HOME-TOPへ 摩多羅神はどこから来たのか? ~ダビデの子孫~
祭神は三神で、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)(主祭神)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)である。 *釈迢空;折口信夫(おりくちしのぶ)の歌人としての雅号。 高麗駅前のチャンスン 「わたしは目をみはり、耳をそばだてた。わたしの心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そして獅子の舞にふさわしくないもの悲し い笛の音だろう。獅子は舞ながら太鼓をうつ。この太鼓が笛の悲しさに甚だしくツリアイがとれている。」「高麗神社の祭りの笛」坂口安吾著 (例大祭10月 19日ごろ) この笛は高麗楽からの外来楽器であり、6孔を備えた狛笛(こまぶえ)である。およそ1300年前の音色である。その音には感慨深いものがある。 この社の祭神は、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)と高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)である。猿田彦大神は天狗面で現れ先頭を歩く。宮子はその後を 着いて歩き、裏山に登る。先頭を歩くのは、ニニギノミコトの先導役を務めたという故事に基づくもので、猿田彦大神は神輿の先頭を歩く天狗として、全国の神 事に見られる。かくのほど、猿田彦大神が、高句麗の系譜にある社の際神となっていることは見過ごすことができない。この社が純粋に高句麗の王の末裔が渡来 し、日高に落ち着いた証が十分であり、かつ、この社でサルタヒコの巡行祭が行われているということは、どう考えてもサルタヒコが高句麗の初代王に比定でき るのである。 ■高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の王陵 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう) 聖天院は、高麗神社から南西方向に徒歩5分ほどのところにある。高麗神社の参道から横道に入り、静かな住宅の間の道を歩いていくと、広々とした寺の駐。 斜に沿って建てられた伽藍が木立の間に見える。そこが聖天院である。埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺である。 聖天院楼門の脇に高麗王若光の王陵がある。左奥の霊廟にがある。天智5年10月条 高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」が見られる。 若光が来日したのは666年は高句麗滅亡の2年前である。続日本紀の文武天皇大宝3年(703年)の條に従五位下高麗若光に王姓を賜うとあるので、高麗王 (こまのこきし)の氏姓を賜与された。高句麗の王族と推定され、一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物とする。 高麗王は代々高の姓を引き継いだことから、高麗王の直系であることは証明はできないが、王族であったことは間違いないだろう。 聖天院 大韓民国の元首相・金鐘泌氏の揮毫で「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っている。 高麗王廟(朝鮮様式の若光王の墓) ■サルタヒコは高句麗渡来、高霊は朱蒙か! 高麗神社の祭神に猿田彦と武内宿禰であることは、当の猿田彦と武内宿禰が高句麗系渡来人であることを明かしている。高句麗の伝統神社で百済や新羅系の英雄をを祀るとは考えられないからだ。 八 咫烏は3本足のカラスであり、日本書紀の神武東征神話に出てくる熊野越えで、彦火火出見の夢の中にアマテラスが現われて「頭八咫烏を遣わすから郷導者とし たまえ」とおっしゃった。古事記には出てこない。八咫烏は明らかに高句麗の朱蒙のイメージキャラ。この八咫烏=三足烏は、日本では千年以上前から和歌山県 の熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)をはじめ、全国2000余の熊野神社の共通の紋章である。また、奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天 井壁画の太陽図に三足烏が書き込まれていた。この三足烏は高句麗建国のシンボルであり、三足烏と言えば、高句麗の始祖・朱蒙(Jumong)である。チュ モンが率いた軍旗でもあった。これらはすべて、熊野系が日本書紀にそって高句麗の門下にあったといえよう。 圖: 古代壁畫中的「三足烏」形象(中国前漢頃の壁画/これが古朝鮮以来のシンボルである。漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいたが、この三足烏の形象は東夷族の ものだと認識している。この壁画のあった高句麗壁画は中国中原にあり、朝鮮族がもともと居住していた動かぬ証拠となる。) 三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様。このところ韓国ではちょっとした高句麗(BC37〜AD668)ブーム。韓国の電化製品メーカーのLG電子がこの夏(2011)制作した「三足烏」文様。 昔から漢および高句麗では三本足のカラスの伝説がある。高句麗の三本足の鳳凰。頭の後ろに長く伸びるたてがみから、カラスでなくて鳳凰である。独立博物館 にある金の高句麗鳳凰と同じものである。三本足のカラスは、高句麗に入って三本足の鳳凰に変わったらしい。高句麗建国!伝説の英雄「朱蒙(チュモン)」で は、「三足烏文様」をデザインしたステッカーにもなった。 熊野古道、熊野本宮大社の神の使者と言われる八咫烏(やたがらす)。高句麗のシンボル三足烏は、日本では八咫烏(やたがらす)と称された。どれもくちばしが右向きになっている! *奈良県橿原市五條野町にも、八咫鳥を祀った八咫鳥神社がある。 *2002年に奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に、三本足のカラス「三足鳥」とみられる絵が見つかった。 *八咫烏は加茂建角身が化身した姿だといわれており、建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社(京都)の祭神。賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神。 *奈良県御所市の高鴨神社では、祭神の味耜高彦根神と八咫烏を同一だと見られている。 *それで建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏 帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。 *美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏、兎もそれぞれ日神と月神を象徴 *穏地郡武良郷、中村の御客 祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭である。ここに古式の的射神事が残されている。その的となるのは遠来の神、日神たる「烏」の図像である。武良郷全体の大 祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)も、また日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を、祭りの旗印(御神体)とする。 *。「三島」という名前が付く神社は全国に1万社以上あるといわれますが、その総本山は、静岡にある「三島大社」。『延喜式』によると、三島大社はもとも とは、伊豆国賀茂郡にあった。伊豆は、かなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であり伊豆諸島の神社はことごとく事代主命を祀っている。 ■物部大連はなんと高句麗の王族出身だった。 三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)が日本で祀られていることは理解されたうえで、こうした神社が多々あるには相当な勢力(軍事力)があったものと考えられる。高句麗を出自とした渡来人は物部氏である。
九州に韓国岳という高山があるが、韓国は祖国名、物部は先祖名ということになろう。物部大連の苗裔だから、高原という「かばね」にしてほしいというのである。
句麗国の王を継承して高句麗としたのは、句麗国の王の姓が「高」だったからだ。「高」の持ちがキーワードである。 高原とは、あの卒本城があった一帯の地名・国名の由来だろう。 解朱蒙が高朱蒙と姓を変えたのは「高」氏の婿になったからである。 高御産巣日神、高木神は高句麗と百済の両国を建国に導く功労がある。桂婁(ケル)の王延陀勃(ヨン・タバル) 卒本の王である。 天津日高日子穂穂手見命は百済建国の温祚(オンジョ)である。 こうした高を付すのは、その出生をしめすだけではない。 地名にも表れる。 高天原は卒本である。 日高とは東扶余城である。 高志国は玄莬城である ■志登神社 そ こは韓国を遠く見渡すことができる。糸島郡前原に日向峠(ひなたとうげ)である。ここに、大きな山城(やましろ)をまたたく間に作った。この城は筑紫城 (紀)と呼んだが最初の宮処でもあった。後に紀国に遷宮する。書記では、「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降りまさしめき」とあるのが、この「筑紫 の」が重要である。 ここから上陸したのだろうか。志登神社(しとじんじゃ) 海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしい。ここはかつて港だった。 ご祭神の高祖明神とは、高句麗開祖のことだろう。 糸島市(旧前原市)、JR波多江駅から北へ500m強の畑の中にある。こんもりとした鎮守の森の中に鎮座。 延喜式の古社 御祭神 豊玉姫命 相殿 和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿祢命 相殿 高祖明神 志賀明神 神功皇后 高良明神 『和漢三才図会』 相殿 高祖明神 神功皇后 高良明神 『筑前国続風土記』 手前の杜が志登神社、後方に高祖山(たかすやま) 高祖神社(たかすじんじゃ) 南西の雷山であると考えられるから、雷山神社が本来の宮であり、こちらはその分社であると考えられる。 高祖神社(たかすじんじゃ)の位置A点(古代の海岸にあたる) 城を築いたのは高祖山だろうか?雷山川(前原市の船越湾に注ぐ全長14.4km)がほぼ直角に曲がる場所にドルメン、 即ち「支石墓」(しせきぼ)が10基存在している。支石墓は高句麗渡来人がこの近辺を拠点にしていた証拠である。高句麗の文化は石の文化だといわれる。キ トラ古墳は高句麗の横穴式石室といってもいい。 江華島の支石墓 韓国語ではコインドル、この支石墓は最大級で、他に韓国全土に3万石あると言われているが、分布図を見ると不思議なことに新羅にはない。仁川州広域市江華島には120基あり、世界文化遺産になっている。 江華の支石墓は北方式、和順(約442基)は南方式。高敞(500基)は北方式と南方式が混在する。和順には、前方後円墳がぞくぞくと発見されているの で、歴史認識に物議を醸している。単純に言えば、倭族がこれらの地域を支配していたことになる。任那があったかなかったかの論争は過去のものとなった。 飛鳥石舞台古墳。上円下方墳と推定されるが,あまりに有名なこの古墳,蘇我馬子の墓(桃原墓)といわれている。 支石墓の構造 この高句麗系の王は神武天皇で語られているようである。降臨神話はもう一つニニギノミコトで、こちらは「日向の襲の高千穂峯に天降ります~略~ソシシの空 国(むなくに)を~略~吾田の長屋の笠狭岬に到ります」と、明らかに鹿児島に降臨したと記す。これは、二重の降臨場所があるということは、別の王が侵入し たということである。鹿児島に上陸した王朝こそ、「はつくにしらすすめらみこと」と称される応神天皇であり、熊襲と云われた軍の王である。魏志では狗奴国 と書かれ、王の名を卑弥弓呼であると記す、その人は応神天皇(ホムタワケノミコト)である。 ■大物主は、高句麗の王族か 謚名(おくりな)で、「足(タラシ)」が入る天皇、または「根子(ねこ)」が入っている天皇は高句麗直系である。これは神武天皇の系譜である。これに対して、「別(わけ)」が入る天皇は傍系を意味する。簡単に言えば、兄弟継承か片親だけ直系王族であることを意味する。だが、血脈が切れている可能性も秘めているので、ここは慎重にならざるを得ない。そして、天皇の諡に「神」「入」がある天皇は天孫であることを示しているので、渡来してそのまますぐに王位に即いたことを意味する。 糸島富士と呼ばれる可也山の展望。山頂では神武天皇を祭る「可也山神社」がある。 ■上陸地点からは3系統の王朝が並立していた。
■高句麗は消されたのであろうか? 米UCLA大学のジャレッド・ダイヤモンド博士と豪州国立大学(ANU)のピーター・ベルウッド博士は2003年4月25日付のサイエンス誌に発表した論 文で、15の主要語族の拡散現象を農耕文化の伝播と関連づけて説明し、このような主張を提起した。論文によると、日本語は、紀元前400年ごろに韓半島か ら日本南部の九州に渡り、稲作農業を北部地域に伝えた農耕民の言語に由来するという。論文は、当時の韓半島には新羅(シルラ)・高句麗・百済(ぺクジェ) の3国時代が維持され、それぞれ異なる言語を持っていたと指摘、現在の韓国語は新羅語で、日本語は高句麗語に由来する可能性があると主張した。 ■高句麗系王朝は伊勢にあった。 塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)。実は、佐田彦大神とも猿田彦大神とも言われ、別名、多く、天火明命、天照御魂神・天照国照彦火明命とも呼ばれる。史話になると、武内宿祢と 名前を変える。日本書紀では、さらに海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)塩土の翁とか、猿田彦とか海神とか、ころころ名前を変え謎めかしている。紀(二> 九)では伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に鎮まるとするが、伊勢を中心として紀伊半島に大きな基盤があったようである。この神名は、大綿津見神【お ほわたつみのかみ】のほか、賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】と同一ともされ、竜神にも変貌する。伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれたとされる。雷神や道祖神、海神(わたつみ)の神にもあり、また行列を先導する天狗として庶民の尊崇を集めてい た。古事記では、瓊々杵命に一に二もなく恭順したような物語に仕立てているが、そんな小者ではない。 猿田彦大神の別称を探ると、次のようになる。 1.佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社 2.鹽土老翁神【しほつちおぢのかみ】名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ) 3.塩椎神【しほつちのかみ】古事記 4.塩筒老翁神【しおづつのおじのかみ】御釜神社(オカマジンジャ) 5.事勝国勝長狭神【コトカツクニカツナガサノミコト】 6.大綿津見神【おほわたつみのかみ】 7.賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】 塩土翁、この神は、伊勢、宮崎、滋賀、に多くまつられており、およそ1500社あると云う。 上記の三社以外、主だったところ、次のような神社で祀られている。 塩竃神社[宮城県塩釜市一森山ほか各地] 胡宮神社[滋賀県犬上多賀町] 青島神社[宮崎県宮崎市大字折生迫] 塩津神社[滋賀県伊香郡西浅井町] 益救神社[鹿児島県熊毛郡上屋久町] 胡宮神社[滋賀県犬上郡多賀町] 合祀されている神社 都萬神社【つまじんじゃ】宮崎県西都市 塩槌翁がニニギノミコトと海神の娘を娶せたのは西都市であった。サルタヒコのここ一番の功績を遺した地である。縁結び、今日の仲人役を果たしたと俗に言われ る。このとき、和平にあたっていた人物は、吉備臣の祖・鴨別(かものわけ)である。塩槌翁は鴨別とも重なる。 この国は、もと長狭(なさ)が住む地(くに)だったが、今は、天尊ニギハヤヒに恭順しています。ともかく勅意のままになされなさい。」 長狭(なさ)が先住民として国をもっていた。高句麗の龍をトーテムにするニギハヤヒ(大国主)が王となっていた。そこへ天つ神の第二陣金官伽耶国のニニギ ノミコト(鳥をトーテムとする)が現れた。この塩槌翁は河南省か、山東省からの夏王朝の末裔であろう。雷神信仰の王である。が、ニニギに王座を禅譲したと いう大筋となる。ミケ王朝とワケ王朝が共立和合したのはわずかな期間で、応神は、王位につくやいなや塩土の翁を失墜させる。ニニギは非情で残酷であるが、 旧王朝の祭祀だけは侵害しなかった。祟りを恐れたこともあるが、国譲りの条件として誓約したことでもあった。ゆえか、大衆の人気は大国様やその子、恵比寿 様に向かった。猿田彦(三輪王朝の王)は巨大な存在である。記紀はどうしても、あまりにも巨大な王猿田彦を家来に貶(おとし)めた。その目論見は三輪王朝 の王朝の影響力を排除しつつ、その正統性を継承をしたかのように擬することである。王権の正統性の称揚だったことは疑いない。 大分県の宇佐神宮の門外不出の古文書では、宇佐神宮は応神天皇を祀る前の主祭神は「猿田彦大神」だったとあり、猿田彦が伊勢、丹後、播磨および国東で活躍 した王であったと思われる。この天狗で現出する猿田彦大神が、高麗神社の主祭神である。このことを手繰り寄せると猿田彦が高句麗から来た胡族であり朝鮮族 を率いて渡海した王であることが判かる。胡族といっても、契丹などの騎馬民族ではなく、パルティア王の末裔である可能性が高い。 猿田彦は大分に伝わる秀真伝(ホツマツタエ)で「我は伊勢の祖、サルタヒコである」と述べた主の名称は「ナガタサタヒコ」であるとあり、「長田」という姓が出てくる。長狭(ながさ)という記の名称と近い。 この名称の長田佐田彦(ナガタノサタヒコ)は秀真伝(ホツマツタエ)では、伊勢の祖であると云う。秀真伝(ホツマツタエ)の伝承の信憑性を確かめておこう。伊勢にはたして猿田彦が居た証拠はあるのだろうか。 この大神、伊勢の一の宮として鎮座する。猿田彦大本宮 椿大神社【つばきおおかみやしろ】(三重県鈴鹿市山本町)である。この社は、全国2500社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮とされる。 このほかに、都波岐神社・奈加等神社【つばきじんじゃ・なかとじんじゃ】(三重県鈴鹿市)、都波岐神社もまた伊勢国一宮と伝えられる。さらに、三重県伊勢 市宇治浦田、伊勢神宮内宮の近くに「猿田彦神社」がある。サルタヒコが五十鈴川の川上に鎮まったというのである。本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な 妻入造である。ここに「さだひこ」という語は、佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社の神名と同じである。猿田、佐田、長狭、長田などの関連 語の読みが[Xia]であったようである。 書記では、武内宿祢の弟が「三韓を招きて己にしたがわしめて」王の座に就こうとしているとに讒言され、応神天皇は謀反の罪で「武内宿祢を殺さしむ」という 驚くべきことが書かれている。武内宿祢が嘆いていると、壱技直の祖真根子(いきのあたいのおやまねこ)が、大臣のきよき心を明かしてください。ここはお逃 げになって帝に罪なきことを明かしなさいと、身代わりとなって自害した。武内宿祢は筑紫から船にのり、紀伊に向かう。九州を南端を迂回して黒潮に乗る海 路、これは、筑紫から紀伊水門(きのくにのみなと)=熊野に停泊して大和入りするときの航路で、かつて大和攻めのとき武内宿祢の男軍(をいくさ)を率いた と同じ経路である。これを「南海道」という。 紀伊の港から大和入りし、弟の甘味内宿祢(うましうちのすくね)と二人とも応神天皇に捕えられた。対決は武内宿祢が勝ち、応神天皇の勅により紀直(きのあ たい)に身柄を預けた。いまでいえば、紀州に遠流(おんる)したのである。応神が命は許したもの、紀州に蟄居させたと書かれる。五十鈴川の川上、今の伊勢 神宮がある地が、武内宿祢が鎮まった地である。すなわち、武内宿祢=猿田彦=天照御魂が没した地に、天照大神と豊受大神が元伊勢から伊勢に何故遷宮したの か。ここは人脈を開く大きなポイントである。 武内宿祢=猿田彦=天照御魂とは天照大御神の父であろう。 関連として、出てくる「長田」も調べてみよう。長田神社【兵庫県神戸市長田区】にも縁の社となる。1800年を越える歴史を持つ古社であるが、主祭神は猿田彦の子供、事代主神で、「恵美主様」「福の神」である。この神社も猿田彦が先導して歩く神輿行列がある。 このことから、サルタヒコが紀記の記述のような天尊したニニギを先導したとうただの従者の役より、ずっと大きな存在としてが見えてくる。国つ神とニニギは 言うが、竜神を祖とする王であるので、天尊(中国から天下った)王である。天つ神ニニギに国譲りした当の主だったのではないだろうか。ニニギの国づくりの 先導役という記紀の描写だけでは、これらの多くの神社が存在するわけがないだろう。武内宿祢=猿田彦=天照御魂とは天照大御神の父であり、伊勢に隠れたといわれる。そこで、高御産巣日神、高木神は高句麗と百済の両国を建国に導いた功労があった桂婁(ケル)の王延陀勃(ヨン・タバル) 卒本の王であることが判明する。 元伊勢 籠(この)神社は丹後一の宮。御祭神が豊受大神である。奥宮として真名井神社があるが、最奥にある「鹽土老翁の磐座」(いわくら)大綿津見神とも記されている。 真名井神社は「丹後国の比治の真奈井から御饌都神である等由気(豊受)大神を、伊勢国の度会に移し祭ったのにはじまる(雄略)」とある。また、イザナミオミコトは紀伊国熊野の有馬村の斎祀られたとあり、伊勢には偉大な因縁がある。 猿田彦が終末に鎮座したのが伊勢である。亡くなれてから、伊勢に葬られたと考えるのは早計である。単に遷宮されたとも考えられる。応神新朝の明宮【あけの みや】)(橿原神宮あたり)に対して斎宮【いつきのみや】また、磯宮【いそのみや】と称したのはこの故だろう。その斎宮とは、いったい何処にあったのだろ うか。松坂市に至る20kmに、「斎宮」(いはいのみや)があった。なんと、近鉄山田線に斎宮駅(さいぐうえき)という、その名のとおりの駅がある。ここ に1990年からある発掘調査が始まった。この発掘でなんと斎宮が、「幻の宮」ではなく、史実であることが判明した。国史跡「斎宮跡」は、東西約2キロ メートル、南北約700メートル、約137ヘクタールという規模で、壮大な宮であった。単に、記紀に「斎宮」と記されたばあい、伊勢神宮ではなく、別に あったのである。それは、猿田彦、ニギヤハヒ大物主の宮だったということになる。天武 では、「斎宮」が猿田彦の王都たっだのか、よく考えてみよう。斎王の始まりは、垂仁天皇紀では「斎宮(いはいのみや)五十鈴川の川上に興(た)つ。是を 磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記しており、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所伊勢神宮である」、さあ、どうだろう。明らかに斎宮は伊勢神宮より古 いのである。(参考:三重県多気郡明和町 斎宮歴史博物館)。 さらに、斎とは接頭語で、神聖なという意味(大辞泉)である。斎王は「神聖な王」という意味になる。神前にそなえるサカキは齋木【ゆき】というが、斎は 【yi】と発音された。ここから伊勢も【yise】で、聖なる支配者という意味に転ずるのである。では、禊、清めるその奥の力は、龍神・蛇神である。猿田 彦が殷・夏の祭祀性の強い王朝であったことが透けて見える。この宮には禊祓(みそぎはらえ)をする池の跡が必ず見つかるだろう。 *斎宮 100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて 500人を越える人々が起居していた。発掘によって、都市は碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市で、その内部は、斎王とそ の世話をする人々が暮らす内院、斎王の巫女たちの斎宮寮の中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物があった。これは唐の行政組織 に習った行政庁ともいえる。規模ばかりでなく、ここは祭祀だけをおこなっていた所ではなく、政庁の機能を備えている。ここは、高句麗系の王朝があったとい うことだろう。共立王朝とは言っても、都が2つあったと考えると、その共立が緩いただの休戦協定だった可能性も覗えるのである。 この宮は斎王の住居と斎王(神巫女)に仕えた役人・女官らがいる斎宮寮とで構成される。 斎王(神巫女)は天皇が即位すると卜定(ぼくじょう:亀の甲羅や動物の骨などを使った占によって選出)によって未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれ、 天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた。斎王は天皇が譲位したり崩御したりするとその任が解かれ都に戻ることができるが、それまでは一般の社会とは隔絶される。 「斎王群行」「斎宮行列」と言われる行事は、天皇が御代りになる度に皇女を京から斎宮に送る行事である。 672年、大海人皇子は壬申の乱での戦勝を願って朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とほがわ)ほとりで伊勢の方を向いて宮を拝んだという。見事大願成 就し、天武天皇になると、これまで途絶えていた斎王の制度を復活させたという。その意味するところは、天武天皇は高句麗王の末裔だったということである。 その出自は天皇の外戚の后が誰であったかによって決まる。大海人皇子と大田皇女(天智天皇の皇女)との子で大津皇子の実の姉でもある大来(大伯:おおく) 皇女だった。伝承による斎王には垂仁天皇の時代の倭姫命(やまとひめのみこと)らがいるが、大来皇女は万葉集や藤原京跡で発見された木簡によって実在した と確認できる最古(初代)の斎王(神巫女)となっている。斎王(神巫女)の仕事は伊勢神宮の祭りに参加することで、正月の神宮遙拝や三節祭(さんせつさ い)とよばれる6月・12月の月次祭(つきなみのまつり)と9月の神嘗祭(かんなめのまつり)への奉仕が主であった。 斎王になる皇女は交代するまで処女でなければならないが、不倫した斎王(神巫女)もいたのである。処女を失うと斎王を解任され、京に帰される。その御一人に推古天皇の皇女・莵道貝蛸皇女(うじのかいたのひめひこ)がおられる。 ここで、斎宮ではその天皇が神意に適うかどうか神のお告げを卜占していたのだろう。スメラミコトは、伊勢の神が最高位で、天皇は伊勢の神に承認されて王位 につけるという構図である。琉球王朝では、宮中にあるノロ200人(巫女)の頂点である「聞得大君」(チフジンガナシ)が最高の地位にあった。守護神のオ ナリ神に直結するからである。王たりといえども神の威光の下におかれるという構図がここにも見える。 こう考えてみると、応神は法家の流れであるが、ニギハヤヒの奉ずる龍神の異文化に対抗することができなかった。応神は祭祀性がなかっただけに、龍神の祟り には恐れおののく他なかったのだ。また、応神もこの神を奉じないと国が乱れることを知った。そこで、応神天皇は祭祀は聖域とせざるを得なかった。今日ま で、多くの猿田彦系の神社が継承されてきた大きな理由であろう。 紀伊は古くは徐福が王となった噂のある地である。徐福伝説(四章)が伝説でなく、史実として解れてくる可能性がある。 聖王であるニギハヤヒを塩土翁に変名し、あたかもニニギの臣下にしたのだろう。 高麗神社の獅子 ■朝鮮式山城が築かれた背景 博多には「都府楼跡」 が残されている。それと同様に敗戦国の高句麗には平城都督府、百済には熊津(こむなる)都督府がそれぞれ置かれている。都督府は日本だけに設置されたので
はない。都督府は中国の郡(地方)に設置されていたいわば地方管理機関であった。そして、支配国を管理する行政機関も都督府といったのである。「都督府」
とは唐の行政名称であったことを踏まえておこう。 都 督府とは中国の対外支配体制の中央府で、都督の下に評督が任命される。評督は「評」を行政区画として管理した。これを日本では、評(こおり)制といった。
中国側は従前から倭王を都督として任命していたので、行政は713年まで「郡」という名称ではなく、「評」という名称に従っていた。つまり、「都督府」は
「中央」であり、評は「地方」である。ようするに、都督府が置かれたとき、博多が当時の日本の事実上の政庁(都)となった。郭務淙が来てから約30年間が
問題の期間である。唐の行政単位「評」(こおり)を改めたのは713年、このとき評のとき、一文字であった地名は二文字にあらためた。たとえば、群馬はこ
のとき始めて生まれた名前で、それ以前は車だった。評が全国的に実施されていた事実は藤原宮出土の木簡に記されていることによって証明されている。どうも
歴史は、日本がある期間であれ、唐の統治下にあったことは認めたくないということらしい。 663 年8月28日、白村江(はくすきのえ)で交戦後、新羅が668年に高句麗をも滅ぼし、統一新羅を建国する。生っ粋の百済派の天智天皇(てんじてんのう)
は、近江大津京では百済亡命人を多数官職につけた。が、弟の大海人皇子(おおあまおうじ)の壬申の乱(672年6月24日)が起きる。高句麗系氏族を越か
ら集合して、武力で天智天皇を倒したのだが、この二人は異母兄弟であるとされるも、祖霊は異なる。そもそも天皇をを外護するのは実母の氏だから。大海人皇
子(おおあまおうじ)は天武天皇となって始めたことは、まず宮廷内のしきたりを唐風に改めた。(古来より、天皇の御前ではひざまづいて両手をつけて出入り
していたが、これを中国風の立礼にした。) 大和朝廷が 再び西側全土に実権を取り戻すのは、701年大宝律令を発布、「評」を「郡」と改称した時点、持統天皇のつぎの文武天皇、大宝元年(701年)のことで
あった。これは中国に対して独立宣言をしたに等しい画期的なことである。また、702年6月、32年ぶりに粟田真人(あわたのまひと)を執節使とする遣唐
使が出発した。このとき、「倭」をやめて「日本」という国号を承認してもらう任務をもって出港している。このとき、百済人の山上憶良(やまのうえおくら)
も書記官として同行している。 ■書記の言語表記 不可
○卑弥呼は神功皇后だったという日本書記の成立したころからある古い説
さて、神功皇后とぴったりと年代が一致する{仲哀天皇}と{応神天皇}の空白の35年間に着目してみよう。このとき{神功皇后}が事実上の倭王であった。日本書紀は「魏志に伝く・・・」として、魏志という史書を意識している。中国に貢ぎをしている実年が中国の文献にあることを知っていたので、あえて巻第九に
は「魏志に伝く・・・・」として、次のように紹介している。「東晋の武帝泰初二年(266年即位)に、倭の女王、通訳を同行させて貢献せしむ・・・と伝
う」と、神宮皇后記に補筆して中国の年号をあえて載せている。「魏志にもこうかいてありますよ」といっているのである。 仲哀天皇}は「わたしはこれから*熊襲を撃とうと思う。オキナガタラシヒメよ。これから、わたしが琴を弾いて神を招きよせる。いまより神がかりして託宣せよ。」と述べられた。オキナガタラシヒメは神がかって、*住吉大社の三神が憑いて神の言葉を語りだす。このとき審神者(さにわ)として立ち会っていたのは*中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)。 琴を弾いて神を降ろす「弾琴巫術」(だんきん-ふじゅつ)は、日本に始まったのではなく、古代中国から渡来した。この「神降ろしの巫術」は源流は紀元前 4000年のメソポタミアにすでにあった。神功皇后は日女神といわれるシャーマンであった。降りる活霊は住吉の三柱の神と書かれる ○蛇と神功皇后 オキナガタラシヒメは神がかりして託宣をする巫女(みこ)でもあった。神功皇后の卑を僭称とすれば、弥呼(みこ)は巫女(みこ)に等しい。(古事記)これは神功皇后が霊媒力が強く、「鬼道につかえ、衆を惑わす」(魏志)に一致する。神功皇后は{仲哀天皇の后}で九州筑紫にいたことはこうして古事記から裏付けられる。{仲哀天皇}が崩御されると、斎宮(いはいのみや)を造り、自ら神主(かんぬし)になった。(記紀) 神功皇后が託宣を修する巫女であったことは、神宮皇后=オキナガタラシヒメに見事にオーバーラップしてくる。ところで、神功皇后に憑いて、託宣した神とはいったいどんな神だったのだろうか? ○神功皇后の意味は「蛇女神」だった! インドには古代広汎な蛇神崇拝があった。その神名は「ナーガ」Nagaで、男性、「ナーギィ」は女性の蛇で、龍神と言われるが神体はコブラである。古代の 日本では、ナガ、ナギ・ナダ・ニギになまっている。オキナガタラシヒメノミコトの御名には、インドの神名「ナーガ」が含まれている。オキ・ナガ・タラシ。 異腹の兄弟の弟「忍熊皇子(おしくまのみこ)であるナガスネヒコは、ナガ・スネで、ともに、「ナガ」が組み込まれている。「ナーガ」とはインドの蛇神名で ある。蛇身人首の蛇女神は中国では女媧、古代エジプトではイシス神、古代メソポタミアではウヌグ.キ神、さらに、古代ミノアにも存在した。蛇を象徴する女 神は古代では普遍的に見られる。 *「へび」は、和製インド語。南インドでは、Pavu、Pabiと言う。パヴ、パビが、沖縄ではファミ・ファプになり、ハミ・ハプになった。与論島ではパ ブである。ハミは、毒蛇のこと。PがFに、さらに時代を追って、Hに変化する明瞭な例。縄文語には、インド語やラオ語と同じ語源である単語が多数あったの ではないだろうか。「カカ」、「ハハ」、「ヌカ」は日本古語、常陸風土記に登場する羽はヌカヒコ、夜ごと通って一子を儲けるが、小さなヘビである。奄美の 伝承にあるマッタプ(赤又蛇 )は、美男子に化けて人間の娘を孕ませる。このプはハプ(首里方言)のプである。 *大蛇は「羽羽」、奄美では水神(竜神)は「ミヌマ」 大蛇「羽羽」は、日本古代では「ぱぱ」と発音されていた。中古代では「ふぁふぁ」に変化している。ところで、ニギ・ハヤヒには「ナーギィ」が変化した 「ニギ」が見える。「ニギ」はインドのナーギ(へび)の音からきている。日本の初期大和王朝は、完璧に「龍族」であった。古代日本は「龍崇拝国」で、これ は中国が「ロンの国」と言われるのと共通している。龍神は夏王朝のトーテムであり、蛇と同一である。夏王朝を開いたのは禹帝である。現在の河南省、洛陽一体に宮所があった。史記には「夏本紀」にあるが、BC2000年の頃と推定される。 卑弥呼がビミファと発音されたというのはNHKの歴史発見で放送されたという。「ビミ」「ベミ」とは古代朝鮮語で、「日」、「光」、そして、「蛇」の意味 があるという。「ミファ」は神という意味。すると、卑弥呼は、「日神」または「蛇神」という意味となるある。これは、朝鮮語と中国語のピジン語となる。こ の当時の異名同神を探ると、日本語、中国語、朝鮮語、女真語、インド語、インドネシア語、*マレー語などの複雑な組み合わせがあって、どうも日本語は大ア ジアピジン語の様相をもっている。邪馬壹国にすでに魏と深い関りをもっていたことは、すでに漢字を直接読めたか、そうとうな通訳がいたといえる。漢字を まったく知らずに鬼道をおこなえるわけがないからだ。 *マレー語 ヒミコの次に倭王にたったトヨも蛇姫の意味を持つ。 トヨの別名の神名、ウカノミタマはウカがマレー語の蛇の意味をもつウラであるという説(吉野裕子)がある。ウラがウカに転じているというのである。トヨも また巫女であり、神懸かりした。したがって、ヒミコと同じタイプの蛇女神であるこ可能性が高い。ウカノミタマは倉稲魂と書き、稲荷神社の祭神である。ま た、伊勢の皇大神社の豊受大神に比定される。 *住 吉大社の三神 福岡県博多区住吉 延喜式神名帳にある古社。祭神は底筒男神・中筒男神・表筒男神の三海蛇神。「ツツ」は雷神=水蛇の古音。神宮皇后の韓派兵のときに出現したとある神。表筒 男(うわつつのお)・中筒男(なかつつお)・底筒男(そこつつお)は、海蛇神である。 * この三神は、はじめ安曇族によって奉斎されていた。筒男(つつのお)は阿曇族が祭祀していたときの初期の名で、綿津見は天尊属が海上安全の守護神とし て奉斎してから後に付けられた神名。(表筒男・中筒男・底筒男)は、(上津綿津・・中津綿津見・底津綿津見)と、全く同一神格である。目の縁に入墨をして いたのが阿曇目(あずみめ)と呼ばれていた。出雲の佐田神社(さだじんじゃ)でいつき奉龍陀はセグロウウミヘビ。出雲の古社、杵築神社(さつき)、日御碕 神社、美保神社など、すべて海蛇を神とし、「竜蛇さま」と呼んでいる。 「うわつつのお」は、「うわ・つつ・のお」が正しい音節で、「のお」は、之男(のお)に等しい。つまり、須佐之男(すさ・のお)(のお)が、それにあた る。さて、本居宣長は、建御雷之男(たてみか・づちのお)の「づち」は、「つつ」と同義であるとする。「つつのお」は、「都知(つち)」に等しく、意味は 「都」は「の」と同じで、「知」は男の尊称であるとする。 さて、金星を「ゆうづつ」と言っていた。そこで、「つつ」が星の意であることから、住吉大社の三神はオリオン星座の三つ星のことだと、現在では流布されている。しかし、「海運を守る住吉の三神は天空に輝くオリオンの三つ星」とは捏造である。 *神奈備 (かんなび) 「かん」は神、「なび」はインドのナーギ(へび)の音からきている。かんなびの意味は神蛇となる。蒲焼きのうなぎの古語はむなぎ、「なぎ」はインドのナー ギ(蛇の語彙)の音がぴったり。うなぎの祖語はインド古代語。あなごの「なご」も海蛇を意味している。出雲で信仰の対象になった特別の山を神奈備山(かん なび)といったが、出雲風土記には「茶臼山」「朝日山」「大船山」「仏経山」の四つの山の名前が記されている。 *中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)。近江の比売オキナガタラシヒメ(卑弥呼)に仕える隼人の久米部の軍事的首長であった。新羅征討に従軍し、大功 あって後に*雷命(いかつちのみこと)として祀られたと言われる。(雷命神社・対馬下県巌原阿連)中臣の文字があるので、藤原の祖であるとも言われる。対 馬・壱岐の卜部が藤原鎌足の出自だという。 *雷神(いかづち)は水神系の蛇神(龍神・雷神)である。ミホトを焼いてカグツチ産んだあと神去り、イサナミが黄泉で八の雷神(やくさのいかづち)におお われている醜い姿をイザナギが見てしまった。ミホトを焼いて産んだカグツチの首を斬ったとき飛び散った血から生まれた八柱の神々もそれら蛇神である。カグ ツチ・イカツチ・雷神も蛇神であることはいうまでもない。「八龍大明神。神躰無之。榧(かや)の木を祭来る也」対馬神社史。鹿島神宮、春日大社のタケミカ ヅチノミコトとは雷神であった。 ○もう一人の主役、事代主命 仲哀天皇の死後は、武内宿禰(たけうちすくね)が琴を弾き、中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者(ト部(うらべ))となる。この弾琴巫術のトリオは、みな蛇の刻印を見て取れる。 かつ出雲の主流・武内宿禰が蛇とどう結び付くのだろうか。石上神宮の大本の神は、武内宿禰(猿田彦=天狗)ということになっている。「猿田彦」は容貌魁 偉で「鼻長七咫(ななあた)、身長七尺(ななさか)余り。当(まさ)に七尋(ななひろ)といふべし。・・」とされる天狗である。そして、「口尻(くちわ き)明(あか)り耀(かがやけ)れり。目は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、絶然(てりかがやくこと)赤酸醤(アカカガチ)に似たり」(紀)カガチと は、恐ろしい赤い蛇のこと。アカカガチは「ほおずき」の意味。大蛇の目を連想させる。また、猿田彦は「アメノヤチマタ」に居たと書紀は書く。アメ ノ・・・・どうやら天狗=武内宿禰もヤチマタと呼ばれていた外国からやってきた。武内宿祢=猿田彦であることから、龍神・雷神であり、猿とは全く関係がな い。また、琉球語のサダル=案内するから来たという説があるが、ニニギを先導したという記紀のこの行(くだり)は事実ではないので、この説は空説である。 春日大社の第一殿、武甕槌命(タケミカヅチノカミ)鹿島神宮から招き寄せられた。第二殿は、経津主神(フツヌシノカミ)は霊剣の神格であり香取神宮と共 通する。この神は物部氏(もののべうじ)の奉じた神宝剣である。第三殿の牧岡神、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)はタケミカヅチノカミの神話上で比定 される神格である。 武内宿禰は猿田彦に比定され、その妻は元祖踊り子、天宇受売命(アメノウズメノミコト)。第三殿、牧岡神は天児屋根命の妻、天美津玉照比売命(あまみつ たまてるひめのみこと)。それと同一神格が、やっぱり天宇受売命(アメノウズメノミコト)だ。やはり、タケミカヅチノカミ=武内宿禰であった。 カヅチが蛇ノ古語であったことを思い出してほしい。タケ・ミ・カヅチ、ここにもカズチ=蛇の古語が隠れている。 そこで、藤原一族が支えた大本の神も武甕槌命(タケミカズチノミコト)であると言われる。中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)に比定される。武内宿 禰とともに雷神である。春日大社は中臣鎌足が殺した蘇我入鹿(いるか)の祟り(たたり)を鎮めるために創建したという説には信憑性がない。藤原の姓は天智 天皇に賜ったと伝われる。中臣も中臣連の官職名だが、祭儀を担う重鎮であり、藤原鎌足の祖はタケミカヅチであろうことは、疑う必要がなりだろう。 春日大社の最後の第四殿の比売神(ヒメガミ)は、誰なのだろうか? 比売神(ヒメガミ)には、何々の比売という固有名がなく、平安初期の法制書、「延喜式」にも単に「比売神」と書かれた謎めいた神名である。平安後期から、 天照大神だという信仰が広まったと言われている。これを紐解くと、宇佐八幡神宮の第二殿の祭神「比売大神」である。当時、神といわれる巫女は、神功皇后に独 占されるので、疑いなく神功皇后のことだろう。藤原不比良の祖は、豊前国(大分県)神津郡中臣郷に本願地があったのではないかともされる。こちらは宗像三 神、おきつしまひめ、いちきしまひめ、たぎつひめの宗像が尊崇した朝鮮渡来の三美人神を指す。 ○猿田彦命は天狗面 「猿田比古」は、天津神を先導した功労者とされるが、神功皇后の弾琴巫術を助けていた、あの武内宿禰(たけうちすくね)だったことの意味は大きい。 仲哀天皇が崩じた四ヶ月あと、中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者(さにわ)をし、武内宿禰(たけうちすくね)が琴を弾いた。神功皇后は、仲 哀天皇を指導していた神は誰ぞと、七日七夜待ちつづけて答えを得る。名前がでたのは、伊勢の度会(わたらい)氏が祀る五十鈴宮の神、尾田の吾田節の淡郡 (あわじ)に居る神、そして厳事代主命(いつのことしろぬし)であった。(最後に住吉の三柱の神)。ところで、崇仁天皇から仲哀天皇までは、創作上の天皇 名であることはすでに第一章で紹介した。 事代主(ことしろぬし)=ウマシマジは、素戔嗚の孫、猿田彦の子で由緒正しい後継者だったが、国譲りをあっさりと承諾した最後のオオミワ王朝の男王であ る。ニギハヤヒの子。では、この人物は蛭子。この神は西宮神社(にしのみや)で祀られる恵比寿様である。大漁満足・海上安全・商売繁昌の神「えべっさん」 として人気がある。全国に3500あるというえびす神社の「えびす宮総本社」として有名である。 西宮神社の御祭神: 第一殿 西宮大神(えびすさま)第二殿 天照大神 大国主大神 第三殿 須佐之男大神 「大国主(ニギハヤヒ)が、いまは政治はすべて息子の事代主命にまかせている。わたしの一存では決めかねるので、事代主命に相談してみるがよい。」と 言ったので、タケミカヅチの交渉の矛先は事代主命に向った。美保の岬(島根県美保ケ崎の美保神社)で魚釣りをしていた事代主命は、「この国土は天津神の子 に奉げることにしよう。」と言って、さっさと引退して、その後は大好きな漁を楽しんで暮らした。事代主は、あの恵比須様となって古来漁師からあがめられて きた。釣竿を持ち鯛(たい)を抱えた七福神のえびす様は、福の神である。 事代主神は先を見抜き、話の分かる神とされている。記紀では国譲りを容易にした功労者であった。邇芸速日命の子、宇摩志麻治命(うましまじ)、この宇摩 志麻治命が事代主命。いくつもの固有名が同一として連なったことになった。宇摩志麻治命が帰順したが、邇芸速日命が娶った姫の父、長脛彦は、天津神がふた つもあろうはずはない。あとから来た天津神はいんちきであろうと、天尊ニニギに最後まで抵抗した。 ○邪馬壹国は邪馬壹国のこと。「ヤマト=倭」ではなかった。 ○三角縁神獣鏡の真相 箸墓(はしはか) |