○出雲神話に牡牛と蛇がなぜ投影されているのか
古代では地母神を「蛇」に象徴させていた。このモチーフは紀元前3000年のシュメールのレリーフに遡ることができる。中央の7つの枝の木の右に牡牛神「ハル」、左に蛇神「キ」配した図版がある。牡牛神ハルは、エジプトでは「ホル」、その妻は「ハト・ホル」であった。何であれ、牡牛と蛇を左右に配置しいる構図はその後、中国の伏羲(ふっき)と女媧(じょか)に伝播している。殷に移転した神話を継承したのが、スサノヲと櫛稲田比売神話で、スサノヲと櫛稲田比売は5000年前のメソポタミアの神、「ハル」と「キ」に由来すると考えられる。古代縄文人は、牡牛と蛇のトーテムをもっていた殷王朝の末裔民族は、後の倭人=出雲人につながる。殷では牡牛と蛇の合体神を信仰していたことが決め手になる。そしてこの奥義はどうしても3と4の合体を表出している。そのように見えるのは七枝の樹木で、七が深く関係しているからである。それが世界樹の創世神話の原点になっている。七枝樹の構図から、牡牛が3を蛇が4を意味し、万物がこの二神から創造されたという神話が古代のレリ
ーフから読み取れる。
天界の女王、イシュタル、バビロン出土、ルーブル美術館
イシュタルの頭には二本の角があり、目は赤いルビーがはめ込まれている。角は牛神であり、目が赤いのは蛇神である。イシュタルは、美貌のハーフの女神だった。古代の神々には角が生えていた。とすると、後の鬼(ヤーク)が神々の子孫だったに違いない。現代の日本で奇妙で不思議な慣例がある。婚礼のとき花嫁がかぶる「角隠し」は、文字どおり角を隠す頭飾りである。角隠しには、「私は鬼神の末裔かもしれないのよ」という偽装心理が根底にあるのだろうか。イシュタルは、ビーナスの原像であるから、むしろ花嫁を婚礼の間、女神にするための装身具とも言えるだろう。
下のレリーフには角隠しの帽子か?
このイシュタルレリーフは足の指が3本である。
しかも足の甲がない。
「バーニーの浮彫」。紀元前1800年~紀元前1750年頃の物と推定。
イラク南部出土。テラコッタ製。イシュタルは金星を象徴とする女神。
愛と戦いの女神イナンナ
天神アンの祖孫、
エンリルの娘、
イナンナ(イシュタル)は、
エンキの息子、
ドゥムジと結婚した。(シッチン・スタディーから)
シュメール | イナンナ |
エジプト | ハトホル |
バビロニア | イシュタル |
カナン | アシュタルト |
ギリシャ | アフロディーテ |
ローマ | ヴィーナス |
このシュメール起源の「ハル」と「キ」の二神を伯耆(ほぅき)と日本では言っていた。実は、伯耆(ほぅき)国と言えば、今の鳥取県の西部の旧称である。また、伯州とも言っていた。イザナミノミコトが亡くなられて、出雲国と伯耆国との境にある比婆(ひば)の山に葬(はぶ)られたことが古事記に書かれている。古代出雲国のとなりが伯耆(ほぅき)国で、そこは、はやい話、出雲文化圏である。では、なぜ伯耆(ほぅき)国と呼ばれていたのか?
そこでは、すなわち「ハル」と「キ」の二神の神をあがめていた。そこでこの地名に残ったと考えられる。
この伯耆(ほぅき)国では、首長信仰と して殷王朝以来の牡牛と蛇の合体神を崇めていた。そこで、出雲神話からは牡牛神と蛇神の陰影を消すことができないわけである。倭人は周の太伯の子孫であると伝えられ、魏志では、倭国からの使いは自ら大夫(たいふ)と名乗っていたと記されているが、大夫(たいふ)とは周王朝時代の官位の一つであった。周王朝では、「ハル」と「キ」は「伯萁」(ほうき)と書いていた。つまり、伯耆(ほぅき)国の住人は周王朝の氏族で、周を起こした「姫」(き)氏の血を引く人々であった。周(前1100-256)が分裂したあと、加耶を経由して日本にやってきた。紀氏の祖である。または、さらにさかのぼった*殷(いん)の末裔、姜(きょう)の一族とも考えられる。地域的には後の斉、山東省あたり。「伯」の子孫とは、別な意味で「ハル」の子孫、つまり牡牛神「ハル」の後の一族ということになる。スサノヲの元型は「ハル」なのだろう。伯耆(ほうき)とは、「ひょうたん」ということで、伯耆(ほうき)国は、「ひょうたんこく」という意味で、これは笑える。また、語彙の出典は、中国の伝説「伏羲(ふっき)と女媧(じょか)の伝説で、主に中国西南のミャオ族、ヤオ族の始祖神話として残されている。その姿は人首蛇身で、腰から下は蛇で尾をからませた独特の構図をとっている。
■牛頭天皇はペルシャ人
色葉字類抄(いろはじるいしょう)、平安時代末期に成立した古辞書(橘忠兼編)には「牛頭天王の因縁は、天竺より北方にあり、その名を九相といい、その中に園あり、吉祥と曰い、その園の中に城あり、其の城に王あり、牛頭天皇、またの名を武塔天神と云う。その父の名は東王父と曰い、母の名は西王母と曰う。その二人の中に生まれし王子を名付けて武塔天神と曰い、この神王が沙竭羅竜王の三女婆利采女(ばりうぬめ)を后として、八王子を生んだ。」という記載がある。これによると、牛頭天王が天竺、インドの北方、パルティアの族長国の王子であったと推定できる。牛頭天王、すなわち須佐之王が異形であったことを示す。
日本の伝では、須佐之王はパルティアから長安、長安から韓半島の牛頭山で王として先住部族に共立され、その後、出雲に渡ってきたことになるのか? 牛頭天王は、最初は播磨国明石浦(兵庫県明石市)に垂迹、ついで広峰(兵庫県姫路市)に移り、その後、京都東山の北白川東光寺へ、陽成天皇の貞観18年(876年)に東山山麓に垂迹したため堂宇を建立、あるいは元慶年間(877年-885年)東山の感神院に移ったとされるのが祇園社(現在の八坂神社)である。吉備から奈良の三輪山に移動、大神神社の系譜に繋がる。「此、大三輪の神なり。此の神の子は、即ち賀茂君等・大三輪君等、又姫蹈鞴五十鈴姫命なり。」書記で、明らかになることは、須佐之王の子孫は三輪氏、賀茂氏がおり、九州王朝になってからは大・田田・根子が祭祀長となり、疫病を退散させた。広く出雲王朝とされるが、実際は吉備に長く居た。須佐之王が牛頭山から来たことから、須佐之王がペルシャ人の狗邪(句麗)の貴族と濊族を引き連れてきたことになるが、日本に来たという証拠はない。日本の地に仮想適用したのでは・・・と思われる。そこで、須佐之王の降臨は高天原に天孫降臨したというのである。高天原ははたして日本にあったのだろうか?
『第四に、伏羲(ふつき)と女媧(じょか)は、泥人形から人間を創造したとされているが、エンキとニンハルサグも「粘土を混ぜ合わせ、地の底から取り出した粘土を形作る」ことによって人間を創造したとされる。また、人間を創造した後に、人間に生殖能力を与えている点も共通している。』
洪水のあとに新人類を誕生させていることはシュメール神話と同じ構成である。
(括弧『』は、宇宙人超文明の謎(学研)から抜粋。シュメール言語学者、ゼカリア・シッチンは、シュメール語の解読では第一人者。シッチンは、精密に解読した結果、アヌンナキという太陽系12番目の惑星二ビルから来た神々が地球に文明を築いたとする。
*殷:殷は「商」と自称。史記の殷本紀によれば、成湯王が夏を滅ぼして創始(前一六世紀頃)。三○代、紂王に至って周の武王に滅ぼされた(前一一世紀頃)。)
ハル(牡牛神)とキ(蛇神)のレリーフ
左が蛇女神キで右が牡牛神ハル。蛇女神キはニンフルザク、牡牛神ハルはエンリルとなろう。
(円筒印章印影図 シュメール紀元前3000年)
中央の七枝樹が世界樹。
○シュメールの神々
神名 | 神の属性 | 数字 | 補足 | 中国木 |
アヌ | 最高神 | 60 | 父 | . |
アンツ | . | 55 | . | . |
エンリル | 牡牛神・アネモス・戦士の神 | 50 | 風神・雷神・日神 | 伏羲 |
ニンリル | . | 45 | . | . |
エンキ | 水神・蛇神キ・智恵の神 | 40 | エンリルを嫌い深海の底へ移る。 | . |
ニンキ | . | 35 | . | . |
ニンフルザグ | 蛇女神 | 5 | . | 女 |
ウツ | エンリルの息子 | 20 | . | . |
イナンナ | 天界の女王・金星 | 15 | イシュタル(セム語) | . |
アヌンナキ | 一群の従者? | . | 地霊 | . |
*セム語では、エンリルは、ベア、エンキはエアと呼ばれていた。
○洪水伝説の真実
洪水伝説は世界各地の民族に見いだすことができるが、日本には残念ながらない。
洪水伝説の起源は、もっとも古くはシュメールの粘土板から解読されたものである。だいたい、共通する内容はつぎのように要約できる。神々の会議で承認され、戦士の神エンリルが洪水を起こし、人類を滅亡させる。天の偉大なる神々は大洪水を恐れ、彼らは身を引いて天神アヌのいる天に昇っていった。もう一人の叡智の神・エンキはこれに不賛成だった。一人の男に大変動の到来を告げて、船を建造させて救う。洪水は七日続き、どちらも洪水がひくと、救われた男は神々に犠牲を捧げる。最後に、エンリルはこの男を許して、神々の列に加える。イシュタルは、神々の集いで決めたことに後悔して、痛恨の叫び声を上げた。アヌンナキたちは頭を垂れて彼女とともに泣いた。救われる男の名前は、シュメール版では「ズィウズド」、セム語では「ウト・ナピシュティム」または、「アトラクハシス」、それぞれの種族で名前こそ違うが一人の男性である。これは、ヘブライに伝承されて、ノアとなったのだろう。洪水伝説はシュメール人種に起源するもので、セム種族のそれは借用だろうと言われている。ヘブライ版はさらにその後である。
・・・やがて天まで溢れる大洪水がおこり、この大きな瓢箪にもぐっていた二人だけが生き残った。瓢箪のなかに隠れて、洪水のあいだ波間にただよい、ふたたび地上に降り立った。彼らがひょうたんは天空たかく押し上げられ、やがて地上に落ちた。 (中国神話) |
これが、すでに紹介した中国の伏羲(ふつき)と女媧と(じょか)の神話であるが、類似した洪水伝説は世界各地にあって、それらが伝播した神話なのか、もともと其の地で伝承されていたのかは定かではない。
もっとも古く、そして起源的な神話はシュメールの粘土板に記された内容だった。
「朝、雨が降りに降った。 私はこの眼で、夜も大粒の雨が降りしきるのを見た。 わたしは頭をあげて、天を眺めたが、その恐ろしことと言ったらたとえようがないほどだった。」 (紀元前2100年頃に刻まれたシュメールの書板) |
*なにか恐ろしい天体現象を目撃したようだ。 |
「七日七晩、豪雨が陸地を荒れ狂い、大きな船が暴雨によって大海原を押し流されていったとき、太陽神がすがたをあらわして天と地に光を注いだ。」 (紀元前2100年頃に刻まれたシュメールの書板) |
*雨は7日の間続いた。 |
大洪水が起こった。・・・あたり一面暗くなり、黒い雨が降り始めた。雨は昼も夜もどしゃぶりに降った。・・・このようにして人類は滅びてしまった。 (南米インディオの伝承古文書『ポポル・ヴフ』より) |
*この地域では、この時間帯、真昼であったので、太陽は日食のような現象に襲われ、地球は真っ暗になった。つまり、地球と太陽の間になんらかの天体が通過して、太陽光を遮蔽した。中東では、夕方であったので、日食現象はあまり観測できなかっただろう。しかし、昼間だったアメリカ大陸では事情が違ってくる。彼らは、太陽の異変に気がつき、轟音が鳴り響くのを聞いた。そして、雨が降りはじめた。彼らは、必死に逃げる算段ができたのだ。この記載はアメリカ大陸の地域特有の観察記録として証明される。つまり、神話の伝播とはいえないということである。 |
そこでわれは、天の諸門を開き水を降らせた。 (コーラン・五章・十一) ・・・ある者には砂石の暴風を送り、またある者には巨大な轟音でこれを襲い、またある者には大地にこれを沈め、またあるものはおぼれさせた。 (コーラン二十九章四十) |
*雨だけでなく、砂石も降ってきたことを示す。黒い雨とは、砂が交じっていたことを示す。 |
天が地に接近し、一日のうちにすべてのものが滅び去った。山もまた、水のなかにかくれた。 (古代メキシコの『チマルポポーカ絵文書』より) |
*最初の一日のうちに、山も水面下になるほどであった。千メートル級の大津波が発生したのだろう。七日の間におよそ10京トンの増水が短時間の間にあったと推定される。これは世界の海面を300㍍押し上げる。もし、現在、海面を200㍍下げたら、日本と中国、韓半島は陸続きとなる。また、北海道と樺太は大陸とやはり陸続きとなる。台湾は島から、中国大陸の一部に変貌する。そして、黄海は超広大な平野となる。そこで言えることは、中国の超古代文明は、おそらく黄海の大陸棚の海底に眠っているだろう。 |
あるとき、天地もとどろくようなものすごい音がした。すべてのものが闇に包まれ、このあと大雨が降り出した。雨はすべてのものを洗い流し、全世界を水びたしにした。 (アマゾン流域のインディオの伝説) |
*雨が降る前に、おおきな轟音がした。これはなんらかの衝突音であろう。南北アメリカでは、洪水で滅びた伝承がインディオにおびただしいほど残されている。 アンデスやコロンビア、ペルーでも、山頂にのぼって助かった話と、丸木舟をそなえて助かった話など枚挙にするには多すぎるほど残っている。これらの地域では、異変開始時間は昼間であったので、人々は積極的に逃げた記憶が残っている傾向があるといえよう。 |
天の柱が倒れ、大地が根底からゆさぶられた。天は北側に倒れはじめた。太陽、月、星はそれぞれの軌道を変えた。宇宙の組織全体が混乱におちいった。 (マルティーニ『中国新図』に引用された中国の古写本に記載。) |
*洪水だけでなく、地球の地軸の変動もあったことを示唆する。 |
紀元前3世紀の僧侶にして歴史家のペローソスが残した記録。 バビロン10代目の王クシストロスの治世、クロソス神が夢に現れて告げた。 マケドニア暦の8月15日に人間はすべて洪水によって滅亡するだろう 。神は彼に命じて、世界の発端からの歴史を書かせ、それを保存するために太陽の都市シッパル(ユーフラテス河の河岸)に埋めさせた。さらに、彼は一隻の船を建造し、親族や友人を乗せ、たくさんの食物と飲み物を積みこませた。また、鳥や4つ足の獣を乗せて船出する。「どこへ船出すれはいいのですか?」と尋ねると、神は「神々のもとへ船出するのだ。だが、まずおまえはすべてよき恵みが人々にくるように祈らねばならない。」と答えた。それで、かれは命じられた船を建造した。その長さは全長1000メートル、全幅400メートルであった。洪水が押し寄せ、水が減少すると、鳥を幾羽か放ったが、鳥は休む場所もみつからないので、船に舞い戻った。数日後、ふたたびクシストロスは鳥を放った。 そして、再び鳥は足を泥で汚して船に戻ってきた。 三たび彼は鳥を放ったが、こんどはもはや船に舞い戻らなかった。そこで、クシストロは陸地が水の上に現れたことを感じとり、それで舟板の合わせ目を開いて眺めわたすと陸地が見えた。船をある山に着けると、彼は自分の妻や娘、それに舵手と一緒に上陸した。 そして、彼はその土地を礼拝し、祭壇を築き、神々に犠牲を捧げると、船から降りた人々とともに姿を消した。船にまだ残っているひとびとは、彼とその仲間が帰らないのを知り、同じように下船して名を呼びながら彼らを探した。しかし、天からひびく声があって、神を畏れるようにと命じられた。なぜなら、このわたしは信心深い神々の国に住めるようになったのだし、わたしの妻や娘、それに舵手までも同じ名誉にあずかれたのだから、と言った。そして、彼はバビロンに赴いて埋めた文書を掘り起こし、それを人々の間に分与するようにと命じられた。さらに彼らの立っている土地がアルメニアであることを告げた。彼らはこうしたことを聞くと神々に犠牲を捧げ、その足でバビロンへと旅立った。 (バビロニアの洪水伝説) |
*この洪水は、11月の中旬の中東が夕方の時に起った。1872年に発見されたシュメールのギルガメッシュ叙事詩の12の歌章・すなわち12の書板の第11枚目に洪水の記載があった。この12枚の歌章が12宮に対応しており、そのために太陽が12カ月を通過するに従っているとローリング卿が推測したのである。つまり、11枚目の書板には、11月の出来事が記載されている。 バビロン版の、ノアはクシストロという名前になっている。方舟は、アルメニアに漂着していた。ソ連とトルコにまたがる、カフカズ山脈南方の高原地域で、バビロンから北北西およそ600km。暴風は、東から西に吹いた。これは地球の自転と逆方向である。旧約ではノアの方舟はアララト山に漂着したことになっている。(Mt.Ararat) いずれも、トルコ東部、イラン・ソ連との国境近くにある高峰。成層型火山で標高5123㍍。 |
夕刻になると闇の主が豪雨を降らすだろう。そのとき、お前は船に入って扉を閉めよ。・・・(中略)・・・六日六晩風がふき、洪水と暴風が陸地を覆った。七日目に近づくと、暴風と洪水と嵐がやんだ。 ギルガメッシュ叙事詩 |
*豪雨は、夕方から始まった。中東が夕方であるとき、日本は深夜である。太陽が暗くなったことは、観測できなかっただろう。東洋では、洪水とは書かれず、陸が沈没したと考えた。なぜなら、夜に異変を迎えた東洋では、人々は眠っていた。怒涛のごとく押し寄せる海面に飲み込まれて、びっくりしたときには死んでいた。逃げる間もなく寡黙に民族が滅亡してしまった。海面の上昇は、同時に陸地が沈んだことである。意識では、陸が沈没したという記憶になっている。しかし、その数日前から、月を上回る巨大な彗星を目撃していた。そこで、中国や日本では古来、彗星は災いの前兆であり、世の中が乱れるという定見が残った・・・のだろう。 |
この日、大きな淵の源がことごとく破れ、天の窓が開いて、 雨は四十日と四十夜、地に降りそそいだ。 (旧約 創世期) |
*旧約聖書の記述はバビロニアからの移入であろう。起源伝承から遠い40日間、雨が降り続いたとする点が疑問符の付けられるところ。 |
「わたしたちの文明は他国民のそれのように、これまでしばしば天から降ってきた雨水によって滅びさっているのです。・・・人類はこれまでに数多くの異変にあっているのですが、将来においてもまたそうでありましょう。」 (前六世紀 エジプトの神官たちによるギリシャの哲学者ソロンへの話) |
「多数の洪水があったにもかかわらず、大洪水は一度しかなかったと信じるギリシャ人を、エジプトの神官たちがあざ笑っている。」 (プラトン 紀元前四世紀) |
*エジプトの神官たちによれば、大洪水は、一度だけの偶然的出来事ではないらしい。紀元前265年に年表を起草したパロス島の年代記では、洪水の年代を作者自身の年代より、1265年前のことだとしている。つまり、一説ではあるが、紀元前1539年にこの大洪水は起ったとする。それから、3538年を経過したことになる。シッチンの言うように、3600年周期でアヌンナキ・神々が戻ってくるという。パロス島の年代記を信じれば、それは、今からあと60年ちかく後のことになるのだが・・・。 しかし、3600年周期も、洪水の起きた時も、どちらも仮説である。およそ20万年以上前に大洪水は起き、それ以後、人類が絶滅するような大異変は起きていない。 大洪水が起きる前兆は天にしるしが現われる。これは周期性のある彗星のことであろう。ヨハネの黙示録では、「その顔は太陽のようで、その足は(Legs)火の柱のようである。」12-4、また、「その尾(Tail)は天の星の三分の1を掃き寄せ、それらを地に投げ落とした。」10-1、とあるが、これは彗星の尾が、地球に叩きつけられることを暗示する。(Legsは彗星の尾のこと)つまり、過去の大洪水の水はどこから来たのかというと、謎の彗星とのニアミスで、地球の重力圏に入ってしまった巨大な量の水蒸気(H2O)ということになる。水蒸気は目には見えないが、おなじ体積の水になるのである。海底にある巨石文明の遺跡が、なにゆえに海底に沈んでいるのか、こうして説明がつくのである。このとき、古代人は一挙に滅亡してしまったのだ。例えば、現在、たった五メートル海面が上昇すると、日本をはじめ主要な世界都市はすべて廃墟となる。 3600年周期の彗星を前提にしてみよう。この謎の彗星の遠日点を600憶km、毎秒60kmのスピードで近づくと仮定すると、すでに海王星のあたりに戻ってきている。12等星ぐらいで発見される新彗星の発見のニュースはいまのところ要注意になってくる。その軌道や、方向は観察結果とコンピュータをもってすれば、容易に知ることができるだろう。しかし、この彗星は盗人のようにくるらしい。また、思いがけない日、気付かない時にくるという。終わりの日まで、人々は喰い、飲み、めとり、とつぎなどしていると定められている。(マタイによる福音書)そうだとすれば、人々は彗星の衝突を事前に知らされることはないのだろう。(社会的混乱を恐れて報道は押さえられる?) ともかく、3600年周期は地球に破滅をもたらす彗星にしては短すぎる。古代文明が滅びた時期は世界的に共通である。グラハム・ハンコックの「神々の指紋」のように紀元前11、000年というのも新しすぎる。すると、彗星の周期も、それに準じて桁違いに長くなる。(彗星は大洪水と同期している。また、地層が大洪水の激変によって、一挙に形成されたとする<創造説>をとるならば、地層と地層の年代差を計測すれば、この彗星の周期を割り出せる。それは、だいたい36万年前の可能性が高い。) なんであれ、必ず周期をもって再び戻ってくる性質のある彗星が原因ならば、キリスト教の終末預言は、時期を明示しなくても必ず実現する。だとすれば、これは、預言ではなく、「科学的な予告」といってもよいだろう。 しかし、聖書には再び洪水で滅ぶことはない。と、述べられている。 「その時の世界は、みことばにより、水で覆われて滅んでしまった。」ペテロの第二の手紙3ー6 これは、過去の大洪水のことである。 「しかし、その日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は轟音をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものをみな焼きつくされるであろう。」同3ー10とあり、洪水は否定され、こんどの終わりの日は、明確に「火」であると予告されている。火は世界にくまなく降り注ぎ、建物という建物は火災を起こし、すべての地上のものは灰と化す。 天が轟音をたてる・・・ここまでは過去と同じ現象だ。彗星のニアミスがもたらす大災害に違いない。しかし、同じ彗星のニアミスが、過去は水で、こんどは火になる。こういう違いがどうして起きるのだろうか。この部分はわたしを大いに悩ませるところだ。私見では、地球と彗星の相対位置によると思われる。つまり、地球の季節が11月に先の大洪水はおこった。10月、11月、12月が危険な時期となってくる。それぞれの月によって、その相対位置に違いがでてくるだろうことは当然思い付くことである。衝突位置が彗星の尾の根元なのか、尾尻なのか、中央なのか端なのか、こうしたことに変化があるわけである。そのため、彗星の衝突する位置によって火に変じる・・・という可能性があるわけである。なんであれ、地上の建造物がすべて燃えてしまうというパウロの言葉から想像するしかない。彗星の大量の岩石粒が、大気圏で燃えつきないで地上にまで降り注ぐとしか思えない。それは、人々が上着をとりに家にもどる暇もないと書かれるからである。(マルコ13-16) これは、彗星の尾が重力圏にたいして、どんな衝突角度をもって進入してくるか・・・によるのだろう。現代の宇宙科学をもってすれば、すぐにでも結論がだせるはずである・・・・のだが? 彗星は氷塊でもある。火焔が降り注いだあと、こんどは、過去の大洪水のように大雨が降りそそいでくる。そこで、大火災はともかくも消沈する。どのくらいの時間で雨が降ってくるのか・・・それが短くないと、カッパドキアのような地下都市にひそむか、水中都市にもぐっているしかない。「もし主がその期間を縮めて下さらなかったら、救われるものはひとりもないであろう。」(マルコ13ー20)(こののち、生き残った人々は、ノアのように神々の列に加えられる。これが、救世主の再来と言われる。) |
○日本列島からナウマン象とワニが絶滅
日本にワニがいたのは、ナウマン象と同期していただろう。ナウマン象が4万年前から、原人はその肉を食べていた。2万1千年頃に起きた大洪水伝説にまつわる大災害でナウマン象が消えた。日本のワニもこの時、一緒に絶滅したと考えられる。日本列島は一挙に緯度で20度近く北にジャンプした。さらに、南北が逆さまになってしまった。フィリピンプレートと太平洋プレートに押されて、左にほぼ120度回転したのだ。琵琶湖の湖底を静かにボーリングして、湖底の地層をスライスして分析すると、鉄の微粒子が逆さまになっている層にでくわす。地球の大異変があったのだろう。ナウマン象やワニが滅びたと同時に、原人も消えてしまった。そう考えられる。
シュメールのギルガメッシュには大洪水の記録が残されており、この時に大地殻変動があったと思われる記述がある。こうした伝説は世界各地に100以上あると言われている。
この地球規模の異変によって、現在の海水位は、その異変の前より300㍍以上、一挙に上昇した。いまの世界地図は、なんとたった2万前にできあがった。それまで、日本は大陸と地続きであった。彗星が数万年周期で地球に接近し繰り返し、地球に壊滅的な破壊をもたらしていたのだ。さて、マンモスや生き残りの恐竜はこのときまで生存していた。かつて、人類は恐竜に脅えながら生活をしていた。
凍土にくるまれたままのマンモス
シベリアのタイミル半島で、臓器も損傷なくマンモスが冷凍状態のまま掘り起こされた。なんと2万380年間、永久凍土の中に眠っていた。マンモスは「ジャコフ」くんと名づけられた。ジャコフくんは、凍ったまま旧ソ連軍の貯蔵庫の巨大な洞穴に納まった。(1999年12月6日朝日新聞)
日本の「マンモス復活協会」は、ジャコフくんの完全なDNAの採取を目指している。ジャコフくんのおかげでマンモス復活は夢ではなくなった。ジャコフくんも、すでに大きな謎に包まれている。彼の体には、青々とした草が付着し、小さな赤い花も見つかった。死ぬ直前までもっと温暖な気候地帯に居たのである。これは、ジャコフくんが腐敗する間もなく、おおきく北へ移動したということで、地軸の極ジャンプが短時間で、一挙に起った可能性が高い証拠である。
[恐竜が歩く絵文字?]
この上下二枚の画像は、エジプトのカイロ南500km、スハグ県のスコーピオン一世の墳墓から発掘された世界最古と言われる文字である。これを文字とすれば、シュメールのくさび形文字より古い。ドイツの考古学研究所は、これらの文字は約5400年前に遡れるものがあると発表した。(98・12)
線刻文字であるというのは発表されただけで、確かなことではない。あるいは、祭器に使われた粘土版で、画である可能性もある。仮に文字だとして、これから以下は絵文字という。
この絵文字の上の一枚には、どう見ても恐竜ではないかと思わせる生き物が描かれている。下の画像の二匹の生き物はなんと、二本足歩行をしている。ラクダでもない、鳥でもない。残された選択は恐竜だろう。この生き物が恐竜だとすると、この絵文字が発見された墳墓が3200年前に造成されたことはどうでもよいことになる。この絵文字は、人間が恐竜を描いた、あるいは描ける記憶があった時期に刻まれたことになる。なんと、驚くべきことに、12000年以上前に遡るイメージが描かれたことになる。
ペルーのイカで発見された恐竜が刻まれた石(紀元前3500年頃)(南山宏)
○原人という古代人
古代人類は、結合したペニスとヴァギナの造形に至福(不死)と豊穣を透視した。縄文の超性のシンボルは、リンガによって表わされる。リンガは大地と天空の結合である。このような、もっとも初期の原形を見ることができるのは、縄文中期の大男根石である。そこは大地のへそとなった。中心からは、大地の気が噴出して、天をつき、再び地に戻った。荒地でさえ豊かな地味をもって潤い、見違えるようになった。雑穀も、果実も妖精が守護し、そして狩猟もうまくいった。毎年の収穫のあと、生命が再びよみがえることを祈願した。旧石器時代の原人の居住跡でも規則的な穴が見つかった。(2000年2月21日朝日新聞ほか)5万年前、すでに部族的集団社会を作り、広域での交易を行い、また、呪術的な祭事もあった。ただ、原人は、ホモサピエンスではなく、現代人の祖先ではない。彼らは、なぜか一人残らず滅びてしまった。原人とは、広くネアンデルタール人、ペキン原人、ジャワ原人、明石原人、そして、小鹿坂の”秩父原人”のことである。
およそ、20万年前、アフリカの一組の新人類から現代人が誕生した。大洪水は、20万年より以前で、それまで原人が石器時代を形成していた。新人類が増えて、ヨーロッパ人とアジア人が分岐したのは、まだ9万年前である。縄文人と呼ばれる旧石器人は、この7~5万年前から日本に来たのである。古代人は2相あって、滅びてしまった人類を原人、現在につながる人類を新人類とよびわけると、縄文人は新人類であって原人ではない。
新人類は5万年前から2万年までマンモスが大陸と地続きの時に日本に渡ってきている。大陸からマンモスと一緒に日本に来たのが縄文人を形成した。
その後、日本は、海に孤立した。やがて、1万年すぎから南方系族(インドネシア・パプア・ミューギニアなど)が黒潮にのって渡海し、漁労が盛んになり南方型習俗が拡がる。ここで、これらの人々が基本的な日本人のベースを作ったと言える。
そこに第一次、BC6000年頃から遼東付近から殷を勃興させたインド系シュメール人が渡海し、水稲耕作を始めた。*岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚からは、今のところ最古のプラントオパールが発見されたが、これが約6000年前である。三内丸山遺跡の縄文人は、この渡海系の人々だろう。中国では、BC7000年頃から、黄河と長江の高温多湿で肥沃な土地で水稲が行われていた。この時は地球が高温期で、関東、甲信越、東北地方など北の方が住みやすく発展していた。いわゆる「牛と蛇のトーテム種族」である。また、土偶や土器が盛んに作られた。すでに銅の精練技術はすでにあった。また、第二次にはケルト人とインド系シュメール人がアーリア民族移動期の前1900年すぎから渡来した。彼らは、遺伝子的に酒にとても強い。
*プラントオパール 植物に由来するガラス質の細胞の化石。植物の種類によって形状が異なる。イネ科は地中から珪酸(けいさん)を吸収して細胞にため込む性質がある。
BC1000年頃から東南アジア、長江、雲南・インドネシアから倭人という人々が(弥生人の中核)が渡海し、広く潅漑稲作を開始、弥生式土器と鉄器の農耕具を残した。とくに長江のすぐれた焼物が日本にもたらされた。鉄の生産技術が同時に入って来た。彼らは、遺伝的に酒に弱い。
その後、紀元前後から加耶、百済、高句麗、新羅などから主として騎馬系モンゴロイド渡海人が来たと大筋を組み立てることができる。
○日本語とシュメール語
さて、テーマを戻そう。弥生時代が始まったのは紀元前200年頃のことであろう。インド・中国江南地方から爆発的に渡来した人達で稲作農耕民が急増した。韓半島からの渡海は自由に行き来されていたので実はどれだけの人が入っているかは分からない。それ以前の神々が農耕技術とともに伝来したとすると、日本での農耕起源は紀元前3000年の縄文中期まで遡るだろう。メソポタミアでは紀元前6000年から潅漑農耕が始まっていた。シュメールはアーリア民族とは少し違っていたが白人系。紀元前3100頃にウルク、ウル、エイデゥ、スサなどの都市国家を築いた。青銅技術はずば抜けていたが鉄には至っていなかった。前3000年前後に日本に移動してきたのが第一次出雲族、この時は世界的な高温で海面はいまより高く、乾燥化を避けて北へ北へ移動するのが普通だった。縄文中期前、海面はいまより100mは高かった。雑穀の農耕と行い、日本では水稲耕作が始まっていた。火焔土器など土器を残した日本の縄文時代がこのあたりだ。その後、数百年して寒冷化が始まり、今度は反転して民族が南へ南へ移動することとなった。のんびりと農耕と交易をしていたシュメールは紀
元前2300年にアッカドに滅ぼされインドに中心を移す。(イラクとインドは北海道と九州ぐらいの距離しか離れていない)その後、小氷河期で草原を失ったアーリアン民族移動が前1900年頃始まり、インダス文明の先住シュメール人はさらに南インドに、中国へ押し流されてしまった。
さらに海路で日本に移動を開始したのがインド系シュメール人、これが第二次出雲族。紀元前1700年頃、潅漑農耕技術が入ってきたのはこの頃だろう。
三内丸山遺跡の円筒土器 中国出土の円筒土器
どちらも6000年前に作られた。
三内丸山 (けつじょうみみかざり)
三内丸山遺跡(さんないまるやま)から出土した6000年前の円筒土器は中国の円筒土器とほとんど同じであった。紋様も形もそっくりで、底は平らである。けつじょう耳飾りも、類似性を見て取れる。また、三内丸山遺跡の近くにある小牧野遺跡は、縄文人の作ったストーンサークルがある。これは中国・遼寧省の牛河梁遺跡のストーンサークルとそっくりである。外環リングが二重囲みである特徴が同じで、中国社会科学院考古研究所 王巍副助長は、6000年前にすでに中国と日本との間で人々の往来があったとしか思えないとしている。ストーンサークル(大湯遺跡・秋田)やリンガ・ストーン(長野佐久町)・(男根石棒/縄文中期)など、明らかに外来だと分かる遺跡を作った。
○突然、三内丸山は放棄された
前5000年頃から始まった三内丸山は約1000年、集落を発展させてきた。ところが、前3800年頃、突然、人が住まなくなったことが考古学では明らかにされた。考古学は、地層の花粉堆石の推移を分析し、前3800年以降、三内丸山の栗の花粉が消失してしまうことに驚いた。ブナ原生林に囲まれた栗は人為的に管理育成しないかぎり、消失してしまうというのだ。みごとに前3800年以降の地層から栗の花粉が消滅している。今から、5800年前、なぜ、三内丸山が放棄されたのか、大きな謎である。なにかがあった??? 大きな環境変化があった。それが、なんであったのか。縄文中期にあったその異変は、人口激減をおこし、縄文人は三分の一に減ってしまった。
さて、この激変はおそらく前13000年に起きた異変に次ぐものである。この間、だいたい1万年は旧石器と縄文をつなぐ文化は連続していた。13000年以前、日本は針葉樹に覆われた寒冷な地だった。13000年以後、環境が激変した。列島は広葉樹林が覆うようになったのである。日本は亜熱帯気候になった。どうも日本だけの地域的変化でない。地球的規模で変化気候が起きているのだ。このときは温暖化だ。氷河が溶けだして、海面は、だいたい200メートルは上昇した。内陸奥地に縄文器の貝塚があるのはそのためである。このときまで、陸続きで日本は列島ではなかった。(13000年の生態系変化は地層に含まれる花粉分析によって、すでに証明されている定説。「神々の指紋」でも、エジプトの地は、13000年以前は緑野であった。この13000年前というのは、世界的に符合する激変である。)その時、中国は今よりも広大な森林に覆われ、世界最高の豊かな土地であった。
○氷河期
三内丸山は、5800年前に滅びた。いまは、だいたい海抜100メートルのところにある。海を見おろす高台といった位置であるが、これを海辺にあったと看做すと、その状況はある程度理解される。あの三内丸山の高矢倉は港の出入り口にあり、灯台であったとする説である。そうすると、三内丸山は交易港としての機能を果たせなくなった。では、三内丸山遺跡の現在と、かつての海面の違いこそ、おおきな激変の証拠なのだろう。いかなる自然環境の変化が起きたのか? 容易に推測されるのは、再び襲ってきた寒冷化である。温暖化よりも、人々の暮らしへの打撃は大きい。栗を栽培していた三内丸山の人々は、栗の果肉が実らないことに愕然とした。栗の生態北限が南下してしまったのだ。人々は、南下を決意せざるをえなかった。海面は年々下降していった。こうして、三内丸山は廃墟となり、そして、寒冷につよいブナだけが取り残された。ブナの大原生林は、この日本にだけしかない・・・。ブナは世界中どこを見渡してもない古代樹木である。
ところで、海面は変化しないものだと考えるのは誤りだ。地球規模の大変化は、およそ一万5千年周期で、繰り返す。日本のメガポリスが、じつに危険な場所にあることは誰でも気付く。首都移転構想では、どこに移転するの、しないのという選定が政治の利権で動くとすれば、すべて不毛である。国家の長期の安全という最も重要な保護利益が欠けている。それは、海抜500メートル以上の場所で、火山噴火の影響を受けにくいという二つの条件を満たさなければならない。かつ、空港アクセスが容易なところ。そうした場所を選定する必要がある。そうは言っても、狭い日本、そんな場所はない???、うーん、難しいな~~~。
出雲族がインドから移住してきた海人(インド系シュメール人)で龍蛇信仰を、ケルト族が日本神話の源流を持ち込んだ。太地母神の土偶や土器はモヘンジョダロ、ハラッパなどの古代遺跡からもたくさん発掘されている。
縄文人は、南方諸島の人々と、シュメール人やケルト人が祖先であり、そもそも蛇崇拝は創世神話と結び付き、起源はシュメールだ。そして、日本の拝蛇信仰や神聖牛思想につながる。この思想は中国の殷と土壌を同じくし、極めて類似・共通なものを持っている。そもそも、殷(BC16-11)を起こしたのは、漢民族ではなかったわけである。結果としてメソポタミア・エーゲ文明の影響が残されたとしても荒唐無稽とは言えなくなる。
また、南インドのタミール語(ドラヴィダ語の一部)が日本語とよく似ているという説がある。モヘンジョダロの文字はタミール語で解読できるという。タミール語もシュメール語を祖語としているらしい。日本の方言の大半が外来である。モヘンジョダロを築いたのはアッカドに滅ぼされて大移動してきたシュメール人だろう。(参照文献「新日本語考」朝日新聞社刊)日本語のルーツをタミルに見る 大野 晋(すすむ)学習院大学教授)
○50に関連する事例
なんと、シュメールでは、神々は数字をもっていた。エンリルが50という数字をもって、雷神を意味することは、日本でもいくつもの似たような例をあげることができる。出雲(いづも)は、「いつも」が古音で、五十+津+藻ともだという説がある。出雲の代表的豪族が信奉した石上神社の『いそ』の音は”50”の古代音から来たかもしれない。「い」は、「・・・五十隠る山のみ峰の・・・」(いかくるやまのみをの)(記・清寧天皇・童子の名乗り)のように、五十は「い」と読まれ、神が坐す山の意味になる。「い」は、恐れ多く直接御名を呼ぶことをはばかるとき使用された。別に、「斎」は「い」と読まれ、神聖であること、タブーであることといった意味をもつ。「い」は、神を指す「それ」とか、「もの」とかいった代名詞であった。「い」に五十という数字があてられている。このことは大きい意味を持つ。
○ 十握剣(とつかのつるぎ)の秘密さて、神代出雲地方では、実は盛んな龍蛇崇拝があり、稲田の女神とはもともと古来から蛇で、稲田姫と大蛇との神婚(しんこん)伝承が出雲にある。インドのナーギィとマホーラガの結婚話と共通する。この蛇神信仰、あるいは伏羲と女媧が転じて、ヤマタノオロチ、クシイナダヒメとなり、出雲神話に流れ込んでいると思われる。そう考えると、いかに古くから牛と蛇の神々が日本に伝わっていたか・・・計り知れないことになる。 スサノヲという名は、古事記に「須佐之男の命」と記され、出雲の須佐郷にちなんだ名前であるという。スサノヲが大蛇を斬ったときの剣(つるぎ)は十握剣(とつかのつるぎ)というが、別名を「蛇之鹿正」(おろちのあらまさ)(書紀一第二)とか、「蛇韓鋤剣」(おろちのからさひのつるぎ)(書紀一第三)、「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ)(書紀一第四)とか呼ばれている。そこで、「あめのははきりのつるぎ」は、「はは」を斬る剣ということだ。ここで、明らかになったこと。それは、「はは」は「かか」でもあり、蛇(おろち)を意味する。剣を「さひ」といい、大蛇を「はは」と言っていた。この大蛇の麁正(おろちのあらまさ)は、石上神宮に奉祀されている。(紀) この剣が、なんであれ外国製の真名剣(まなのつるぎ)である以上、スサノヲも渡来人だったのだろう。「あめのははきりのつるぎ」は「天神が大蛇を切ったつるぎ」となる。 スサノヲが出雲国の簸川(ひのかわ)の上流にいた大蛇を斬ったとき、その尻尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得た。後に、伝説上の日本武尊(やまとたけるのみこと)が駿河の野原で火攻めにあったとき、この剣で草を薙ぎ払い難を逃れた。そこで、名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)に改められた。ここに、薙はインドの神名、ナーギの音写が発見される。草薙(くさなぎ)を音で分解すると、「くさ」は、種(くさ)(もと。材料。(語らひぐさのくさ))。単純に言えば、蛇を素材に作った剣の意なのである。この蛇剣をゆらゆらと振ると、降雨をもたらす効験があるはずである。ナーギ、はもともとインドのコブラの姿をとるインドの蛇神。聖なる大河ガンジス川は、シバ神の妃パールヴァティ(ウマー)の姉、ガンガー女神が天界から下降して生誕した。このときガンガー女神はナーギに姿をしていた。つまり、蛇は降雨を呼ぶ神なのである。火攻めにされたとき、草薙剣を振ると、たちまち雨が落ちてきた。こうして日本武尊(倭建命)は難を逃れた。宇陀の戦いの後、この剣は邇芸速日命 の子、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)(事代主)から、武御雷神に渡り、瓊々杵命(大国御魂)に献上され、しばらく宮中にあったが、天照大神を伊勢に遷し祀ったとき、この草薙剣もどうじに伊勢に移った。この剣は、伝説の倭建命(ヤマトタケルノミコト)に授けられ、最後には尾張の熱田神宮に奉祀されている。三種の神器の一つとして、よく知られている。 (1999/02/13) 大蛇の尻尾からでたので、「臭蛇」(くさなぎ)(佐竹昭広説)の意味だとも言われているが、薙を蛇に喝破したのはよいが、しかし、尻からでたので臭いというのは、神宝剣にふさわしくない。 さらに、スサノヲの妻が仏教と習合して、その姿が蛇体になったことを説明することで、彼がどんな伝説に比定できるのか、明らかになるだろう。さて、そこで稲田比売命(いなだひめのみこと)を探ることにしよう。 スサノヲは後に牛頭大王として祀られた。スサノヲはとして、あるいは族長の英雄神として祀られたのであろうか。牛頭大王と婆利女の神名は韓国に牛頭山という山がたくさんあること、また、スサノヲが新羅のソシモリ、(韓国語で牛頭、牛の首の意味)にいたと日本書紀にあることから、牛頭の由来は朝鮮渡来の神名とされる。(八坂神社編) スサノオは出雲神話に登場する牛族系の神であるのは周知のことだ。スサノヲがエジプトの「ホル」や、シュメールの「エンキ」という古代の普遍的な神を体現しているのだろうか。そして、スサノヲが、革新派で大蛇神を殺し、稲田比売命(いなだひめのみこと)を救って、結婚するが、この結婚譚の背景にはなにが隠されているのだろうか。 Ⅰ、大蛇 Ⅱ、人身御供の女 Ⅲ、救済する男 Ⅳ、古代の呪術を転覆すること。 Ⅴ、異種族結婚をしていること。 ・・・・この要素は、天照大神の人生そのものと言えるほど良く似ている。 この話は、驚くことに大蛇は大神の大物主、人身御供の姫は天照大神、救済する男は瓊々杵命(ににぎのみこと)と、ほぼ同じキャストにあてはまる。すでに紹介したホト突き神話のように天照大神は、大物主神(大蛇)に、自ら生贄(いけにえ)になった。と、すれば、この物語はなんと悲しい結末なのだろうか。 また、牛をトーテムとする種族と蛇をトーテムとする種族がからんでいる。そこで、異種族結婚を盛んにだったことを示すのではないだろうか。母権性社会では近親結婚をタブーとし、遠縁の男をむしろ歓迎した側面をもっていた。 ○牛頭と婆利はなんとサンスクリット語の音写(梵字) 稲田比売命(いなだひめのみこと)は、八坂神社では、かつて婆利女として祀られていた。婆利采女とも言われている。采女(うねめ)とは女官のことで、これは道教教理書に出てくる言葉である。地方の豪族の子女から選んで宮中に仕えたのが釆女である。したがって、神名としては婆利となる。 びっくりすることに、「婆利」とは、BALI、つまりサンスクリッド語そのもので読める。サンスクリット語のBALIの意味は、生け贄の供物である。婆利釆女は「生け贄のヒメ」という意味になり、ならば、ヤマタノオロチに人身供犠になるはずだったクシイナダノヒメとぴたりと一致する。サンスクリッド語の発音がそのまま神名になったといえないだろうか。婆利女が梵字の音であったことは、とてもびっくりである。 ○スサノヲは閻魔大王に習合した。 牛頭大王は「ごづ」と読まれる。牡牛を「ゴ」と発音するのもサンスクリッド読みである。梵字辞典に、[go」は男性名詞 牡牛のこととある。 一方、頭を「づ」と読むのは呉漢読みである。サンスクリッド語と中国語の重ね読みであろう。 牛頭大王は、外国語の発音をそのまま残している。「ゴ」は、いわゆる日本語になったサンスクリット語の一つといえる。 そこで、「Go-paksmata]という語は釈迦の三二相をのひとつ、牛のごとき眼を有するという意味で、漢訳では眼如牛王となる。「Go」は牛王と漢訳された。 とにもかくも、サンスクリッド発音の神名であることからインド源流説が有力となる。神名として非常に希有で貴重といえる。 その牛頭大王は印を結び、頭上に牛頭を頂く鬼のような姿だった。頭が牛である神々は、実は印欧大陸では古代から広汎に尊崇されていたのである。 The Outer Yama Dharmaraja 外護のヤマ法王 (ツィンマーマン・ファミリー・コレクション) ミトラ神の供儀となる牛(ミトラは牛と蛇とを跨り押さえつけている) チベットで牛のつのをもつ憤怒尊はヤマ・ダルマラジャ。 ヒンズー教では牡牛の頭をした神はヤマ(YAMA)で死の神。 エジプトでは冥界の王オシリスが牛。 ペルシャのゾロアスター教のイマ ミケナイではミノタウロスが牛頭の神 ギリシャではハデスが冥界の神 (また、ポセイドンは海神にして馬(古くは牛)) 中国では、五岳大帝。(*閻魔王) これらの神々は、古代シュメールが起源であるとする学者もいる。人間が死後に行く法廷の審判神であり、冥界の支配神である。スサノヲは蒼海之原を治めることを命ぜられ、また根国を支配する神と位置付けられる。 スサノヲは牛神である。これはギリシャ神話、ポセイドンと驚くほどよく似ている。スサノヲのモチーフは全ユーラシア大陸にまたがっていた。 *閻魔大王 中国では十王の一人となっている。別名、閻羅王。仏教のタンカなどでは、すでに角(つの)が無くなってしまっている。〔仏〕(梵語 Yama) 地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神、冥界の総司。経典によっては地蔵菩薩の化身ともいう。像容は、冠・道服を着けて忿怒の相をなす。もとインドのヴェーダ神話に見える神で、最初の死者として天上の楽土に住して祖霊を支配し、後に下界を支配する死の神、地獄の王となった。地蔵信仰などと共に中国に伝わって道教と習合し、十王の一となる。焔摩。閻羅。閻魔王。閻魔羅闍(エンマラジヤ)。霊異記下「忽然(タチマチ)に死して―の国に至る」(広辞苑四版) *ヤマはチベット語だが、タイ語ではヤーク。「鬼」の意味となる。そこで、「薬師寺」のヤクは「鬼」という意味である。このことは、すでに知られていることだが、薬師寺にヤクはどこにいるのだろうか?探してみると、おられましたね。どこに?かと・・・いうと、本尊台座の四方にちゃんといましたね。 薬師三尊像とその台座 台座に彫られた窓のような部分にヤックがおられる。ヤックは「薬」の音訳である。 本尊台座(国宝)に描かれるヤック(鬼)は、窓から顔を外に覗かせているといった感じで、まるで閉じこめられているように見える。 タイのヤックは実に勇ましい。仏陀を守護する鬼神として実に大きく堂々としている。(エメラルド寺院) 記紀の神話では、スサノヲは父神イザナキに叱咤され「根の国に行け」と追放されようとした。また、最後には熊成峰(くまなりのたけ)から根の国に渡ったとある。(日本書紀)。根の国とは黄泉の国と同じで冥土のこと。スサノヲがアマテラスが天石屋(あめのいわや)にこもってしまった事件でも八百万の神々が協議してスサノヲを根の国に追放した。古事記ではオオナムチが根の国に逃げ込むと、スサノヲからひどいいじめを受ける。スサノヲが支配したのは根の国、冥土だった。 Secret Witness 冥界を司る神としてスサノヲは*ヤマ・ダルマジャである。そして、どちらも頭は牛なのである。 *憤怒尊、ヤマ・ダルマジャはチベット宗派によってはヤマンタカとも呼ばれている。いずれにしても、水牛の頭を持つ。文殊菩薩の報身への顕現と言われている。 スサノヲ=ヤマはなんと古代ペルシャ、インドにまたがった広大な地域、ほとんどヨーロッパ・ユーラシア大陸全域に広がって信仰されていたのである。「マヌの法典」ではヤマは死者の審判者で、生前のおこないの賞罰を司る。それにしたがって、死者はスヴァルガかナラカ(天国か地獄)に行くことになる。このスヴァルガとナラカは「のるかそるか」という日本の俗語になり、いちかばちかという意味合いで現在も使われている。スサノヲは、冥界とのあいだの「境界神」でもある。日本密教の真言陀羅尼(しんごんだらに)が梵字の音写だったと考えれば、こうした庶民言葉にインド語が残っていることも驚くこともなかったのだろうか。スサノヲをスサ・の男と分解すれば、これはシュメールにあったスサという都市の男という意味になるが、ちょっと捨て難い解釈である。 ○クシイナダヒメはコブラ(ナーギー)だった! 妃の婆利女は蛇体である。そして、スサノヲとクシイナダヒメの二人の間の娘は蛇気神龍王女(だきしんりゅうおうじょ)といわれ、本尊のひとつだとされる。やはり蛇体の像として他のやしろに残されている。 さて、古代インド先住民の都市では、ほとんど蛇(コブラ)を祀っていた。神格をもつ蛇は全世界的規模で見いだせる。蛇は生命エネルギーと、脱皮をすることから不死の象徴とされた。インドでは男性蛇をナーガ、女性蛇をナーギィといい、下半身が蛇という姿をしている。降雨の魔力を持ち、生命力と繁栄を司る。水は水耕にとって最大の恵みであるので、水を守る神として崇拝される。 ところで、蛇(へび)を中国では龍と訳してしまった。そこで、仏典の龍はすべてインドの毒蛇コブラに置き換える必要があるかもしれない。龍王女はコブラの女神と読み替える。すると、ナーギィとなる。婆利女は、「生け贄のナーギィ」となる。弁財天(サラスヴァティ)も水にたいへん縁が深く、やはり本体は蛇。日本の五弁財天第一位といわれる奈良県大和の天河弁財天社秘蔵のマンダラには首から上が蛇のご神体が描かれている。(楳図かずおがホラー漫画で蛇少女を描いたが、天河社と因縁がある。蛇少女のイメージは天川村で生まれたに違いない?) ○ヤマタノオロチは偉大なる蛇(マホーラガ)? ナーガは人身蛇尾で描かれるか、または、鎌首を持ち上げたコブラが頭の上から突き出ている姿をとる。ヤマタノオロチは8つの蛇の頭をもった神であった。それとよく似ているのがインドの大蛇神。それは、マホーラガ(偉大なる蛇)と呼ばれる。この神は蛇頭人身、頭が蛇で、首から下は人間である。8つのコブラを頭上をもつマホーラガ、それがヤマタノオロチではないだろうか。御霊祭の八列目の八王子はヤマタノオロチだとすると、スサノヲの神話のキャスターが全部祇園御霊祭に登場してくることになるのだが・・・。 中国ではコブラがいなかったので龍と訳した。すると、漢訳教典の龍は猛毒の蛇コブラとなるだろう。 法華経序品には八大龍王が登場する。これらは、八大コブラ王と変えるほうがイメージとしては正しくなる。 Secret WitnessSecret Witness ○牛鬼蛇神と鳥のトーテム 中国では杜牧・李賀詩序にでている「牛鬼蛇神」。こちらでは邪神霊に見ているようだ。 この「牛鬼蛇神」の言葉は現代中国で盛んに使われた一時期があった。「打倒 牛鬼蛇神」(タートゥ・ニュー・グエ・スー・スン)がそれで、紅衛兵たちが叫び、また至る所にその貼り紙が貼られた。文化大革命を経験した人々は決してこの言葉を忘れないだろう。牛鬼蛇神は資本家・地主などを意味していた。中国では悪者扱いだ。中国は龍(ロン)の国と言われる。蛇神が龍に変じていたことを知ったら、中国人はこのことを信じるだろうか? 中国のトーテムが「龍」、半島は「鳥」である。半島の神話では王の始祖はみな卵から生まれる。 |
Secret Witness
神格をもつヘビ
また、この宇宙蛇は人間と交合して、半神半人を産むことができたらしい。とすれば、ギリシャ神話も、たんなるメルヘンではなくなる。彼らは、人間の娘と交合して子孫が残せた。今日の遺伝学からは、種が同一でなければならない。蛇族が例外なく好色であることは、ゼウスや三輪の神をみても理解できる。彼らは蛇であり、かつ人間であった。今日のレプティリアンこそが、彼らの正体であっただろう。彼らが、古代文明を築く原動力となる高度な智恵を持ち合わせていた。と、すれば、彼らを地球外生命体とみることができる。こう見るのは、あながちシュメールの研究家、ゼカリア・シッチンだけではなさそうである。アヌンナキは古代の神々であった。そして、たった一週間で新人類を作り上げた。蛇のような顔をもったレプティリアンが、天空から舞い降り、クローン技術でDNAを組み替えた。レプティリアンが大洪水のあと、再び天空に神々であるとすれば、ギリシャ神話も聖書も、すこしも非科学的ではなくなる。彼らが恐れたことは、自分たちが作った人間がみずからDNAを操作して、神々と同じようになることだった。人類が、いまその領域に踏みつつある。かつて神々が行ったことを人間が行うことを妨害しようとするだろう。 人ゲノムは解読されてしまった。レプティリアンの地球における活動が活発になるかもしれない。 ウラボロスと不死 ウラボロスは尻尾を加えた蛇である。ユングは「われとわが尾をくらい、交合し、はらませ、殺し、再生させるところのドラゴン」という。ウラボロスは超越的な生命力と永遠の生命を象徴する。ウラボロスは、アルファとオメガ、終わりと始まりが結合する。蛇の智慧に潜む謎は、命そのものに関係している。医療に使われた蛇杖での二匹の蛇は螺旋状にからまっている。それは、DNAの二重螺旋を象徴している。すべての生命体に共通に刻印されていたDNAがその尻尾と口をつなげたとき、生物は不死となる。DNAの先端にはテロメアと呼ばれる細胞分裂に係わる時限装置が付いている。分裂を繰り返すごとにこのテロメアは短くなり、最後には細胞分裂を停止してしまう。このテロメアは細胞分裂の回数を制御している。ところが、テロメアが環状(輪)になっている単細胞生物が多数存在する。その一つに大腸菌がある。つまり、大腸菌は環境が適合しているかぎり不死である。人間のテロメアを輪に繋ぎあわせて、転写すれば人間も不死になる。あるいは、細胞自身にテロメラーゼという酵素を作る力を与えテロミアを不断に修復してしまうか、テロメアの働きを無効にしまうか・・・のどちらかが考えられる。DNAのメディアである”ウィルス”に、ウラボロスのDNAを転写させて、人類を永遠に生きる生物に進化させることが可能である。しかし、フィジカルなDNAは、放射線や、活性酸素による電子衝突による転写ミスを修復することができない。おおよそ、平安な環境で、200年か300年ぐらいが寿命となるだろう。 完全なDNAであれば、クローン人間が生まれることは今日の科学では常識となっている。冷凍されたマンモスから、壊れていないDNAが一つでも見つかれば、マンモス復活計画が成功する。大腸ポリープなどは、遺伝子治療が、すでに実現されている。 ○古代ローマと蛇 古代に認識された遺伝子操作技術は蛇に象徴されていないだろうか?。日本で不老長寿が鶴と亀に連想されるのとおなじように、欧米人にとっては、蛇からは、死からの再生、不老不死を連想させる。また、牡牛は繁殖(性殖力)を連想させる。古代の遺跡になるほどヘビの片鱗は多く見いだすことができる。その中で最も興味深い遺跡は有名な古代ローマ都市・ポンペイだろう。ポンペイはAD79年、ヴェスヴィオ火山の噴火によって、あっという間に5mもの火山灰の下に埋めつくされた。二日前まで日常生活を営んでいた町が、そっくり復元されたので生活の匂いが感じられる異例の遺跡である。その古代遺跡(AD79)に、驚くことに薬屋があり、その表通りに面した壁画に巨大なヘビが描かれている。この薬屋には、なんと娼館の隣に店を構えていた。下船した船乗りたちが娼館の隣の薬屋でいったい何の薬を求めたのか、洋の東西とも答えは同じだった。そこで、言えることはヘレニズム世界でヘビは、精力増強・病気平癒・長寿を表わすものだったと言える。ヘビは若返りや生命力の蘇り、生殖力に御利益をもたらす「神様」として一般的に信じられていた。また百 年記念の家にある「バッカスとヴェスヴィオの絵がある神棚」には三匹のヘビが描かれている。裕福な家、ヴェッティ家には「ヘビを絞め殺すヘラクレスの図」の壁画、スタビア公衆浴場にある「ベェスパと犠牲の図のある神棚」などにヘビが見いだせる。また、へびをデザインしたブレスレットが遺体と一緒に発見されている。優雅なブレスレットは、貴婦人らのお守りであったに違いない。これら蛇神は、エジプトのイシデ信仰から来ていると学問的には言われている。 「へスペリデスの前に立つヘラクレス」を描いたサケルドス・アマンドゥスの家の壁画のなかの ヘラクレスと三人の婦人のなかで、左の女性は蛇の頭を手で撫でている。蛇はペットだったのだろうか?? この壁画では、蛇が非常にリアルに描かれている。 ポンペイの住人は、言うなればエジプトとの交易で栄えた。女神イシスがナポリにも導入され、ポンペイ劇場のそばにイシス神殿があった。ポンペイの三神は、ウェヌス(アフロディテ)、ヘラクレス、ディオニーソス。なんであれ彼らにとって、御利益のある神を祭ったと言える。そこで、わたしたちはこう考えたほうが的を得ている。それは、恋愛の神(縁結び)、船の安全の神様、受験の神様、安産の神様、交通安全の神様、戦勝の神様、病気平癒の神様、芸能の神様、金持ちになる神様といった日本的感性をストレートに投影させることができるということである。愛の女神・ウェヌスはポンペイの守護神、ギリシャのジュピターやアポロなどはもちろんポンペイでも主流の神様である。そして、神棚に描かれているヘビも、そしてエロス(キューピッド)も、幸福と豊穣を招く神様だった。 家庭の神棚 蛇は良き霊(アガトダイモン)大地の豊饒さを象徴していたと言われている。 巨大な蛇が卵を食べようとしている。 蛇が描かれている富裕な家のララリウム(神棚)(ポンペイの遺跡フレスコ画) ○スサノヲの后も異種族? カラ・カヤは魚を意味する古代ドラヴィダ語で、古くはカラ(カラクとも)、後にカヤとも言った。カヤには牛の意味もあるそうである。 スサノヲがペルシャから来た神人であり牛族。その牛族の神が、蛇族の姫と結婚するということは、スサノヲが出雲を守護したというモチーフを持たせている。スサノヲは牛族だが、出雲で英雄となった。スサノオの地ソシモリは、牛の頭の意味。牛頭山である。 それゆえに、国津系の「津」はいまの助詞”の”と訳せる)の龍蛇王を倒し、その姫を娶る。この蛇王は、処女を人質を周囲の国主に要求していたのだ。牛族の王が蛇族の女神を后に選んだのは一回きりのことではなかった。その後の大和朝廷のスメラミコトはずっと七世紀半ばぐらいまで、三輪山の一族から后を迎えていた。先住ヤマトの神、三輪山の大神神社(おおみわ)の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の氏族から姫(水女神)を迎えて天神(天皇)は世を治めていたのである。 このときから、スメラミコトはずっと、天神地祀(あまつかみくにつかみ)を祀る両勢力を臣(おみ)にしてまつりごとをおこなってきた。崇神天皇が地祀(くにつかみ)系の大神神社(おおみわ)を造営したと言われている。「ハツクニシラススメラミコト」と言われた崇神天皇と神武天皇は=ニニギノミコトであり、スサノヲからの三輪系の後をしっかりとした基盤にしたのではないだろうか。 川崎真治著「日本語の謎を解く」(読売新聞社1974年)は日本語の祖語としてシュメール語をあげている。シュメール語では、「牛頭」は「ウル・サグ」、武人の意味が重複している。「牛の頭」は戦いに関係する。バイキングは角が二本ある戦闘帽をかぶっている。また、日本の武将の兜もなぜか、半月状の二本の角をもつ。牛の頭は確かに兜の形に転じている。頭に角があるのは他に”鬼”がある。いわゆる虎の皮を腰に巻いた鬼は牛族で狩猟を専業とした山人であろう。単純に言えば蛇族=龍で水神に結び付き、牛族は”つの”で火神に結び付く。 ところで、龍にも二本の角がある。龍は蛇と牛の合体神か。だとしたら、こんなすごい神獣はない。スサノヲは牛族の神、ギリシャ人も牛族(ウル系)だった。ミケナイのミノタウロスは龍と戦う牛の神。乙女を怪物から救い、結婚する英雄である。ヘブライではアシュラ女神(太地母神Asherah)が、木に宿る霊であり、かつ天界の雌牛だった。その夫エル(セム語で神)が雄牛だった。(イスラエル、ダニエル、エルイヤなどエルは神の意味。)エルは雄牛の頭か、角をかぶった人間の姿をしていた。牛を聖獣とあがめ、牛をトーテムとする一族は、朝鮮語ではウル・サラム(牛・人)。シュメール語のウク、ウルの音は世界的に牛の意味で拡がっている。 *パルティア王国(イラク)には、スサという都市があった。 ○カタツムリのなかにシュメール語がある? カタツムリは漢字では「蝸牛」である。蝸は渦(うずまき)と虫をつけたもの。分かりやすい文字。その後ろにわざわざ牛の字をくっつけているのは何故だろうか。カタツムリには二本のかわいらしいツノがある。カタツムリのような小さなツノまで牛として形容しているのである。つまり、「渦巻の形をした牛」となる。日本語ではKata-tu-(m)uliとなり、kataが渦巻を、tuは助詞の”の”、最後に(m)uliが牛になる。uliがシュメール語。ウリが「牛」を意味していた。そこからまた、新たな発見が生まれる可能性がある。(参照文献 日本語の謎を解く) ○蛇が農耕の守護神になる理由 一方、蛇が農耕民族に縁深い理由は、ネズミと関係がある。ネズミは農作物を食い荒らす。ところが蛇がいるとネズミが増えない。蛇は完全な肉食でねずみを好む。森がなくなると蛇がいなくなる。するとねずみが増える。いわゆる生態系の循環である。ヨーロッパではケルト族のドルイド僧(古代信仰)たちが聖なる森を守っていたが、キリスト教の影響とともに急激に森林破壊が進行し、森は半減した。その結果、土ねずみが大繁殖してペストの大惨禍を招いた。ペストの流行でヨーロッパの人口は一挙に三分の一に減少してしまったのである。(1348~1349年) 日本では神社が鎮守の森として、里森(さともり)を残すようにようにした。自然の霊が宿る聖なる領域として、人々を恐れさせて近づけなかった(開発させない)。いわゆる隔絶型の神社がそれである。こうして里森は蛇の格好の生息地域となった。また、蛇を殺すことは農耕民族ではタブー視された。そのおかげで日本ではペストのような流行は起きなかった。蛇は多くの神社の祭神に秘されているだけでなく、実際に蛇を保護する役割を神社が果たしていた。 1998年の日本の宮崎 駿「もののけ姫」にも土地神の役割が見て取れる。人々を畏怖させ進入を拒む「たたり神」がいた。日本には人間の進入を拒む神がいる。このことを、ぼんやりと理解できたのではないだろうか。自然の利息で生活を営む古代人は自然の生態系の異変に敏感だった。乱開発や乱獲が自分たちの首を絞めるからだ。利息(自然の恵み)を減らすようなことはタブーだった。ところが現代人は自然とかけ離れて生活できるかのように思っている。 現代、「文明の自然破壊」による”地球異変”が広汎に露出しはじめ、国際的レベルで科学者や政治家が地球温暖化の対策に追われだした。炭酸ガスの排出や森林破壊の規模が余りに大きくなりすぎ、その結果の重大性をもはや無視できなくなったのである。ガイア(地球)はいま寒冷期になりつつあるのに、一向に気温が下がらない。そのためすでに恐怖感が一般人にシンフォナイズされてきたといえる。 (「第三の選択」(イギリスBBC放送制作/東北新社)は13年前、探査機から撮影した火星表面の映像が、あまりリアルで、長時間だったので衝撃を与えた。スパイのリークではなかったかと言われたが、すべてドラマに伏されてしまった。) 蛇神の正体
マヤの変形頭蓋
ロシアで発見された変形頭蓋
■2000年前から来ているリトル・グレイ 2015年/ペルー・アタカマ砂漠で発掘された状態の長頭頭蓋骨。 およそ2000年以上前と推定されている。 南米の富士山と呼ばれるミスティ火山があるアレキパ地方の砂漠地帯である。 眼窩(がんか)上部と前頭部(額)の境目に注目! 1)眉毛の位置が突出している。 この特徴は1991年撮影のGREYによく似ているように思える。 2)前頭部と後頭部の接合部に段差がある。 3)前頭部に比べて頭頂から後頭部のが大きい。 4)体型は痩せていて身長は90cn~120cm(Little Grey) 5)腕が細く長い。 6)あご骨が非常に貧弱 7)指の数が3本である。 1961年 メキシコ 1996年 ブラジル・ヴァルジニアで撮影されたGREY。(Varginiha UFO Incident) 現代人の頭蓋との違いが分かる。 長頭であることのほかに、額と眼窩の間にくっきりと明確なラインがある特徴がある。 顎は薄く華奢でオトガイ部がほとんどない。 あご骨の左右は7~8cmしかない。 上のGREYの顔と比べても適合する。 下歯は12本、噛む力は弱そうだ。人間の歯は14本。 ○忘れ去られた牛頭大王 明治元年(1868)、新政府は神仏分離令を命じた。このとき、平安時代から神仏習合の菩薩、権現などを武装した神官たちが焼き捨てたのである。神社内の仏像、仏具、経巻はことごとく灰に化したり、投げ棄てられるありさまだった。権現・牛頭大王の名はこうして人々の間から忘れ去られた。 ○世界の奇祭「牛祭」! 京都・太秦の牛祭の源流が印欧民族の広汎な古代信仰だ。また祇園御霊際で、スサノヲはヤマ、イナダノヒメはナーギ、ヤマタノオロチはマホーラガとしてインド系の神々との習合が明快に立ち現れてきた。 こうした説は、今はほかに、どこにも見いだすことができない。しかし、言えることは古くからの日本の神々、仏菩薩など、これは仏教だ、これは道教だ、これはバラモンだとか、はっきり区別することがほとんどできないほど重さなりあっている。 ○女神ターラーは胎蔵マンダラのなかに御座している! 太地母神が「壊される縄文土器」であったことは紹介した。また、そして、この章では、京都の太秦の摩多羅神がターラーではないかという疑問から出発した。だが、いったい、マンダラとどういう関わりがあるのか読者はいらだっていることだろう。 |
Secret Witness なんと、ターラーは多羅菩薩として、 伝真言院胎蔵界曼陀羅の蓮華部院のなかに描かれている。 ヤマは焔魔天(えんまてん)として 外金剛部院南に、 ナーガ(ナーギ)は、難蛇竜王(なんだりゅうおう)、 跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)として、 外金剛院部南、西、北の三門に、 マホーラガは 外金剛北に摩ご羅伽(まごらか)として三尊ほど描かれている。
古代の神々が包摂され、今も息づいている。マンダラはまさに壮大な歴史をもった神々、仏菩薩たちのパンテオンでもある。マンダラはパンティズム(汎神論)の頂点だといえる。しかし、それは多神教ではなく、一つの原初仏大日如来の化身(ペルソナ)でもあるので一神教でもある。欧米のキリスト教の指導者たちは、ほとんどこのパンティズムを理解できないでいる。
*世界最古の文字と日本の神々 川崎慎治著(参照文献)ほか・・・ |