国という名称である。葦原中津国のほうが、しっくりくるのは私だけだろうか。

 百済立国は、歴史年表ではBC18年である。であれば、後漢書の記事での騶は朱蒙ではなくなる。また、高句麗本紀によるとBC19年に朱蒙が死んでいるなら、百済立国がBC18年であることはありえない。『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国学会の通説である。だが、三国史記の年代は信用できない。韓国の歴史年表は三国史記の高句麗本紀の暦年を信用してそのまま記しているようである。初期には半年暦が使われたと考えている人もあり、高句麗王の初めの三代の在位年数を半分になどしないと実年にならないとする説もある。なぜか王統紀は中国正史に比べて暦年がかなり怪しい。残念ながら日本書紀もその例外ではない。逸失した『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所に引用文があるが、逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが津田左右吉によって指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。三国史記の百済本紀と、書記の引用する百済三書とはまったく異なるのである。

 代琉璃(リュり)王は、都を丸都城(集安・吉林省)に移したのがAD23年とされる。瑠璃の王権がようやく安定したので遷宮したと考えられ、そこから、逆算すると、中国の正史通り、朱蒙の死はAD12年、40歳ぐらいだったといえるだろう。召西奴は姉さん女房だったので、その子供は20歳をこえていただろう。ともあれ、百済建国は紀元後、AD15~25年の間と修整しなくてはならないだろう。
東明王の后礼氏

礼(レ)氏は高句麗の建国者東明(トンミョン)王(高朱蒙コジュモン)の最初の妻であった。扶余王(プヨワン)の離宮に仕えていた彼女は、ここで朱蒙と知り合ったのである。

彼女は善良で慎み深く、思慮に富み、それに、まめまめしく器用に働く評判の女官であった。ほんのりと紅潮を帯びた頬と伏し目がちのやさしい瞳、きれいに通った鼻筋と、笑みを含んだ口元は、18 歳の若者朱蒙の心を捉えた。礼氏も以前から朱蒙のたくましい体躯と高い人格、すぐれた武術に引かれ、人知れず思慕していた。二人はいつしか愛する仲となった。母親も彼らの仲を喜び、結婚を許した。
しかし幸せは長く続かなかった。扶余の7 人の王子が朱蒙の謀殺を計っていたのである。朱蒙は、身に迫った危難を避け、ひいては年来の大望を成就するため、母親と妻を後に残して扶余の地を去ろうと決心した。

夫と涙の離別をした礼氏は、そのしばらく後、長子孺留(ユリュ)を生んだ。礼氏は朱蒙の跡とりを授かったことに満足し、父親にひけをとらぬ人間に育てようと決心した。歳月の流れと共に孺留は立派な若者に成長していった。
礼氏は、朱蒙が建てた高句麗国が日に日に強大になっていることを伝え聞いて大いに喜び、父親に劣らず骨格たくましい孺留をすぐれた武人に育て上げようと、前にも増して努力を傾けた。

孺留は幼年時代から父親に似て弓術に長けた。ある日、道ばたで遊んでいた孺留は、雀が家の屋根に止まっているのを見て、矢を放った。ところが矢はたまたま通りかかった女の頭に載っていた水瓶に当たり穴を開けてしまった。

女は、「この父無し子め。なんてたちが悪いんだろう」と悪態をついた。あまりのことに顔が真っ赤になった孺留は、矢じりに粘土を付け、水瓶の穴を狙ってひゅっと放った。矢は狙い違わず穴に刺さり、粘土がそこを埋めてしまった。孺留は、その足で家へ走って帰り、母親にしがみついて、なぜ自分にはお父さんがいないのかと叫び、肩を震わせて泣いた。
礼氏は息子をなだめて、静かに言った。

「お前のお父さんは天神の子解慕漱ヘモスが生んだ子なんだよ。母方のおじいさんは河伯ハベクだしね。そんなお父さんをこの国の王子たちが殺そうとしたので、お父さんはここから抜け出し、南の方の地で高句麗という国を建てたの。だからお前は高句麗国へ行って、お父さんに会うのだよ」


続けて礼氏は、7 角の石の上に松の木が立っているが、その下にある物を埋めておいた、それを持って尋ねて来れば自分の子に間違いないと認める、と言い残してお父さんはここを発ったと言った。

孺留は、父親が残していった物を見つけようと1か月余り山の隅々を探して回ったが、7 角の石を見つけることができなかった。けれども孺留は父親に会いたい一念で、くりかえしくりかえし山を探し歩いた。

そんなある日、山から疲れ果てて帰った彼は、倒れるように縁側に腰をおろした。その時、縁側の端の柱の下で何か音がしたような気がした。何の音だろうかと思って目を凝らしているうちに、柱の礎石が7 角形であることに気づいた。

しかもその上に立っている柱は松材である。あっと思って柱の下を探ってみると、そこに折れた剣が隠されてあった。孺留と母親は抱き合って喜び、折を見てきっと父親を尋ねて行こうと約束した。母親の意に沿って孺留は、その日のために武術の修業にいっそう励んだ。

その頃朱蒙の母親柳花の病状は悪化した。礼氏はまことを尽くして姑を看護し、その死後は、夫に代わって葬儀を立派に行った。この3 年忌を終え、さらに2 年が経った4 月、礼氏母子は朱蒙を尋ねて高句麗へ向け旅立った。

父親に会った孺留は、折れた剣を差し出し、自分は息子の孺留だと言った。東明王は早速深くしまって置いた折れた剣を取り出し、それと合わせて見てたいそう喜び、「お前が本当にわしの子であるからには、何か特別な武芸の心得があるはずだ」と言った。

すると、孺留はさっと飛び上がって切り窓に取りつき、体で日光を遮った。東明王はいたく満足し、わが子を立派に育てたばかりか、母親にも孝養を尽くし、さぞ苦労が多かったろうと言って、礼氏に重ねて謝意を表した。その上で、自分には幾人かの妻があり、子供たちもいるから、この際太子を立て、正式に王后も定めて後顧の憂いを断ち、かつまた後世への戒めともすべきだとして、孺留を太子に、礼氏を王后に封じた。

礼氏は王后になってからも常に家庭の和睦を図り、BC19年9 月、東明王が40の年で急病にかかり死亡すると、龍山(ユンサン・高句麗最初の首都卒本チョルポン城―今日の中国遼寧省桓仁県)に埋葬して、葬儀を大きくとり行い、墓は丁寧に加工した大石をもって営み、高句麗の建国者の陵として、後世にも遜色がないようにした。


礼氏は、高句麗第2 代の王孺留の政事をしっかりと支えた。
このように高句麗最初の王后礼氏は、高句麗の建国と王位の継承を支えた功労者であった。

■第2代>瑠璃の母、礼氏は本当にいたのか?


句麗王は代々i第一に涓奴部からだしていたので、涓奴部の松譲王族に入るため婿にならなければならなかった。
朱蒙は句麗王に為るために、涓奴部の王女を娶り、さらに、絶奴部からも后を取らなければならなかったのである。
そこで、ケル部の召西奴は大業をなしてくださいと、句麗王の第二女と婚姻することを許したのである。
召西奴は第二妃に甘んじることにした。

「今後の句麗国の運命は、誰の肩にかかっていましょうか。
たかが一人の女のために大業を徒爾に終わらせてよいものでしょうか。ためらわずに国王の婿になってください。
そうすれば句麗の全土を配下に置くことになりましょう。
句麗はもはや衰えた国です。傾いた国運を立て直し、きっと富強な大国を建ててください」

句麗国の5部族の慣習は召西奴が側室としてしか入ることを許さなかったのである。

第一妃は高句麗神話では礼氏と召西奴しか登場しないが、上記北朝鮮の説では句麗王の第二女がいることなる。

これは、礼氏を養女にしたということだろう。王女にしたてたのである。

ところが、礼氏に比定できる姫は古事記にはいないのである。
古事記では句麗王の第2女とのエピソードはあるが、礼氏に相当するエピソードはない。
琉璃(ユリュ)が礼氏の子であるとするのが扶余の正当史からは抹殺されている。これは、礼氏が女官(官女)だったせいかも・・・?
記紀神話では、この姫のエピソードは書かれていない。記紀では消された姫君なのだろう。召西奴にとっては女官ごときの女に王后の座を奪われたことになる。龍山で葬儀を取り仕切った喪主が礼氏なら、これほど目障りな女はいない。

朱蒙が亡くなった後、5部族が高句麗の王を決めるのは5部族の代表者会議チョガ会議で満場一致という条件があった。
瑠璃を支持したのは涓奴部の王族だけである。この王の推戴をするチョガ会議が分裂状態になった。

この瑠璃がすんなりと王位につけなかったとしたら、5部の不服の火種をがあったからだろう。それが、礼氏の出自であることは明らかである。礼氏には有力な外戚がまったくないからである。(朝鮮王朝になると妃の外戚が権勢を振るう政治体制を勢道政治と呼んでいる。)


  *鄒牟(40歳) BC19 四月 上崩於西都 東宮即位(東宮=光明=瑠璃)
BC17 以順奴艴(絶)奴爲沸流治 以灌奴桂婁爲温祚治 (芻牟鏡卷一 慕漱帝記)

東扶余も帶素も、この経緯をつぶさに知っていたことだろう。扶余はこの分裂を狙って攻撃を開始する予兆をしったケル部は国を移す大決定をした可能性もある。


三国史記』巻13~22高句麗本紀で、によれば、BC19年に朱蒙が死亡したと書かれている。
しかし「後漢書高句麗伝」によれば、新を開いた王莽(おうもう)が臣下に命じて、高句麗候の騶(すう)を誘い出して殺害させたと書かれており、騶(すう)は、朱蒙(鄒牟)のこととされる。
この事件の年代は、「漢書王莽伝」によれば、AD12年となる。

*朱蒙が高句麗を立てる前、この5部族のうち、涓奴部ソノプ(椽那部ヨンナプ)が王を出していたが、次第に微弱になり、桂婁部(ケルプ)から王を出すようになった。
*絶奴部(チョルノプ)は代々王妃を出す部族となっていたが、娘がいない時期もあり、王の世襲制が確立されるとの制度も無くなった。


 『朝鮮始祖』

 当時的高句麗内分五部:
涓(一作消)奴部、桂婁部、絶奴部、順奴部、灌奴部。

涓奴部、亦称椽那部、西部、右部、即原沸流国王松譲所在部落、在今富尔江流域、故史称高句麗初以此部為王、夫余王帯素被殺后、万余名投奔。

高句麗領的夫余人被置于此部;桂婁部、也叫内部、黄部、在今以遼寧省桓仁県為中心的渾江和鸭緑江中游、系朱蒙等人帰附地之部落、故史称涓奴部稍微弱、后桂婁部代之為王;

絶奴部、也叫提那部、為五部中的北部、后部、在今哈達嶺以東的輝発河流域、世与王族联姻;

順奴部、也叫東部、左部、在今朝鮮慈江道一帯、是由最先被征服的荇人国居民改組而成的;

灌奴部、也叫貫那部、南部、前部、由盖馬和句茶国居民改組而成。

五部之外的沃沮等被征服部族、公元3世紀后也被同化于高句麗族、多数仍居故地、只是在被征服時有部分被俘掠的遷居他地。


 当時の高句麗内は「涓(消)奴部、桂婁部、絶奴部、順奴部、灌奴部」の五部に分かれる。

「涓奴部(椽那部・西部・右部とも称す)」

 原初は沸流国王「松譲」の所在部落で、現在の富尔江流域に在り、高句麗は初めこの部を王と為し、扶余王「帯素」が殺された後、万余の人々が投降した。高句麗領の扶余人はこの部に配置されたと史称されている。

「桂婁部(内部・黄部とも称す)」

 現在、遼寧省桓仁県の中央を流れる渾江と鸭緑江の中流域、朱蒙の系譜に連なる人々はこの部落の土地に帰属したが、涓奴部が次第に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わって王を出すようになったと史称されている。

「絶奴部(提那部とも称す)」

 五部の中での北部(後部)を為し、現在の哈達嶺以東の輝発河の流域に在り、代々王族と婚姻関係を結んできた。

「順奴部(東部、左部とも称す)」

 現在、北朝鮮の慈江道一帯、これは最も早くに征服された荇人国の居住民を改組して再編成したものである。大白山东南荇人国(约在今朝鲜慈江道一带) 長白山の東南、両江道。蓋馬高原の山間部の小国。

「灌奴部(貫那部、南部、前部とも称す)」

 盖馬と句茶国の居留民を改組して結成。五部の外の沃沮など征服された部族で、紀元三世紀後半にまた高句麗族に同化させられたが、依然として多数が故地に居住していた。ただ、征服された時に一部分は捕虜として他の場所に移動させられた。



 王之宗族、其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主、今雖不為王、適統大人、得稱古雛加、亦得立宗廟、祠靈星、社稷。絶奴部世與王婚、加古雛之號。(『三国志魏書』高句麗伝)

 王の宗族、その大加は全員が古雛加(中華王朝の鴻臚寺のような外交接客の官)と称している。
涓奴部は本来の國主、今は王になれないとはいえ、大人(部落の長)を統べることが適い、古雛加の称号を得て、宗廟を立て霊星(辰の方位神)や社稷を祀ることもできる。
絶奴部は代々王妃をだすことから加古雛を号する。

『本有五族。有涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部・・・・・絶奴部世與王婚、加古雛之號
伊夷模無子、淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以爲王。今句麗王宮是也。』 

元は五族あって、それは涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部である。絶奴部は代々王と婚し、加古雛と号す。
伊夷模には(絶奴部に)子が無かったので、灌奴部と淫して生まれた子が位宮と言い、その子が伊夷模の死後王となった。今の
高句麗王、宮(山上王)がこれである。本来絶奴部の正妃の子を太子としていた仕来りが破られたか、実際に子が産まれなかったは不明だが、武国

 凡有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本消奴部為王、稍微弱、後桂婁部代之。其置官、有相加、對盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、帛衣先人。(『後漢書』高句麗伝)

涓奴部は本来の國主、今は王になれないとはいえ、大人(部落の長)を統べることが適い、古雛加の称号を得て、
宗廟を立て霊星(辰の方位神)や社稷を祀ることもできる。絶奴部は代々王妃をだすことから古雛加を号する。

消奴部は高豆莫を婿にしてから高豆莫を王にした。この政略結婚は王妃の名は神話中に隠されているが、沸流国王松譲の第二女。{古事記では櫛稲田比売である。}八岐大蛇の段の須佐之男は高豆莫である。朱蒙は桂婁部のヨンタバルの第2女、召西奴(ソソノ){古事記では八上媛}と結ばれる。古事記はで、大国主の段(稲葉の白兎)以下が朱蒙となり、第二の須佐之男につなげている。始めに東明王を号した。高豆莫、次に東明王と称されたのが朱蒙であって、須佐之男の称号は東明王の称号と同じように二人いる。そこで、このあと須佐之男1と須佐之男2とし、これを区別する。いつの間にかこの異なる人物が天神として習合されて区別がなくなったのでのであろう

■朱蒙亡き後、五部族は王の共立に失敗、分裂した!

諸加(チョガ)の構成部族 加は部族または家を意味する。
句麗国5部族  別名  朱蒙の死後、支持した王子  備考  部族  畜名 故國川王
改変後 
 四神
 涓奴加/ソノ 椽那部・右部 (消奴部・沸流部) 古雛加(王族)・羊加  瑠璃(太子) 王権を持っていた。沸流国王「松譲」の所在部落  貊族  西部 白虎
(白部)
 絶奴加/チョルノ  提那部・加古雛(王族)・馬加  沸流   代々王妃をだす氏族(王族)  貊族  馬  北部 玄武
(黒部)
 順奴加/スンノ  順奴・牛加(左部とも称す)  沸流   荇人国・北沃沮の被征服部族    牛  東部 青龍
(青部)
 灌奴加/クァンノ 猪加(貫那部・前部とも称す)  温祚 盖馬/狗茶/東沃沮の被征服部族    豚  南部 朱雀
(赤部) 
 桂婁加/ケル  狗加・桂婁部(内部・黄部とも称す)  温祚 卒本中央地域  濊族  犬  中部  黄部
*荇人(へにん)/盖馬(けま)/狗茶国(くじゃ)/沃沮(おくちょ) _gt_dcavt3p1yar8="1">
*古雛加は王の宗族、すなわちの大加の尊称。
*各部の族長(王)は諸加のメンバーで、「傳薩」(ヨクサル)といい、軍を有する。
*BC17 以順奴艴(絶)奴爲沸流治 以灌奴桂婁爲温祚治 (芻牟鏡卷一 慕漱帝記)
*高句麗は5部族5不足で成り立っていて涓奴部が王権を持っていた。>涓奴部は一説によると 解(へ)が氏姓だった。
*模本王と模本王以前高句麗王たちは全部解氏だ。 ソノ部王の氏姓でもあった。



この表のような割れ方をみると、沸流と>温祚は第2妃である召西奴の子であるから、桂婁部に> 絶奴部・順奴部・灌奴部同調したように見える。しかし、>長子沸流を王位につけるだけなら話は単純だが、当の桂婁部が弟の温祚を押している。沸流としてみれば、「兄をないがしろにして祖父も母も弟のことばかりだ。」それなら、自分を応援してくれる部族を自分で見つけるしかない。絶奴部と順奴部は沸流の思いを理解して「やはり兄から先に王にするべきでしょう」と主張したのであろう。沸流は王になりたい野望を隠せなかったので召西奴から思慮が浅いと見られたのだろう。

 この結末は召西奴が沸流と>温祚を連れて、南に新しい国を作ると言って十の重臣を伴って卒本を離れたことで解決した。おそらく、チョガ会議は難航して満場一致にいたらないままだっただろう。
そもそも、瑠璃が太子であったら、チョガ会議は初めから賛同すべきなのに、そうはしなかったことが引っかかる。
涓奴部と協力して王権を支えた絶奴部が、>涓奴部と一枚岩ではなかった。絶奴部が正妃を出せなかったしこりがあるのだろう。当然瑠璃は絶奴部の女から生まれていない。

礼氏が朱蒙の第一妃だったということに異説があるのである。北朝鮮の民族テキストでは礼氏は元王宮女官と書かれるのである。
礼氏は扶余王(プヨワン)の離宮に仕えていた宮女(>采女)であったのなら、太子になれないはずである。
婚儀をあげていなし、庶子であるかもわからない>瑠璃が王位を継げるわけがない。
瑠璃が朱蒙の嫡男であるかどうかも卒本の人々は分からないのである。また、後ろ盾となる名家もない。
そこで、隠し子のような>瑠璃(太子)を推したのは涓奴加だけであることを含むと、次のように考えられる。。
つまり、涓奴加の王が礼氏を養女にしたのだ。これが政略的であるとしても、王の意思でもあったのだろう。
後世の王統史には粉飾されなければならないことがある。


*「加」とは族長や高官の称号でモンゴルの汗と同じである。動物名(私見)と対照できる。→虎加(諸加統率)、馬加(文書)、牛加(農業生産)、熊加(国防)、鷹加(刑罰)、鷺加(保健)、鶴加(道徳倫理)、狗加(地方官統率)の八加である。

 灌奴部族(クゥアンノ貫那部、南部、前部とも称す)は、「黄龍国」と同じ民。灌奴部族は高句麗内で服属した鮮卑族(モンゴル族)と思われる。北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつである(407年 - 436年)。鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった..。鮮卑族は遊牧騎馬民族であり、北魏などの王朝も立てた。
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奴部に賛同できなかった絶奴部、順奴部、は沸流(ピリュ)太子を王にしようとしていたが、桂婁部と灌奴部は温祚(弟)を推戴、王にしようとしていた。
*鄒牟(40歳)BC19四月上崩於西都東宮即位(東宮=光明=瑠璃) BC17 以順奴艴(絶)奴爲沸流治 以灌奴桂婁爲温祚治(芻牟鏡卷一 慕漱帝記)

朱蒙が死んで、瑠璃が即位したとあるが、涓奴部の王に即位したということなのだろうか。兄の沸流は絶奴部、順奴部を治め、弟の温祚が灌奴部と桂婁部を治めたと読める。この文からはなぜか、三王子が分裂した統治を始めたように見える。この兄弟は、はじめから五部族の覇権争いの火種を持っていた。結局、召西奴は自分の子供である2王子を連れて河南の地に南下したことは高句麗の共立王温祚を巡る争いを回避し、高句麗の安泰を願って、王座を降りたという事だ。結果として、卒本扶余は 涓奴部が押す瑠璃を王位に就いた。高句麗王第8代新大王(在位165年-179年)以後、東部・・(中略)・・南部などの五部族に改変され、消奴部(橡那(ヨンナ)、絶奴部(チョルノプ)は古雛加の特権を失った。部族から王と王妃を出せなくなったのは、王位継承が父子相続とと定められたときである。消奴部(橡那(ヨンナ)、絶奴部(チョルノプ)、祭事などの役割を負うことになる。そして、西部・北部・東部・南部・中部と変えた時、部族長は侯国の主になったということで、これは、王政が強化されたということだ。

絶奴部は 沸流を支持している。そして都頭王(帶素の従弟)の子である尉仇台を支えて百家百済(遼西)を建国し強大化した。河南百済(温祚・桂婁部)が弱体化したあと、本流百済の王位を奪還した。百済第5代肖古王が尉仇台であるという。百家百済(絶奴部)が百済王に復活したと見る。その後の、第11比流王(ピリュワン)は百家百済系の王である。第12代契王に2年ほど温祚系百済になったが、第13代近肖古王(クンチョゴワン)が再度遼西百済・百家百済(涓奴部)王に戻った。百家百済系王統が続いた。尉仇台だが、公孫燕に組して漢江流域の温祚系にとってかわった。ここには、国譲りの経緯の臭いがする。百済には扶余の別名があるように、2系統の王朝が5世代ぐらは並立していた。これを一つの王統にまとめたので、百済王の書記の実年数は相当膨らませた可能性がある。中国史で余氏と書かれる王統こそ、実に倭の5王であり、かつ、扶余の王統である百済王なのだ。







遼西百済という強国が倭王を自称した?!?うそっ?本当!



百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣
— 『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)

百済国はもとは高句麗と揃って遼東の東千里にあった。その後、高句麗が遼東を征服したとき百済は遼西を占有した。百済が治める所を晋平郡晋平県という。

『唐会要』百済伝
 百濟者。
本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居。有東西兩城。

 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

*中国の歴史書をみると、渤海を大海と呼ぶのに対して楽浪海を小海と表現するようである。

晋平郡晋平県に百済があった。東西に二城があったというのは1)晋平郡晋平県と2)河南慰礼城の二つ地域であろう。
単に百済と言ったら、晋平郡晋平県の城、伯済と言ったら河南の慰礼城である。

晋平郡晋平県は尉仇台が占有する前、倭国(龍城)があった。前節のように『第二の倭国』があったところである。

*尉仇台の次王の簡位居には嫡子がなかったので、諸加が庶子の麻餘を協議によって王位に就けた。庶子とは后以外の側室で王族でない女に産ませた子であろうか。

*越州とは会稽郡の古称で浙江省にあたる。
*『唐会要』(とうかいよう)とは、中国の北宋代に王溥(922年 - 982年)が撰して、太祖の建隆2年(961年)に完成した、現存最古の会要である。

*後東扶余二代 尉仇台 高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせ、尉仇台を婿とした。応神天皇の治世に百済王照古王。百済の第5代の王安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。尉仇台とは肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)である。

*幽州は漢の高祖が上谷郡を分割して郡を置いた。武帝が十三州を置いたとき、旧例に従って幽州の名を採り、後に東方を開拓して玄菟郡、楽浪郡などを置き、これらも幽州に属した。昭帝の元鳳元年(前80)、燕国を広陽郡と改めた。
後漢末期、専制政治を行う董卓が長安へ遷都すると、華北の実権は次第に袁紹へと移り、群雄割拠の世相を表していった。北方の雄として知られた公孫は、幽州に割拠し、冀州の地を狙ったが、同じく冀州を狙っていた袁紹に敗れ、次第にその勢力を失っていった。

■尉仇台の隆盛 高句麗軍を壊滅する

翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年(延光元年)、また高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。公孫度が尉仇台に援軍の派兵を命じたのであろう。後東扶余は、百家百済、晋平県に立った都头王 を初代扶余王と見る。すると、遼西百済は高句麗と果敢に戦った。尉仇台は高句麗の朱蒙の末裔とは考えられない。ここでの扶余王は都头王である。百濟國の始祖都慕大王は日の神として降臨し、阿扶余を開国した。ことごとく諸韓は王と呼んでいる。百済には二系統の開祖があることを匂わせる。 头は頭で、touと発音されるので鄒牟(추모チュム)である朱蒙とは異なるであろう。鄒牟(추모チュム)が百濟國の開祖であるとするより、高句麗の開祖であるとするのが一般的である。尉仇台は後東扶余というもう一つの百済国の系譜があると判断できる。温祚の河南系の系譜とが、三国史記では一系統に編集されているのが真相だ。尉仇台は尉仇台とは肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)である。214尉仇台死す。

>*後東扶余 : 都頭王 ▪ 慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王▪ 依虑王(依慮) ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王 
>

西晋武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命して「東夫余」を建国した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、今の遼寧省開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州,冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。

■遼西扶余は魏によって滅びた。

公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡したが、司馬懿は追撃して公孫淵親子を斬り殺した。城は陥落し、司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功した。公孫淵の首は洛陽に送られた。洛陽に留まっていた兄の公孫晃の一族も死を賜ることになり、景初2年(238年)8月23日に遼東公孫氏は滅亡した。
しかしその後の処置は苛烈なものであった。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、京観(首を積み上げて高楼にする戦勝の記念碑)を築いたという。これについて『晋書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。

公孫淵の滅亡によって朝鮮半島北部が魏に押さえられたために、帯方の卑弥呼が魏に使者を派遣し、明帝の加護を得た。卑弥呼が公孫氏の娘で宗女であり、尉仇台(百済第五代王肖古王)と政略結婚した経緯から、卑弥呼が扶余百済の滅亡を防せいだことに他ならない。

■扶余は燕に敗れる。
後に、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。このとき、子弟は沃沮(オクチョ・朝鮮半島東海)に逃れている。主力は河南に戻ったのではないだろうか。比流王(304-344)、次の近肖古王(346-375)は、百家百済=涓奴部系の扶余王であろうと推定できる。

■高句麗は200年頃も公孫康に大敗している。
『三国志魏書』高句麗伝
 建安年間(196-220年)、公孫康が高句麗を撃ち破り、邑落を焼き払った。拔奇は国王に擁立されなかった怨みから、涓奴部の三万余の民を連れて公孫康に帰服し、再び沸流水(卒本)に戻った。
胡族も伊夷模に叛いたので、伊夷模は新たに国(丸都城)を立てた。今の所在地がこれである。

拔奇は公孫康に従い遼東に往ったが、子を句麗國(卒本)に留めた。今の古雛加の駮位居である。
その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍がこれを撃ち破った。

东明圣王(解朱蒙) ▪ 琉璃明王 ▪ 大武神王 ▪ 闵中王 ▪ 慕本王 ▪ 太祖王 ▪ 次大王 ▪ 新大王 // 故国川王 ▪ 山上王

 高句麗王第6代太祖大王(47年 - 165年・在位:53年 - 146年))は、。姓は高、諱は宮(クン)、または於漱(オス)。
56年7月には、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東朝鮮湾)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。68年8月に曷思王の孫の都頭が国を挙げて投降してきた。72年2月には藻那国を討伐、74年10月には朱那国を討伐した。118年6月には穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲い、121年には、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張している。しかし、その間105年には遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿夔の反撃にあって大敗してもいる。また、121年から122年にかけては馬韓や穢貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされてもいる。治世末期の146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。


 高句麗王第8代新大王(在位165年-179年)、諱は伯固・・・は度々遼東の西安平県を侵犯し,帯方令を殺害、楽浪太守の妻子を誘拐した。後漢の順帝と桓帝の間(125年-167年)に、168年玄菟太守耿臨がこれを討ち,斬首数百級,伯固が降服し、玄菟郡(魏志は遼東郡とする)に帰属した。伯固には二人の子がいた、長子は拔奇、次男は伊夷模(故國川王)。国人は拔奇を愚かな太子とみて、国人は弟の伊夷謨を擁立した。

拔奇は兄なのに擁立されなかった怨みから、消奴部(古雛加=涓奴部)の諸加と下戸三万余人を引き連れて公孫康(公孫度の子203年から楽浪郡太守になる)を訪れて降伏し遼東に移ってしまった。自分の子供である「駮位居」を卒本に於いて占有し、胡族も「駮位居」について叛いたため、伊夷模(故國川王、あるいは国襄。諱は男武、あるいは伊夷謨(在位179-197年)は新たに丸都城に遷都し、新たに国を立てた。抵抗勢力は丸都城に移つり、高句麗復興軍を起こした。その後、再び伊夷模が玄菟郡を襲ったが、玄菟郡と遼東郡の軍がこれを撃ち破った。このとき、涓奴部の拔奇は公孫康に内通したことになる。この国を二分する動乱は、伊夷模が勝利したようである。しかし、伊夷模には(絶奴部に)子が無かったので、灌奴部と淫して生まれた子が位宮と言い、伊夷模の死後王となった。位宮は第10代山上王(サンサンワン197-227)である。

 伊夷模は、消奴部(古雛加=涓奴部)であり、絶奴部に女子がなく、灌奴部の女との間にできた子を王位にしたというのである。王族は消奴部・王妃族は絶奴部が王権を強化してきた。絶奴部から正妃を得て設けた子供以外は王位に就けない掟があった。その他の庶子が王になることはできなかったのである。この王位継承法が破られたのである。伊夷模(故國川王)は、この時、王位継承権をチョガ会議から奪い、父子相続とし、兄弟相続を廃した。兄弟相続に懲り懲りしたことが第一の動機だろう。なんであれ、中央集権化が進んだと言える。そこで、5部族の名称を東部・西部・南部・北部・中部と改変した。桂婁部は中部に改称されたので、桂婁部から王が出たことは一度もなかったと謂えよう。
 11代の東川王(227-248)は遼東の西安平を攻撃したが、魏の母丘儉軍が討伐に動いた。この戦争で丸都城が陥落し、大きな打撃を受けた。王族は東海岸の沃沮まで避難したが、玄菟軍太守の王頎に必要に追撃された。高句麗は245年~東川王が薨じるまでの4年間、丸都城の実効支配を失っていたのである。美川王(300-331)になって、玄莬城を3万の軍で奪った(313年)。

*故國川王(コグッチョンワン)が改変した。桂婁部を内部(黄部)、絶奴部を北部(後部)、消奴部を東部(左部)、灌奴部を南部(前部)、涓奴部を西部(右部)と()内の名称に編成された。黄部とは中部の意味である。五部族は、東部、西部、南部、北部、中部(黄部)の五部に改称した。

*取嫂婚(シュソウコン)も廃止 兄が死ぬと弟が兄嫁を妻に迎える婚姻風俗。百済では、廃止されなかった。『兄が死ぬと、兄嫁を妻にするのは匈奴と同じ風俗である。(魏志夫餘伝)』、これは戦争で夫を失った未亡人の救済と子供を増やす富国政策だったのだろう。これは、学術的にはレビラト婚といい、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。日本では江戸時代に逆縁婚、もらい婚と言っていたようである。あるとき、未亡人になった兄嫁が妻として家に入れば、正妻から見れば年上であるので、なんとも気まずい関係となるが、当時は重婚が普通で、男は2~3人の妻を持っていた。そして、扶余の慣習法では女の嫉妬は重罪で死刑とされていた。(美人薄命の意味、あなた分かりますよね。美人は誣告されやすからですよ。西欧での魔女狩りも多くは嫉妬が原因だったのですよ。ジャンヌダルクがいい例です。)




沸流と温祚 百済の建国(紀元前18年) >〔葦原中津国〕!
東扶余を出て南下した朱蒙が卒本扶余に入ると、その地の王は朱蒙の類まれな才能を見抜き、自分の2番目の娘召西奴(ソソノ)と結婚させました。そうして生まれたのが沸流と温祚です。朱蒙が高句麗を建て東明聖王となり国の拡張を図っていた頃、琉璃が父を訪ねて来て太子となりました。


百済(ペクチェ)は、東明聖王の息子である温祚が建てました。東明聖王には3人の息子がいました。その内、北扶余を出る前に結婚した禮氏から生まれたのが長男琉璃(ユリュ)、東扶余で結婚した後に生まれたのが沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)です。

金富軾が書いた三国史記には次のような内容が伝えられていまするが、どちらが正しいかは明らかではありません。
 
『卒本扶余の沸流部族長である延陀勃(ヨンダバル)の娘である召西奴(ソソノ)は北扶余王の解夫婁の庶孫である優台(ウテ)と結婚して沸流と温祚を産みましたが、優台(ウテ)が死ぬと、卒本(チョルボン)に戻って暮らすことにしました。そうした中、朱蒙が卒本扶余に定着するようになり召西奴は朱蒙と再婚をすることになりました。(優台は干台(ゆだい)とも記録あり)

朱蒙が高句麗を建国して王となると、北扶余から朱蒙の息子である琉璃が訪ねて来て、朱蒙は琉璃を太子としました。すると召西奴は二人の息子を連れて南下し別の国を作ることにしました。その国こそが百済です。


百済を建国した温祚は熱心に領土を拡大させ建国13年目には百済の領土は、北には河(禮成江)、東には走壌(春川)、南には熊川(公州)、西には仁川の海辺までを占めました。しかし、翌年になると温祚は都を今の南漢山城に移した。理由は楽浪と靺鞨がしきりに侵犯してきた為でした。』

注*ここでいう楽浪とは漢の冊封国であった、楽浪国のこと。楽浪国はチェ氏が王で百済の北、帯方郡に位置している。高句麗第三代王無恤(ムヒュル)はAD32年によって滅ぼされるが、王が中国渡来であること、非常に豊かで文化レベルが高かった。農産物も高句麗よりもずっと豊かな生活を送っていた。ここでは楽浪国と建国間もない百済が敵対していたこと、楽浪国の残党こそが阿残、つまり倭人であり、後に公孫燕に冊封されて現在の日本列島九州にまで支配が及んだ。


ある時、沸流と温祚は烏干・馬黎など10余名の臣下を連れ、新たに国を建てるべくその地を求めて旅に出発し、この事を知った多くの農民達は普段から二人の王子を大変慕っていたので自ら彼らについて行きました。


二人の王子は漢山現在の北漢山(三角山)と負兒嶽(부아산)に来て地形を調べた後、河南の地に来ました。すると家臣たちは「北には漢水(漢江)が在り、東には高い山、南には肥沃な土地が、西には大きな海が在りました。この地こそ最も都にするにふさわしい土地と言えます」と、河南城を都とするよう二人に請いました。


温祚は臣下の申し出を受け入れ河南を都にしようと決めましたが兄の沸流は聞き入れませんでし。結局、沸流と温祚はここで決別し、一緒に来た農民達も二つに分かれました。


温祚は河南の慰禮城(現在のソウル市江東区一帯)を都と決め、国の名前を十済とし、沸流は彌鄒忽(現在の仁川)に行きそこを都と決めました。しかし彌鄒忽は、海にあまりに近く塩分が多いため植物が育ちにくく、多くの人が暮らす地としては適していませんでした。喜んでついてきた農民達の間にも次第に沸流を恨む声が強まり、こっそり河南に移って行く人が増えていきました。


 ある時、沸流は弟がどの様に国作りをしているのか気になり様子を見に行くことにしました。するとそこは既に都としての体面が整っており、農民達の表情は安心しきっていました。それを見た沸流は自分の判断が間違っていたことを悟り後悔の内に命を落とすこととなりました。沸流について来た農民達は全て十済に来ることとなりました。

農民達が増えると、温祚は国の名前を百済と替え、高句麗と同じく扶余から来た事から姓を扶余とし、東明聖王の祠堂を建てました。

*>慰禮城 충청남도 천안시 직산면 天安市ジクサン一帯だという新説
*>負兒嶽부아산

Samga-dong, Yongin-si


■扶余の歴史 朱蒙は王となると高句麗と名前を変えた。

北扶余(紀元前239から紀元前58)は、天帝の子・解慕漱(ヘモス)>が6年間遠征して紀元前239年に創建された
>紀元前195息子の慕漱离は領土拡張をなし、紀元前170年、高奚斯が第三代王となり、引き続き拡張主義を継承した
紀元前121に、四代長男高于娄の死の後の紀元前86年まで存続した。
>紀元前86年、高于娄の兄弟、解夫婁(ヘブル)が北扶余を継承したが、一年過ぎると、(高)豆莫に王位を奪われる。

宰相の阿蘭弗が扶余王解夫婁(ヘ・ブル)に「天の神の子孫がいずれ国を作ります。東海に迦葉原(カソボル)という地があり、そこは五穀が良く実ります。ここを離れ、その地に都を遷してください。」と進言し、解夫婁はその地、迦叶原(沿海州の近く)へ逃げ、東扶余を建国した。
>解夫婁(ヘ・ブル)に子がなく嗣子となったのが金蛙王である。

高豆莫(コトゥマハン)は北扶余を合併して卒本扶余>と改称した。高无胥(コウチョ)が继位したのち、朱蒙が即位して「卒本扶余」>を 「高句麗」>と改名した。

(三国史記は大きな間違いをしている。解夫婁(ヘ・ブル)が去った扶余の都から天帝の子・解慕漱(ヘモスがその跡地に現れて、新しく扶余王となった。これを北扶余という・・・これは、5世代の差があり200年近い年代のサバ読みである。)

東明王・高豆莫(コトゥマハン)は第一の須佐之男、忽本城(チョルボンソン)はあの『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』と詠われたのは、沸流の松譲王の娘『櫛稲田比売』を娶り、忽本城(チョルボンソン)に寝所をつくる意味をこめているが、実は堅牢な山城だ。この城の城主に「足名椎神」(沸流族の松譲王)を任命した。そして、またの名を 稲田宮主須賀之八耳神と号した。
なんと、「稲田」と「須賀」という文字があるではないか。

とにかく、初めて宮を作った高豆莫(コトゥマハン)は、東明王を初めに名乗った。スサノオとは、この『須賀之宮の王』という意味であった。
須賀の宮=忽本城は現在の五女山城である。高豆莫は卒本、最大部族涓奴部の王となった。それは卒本の王である。卒本扶余と国号を発したのは卒本5部族の支配者になったことを意味する。こうして、>高豆莫が八坂神社の牛頭天皇に比定できる。そして、妻が波梨采女であるが、別名を櫛稲田比米という事にまったく矛盾がなくなる。
.

高豆莫是位于现在中国东北的扶余人部落的部落首领。

高豆莫的部落卒本扶余北扶余国的一个延续。前86年檀君朝鲜末代檀君古列加的后裔高豆莫(东明王)打败解夫娄夺到北扶余王位后,将北扶余改名为卒本扶余。[1]

根据1911年成书的朝鲜半岛伪籍桓檀古記记载,檀君朝鲜灭亡后,高豆莫在檀君朝鲜故地建立起东明国反汉朝建立的汉四郡。经过几年的征战,得知北扶余国王高于娄去世的消息后,高豆莫将矛头对准了北扶余。高豆莫与继承高于娄王位的解夫娄为王位发生争斗。简短交锋后,解夫娄与其跟随者向东逃走;前86年,在迦叶原建立东扶余

前108年,高豆莫征服北扶余,将东明国北扶余合并为卒本扶余。前59年,高豆莫去世后,传位给高无胥。后来高无胥遇到朱蒙,并将二女儿嫁给朱蒙。高无胥死后,朱蒙继承了王位。前37年,朱蒙建高句丽国。


■朝鮮の河川の古名調査
*遼河(ヨハ)は「九黎河・句驪河・枸柳河・巨流河」などの古名がある。

*鴨緑江(アムノックガン)にも複数名が存在し、古くは「馬訾水・鴨水・鴨緑大水・沛水・大定江」などがある。
>*鴨緑江の支流・渾江(ホンガン)にはいくつかの亦名があり、「塩難水・猪灘水・淹淲水・婆猪江・沛水・佟佳江・梁水」など古名がある。薩爾滸山というのが渾河(ホンガン)の源流だとされる。

浿水(ペス)   平安南道の清川江(チョンチョンガン)
*薩水(サルス)  清川江の中流域
*沸流江(ピリュガン) 沸流水とも。源流が八岐大蛇のいた場所か?
*大同江(テドンガン) 列水(漢書地理志)

*漢江(ハンガン)は>奄利水・阿利水・於利水(オリス))・帯水・郁利河(百済本記)・阿利那禮河(日本書紀)などの古名がある。中世(統一新羅以後)には礼成江(イェソンガン)と呼ばれた。高麗時代の王都・松嶽(ソンアク)・現在の開城(ケソン)は貿易港でもあったが、礼成江(イェソンガン)の河口の北岸にある。
*洛東江(ナクトンガン) 大江水 (「日本書紀」巻19欽明天皇五年十一月に見える。大きいかわとルビをつけているが、韓国語で読めばテガンスになる。なんであれ、三国時代にこの河をナクトンガンと言っていないはず。金海古地図に「爻河」のように見えるが鮮明には分からない。。爻河をコハと読めば、大江水もテゴスと言っていたかも?!?この河は重要な河なのに、新羅や伽耶の歴史を読んでも洛東江(ナクトンガン)としか書かれていない。洛東江の古名を知っている方はぜひご連絡を乞う。

浿水(ペス)の謎 今の鴨緑江( 鴨 绿 江 )、または清川江( 清 川 江 )という説があるためにまだ定説がない。

1)鴨緑江説
浿水と類似音の馬訾水が一名鴨緑江と記され,国内城の南を経て西南して海に注ぐとあるので、これが浿水の別称で浿水は鴨緑江をさすという立場の学者が多い。

2)清川江説
漢(前漢)代に盧綰が燕王となり、朝鮮と燕の境界は浿水(ペス)とした。盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛滿は胡服を着て逃れ、東に浿水を渡り、準に詣でて帰服した。『史記』匈奴列伝『遼東長城』 
まが、太祖大王(47年 - 165年)は、高句麗の第6代の王(在位:53年 - 146年)。姓は高、諱は宮(クン)、または於漱(オス)。56年7月には、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東朝鮮湾)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。高句麗と楽浪郡の境界になる。

燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡浿、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。『史記』匈奴列伝『遼東長城』 
王険城(浿水県の東)を都とした。ここから、清川江(チョンチョンガン)であるとする説。

3)大同江(テドンガン)説

隋唐時代之浿水,即今朝鮮平安道之大同江,《隋書高麗傳》都於平壤城,或雲即禮成江,或雲即臨津江,《三國史記》「渡浿帶二水,至爾鄒忽,」按彌鄒忽即今朝鮮之仁川。

隋唐以前は清川江(チョンチョンガン)であると見て良さそうである。




■牛頭山は五女山(オニョサン)だ!!! 詳細リンク 中国訪問記 世界遺産.....五女山

鶻嶺山(オウリョンサン):山の古称 現在の五女山(CHINAWIK)
鹘昇骨(フルスンゴル)(城の名称) 忽本城(チョルボンソン)の旧名。
中国遼寧省桓仁満州族自治県桓仁鎮の北8km 五女山山城の左に佟佳江(渾江・ホンガン)がある。渾江は鴨緑江の支流。(古事記;須佐之男の大蛇退治では宮は出雲国で、所在は「肥河」の河上になっている。
現在、世界遺産に登録されている。
東明王 高豆莫(コトゥマハン)が建国した卒本扶余の最初の都、忽本城(チョルボンソン)とも。 現在の五女山城(オニョサンソン)
五女山は中国遼寧省桓仁満州族自治県桓仁鎮の北8kmに位置し、主峰の海抜は804m。
宮というより山城で軍事施設が多い。城の中心部には長さ12m 幅5m深さ1-2mの生活貯水池がある。


櫛稲田比売を娶って須賀の宮を作ったのがこの山だとすると牛頭山は間違いなくこの五女山である。そして、素戔鳴尊(すさのおのみこと)の生まれ変わりである牛頭大王とは、東明王 高豆莫(コトゥマハン)である。左の一角が頭で、尾根はなだらかな背につながり、牛に見える。現在は高句麗発祥の地と考えられている。


なんと、手前の浑江(渾江)から望む五女山!が美しい。ここが本当の”出雲”で~す。

渾江の大きな池のように見えるのはダムができたせいでしょう。古くは一本の河だったでしょう。
渾江は全長1381kmもある長い河川です。白頭山に水源を発します。






大きな地図で見る
卒本扶余の忽本城(チョルボンソン)(五女山城)と漢の郡都・玄莬城と戦ったのはBC90年から約15年間だったと推定される。
この城の攻撃対象は玄菟郡の郡治(郡都)である。通称玄莬城は、前107年当初から30年間ほどは、沃沮県(オクチョ)(北朝鮮咸鏡南道咸興付近)であった。が、前75年には、住民の濊貊人の猛烈な暴動を受けたことから、玄菟郡の東部を失い、西方の高句驪県(中国吉林省集安付近)に遷された。さらに、玄莬郡都はBC75年には遼東に撤退している。東に逃げた玄莬城、これを第二玄莬郡という。

そうすると、BC37年 高句麗建国のとき、忽本城(チョルボンソン)はすでに40年以上もまえに建っていたことになる。忽本城(チョルボンソン)は、だいぶ衰えていたので、朱蒙は改築しただけだろう。また、朱蒙が漢と戦ったのは西の第二玄莬郡であっただろう。なんであれ、第一玄莬郡の玄莬城を攻略したのは、初代東明王 高豆莫(コトゥマハン)である。

ところが、歴史は皮肉なことに卒本扶余の始まりと高句麗の始まりを一つにしたいために、すっかり高句麗が造った城としてしまっている。
五女山にある高句麗始祖記念碑はその最もたるものだろう。下写真。



その後の遷都について若干触れると、AD3年 第二代高句麗王となったユリは国内城(クンネソン)に遷宮した。ユリの后は沸流の松譲王(ヤンソンワン)の娘でムヒュルを産んでいる。ピリュの国内城は玄莬城と同じ高句驪県(中国吉林省集安付近)なので、あるいは玄莬城跡地に国内城が構築されたのではないかと思われる。丸都山城からは東に国内城と鴨水(鴨緑江)が見渡せる。丸都山城は朝鮮式山城で国内城は平城(ひらじろ)である。国内城が中国式都城だったからだろう。


■東明王は二人いた。 高豆莫と朱蒙である。


高句麗建国時の版図 北扶余が広大。東部に東扶余。卒本扶余の位置関係を示した。
及び、衛満朝鮮、楽浪国(ナンナングッ)に注目。卒本扶余がソウル付近に進出するには楽浪郡を通過しなければならない。
高句麗第三代王無恤(ムヒュル)はAD32年には前漢が滅びるどさくさに楽浪国へ侵攻。
薩水(清川江チュチュンガン)以南に楽浪国を押し込めたが、そこまでだった。

後漢光武帝が7年後に海から侵攻して楽浪国を奪い返した。
そして、楽浪国は半分になったにすぎない。百済の南進BC16年に起きた。楽浪国は燕の冊封国であったとする(漢書地理志)。燕は郡県制を敷いていたが、楽浪国は冊封国であるというのが正しければ、国王がいたはずである。


後に、帯方郡のあった土地、平壌付近を境に高句麗と百済が衝突した理由はここにあるのだろう。、旧楽浪国の領地を高句麗は自分たちの領地だと主張し、百済も楽浪国を従属させたのは我々であるという交渉の余地のない紛争だったのだろう。
後漢書では、衛満朝鮮に準王が滅ぼされ、韓に逃げて馬韓を攻撃したのだという。敗れた辰王は馬韓の月支国王は南下して拠点を光州あたりに遷都したのだろう。楽浪国の地域には辰王の影響力は失ったと見るべきだ。楽浪国の王は準王で、殷・周を継承した王で独自の風俗をもった国と民衆がいたとしたほうが自然である。(幻の楽浪国で詳細)

漢(前漢)代に盧綰が燕王となり、朝鮮と燕の境界は浿水(ペス)とした。盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛滿は胡服を着て逃れ、東に浿水を渡り、準に詣でて帰服した。『史記』匈奴列伝『遼東長城』
浿水(ペス)を(清川江チュチュンガン)だと推定すれば、番朝鮮王箕準の領土は清川江以南だった。漢から冊封だれていたなら侯国として認められた国として成立する。


紀元前4-1世紀 幻の箕子朝鮮(ゴチョソソン)。はたして後に楽浪国と呼ばれたのであろうか?!?
(後述) 箕子朝鮮(きしちょうせん)


■古事記の神世七代
前239年建立起了 北扶余(プップヨ)国

北扶余

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初代 解慕漱(ヘモス)BC238-BC194 天孫 日神 「桓檀古記~檀君世紀」檀君高烈加(47世)のとき、宗室(王族)で稾離国の解慕漱は熊心山を降りて兵を起こす。

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二代 慕漱离(モスリ) ▪BC194-BC169 
 「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、慕漱離立つ(二世)。このころ番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。

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三代 高奚斯(コセサ) ▪BC169-BC120  衛賊を南閭の城に破る。

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四代 高于娄 (コウル)BC120-87

◇解夫娄 (ヘブル) 東扶余に分岐 (北扶余-------------------一年間在位)
--- 解夫娄执政不到一年,高豆莫就与他争权。 解夫娄败给高豆莫后,逃到迦叶原,建立了东扶余。迦葉原夫餘(または東夫餘)(BC86年) 高豆莫汗=東明王に制せられ迦葉原に遷ってここを岔陵とする。



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迦葉原夫餘の位置

>迦葉原夫餘は中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する「琿春」が有力地。 東夫餘城の位置。迦葉原とも岔陵とも別名。ここは古の>稾離国とも言われている。稾離国は遼河と鴨緑江中流に挟まれた遼東東北部から、図們江河口付近まで最大領域があったと推定される。高句麗時代には柵城府が置かれ、東方支配の拠点となった。8世紀に渤海はこの地に東京竜原府(琿春市八連城)を設置し、日本海を越えて日本に向かう海上ルートの拠点とした。渤海は日本海を南海と呼び、渤海使など日本向けの船の多くはポシェット湾から出発した。文王大欣茂の時代には一時都が置かれたこともあった(784年-793年)。その後、渤海は上京竜泉府(黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)に遷都されている。渤海滅亡後は女真族の土地となった。

稾離国は意味としては”わら”、読みは”こう”。これは句麗国(BC128濊貊句麗蛮夷)のことであろう。
琿春南部の防川から図們江(豆満江トマンガン)に沿って約15km下ると、日本海にたどり着く。図們江は長白山の 東側から発し、長さは516km、中国・北朝鮮・ロシアを繋いでおり、中国から日本海へ入る 唯一の水上通路。ここ近くに柵城(高句麗名称)という古名の城あった。
漢の東部都尉治があったのは不而県であるが、地域的に一致するだろう。
「朱蒙は烏伊(オイ)、摩離(マリ)、陜父(チョッポ)ら 三人を友として淹水(えんすい)に至った(一名に盖斯水=がいしすい。今、鴨緑江の東北に在り)が、(そこに)渡れる橋梁がない。追兵の切迫を恐れて、河 に「我は天帝の子、河伯の外孫。今日、逃走するに、追兵は直前に及びたるを如何にせん」と告げた。ここに魚やスッポンが浮き上がり橋となった。朱蒙が渡り 得ると、魚やスッポンが解散したので追騎は渡れなかった。」

ここで淹水(えんすい)、別名は淹嗁水(オモス)とも、岔陵水とも書かれた河は「豆満江」に比定できる。朱蒙が育った王宮が現在の琿春だとすると、スッポンの浮橋伝説の河は(豆満江トマンガン)となるだろう。地図点が夫餘城だとすると、南に逃走すれば、必ず突き当たる河だからだ。


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第五代 卒本扶余に改称 高豆莫婁 (コトゥマッハン)高豆莫汗=卒本扶余の東明王BC87-59 高莫婁,豆莫婁皇とも書かれる。

右渠の賊が入冦し大敗して海城以北五十里ことごとく手放す。
海城を破り薩水に至り、九黎河以東ことごとく降る。軍を南閭に置く。漢の劉徹、平那に入冦して右渠を滅ぼす。
東明王の高豆莫汗、兵を起こして漢冦を連破する。


卒本夫餘 始祖-高豆莫婁汗。졸본부여 시조 고두막루칸
 「桓檀古記~北夫餘紀、下」北夫餘は衰え、漢冦が盛んとなり、高豆莫は卒本ゾルボン(忽本)に即位し、自ら東明と号した。
本沸流王松譲の古都は成州(ソンジュ)。成州(ソンジュ)は平安南道成川(ソンチョン)の古名である。松譲王は東明王高豆莫婁汗が北扶余から来都した時、多勿候に封ぜられた。多勿(タムル)とは朝鮮古語で旧土回復という意味である。


檀君高烈加(47世)の後という。漢冦と戦い、九黎河(遼河)を渡り遼東の西安平(西安平県(現在の遼寧省丹東市付近))に至る。
古の稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。解夫婁を候とし岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称する。(卒本夫餘が正しい。)

■二人の東明王がいる?!?おそらく高句麗伝は建国後に作られたので、卒本夫餘を建国した東明王・高豆莫婁の系統と東扶余の系列を合一するために、高豆莫婁・高无胥を消して、東明王を高朱蒙に習合したのではないかという疑いがある。


第六代 高无胥 (コソモ) BC59-37、高无胥(六世) 高无胥(六世)立つ。子なく、岔陵の高朱蒙、即位する。「高无胥 在位二年とする。(桓檀古記~北夫餘紀)」
迦葉原夫餘紀では高豆莫婁が解夫婁を制して迦葉原に遷ってここを岔陵とするとあるので、岔陵は東扶余と同義。吉林省昌図県に東扶余城があったとされる。




 
第七代に相当する   高句麗に改称 高朱蒙・(コチュモン)高句麗の東明王BC37 鄒牟(추모チュム)、は、朱蒙東明、「三国史記」では、中牟、「日本書紀」(天智7年)では、仲牟ちゅうむ 『続日本紀』巻延暦九年では都慕大王とも。



■周書 高句麗伝 又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、⑦云是其始祖夫餘神之子。並置官司、遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。:また、神廟が二所あり、一つは扶余神といい、木を刻んで婦人(女神)の象を作る。一つは登高神といい、その始祖の扶余神の子だという。官を並置して司り、遣人が守護する。それらは河伯の女と、ともに朱蒙に該当するという。
書記などの常世というトコヨは登高神のトコからきているだろう。

於所居之左右立大屋、祭鬼神、又祀靈星、社稷。其人性凶急、善寇鈔『三国志魏書』高句麗伝 王宮の左右に大きな建物を立て、鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。

上記意訳すると:神廟は王宮の左右にあった。一つは河伯神母の柳花を祀り、扶余神と呼び、もう一つの神廟は朱蒙で、登高神と呼んでいた。

*王を達(タル)と呼び、ペーハー(陛下)とは呼んでいなかった。(『三国志魏書』高句麗伝)


北夫余:解慕漱(ヘモス)BC238-BC194・慕漱离(モスリ) ▪慕漱离(モスリ) ▪BC194-BC169・高于娄 (コウル)BC120-87・《解夫娄(ヘブル) 東扶余に分岐》・高豆莫婁(コトゥマッハン)・高无胥(コソモ)・《BC59-37・高朱蒙(コチュモン)》


後東扶余 都头王 ▪ 慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王 ・▪ 依虑王 ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王

夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉(靺鞨)に滅ぼされた。高句麗に併合されて幕を閉じる。
夫余族の苗裔は豆莫婁国と称して唐代まで続いた。

後東扶余 ▪ 都頭王 ▪ 慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王
▪ 依虑王 ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王

『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐し、東夫余の5集団が来降したことが記されている。


前东扶余 ▪
初代 解夫娄 ▪(ヘブル)BC86
高豆莫汗=東明王に制せられ迦葉原に遷ってここを岔陵とする。

古事記の伊邪那岐と伊邪那美

二代  金蛙王 ▪ (クムワ)BC47
古事記の須佐之男命の涕泣----クムワ王の3貴子ーここに解朱蒙が入る>
带素王(テソ) ▪BC8
曷思王



高句麗
卒本扶余 ▪ 东明圣王(解朱蒙) ▪ 琉璃明王 ▪ 大武神王 ▪ 闵中王
▪ 慕本王(解) ▪ 太祖王 ▪ 次大王 ▪ 新大王
▪ 故国川王 ▪ 山上王 ▪ 东川王 ▪ 中川王
▪ 西川王 ▪ 烽上王 ▪ 美川王 ▪ 小兽林王
▪ 故国壤王 ▪ 好太王 ▪ 长寿王 ▪ 文咨王
▪ 安藏王 ▪ 安原王 ▪ 阳原王 ▪ 平原王
▪ 婴阳王 ▪ 荣留王 ▪ 宝藏王 ▪ 报德王



後東扶余 ▪ 都頭王 ▪ 慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王▪ 依虑王 ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王



南扶余 ▪ 温祚王 ▪ 多娄王 ▪ 己娄王 ▪ 盖娄王
-----------------------------------AD204 応神天皇-----
・肖古王 ▪ 仇首王 ▪ 沙伴王 ▪ 古尔王
▪ 责稽王 ▪ 汾西王 ▪
比流王 ▪ 契王
▪ 近肖古王 ▪ 近仇首王 ▪ 枕流王 ▪ 辰斯王
▪ 腆支王 ▪ 久尔辛王 ▪ 毗有王 ▪ 盖卤王
▪ 文周王 ▪ 三斤王 ▪ 东城王 ▪ 武宁王
▪ 圣王 ▪ 威德王 ▪ 惠王 ▪ 法王
▪ 武王 ▪ 义慈王 ▪ 扶余丰


古事記の根底読み・(古事記が投影した扶余の物語から人物を比定する)

■上記の『元型は神話的モチーフのなかに現れる。』
扶余の元型モチーフが古事記に出現するとすることが、ここからのテーマである。  

大国主:大己貴神:大穴牟遅神:大物主:素戔嗚は変体仮名であるので注意が必要。このため、大国主1、大国主2、大国主3とか番号を付す。スアノオ1、スサノオ2も同様。数々の別称を付して、同一の物語をオムニバス風に展開させる。

<天尊系>解氏の系統


注:以下古事記の名称に準じている。

■国之常立神 天帝の子:北扶余王解慕漱王(ヘモス)初代 解慕漱(ヘモス)BC238-BC194 天孫 日神 「桓檀古記~檀君世紀」檀君高烈加(47世)のとき、宗室(王族)で稾離国の解慕漱の血統にない王。

■神産巣日神  解朱蒙(ヘチュモン)

伊邪那岐は、東扶余の王、金蛙王(クムワ)王。蛙がシンボル。

伊邪那美は河伯神母の柳花ユファ)。(古事記:高志国の沼河比売(ぬなかわひめ)と同じ。高句麗では”扶余神”)

■柳花夫人の三姉妹 柳花・萱花・葦花(水神の河伯の三人娘の長女は柳花・次女は萱花・三女は葦花)  

須勢理毘売は金蛙王(クムワ)の正妃。王の寵愛を受ける八上妃賣/伊邪那美に嫉妬。

■八千矛神(やちほこのかみ) 金蛙王(クムワ)王である。

■沼河比売比 河伯国保の柳花ユファ)金蛙王(クムワ)に寵愛される。河童がシンボル。

■大物主1 金蛙王(クムワ) 大神神社の祭神は大物主大神(おおものぬしおおかみ)が主坐にあり、
      大三輪神社では大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひなのかみ)を配祀しているので、やはり、金蛙王(クムワ)。

■大穴牟遅神1 金蛙王(クムワ)王

■素戔嗚1  BC59-37、高无胥(北扶余六世)

■素戔嗚2  朱蒙


■大国主2(オホクニヌシ)神=朱蒙に以下4つの別名がある
・大穴牟遅_1(オホナムヂ)神
・葦原色許男(アシハラシコヲ)神
・宇都志国玉(ウツシクニミタマ)神

■神産巣日神 金蛙王(クムワ)王

■神大市比売(カムオホイチヒメ)オホヤマツミ神(松譲(ソンヤン)の娘)クムワ王の正妃(テソの母)

■八十神1(やそがみ)北扶余王解慕漱王(ヘモス)

八十神2(やそがみ)> 帯素(テソ)曷思王子など、金蛙王(クムワ)王と神大市比売の子=大年神・宇迦之御魂神

大穴牟遅神_2  帯素(テソ)金蛙王(クムワ)王の長子 太子となる。(7人の王子の長子)


■大年(オホトシ)神=帯素(テソ)正月の門松でお迎えする神 

■宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(ウカノミタマ)テソの弟(後の曷思王)稲荷神=穀物神

■火須勢理命 木俣神とも。召西奴(ソソノ)が朱蒙との間で産んだ娘。素戔嗚とうけひをして女子ならば素戔嗚の勝ちとした。

■稲羽      八上比売 召西奴(ソソノ)の居た地域(鴨緑江の中流) 

□須佐之男命の大蛇退治 紀元前75年元鳳6年に第一玄菟郡が廃止された頃。

*須佐之男とは、東明王(とんみょんわん)の別称である。東明王が二人いることは朝鮮の学会でも知られていることだが、須佐之男は「卒本の王」の意味にとれば、矛盾はなく、初めに東明王と言われたのは 高豆莫干(コトゥマハン)である。次に言われたのは「高朱蒙」である。


■国つ神 涓奴加系/ソノ(鴨緑江周辺の5部族の王を云う)
 
■大山津見(オホヤマツミ)神=沸流国の王

■足名椎神(あしなづち)  大山津見の子、国つ神 沸流(ピリュ)の松譲王(ソン・ヤンワンの子)

八岐大蛇(やまたのおろち)  高志=玄莬城(ヒョントソン)の漢常備軍

■出雲          沸流国の本貫、渾江の川上(浑江)
             渾江の最大支流富尔江(富爾江)の上流である吉林省白山(旧称、渾江)あたり)
             富爾江現在の浑江(渾江)の最大支流である)

富尔江

■肥の河上 鳥髪(とりかみ)  渾江上流 吉林省白山市(吉林原名“吉林乌拉" 「diǎolā] 鳥の文字がある)

■刺国大神(サシクニオホカミ)遼河と鴨緑江の間にあった河伯族の王(蘇民将来に擬せられる人物)

■刺国若比売 柳花夫人(朱蒙の母)刺国大神の娘

■大宜津比売神(おおげつひめのかみ)オホヤマツミ神(松譲(ソンヤン)の娘)

■初代の須佐之男  東明王 高豆莫干(コトゥマハン)句麗国王大王・沸流国他5部族の王を従える。


□稲羽の素兎   紀元前40年頃

■稲羽の素兎(しろうさぎ)  漢の奴隷狩りを逃れた濊族の逃亡流民(濊は白いという意味)。

■鰐        玄莬郡郡都の漢の駐留常備兵

■大国主神(変体名詞)     1.金蛙王2.朱蒙 3..胸方の大神

■大穴牟遲神(変体名詞)    朱蒙_金蛙王の子ら

■八千矛神=伊邪那岐        金蛙王

■八十神(やそがみ)       帯素(テソ)金蛙王(クムワ)王の7人の庶子(八上比売に袖にされる)

■八上比売(やかみひめ)=天照の娘時代の名称    召西奴(ソソノ)

■稲羽        渾江の中流より南

■出雲        彌鄒忽(미추홀:ミチュホル)、瑞穂國(みずほこく)は、今の仁川(インチョン)のこと。

■富尔江、
現在の浑江(渾江)の最大支流

■根の堅州国     刺国と同じ。

稲羽の素兎(しろうさぎ)
白兎は「稲羽の素兎(しろうさぎ)は捕らえられて『我が衣服を剥ぎき』、
官軍に裸にされて(武装解除の意か)戸惑い地に伏せて隠れていた流民たち。
和邇(ワニ)は漢の常備兵かその奴隷狩りの手先。



■天神・天尊   解慕漱(ヘモス)次代は通例天孫となる。だが、日本書紀書記神代下 天孫とあれば、疑問なく解朱蒙(ヘチュモン)

■須佐之男1(変体名詞)   高无胥(北扶余六世)

■須佐之男2(変体名詞)  解朱蒙(ヘチュモン)。東明王 柳花(ユファ)の子、王につくと高氏を称す。
        スサノヲが「わたしは、天照大神の伊呂勢だ」からは、召西奴(ソソノ)の夫であることが分かる。

■天孫     諡号に「天」「天津」(あめの)が入る神名はみなへモスの血統。

■須佐之男(変体名詞)=朱蒙に以下3つの別名がある
・大国主(オホクニヌシ)神
・大穴牟遅(オホナムヂ)神
・葦原色許男(アシハラシコヲ)神



■天津日高  高朱蒙(コチュモン)



須世理毘売 禮氏夫人(少椰(ソヤ) 解朱蒙(ヘチュモン)の正妃か 高句麗第2代王 琉璃を産む 


ケル部系系譜

■高御産巣日神  <天津神系>桂婁族(ケル)の王 延陀勃(ヨン・タバル) 句麗卒本の王 召西奴(ソソノ)の父。後に百済国祖父。別名 高木神                      

■高木神=高御産巣日神と同一。 (三羽の鷹がシンボル)
                     
天照大神      高御産巣日神の娘、朱蒙の妃、百済国祖母、召西奴(ソソノ)。高御産巣日神の第二番目の娘

萬幡豊秋津師比売命(よろずはた・とよ・あきづしひめ)百済国祖母、召西奴(ソソノ)
  (八幡と豊トヨの語源)

■天津日高日子穂穂手見命(あまつ・ひこ・ひこ・ほほでみのみこと)温祚(オンジョ)火照命(ほでりのみこと)=大己貴神(書紀)

 ○天照大神を「オオヒルメムチ」、大宜津比売神を「ワカヒルメムチ」と呼んでいる。古事記では、「この二柱の神は、さくくしろ、伊須受の宮に拝祭る。次に、登由宇気神これは度相(わたらい)の外宮に坐する神なり」と記す。伊須受(いすゞ)の宮は五十鈴宮で伊勢皇大神宮のこと、度相(わたらい)の外宮とは伊勢神宮の外宮の豊受大神宮のこと。(ニニギノミコト3天孫降臨)
 ヒルメは「太陽・日の女」である。オオヒルメムチとは「偉大なる日の女である尊い人」という意味「ムチ」は、「主」または「王」を意味する。



■邇邇芸命(ニニギノミコト)は余温祚(オンジョ)。火照命(ほでりのみこと)=宇佐八幡神=応神天皇に比定。

火照命(ほでりのみこと)は(実は弟)、/火明命/火酢折尊 /虚空津日高

神阿多都比売=木花佐久夜毘売=豊玉毘売命 火照命(ほでりのみこと)の妻

■鵜葦草葺不合命 同上二人の子

古事記と日本書紀とも実像の兄弟を逆さまに間違えている。平伏したのは兄のピリュ。国王についたのはオンジョ。
従って豊玉姫を嫁したのはオンジョとなる。

火遠理命(ほをりのみこと)は(実は兄:山幸彦)ピリュ /彦火火出見命/天忍穂耳命/下照比賣を嫁する

■下照比賣と豊玉毘売命は胸形の宮にいた大綿津見神(古事記・大国主の神裔(しんえい)の段の大国主のこと)の子、姉妹である。これ、宗像の三女神の原型です。また、胸形の宮は龍王です、竜宮城伝説もここから生まれたのです。馬韓伝にあった月支国ですね。また、芦原中津国は、事代主が領有していたのでしょ。今の、ソウルの地です。

<天津神系>芦原中国

■正勝吾勝々速日天忍穂耳命  沸流(ピリュ)天照大神の長男

■天迩岐志国岐迩天津日高日子番能邇邇藝命 温祚(オンジョ)

■少名毘古那神  温祚(オンジョ)

■天忍穂耳命  

瓊瓊杵命(ニニギノミコト) 温祚

■阿遲志貴高日子根神 温祚 天若日彦の葬儀に現れるときの御名。「天なるや 弟棚機の 項せる・・・」の歌で実は弟であることを暗示。 

■虚空津日高  温祚(オンジョ)と沸流(ピリュ)

■火遠理命 温祚(オンジョ)






■天若日子  沸流(ピリュ)天照大神の長男)
         高木神の矢に当って死んだとされるので天津神なのに神名が付かない。

<国つ神>この王族は”豊”という文字を名前につけるのと、船を豊富にもっていた。阿人と言われ、馬韓人とも区別された。

■大国主・大物主2(変体名詞)   大歳神2 大綿津見神 大山咋神 綿津見大神 倭大国魂神 猿田彦大神 海神 芦原中津国の国つ神 豊玉彦 (龍神・雷神 )

■事勝国勝神    同上。        
 
■八重事代主神 大国主=大山咋神の子(恵比寿様で人気がある)

■登美彦=登美の那賀須泥毘子 大山咋神の子

■大気都比売神 大山咋神の長女:下照比売(したてるひめ);別名、石長姫;豊受大神・父王は顕王(大山咋神・日本書紀9段)別名;猿田彦大神/元伊勢の真名井神社では豊受大神と猿田彦神を祭る。
■宗像三女神=多紀理媛(たぎり)・市杵島(いちきしま)媛(別名:市来島姫)・田寸津(たぎつ)媛) 
         *大国主は大山咋神。長女・多紀理媛=下照比賣;次女市杵島姫=豊玉姫;田寸津媛=玉依姫)

■竜宮城の乙姫様 大山咋神の一女:下照比売(したてるひめ)下光比賣命 高比毘売 豊受大神

■木花佐久夜姫 海神・大山咋神の二女:(大山津見神の子ではない)、八幡神の妻。温祚と結婚した姫。

■天の安の河  漢江(ソウルを流れている河)

■辰韓王 馬韓月支国の辰王:馬韓の大王、(中国の『後漢書』などに出てくる目支国の王)


日本書紀では豊水穂国・顕王。(馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があった。辰国は朝鮮王箕準が建国、豪族化した。朝鮮王箕準の国で清川江より南を侯国として制していた。BC194-BC169 「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、慕漱離立つ(二世)。このころ番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のが中馬韓を建国した。一説には卓氏は趙国(山西省郎郵)の鉄工部族であったとも伝えられている。

漢口の京畿地域は馬韓連盟体に属したが、連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓と辰韓の地になった京畿道は、政治的には馬韓の盟主である辰王が支配した。辰王が「月支国を都として治めている。辰王が「月支国を都として治めているが、馬韓五十四カ国の盟主として「大王」であった。
 百済は近肖古王(河南百済でない王系)がAD250年ごろ月支国を占領した。辰王は南下を繰り返し京(みやこ)を移したが、313年には高句麗に楽浪郡が滅ぼされると、346-375の間に馬韓の小国は次々と滅亡に追い込まれ、ほぼ全域を百済に攻略されるにいたった。
このとき阿人は船をたくさんもっていたので、皆逃亡したという。もちろん日本に来たのだ。
住吉神社をはじめ、海神を祭る

*日御碕神社(島根県出雲市)の記事。
 「孝霊天皇61年 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。」

*月支国の記録:AD176 月支国(つくしこく)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せり。(南解王9年=孝霊60年=AD176年)

*筑紫(ちくし)を月支(つくし)に置き換えられるか?


■豊玉毘売命 オンジョと蜜月の3年、鵜葦草葺不合命を授かる。

■玉依毘売命  豊玉毘売命の妹 鵜葦草葺不合命の乳母となり、鵜葦草葺不合命と結婚する 

鵜葦草葺不合命は温祚(オンジョ)と海神・豊玉毘売命の子である。






古事記に於ける元型像と重なる地名

高天原  扶余の故地、卒本。現、五女山。

■天の安の河   太子河(遼江の支流)

■日高   東扶余・東沃沮。

■高志国  漢の玄菟郡治があった地


出雲    出雲は複数地にあてられるので王宮のあるところといった代名詞。
        出雲国は①(四郡設置時の楽浪郡の北西部、吉林省白山市あたり。また、②少名毘古那神と        国造りでは岬のある海べりの瑞穂。)

■肥の河        浑江(漢代の古名が塩浜水、沸流、虎水、佟家江など。鴨緑江の支流。)の最大支流。

刺国(サシノクニ)  佐士と同じ。根の堅州国のこと。遼江の中流部。

■因幡・稲羽       八神比米のいた桂婁加の支配地域。鴨緑江の中南部。流西、吉林省一帯(BC100頃句麗蛮夷・漢の蒼海郡が置かれた地域・江原道北、吉林省南部・濊貊族の領域/物語のエピソードの時は玄莬郡/濊は白いという意味が虎あり、白兎に通じる。句麗国と同意で、朱蒙は多勿郡とした。濊族は虎をトーテムとする。貊族は熊をト ーテムとし、日本書紀では「籠毛」と書かれる。龍は中国部族を意味する。)


■根の堅州国      柳花夫人の故郷。鴨緑江中流にまたがる遼東中央部



■(豊)水穂国 (瑞穂・穂積)の国とは仁川で彌鄒忽(ミチュボル)書記では温祚が天下る。

■(豊)の冠は 大国主・大山咋神と八重事代主(恵比寿様)が水穂国・芦原中津国を領土としていたが、豊玉姫を人質に出すことで一旦は互いに尊重する関係国になったことを表す。。
     ここの王を古事記では大山咋神で別の一書では豊玉彦という。その後、百済では豊~の諡号を持つ王は多く、王妃の姓     だった。ちなみに歴史上確認できる姓は「牟」氏。旧王家は代々王妃をだす一族となった。それゆえ海神の兵隼人が王     宮を護衛した経緯となるだろう。

(豊)葦原中津国  温祚の子が天下る。慰礼忽(ウィレボル) ソウルの漢江南側(今の風納土城遺跡)漢城は朝鮮王朝(チョソン)での名称。領土が四方10 余里にすぎず、まだ辰国(馬韓)の属国であった。(朝鮮の1里は0.4kmなのでたった4km四方))

■胸形  大国主・大山咋神の宮の場所(益山周辺)

■筑紫の日向の高千穂 負兒岳(プアアッ)(現在の北漢山=三角山)瓠壚河(ほろは)臨津江(イムジンガン)支流河口流域が一望にできる。

■橿原宮(かしはらのみや) 迦叶原(沿海州の近く)

■瑞籬宮(みつかぎのみや) 彌鄒忽(ミチュボル) 崇神天皇

■ 天の安河  漢江

*彌鄒忽(ミチュボル)仁川(インチョン)

*慰礼忽(ウィルボル)後に慰礼城(ウィルソン)=ソウル

*熊津(ウンジン)扶余国がソウルから遷都した都


■朱蒙をめぐる女性たち

沼河比売比 金蛙王(クムワ)の第二妃 柳花ユファ)朱蒙の母:高句麗国祖母、伊邪那岐の別称。
須勢理毘売スセリビメ) 金蛙王(クムワ)の正妃(出雲の大神大后(おおかみおおきさき)神社にまつられる)
須世理毘売 解朱蒙(ヘチュモン)の正妃 高无胥(北扶余六世)の娘。
火須勢理命ホスセリノミコト) ソソノが産んだ一人娘。木俣神。

理毘売と須理毘売は別人です。

多紀理毘売 豊受大神:下照姫 ソソノの長男沸流(ピリュ)が月支国(竜宮)で娶った妻


■物部大連は高句麗の王族だった!

*▲『続日本紀』巻■ 延暦九年(七九〇)十一月壬申《十》◆壬申。 外從五位下韓國連源等言。 源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。 各因居地行事。別爲百八十氏。是以。 源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。 故改物部連。爲韓國連。 然則大連苗裔。是日本舊民。 今號韓國。還似三韓之新來。至於唱■。 毎驚人聽。因地賜姓。 古今通典。伏望。 改韓國二字。蒙賜高原。 依請許之。

外従五位下韓国連と除されたのは、私ども源は物部大連の苗裔です。物部はいま、別れて80氏になります。先祖と祖国名によって物部と韓国と付けられたのでしょうが、・・・・今、新しく来た新しい渡来人も韓国と称します。これでは私たちの面子が立ちません。韓国という姓を「高原」と改姓していただくよう伏してお願いします。

ここで、源さんは、韓国連を高原連と変えてほしいと、陳情している。高原がその先祖の国名であると思しき主張である。
高天原は卒本でる。高原で通じるところは高句麗の領域である。

続く

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