斉は倭人と白人の混血種 前十一世紀、太公望呂尚によって山東省に建国された斉は,15代をえて、前7世紀,桓公のとき,名宰相管仲を用いて,国力を強め天下に覇をとなえた。しかし、桓公の死後,その勢力は急速に衰え,一時,これまた名宰相のほまれ高い晏子を用いて国威を盛り返すかに見えたが、やがて,臣下の田氏が権力をもっぱらにし、ついに斉王の地位を乗っ取るにいたった。田氏の斉,つまり田斉となってからは,文化が栄え,威王、宣王の代には学問のメッカ、百家争鳴の中心地となった。国都臨?(りんし)は戸数7万、街のにぎわいは『肩と肩がふれあう』(史記より)ほどだったという。しかし、その後、燕との戦いで大敗北をしてからは次第に衰え、前221年、秦に滅ぼされる。 太公望呂尚は実在した人物であり(師尚父とも呼ばれている)、紀元前11世紀に後に周王朝を建国した文王とその息子武王の軍師となった。(その王朝西周は1122-771BC続いた)長い年月の間に太公望に関しては多くの伝説が生まれた。その物語はいろいろな書物に残された。 太公望呂尚は斉(現山東省)の領主になり、彼の統治の下、魚や塩資源をベースとした国土開発と近隣との交易で繁栄した。これぞ、倭人の特技と言えよう。 山東省博物館の考古学及び中国古生物分子遺伝学研究所は、山東省の新石器時代におけるブンコウ文化時代の遺跡・春秋時代の山東省古墳群にあった古代人の遺骨中から採取した遺伝子標本に対する鑑定の結果、次のように表明した。 儒教の発祥地である山東地域に、新石器時代から春秋戦国末期に至るまでの間、土着していた人類の特徴は、明らかにコーカサス人(白人)である。 ここから推して知るべしだが、儒教の創始者である孔子も疑うことなくコーカサス人としての性質が混じっていたというべきである。 それから隋唐の時期に至るまで、山東の土着民の特徴は、コーカサスとモンゴロイドの混合系(現在の新疆人のような白人と黄色人種の混合系)へと変化していった。 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の中国山東省の遺跡から出土した人骨の比較研究の結果を発表した。 約2500年前の春秋戦国時代の山東省住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と非常に近く、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。 太公望呂尚は倭人とコーカサス(白人)の混血人の可能性もある。このモンゴロイドは倭人であったと思われる。 その根拠は倭人が古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。(魏氏倭人伝)この官職は周代のもので、魏はなぜ、斉より古い官職名をいまだにそのまま使っていることに驚いた。日本は移民国家である。殷・周の制度・生活習慣を持ち込んだのだのは斉にいた倭人が多数避難してきた。倭国は巫女君がいなければまとまらないのだ。殷は国家のことはすべて卜占によって執行されていたのだ。倭国の最大の功労者は斉の徐福、つぎに斉という倭人国家を造った作った太公望呂尚、次に卑弥呼だったと信じられる。 女性だけに遺伝するミトコンドリアDNAは、何千年たとうとも同一の母から出生したことを証明できるが、コーカサスの女性と日本人の女性が同一のミトコンドリアDNAであったことが<医学>的に証明されたことがある。日本人のなかには、白人種との混血民が多い。人種と民族の平面は同一ではない。この平面は重なり合っているが、日本人を人種としては多様であったということを踏まえなければならないだろう。 |
『三語集』における太公望の話 漢の国に伝わっている話で、冀州(きしゅう)の大公房(太公望)、姓は姜で名は子牙である。 質朴で正直な人で、学問を好む人である。 殷の末に、世が乱れて、暮らしを立てるためのてだてがなかなかかなわない。市にキノコを売ろうとするときに、大きな风が吹く天候に遇った。牛を屠り、生計に当たろうとすると、非常に熱い天気に遭った。米を煮た汁を売ろうとするときに天候が寒くて売れなかった。ご飯を売ろうとしたら、豊年で売れなかった。運が悪くて、常に、出世できなかった。その妻である高氏はついに子牙のところを去って行った。西方にある周という国に、ある聖人(文王)は(子牙が)磻溪谷に至って釣りをすること聞いた。 文王が子牙を見て聞いた。「なぜまっすぐなハリを使って、魚を釣っているのでしょうか」と。(子牙が)「命令にそむく魚を釣っているのです。」と言った。「あなたには子供がいないでしょうか」と文王が聞いた。「紂が今は王である」と文王が言った。「紂は道徳にそむく王である」と子牙が答えた。文王は(子牙が)賢人だと心得て、同じ馬車に乗っていっしょに岐洲に帰った。 桓旦公に封じ、後で(子牙が)太公となった。文王が死んで、武王が立った頃、軍隊を率いて紂を伐ったとき、(子牙が)先鋒となった。又、斉候に封じられた。斉のところに一人の老婆が前の夫を泣いているのを見た。 「(あなたの)前夫は誰ですか」と子牙が聞いた。「前夫の名前は姜子牙です」と老婆が言った。「その人は私ですよ」と太公が言った。老婆が(それを聞き)「夫婦になるべきです」と喜んで言った。「あなたは一杯の水を持って来て」と公が言った。まもなく(老婆が)持ってきた。公は(水を)大地に傾け、老婆に水を取り戻させた。老婆が言った、「水が土に入って、元に戻すのが難しい」と。公が「一度恩愛囗囗囗囗この水のようだ」と言って、つづみを打ち鳴らして去っていった。その老婆が恨み恥ずかしくて死んだ。道端の行く人がそれを嫌って、上に土を積んで、ついに大きな丘になった。そのときの人が「無知な高氏老婆の塚である」と言った。 |
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。その俗、衣[巾責]を好み、下戸の郡に詣りて朝謁するは、皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を服するもの千有余人。部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれを撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。 |
檀君の妻神女 檀君タングンの妻神女シンニョは、王険城(平壌の南近く)西方の大同江に沿った非西岬(ピソカプ)地方の種族長河伯(河伯とは、元来、河を支配する水神の意である)の娘であった。神女は上品で容姿にもすぐれ、近隣の他種族にも広く知れ渡った娘であった。神女の噂は、平壌地方のパクタル族の酋長檀君の耳にも入り、やがては彼女のことが忘れられなくなった。 当時、毎年春ともなれば、大同江岸の原野では種族・氏族間の狩猟競技が盛大に催されていた。麒麟馬にまたがって競技に出場した檀君は、ここではじめて神女に出会った。飛び立つ雁のようなすらりとした姿態に、十五夜の月のように明るい顔立ち、恥ずかしげに自分を見つめる濡れた瞳、何かをささやくかのような小さな口元。見るほどに心を引かれる娘であった。競技で優勝した檀君を祝って喜ぶ神女。二人の視線がぶつかってからは、月影の下で愛をささやくまでになった。 恋心が深まるにつれて、神女には一つの心配事が頭をもたげた。当時パクタル族連合体の勢力はいよいよ拡大して、近隣の氏族や種族を次つぎに統合していた。非西岬種族ももちろんその対象であった。神女は檀君の意図を知り、恋人の決心を強く支持 しながらも、父親が自分たちの結婚を許さないのではなかろうかと恐れた。 檀君は、愛する神女の父親の配下にある非西岬種族を何とか平和裏に統合できないものかと考え、礼節が正しく弁舌巧みな部下朱因チュインを非西岬の族長河伯のもとへ送った。 朱因は河伯に檀君の挨拶を伝え、多くの青銅製琵琶型短剣や金銀の装身具を贈ったうえで、両種族間の連合の必要性を説き、檀君と神女の婚姻問題にも触れた。高価な贈り物を差し出し、ねんごろに説き進む朱因の慎ましやかな態度に河伯は感嘆し、この一帯で最も権威がある種族連合体の酋長パクタルが娘の配偶者になると思うと悪い気がしなかった。 パクタル族と手を結べば、非西岬族は安泰であり、娘にもよいと考えたからである。河伯は娘の婚姻に同意し、その秋、豊年を迎えた両種族は、檀君と神女の結婚式を盛大に挙げた。 檀君の妻となった神女は、周辺種族との連合を拡大する檀君の活動を物心両面から助けて建国の大業に大きく寄与したばかりか、息子の夫婁プル、夫蘇プソ、夫虞プウ、夫余プヨの4 人を生んで立派に育て、檀君の代をしっかりと継ぐようにした。長子の夫婁は、国家の全般的管理と事務を統括する虎加の官職について活動し、檀君の死後古朝鮮の第2 代王となった。次男夫蘇は鷹加(刑罰担当長官)、3 男夫虞は鷺加(保健担当長官)、4 男夫余は狗加(地方担当長官)の官職をもって檀君の活動を補佐した。 『1993 年、平壌市江東カンドン郡にあった檀君陵では、檀君夫妻の遺骨が発掘調査された。遺骨は石灰岩地帯の湿気と地下水の影響を受けて、かなりに化石化した68 個の骨からなっていたが、主に男女の腕、脚の骨と骨盤であった。男の骨は檀君のものであり、女のそれは妻神女のものであった。骨を鑑定した結果、檀君は背丈の高い立派な体格の人物であり、まれに見る長寿者であったことが判明した。一方、檀君の妻はかなり若い年であったとわかった。このことから檀君は実在した人物であり、檀君の人生の伴侶神女の存在も確認されたのである。』 朝鮮民主主義人民共和国の民族文化遺産保存政策によって、1994 年に作り直された檀君陵(高さ22m、底面の1 辺の長さ50m)には、檀君とその妻神女の遺骨が原状通りに保存されている。 このように神女は、朝鮮民族の始祖檀君の妻として檀君陵と共に後世に長く伝えられることになった。 |
東明王の母親柳花 柳花リュファは、朝鮮チョソン史上最も強大な国であった最初の封建国家―高句麗コグリョ(前277~668)の建国者高朱蒙コジュモン(東明トンミョン王)の母親である。 彼女は前4 世紀末、河伯ハベク(水神)の長女として生まれた。『旧三国史』は柳花の娘時代を次のように記している。 河伯には3 人の娘がいた。長女柳花、次女原花ウォンファ、女葦花イファは、いずれも美貌の持ち主であった。当時、龍車に乗って熊心ウンシム山に降りた天神の子解慕漱 ヘモスは、扶余の故地に国を建て、午前中は政事を処理し、夕刻には天上の宮殿に昇って行くので、人々は彼を「天の国の王」と呼んだ。 ある日、3 人の美しい娘が熊心池のほとりにやって来て遊んでいるのを見た解慕漱は、あのうちの一人を后にすることができれば、多くの孫子に恵まれるだろうと側近にもらした。すると側近の一人が、本当にそのおつもりなら池のほとりに宮殿を建て、娘たちが中に入るのを見はからって、内々に会えばどうでしょうか、と進言した。 解慕漱はそれはいい考えだとして、手にしていた鞭で池の近くに縦横いくつかの線を引いた。すると、たちまちのうちに立派な宮殿が出来上がった。宮殿を見て中に入った3 人の娘は、酒を酌み交わしながら嬉々と遊びたわむれた。彼女らがほどよく酔ったのを見計らって、解慕漱は部屋の中へ入った。娘たちは驚いて逃げ出したが、長女の柳花は解慕漱につかまってしまった。 二人の娘から訳を聞いて憤慨した河伯はただちに解慕漱に会い、無礼をなじった。解慕漱は自分の非を認めて柳花を送り帰そうとした。ところが、解慕漱に夢中になってしまった柳花は家へ帰りたくないと言い張り、父親に結婚の承諾を求めるようねだった。 そこで解慕漱は柳花と連れ立って河伯を訪れた。河伯は解慕漱が天神の子であることを知ると、喜んで二人の結婚に同意した。結婚式の日、解慕漱が娘を捨てて天上に去ってしまうかも知れないと危ぶんだ河伯は、大洒を飲ませて婿を酔いつぶすと、革袋の中に娘と一緒に入れ、五龍車に載せた。しばらくたって酔いから醒めた解慕漱は、自分が革袋に閉じ込められていると知り、柳花の髪からかんざしを抜き、袋に穴を開けて外へ抜け出た。彼は河伯の仕打ちに激昂し、柳花を打っちゃったまま、独り天上に昇ってしまった。 そのことを知った河伯は、家名を汚し、父親を苦しめる子だとして、娘を優渤水ウバルスの流域の地に流してしまった。ある日、扶余プヨの金蛙クムワ王が優渤水の川辺で猟をしていたとき、妙な女を目にした。その姿や振る舞いからして、当地の住人とはとても思えなかったので、身の上を尋ねてみると、彼女は目に涙を浮かべて、自分はこの地に流されて来た女だと、その一部始終を語った。柳花は金蛙王のはからいで、扶余の首都の離宮に優遇されて住むようになり、前298年陰暦4 月初めに解慕漱の子を生んだ。この子がほかならぬ高句麗の建国者高朱蒙である。 柳花が高朱蒙を生み育てた話は、『三国史記』(巻13、高句麗本紀 東明聖王条)に詳しく記されている。柳花は扶余の王宮でまじめに働きながら、一人息子の朱蒙を立派に育てるために苦労した。彼女は朱蒙が父親に似て才気が煥発であることを喜び、幼い頃から読み書きを教え、成長するにつれて多くの本とりわけ兵書に親しむようはかった。また、扶余や周辺諸小国の状況などもいろいろと話して聞かせてわが子の大志をはぐくむ一方、武術の練磨に励み、剛直な品格を備えるようつねに気を配った。朱蒙は、早くも七つの年に馬術、弓術、槍術、剣術などに長じ、他者の追随を許さないほどになった。扶余では毎年狩猟競技が盛大に行われたが、朱蒙はここでいつも優勝した。柳花は朱蒙のたくましい成長を喜び、将来に大きな期待をかけた。 そんなある日、朱蒙は不運に見舞われた。金蛙王には7 人の息子がいたがいずれも凡庸で、それだけに朱蒙の武術と才能をねたみ、父王にざん言して彼を亡き者にしようと計った。しかし金蛙王はいろいろと考えた末、朱蒙に王宮の馬丁を申し付けたのである。朱蒙は母親と相談し、将来に備えて優良種の馬には飼い葉を少なく与えて痩せるようにし、劣等種の馬は腹一杯食べて肥えるようにさせた。結局金蛙王と王子たちは肉づきのよい馬に乗り、朱蒙は痩せてはいるが駿馬をおのがものとすることができた。母親の深い配慮と期待のもとに、武術に励み体力を鍛えていった朱蒙はいつしか20歳になった。 当時(前3 世紀初め)は、古朝鮮コチョソン(後朝鮮)、句麗クリョ、辰チン国のような大奴隷所有者国家の支配体制が漸次衰え、その隙を狙った一部の勢力が各地に割拠した頃であった。 そのような状況に、朱蒙と母親は誰よりも心を痛めた。朱蒙は扶余を去り、父母の郷里である鴨緑江の中流地方へ行って大事を計ろうと考えながらも、母親を扶余王の離宮に残していくのが心がかりで、独り悶々とした。 ある日、朱蒙はとうとう自分の心情を母親に打ち明けた。「わたしは天子の血を引く身ですのに他人の馬丁を勤めているのですから、果たして生きている甲斐がありましょうか。それで、南方の地に移り、新しい国を興そうと思いますが、母上のことが心配で決心をつけかねています」 息子の意向を聞いた柳花は、さすがに志の高い解慕漱の子だと喜び、早速朱蒙を助けて扶余脱出の準備を整えることにした。柳花はわが子に言った。「お前が遠くへ旅立つためには、最良の駿馬がなければならないだろうけど、それはわたしが用意します。お前は志を共にする盟友をしっかり選ぶことに心がけるのですよ」 彼女は朱蒙と一緒に養馬場へ行き、そこでこれと思われる何頭かの馬に力一杯鞭を加え、驚いて2 丈もの柵を飛び越えた、特にすぐれた駿馬を選んで朱蒙に見せ、立派に飼育するようにと言った。 朱蒙には幼い頃から弓術や馬術の練習時に交わった友人が多かったので、彼らと語らって武術にいっそう励み、読書にも力を入れて知識を広めていった。そうしたなかで、友人たちはどんな任務も十分に果たせるほどの勇士に育ち、朱蒙をおし戴いて生死を共にすることを誓うほどになった。 他方、朱蒙をねたみ亡き者にしようとする扶余王子たちの奸計は続き、ついに金蛙王も朱蒙を殺そうと決心した。陰謀に気づいた柳花は、朱蒙に言った。「いっときも早く身を避けなければなりません。帯素テソ(金蛙王の長子)がお前を殺そうとしているから、ここでまごまごしていてはいけません。お前はこの先どこへ行っても男らしく生きるのだよ」 話し終えた母親の表情はきっとしていた。 朱蒙は母親と別れるのは死ぬほどつらかったが、手を振って見送ってくれるその姿に気を取り直し、友の烏伊オイ、摩離マリ、陜父ヒョッポと連れ立って旅立った。離別の悲しみで柳花は頬を涙で濡らしたが、わが子の将来に希望を抱き、遠ざかる朱蒙に向かっていつまでも手を振った。これは朱蒙と母親柳花の永遠の別れとなった。 南方の地句麗クリョに至った朱蒙はここで勢力を拡大し、前277 年、句麗に代わる朝鮮最初の高句麗を立ち上げた。 後日、朱蒙が高句麗国を建て広く名を知られるようになったことを伝え聞いた柳花は、わが子の健康と高句麗がさらに強大になることを祈りながら生涯を終えた。 このように柳花は、ありとあらゆる危険や苦痛に打ち勝ち、高朱蒙を無敵の将軍、高句麗の建国者に育成することで大きな功労のあった女性であった。 出典:歴史に名を残した朝鮮の女性たち 朝鮮・平壌 外国文出版社 チュチェ100(2011)年 |
『後漢書』高句麗伝
二十七年秋九月、漢光武帝遣兵渡海、伐樂浪、取其地、爲郡縣。薩水已南屬漢。冬十月、王薨。葬於大獸村原、號爲大武神王。 |
西暦30年、楽浪郡の豪族王調が反旗を掲げ、半年以上も楽浪郡を占領した。この楽浪郡の王氏は遼東の名門となり、後に北魏の政治基盤を築いた文明皇后の実家にあたる。 この反乱を契機に後漢は植民地政策を変更し、郡に所属する都尉を廃止し、各民族の長師や渠帥を県候に任じて、不耐濊・華麗・沃沮などを候国として自治権を認めた。冊封制に戻したことになる。
『三国史記』 高句麗本紀第二 大武神王15年夏四月:
「王子の好童が沃沮に行った。楽浪王の崔理も(沃沮)に行き、そこで彼に会った。(楽浪王は彼に)あなたの顔を見ると普通の人には思えません。北国の神王(無恤)の子ではありませんか?と尋ね、一緒に帰国し、娘を彼に娶せた。その後、好童が国に還り、ひそかに人を派遣して崔氏の娘に次のように伝えた。もし国の武器庫に潜入して、太鼓を割き、角笛を壊すことができれば、私は(あなたを)正式な儀礼でもって迎える。もしそうでなければ、(私の妻)としない。昔、楽浪国に軍令を伝える太鼓と角笛があった。もし敵が迫ってくると(この太鼓や角笛は)自然に鳴り出した。それゆえに(好童は)これらを破壊させた。
そこで崔氏の娘は良く切れる刀をもって武器庫の中に潜入し、太鼓の面や角笛の口を破壊し、そのことを好童に報告した。(そこで)好童は父王に楽浪国を襲撃するように勧めた。(楽浪国の崔氏は)太鼓や角笛が鳴らないので軍備を整えなかった。高句麗軍は突然楽浪の城下に迫った。そこで崔氏ははじめて太鼓や角笛がみな壊されていることを知り、娘を殺し、城を出て、降伏した。冬十一月好童が自殺した。好童は王の次妃で曷思王の孫女から生まれた。その容貌が美しかったので、王は彼を非常に愛し、そのため好童と名づけた。王妃は(わが子をさしおいて好童が嫡子(元子)の地位を奪い取り太子になるのを恐れて、王に、好童は私にたいする礼節を守りません。きっと乱をおこそうと思っているに違いありません。と、讒言した。王は他人の子だからそれほどひとく憎むのか。と答えた。(自分の主張を)信用しないのを知り、禍が(わが身)に及ぶのではないかと思って涙を流し、どうか大王が密かにみていてください。もし私の言ったようなことがなければ私は自ら罪に服しましょう。と、いった。そこで、大王も疑うことができず、好童を処罰しようとした。ある人が好童にいうには、あなたはどうして自分から(王妃の讒言にたいして)釈明しようとしないのですか。好童がこれに答えて、私が釈明すれば、義母の悪を明らかにし、王に心配をかけることになる。これでは孝行といえるのだろうか。といって、好童は剣に伏して自殺した。」
十二月、王子の解優を太子とした。
二十年(37年大武神王が楽浪国を襲撃し、これを滅ぼした。
『三国史記』 高句麗本紀・大武神王紀には、大武神王の王子好童(こうどう、ホドン)と楽浪王の姫との恋の話として今に知られている説話が挿入されている。これも楽浪国を滅ぼすための政略結婚である。というより、盗人に近い卑劣さであるが、騙される方が悪いというのだから、つける薬がない。周書 高句麗伝では「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。」と評している。手段は卑怯でも、勝てばいいんだということらしい。
『好童が楽浪国王の崔理の娘を妻とするに当たって、楽浪国の宝である角笛・太鼓(敵が寄せると自然と鳴るというもの)を壊すことを促した。娘がこれらを壊した事を聞いた後、好童は大武神王に今こそ楽浪国に攻め入る好機と勧め、王は楽浪国に攻め入った。宝器が鳴らなかったために軍備を怠った楽浪王は突然城下に迫った高句麗軍を見て驚き、宝器が壊されていることを知って娘を殺し、城を出て降伏した。』
楽浪公主(王女) 朝鮮の民族史には楽浪公主と呼ばれる女性が何人かいた。1 世紀初・中葉に生きた楽浪国の楽浪公主は、高句麗の南方進出と領土拡張活動を助けて生命を捧げた女性である。楽浪国は、前108 年の古朝鮮(満朝鮮)滅亡後、その遺民が平壌地方に建てた小国であった。 1 世紀初・中葉、楽浪小国の王崔理には才色兼備の娘がいた。崔理は自分の娘につり合うだけの若者が楽浪国内にいないことを嘆いていた。ある日、崔理は沃沮(オクチョ)地方を回遊中、偶然高句麗大武神王(在位18~44)の子好童(ホドン)王子に会った。 好童王子は傑出した人物であった。その非凡な武芸と闊達な人品に魅了された崔理は、王子を楽浪国に招待した。楽浪国に大きな関心を抱いていた王子は、断わりきれぬという風をよそおって招待に応じた。当時、楽浪国は西方は朝鮮西海と接し、東北方は咸鏡ハムギョン道の狼林ランリム山一帯に伸びていた。高句麗は古朝鮮の故地の統合をめざして南方進出を進めていた矢先であっただけに、古朝鮮の古都平壌を支配している楽浪国の存在を当面の障害とみなしていたのである。 楽浪王室は、連日、盛大な礼式と豪勢な祝宴をもって高句麗の王子を歓待した。器楽の演奏が続くなか、好童を案内して平壌の景勝を遊覧した崔理は、数日後、好童に向かって、この機会に高句麗国と楽浪国の友好と繁栄をはかり、両王室が姻戚関係を結んではいかがだろうかと持ちかけた。好童が返答に困っている様子を見た崔理は、機会を逃がしてはと、すぐさま娘の楽浪公主を呼んだ。 崔理に挨拶する公主を一目見て、好童王子はわれを忘れた。理知的な黒い瞳、ほんのりと赤みを帯びた頬、なめらかな白い肌、すんなりと均整の取れた身体。楽浪公主は全くのすばらしい美人であった。崔理は好童王子の表情の変化を観察しながら、娘を紹介した。 「わしの一人娘だ」 楽浪公主は好童王子をうわ目でちらっと見て会釈した。崔理王の娘がたぐいまれな美女だという噂は聞いていたが、そのあまりの美しさに息をのみ、好童の胸は高鳴った。 挨拶を交わした二人は、父王に遠慮する風もなく、やさしいまなざしを向け合い、ほほえみながら秀麗な山水や狩猟などについて夢中に話を進めた。楽浪公主は興味深そうにうなずきながら、好童王子の話に耳を傾けた。二人は急速に親しみを増していった。草原に共に馬を駆りもすれば、大同江畔の小高い、野花にいろどられた丘を散策もした。しかし二人は、単に愛をささやいてばかりいたのではなかった。 好童は、楽浪国が世の大勢に背いて外部勢力(漢)と手を結び、同族間の争いを事として人民に苦痛を与えているとして、今後は高句麗と同様、同族間の協和をはかり、団結を果たさなければならない、と熱心に説いた。幼少の頃から学問に励み、武芸の修練も積んで世に広く知られるようになっていた。 楽浪公主(王女)は、古今の有名な女性たちにあこがれながら自分も彼女たちのように生きたいとひそかに念じ、古朝鮮の滅亡後各地に割拠した諸小国の対立抗争に心を痛めてもいた。そんな矢先に好童王子に出会って、国土統一の大志を打ち明けられたのであるから、王子に尊敬の念を抱き、恋慕するまでになったのである。 数日後、楽浪宮では、諸王侯貴族の祝福を受けて二人の婚礼が盛大に挙げられた。 好童王子は当時の風俗に従い、いったん高句麗王宮へ帰り、1年後の吉日に公主を迎えに来ることにした。公主は夫を懐かしみ、高句麗の国土統合の日が一日も早からんことを願った。高句麗の首都国内城に帰った好童王子は、父王大武神王に、その間の出来事を話し、楽浪国に政治経済的に大きな影響を与えて早く味方に引き入れるべきだと進言した。 一方、楽浪国王崔理は、好童王子にまなむすめを任せてほっとしたものの、心中高句麗の勢力の増大に警戒心を高めて、戦備の強化に力を入れ、他族の漢と結んで高句麗を牽制し、ひいては高句麗を壊滅させようともくろんだ。彼は敵軍の襲来時には事前に自ずから音を立てる自鳴鼓角を配備して防備を一段と固めた。高句麗を中心とする国土の統一のみが全民族に真の幸福をもたらすと信じて疑わなかった楽浪公主は、思い余って父王をいさめた。 「お父様はどうして外部勢力を引き入れて同族の国を滅ぼそうとなさるのです。高句麗の強さを認めず、この取るに足らない楽浪国の勢力を過大視して世に君臨しようとしたところで、無駄なあがきにすぎません」 公主は父王に哀願もし説得も試みたが、無駄だった。楽浪公主は父王に背いても、夫の好童王子ひいては高句麗の国土統一偉業にわが身を捧げようと決心した。そうした矢先に、好童王子から楽浪国の武器庫に装備された自鳴鼓角を破壊してほしいというひそかな伝言を受けた。 楽浪公主は、ある日の深夜、白衣をまとって宮殿の庭に現われた。かぼそい手には悲壮な決意を象徴するかのように、青白く研ぎ澄まされた短剣が握られていた。 その同じ日の夜、崔理王は心の騒ぎで寝つかれずにいた。それまでこの父親に一度として逆らったことのないただ一人のまなむすめが、自分の行為に不満を抱き、意見したことが胸につかえていたのである。 そんな時、一人の臣下が慌ただしい足音を立てて駆け込んで来た。 「姫君が…姫君が自鳴鼓角を破壊されてしまいました。国の破滅を招く一大事です」 「なにっ、自鳴鼓角を……」 崔理王は驚いて現場へ駆けつけた。そこには失神した公主が倒れていた。崔理の罵声に正気を取り戻した公主は、父王の前にひざまずいた。 「お父様、お父様は時代の趨勢を見誤っておられます。民心は高句麗に傾いております。高句麗による国土の統合はもはや疑いの余地がありません。ですから、わが国も……」 公主の切々たる訴えに、崔理はくらくらと目まいがした。自分の前には高句麗の「まわし者」の姿があった。国王は剣をさっと引き抜くや、満身の力をこめて「まわし者」を袈裟がけに切り伏せた。 「まわし者」ならぬわが娘を切ったと知り、国王は気を失い、その場に倒れてしまった。丁度そこへ10 余名の兵を引き連れた好童王子が武器庫に現われた。好童は血にまみれて倒れている愛する妻の体に全身を投げかけた。やがて国王は正気に戻ったが、公主はついに帰らぬ人となった。 崔理王にはもはや何も残されていなかった。愛してやまなかった公主は死に、王位を譲り渡すべき者もいない。楽浪国の存在は自分の死と共に無に帰するほかないのである。崔理は今になって自分の愚かさを悟った。紀元32 年、楽浪国王崔理は高句麗に帰順した。 このように楽浪公主は高句麗王の嫁、高句麗王子の妻でありながらも、一度として高句麗の地を踏むことなく、高句麗の国土統合偉業に大きな貢献をなしたのである。 出典:歴史に名を残した朝鮮の女性たち 朝鮮・平壌 外国文出版社 チュチェ100(2011)年 |
*『三国史記』高句麗本紀 大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。在位18年-44年
左中弁正五位上兼木工頭百濟王仁貞。『百済仁貞 (くだらの-にんじょう)宝亀(ほうき)8年(777)従五位下。備前守(かみ)をへて,延暦(えんりゃく)8年中宮亮(すけ)となり,藤原乙牟漏(おとむろ)につかえる。』 治部少輔從五位下百濟王元信。 中衛少將從五位下百濟王忠信。 圖書頭從五位上兼東宮學士左兵衛佐伊豫守津連眞道等上表言。『日本に渡来した上記の百済王族たちが天皇に自分たちの素性を上表したことによれば、以下の通り』 眞道等本系出自百濟國貴須王。『(近仇首王(きんきゅうしゅおう、生年不詳 - 384年)は百済の第14代の王(在位:375年 - 384年)であり、諱は須)』 貴須王者百濟始興第十六世王也。 夫百濟太祖都慕大王者。日神降靈。『「都慕大王」はツムで、鄒牟(추모チュム)に通じる。鄒牟は高朱蒙の別名で、都慕大王どは高句麗の開祖。』 奄扶餘而開國。天帝授籙。『籙(ロク)の意味『胡籙はやなぐいともいい、戦陣で佩用、箭(矢)をまとめて入れるための武具の一つ。羽を見えるように上にし、鏃が見えない構造の武具である。』 惣諸韓而稱王。降及近肖古王。(すべての韓国が讃える王 近肖古王・百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。『晋書』では余句(徐句) 尉仇台の子にあたり遼西百済余氏の直系) 遥慕聖化。始聘貴國。聖なる権化を遥かに慕って倭国に初めて贈り物を持って訪問した。(七支刀のこと) 是則神功皇后攝政之年也。 其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇、命上毛野氏遠祖荒田別、使於百済捜聘有識者。 国主貴須王恭奉使旨、択採宗族、遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉随使入朝。 天皇嘉焉、特加寵命、以為皇太子之師矣。 於是、始伝書籍。大闡儒風、文教之興、誠在於此。 難波高津朝御宇仁徳天皇。 以辰孫王長子太阿郎王為近侍。 太阿郎王子亥陽君、亥陽君子午定君。 午定君生三男、長子味沙・仲子辰爾・季子麻呂。従此而別始為三姓。 各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。 逮于他田朝御宇敏達天皇御世。 高麗国遣使上鳥羽之表。 群臣諸史莫之能読。 而辰爾進取其表。 能読巧写。詳奏表文。 天皇嘉其篤学。 深加賞歎。 詔曰。勤乎懿哉。汝若不愛学。誰能解読。 宜従今始近侍殿中。 既而又詔東西諸史曰。 汝等雖衆。不及辰爾。斯並国史家牒、詳載其事矣。 伏惟、皇朝則天布化、稽古垂風、弘沢浹乎群方、叡政覃於品彙、故能修廃継絶。 万姓仰而頼慶、正名弁物、四海帰而得宜。凡有懐生、莫不抃躍。真道等先祖、委質聖朝、年代深遠。家伝文雅之業、族掌西庠之職。真道等生逢昌運、預沐天恩。 伏望。改換連姓、蒙賜朝臣。 |
訓読 秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工(もく)頭(かしら)百済王(くだらのこきし)仁貞・ 治部少輔従五位下百済王元信・ 中衛少将従五位下百済王忠信・図書(ずしょ)頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連(つのむらじ)真道(まみち)等が上表して言はく 「真道等の本系は百済国の貴須(きす)王より出でぬ。 貴須王は百済を始めて興して第十六世の王(こきし)なり。 夫れ、百済の太祖都慕(つも)大王は日神の霊が降(あまも)り、 扶余を奄(おほ)ひ国を開く。 天帝は婁に惣く諸(もろもろ)の韓を授け王と称す。 近肖古(きんしょうこ)王に降るに及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴き国を聘(と)ふ。 是れ則ち神功皇后摂政の年なり。 其の後に軽嶋豊明朝御宇応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命(みことのり)して、百済に使ひして識有ある者を捜し聘(と)ふ。国主貴須王の使ひの旨(おもむき)を恭(うやま)ひ奉(たてまつ)りて、宗族を択び採り、其の孫の辰孫(しんそん)王(一(あるいは)、智宗(ちそ)王と名(な)のる)を使ひの入朝に随(したが)ひて遣りぬ。天皇のこれを嘉(よみ)したまひ、特に寵命を加へ、以つて皇太子の師と為す。是より、始めて書籍を伝ふ。大いに闡(ひら)く儒の風・文教の興は、誠に此に在る。難波高津朝御宇仁徳天皇、辰孫王の長子太阿郎(たあら)王を以つて近侍と為す。太阿郎王の子亥陽君(がいようくん)、亥陽君の子午定君(ごじょうくん)。午定君は三(みつたり)の男(をのこ)を生(な)す。長子味沙(みさ)・仲子辰爾(しんに)・季子麻呂(まろ)なり。此より別れ、始めて三姓を為す。各の職の所に因りて以つて氏の命(な)となす。葛井(ふぢい)・船(ふね)・津(つ)連等は、即ち是なり。他田朝御宇敏達天皇御世に逮(およ)びて、高麗国の使ひを遣りて鳥羽の表を上(のぼ)らす。群(つど)ふ臣(まえつきみ)・諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)の之を能く読むことなし。而して辰爾の進みて其の表を取り、巧みに写し能く読みて、詳らかに表文を奏す。天皇の其の篤学を嘉(よみ)したまひて、深く賞歎を加ふ。詔(みことのり)して曰はく『勤(いそ)しむや、懿(よ)し。汝の若し学を愛(めで)ることなかりせば、誰か能く読み解かむ。宜しく今より始めて殿の中に近侍せしめむ』とのたまふ。既にしてまた詔して東西の諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)に曰はく『汝等の衆(やから)は、辰爾に及ばざる』とのたまふ。斯(ここ)に並びて国史と家牒の詳びらかに其の事を載す。伏して惟(おも)ふに、皇朝の天を則(のっと)り化を布し、稽古の風を垂れ、沢浹(たくしょう)を群方に弘め、叡政は品彙(ひんい)に覃(およ)ぶ。故(ゆえ)に能く廃を修(ととの)へ絶を継ぐ。万姓の仰ぎて慶(のり)を頼むに、弁物の名を正(ただ)し、四海は帰して宜(のり)を得む。凡そ生るを懐(おも)ふる有るは、抃躍(べんやく)せざるはなし。真道(まみち)等の先祖の、聖朝の質(もと)を委(まか)されて、年代は深遠なり。家の伝ふる文雅の業、族(うらから)の掌(つかさど)る西庠(せいしょう)の職。真道等は生きて昌運に逢ひて、天恩を沐するを預(あずか)らむ。伏して望む、連(むらじ)の姓(かばね)を改め換へて、朝臣(あそみ)を賜はることを蒙(こほむ)らん」と申す。 是において、勅(みことのり)して居るところに因りて菅野(すがの)朝臣の姓(かばね)を賜はる。 |
浦島太郎 お伽草子 原文訳 昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母ちゝはゝを養ひけるが、ある日のつれ\〃/に釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯といふ所にて、龜を一つ釣り上げける。浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生しゃうあるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には〔常にの語氣を強めた用法〕此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。 かくて浦島太郎、其の日は暮れて歸りぬ。又つぐの日、浦のかたへ出でて釣をせむと思ひ見ければ、はるかの海上に小船せうせん一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば〔留まり見れば〕、うつくしき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦島太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、斯かる恐ろしき海上に、只一人乘りて御入り候やらむ。」と申しければ、女房いひけるは、「さればさるかたへ便船申して候へば、をりふし浪風荒くして、人あまた海の中へはね入れられしを、心ある人ありて自らをば、此のはし舟〔はしけ舟、小舟〕に載せて放されけり、悲しく思ひ鬼の島へや行かむと、行きかた知らぬをりふし、只今人に逢ひ參らせ候、此の世ならぬ〔前世の〕御縁にてこそ候へ、されば虎狼も人をえんとこそし候へ。」とて、さめざめと泣きにけり。浦島太郎もさすが岩木にあらざれば、あはれと思ひ綱をとりて引きよせにけり。 さて女房申しけるは、「あはれわれらを本國へ送らせ給ひてたび候へかし、これにて棄てられまゐらせば、わらはは何處いづくへ何となり候べき、すて給ひ候はば、海上にての物思ひも同じ事にてこそ候はめ。」とかきくどきさめ\〃/と泣きければ、浦島太郎も哀れと思ひ、おなじ船に乘り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房のをしへに從ひて、はるか十日あまりの船路を送り、故里へぞ著きにける。さて船よりあがり、いかなる所やらむと思へば、白銀しろがねの築地をつきて、黄金の甍をならべ、門もんをたて、いかなる天上の住居すまひも、これにはいかで勝るべき、此の女房のすみ所詞にも及ばれず、中々申すもおろかなり。 さて女房の申しけるは、「一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むことも、皆これ他生の縁〔前の世からの因縁〕ぞかし、ましてやはるかの波路を、遙々とおくらせ給ふ事、偏に他生の縁なれば、何かは苦しかるべき、わらはと夫婦の契りをもなしたまひて、おなじ所に明し暮し候はむや。」と、こま\〃/と語りける。浦島太郎申しけるは、「兎も角も仰せに從ふべし。」とぞ申しける。さて偕老同穴のかたらひもあさからず、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならむと、互に鴛鴦のちぎり淺からずして、明し暮させ給ふ。 さて女房申しけるは、「これは龍宮城と申すところなり、此所に四方に四季の草木さうもくをあらはせり。入らせ給へ、見せ申さむ。」とて、引具して出でにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や櫻の咲き亂れ、柳の絲も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥うぐひすの音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗かきほには、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀みぎは涼しき漣さゞなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませ〔ませ垣、低い垣〕のうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけ\/て、聲ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるゝ谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賤がわざ、冬としらする景色かな。かくて面白き事どもに心を慰め、榮華に誇り、あかしくらし、年月をふるほどに、三年みとせになるは程もなし。 浦島太郎申しけるは、「我に三十日のいとまをたび候へかし、故里の父母をみすて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば、あひ奉りて心安く參り候はむ。」と申しければ、女房仰せけるは、「三とせが程は鴛鴦ゑんわうの衾のしたに比翼の契りをなし、片時みえさせ給はぬさへ、兎やあらむ角やあらむと心をつくし申せしに〔心遣ひをしましたのに〕、今別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻ゆめまぼろしの契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ。」とて、さめ\〃/と泣き給ひけり。又女房申しけるは、「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の龜にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ。」とて、ひだりの脇よりいつくしき筥を一つ取りいだし、「相構へて〔決して〕この筥を明けさせ給ふな。」とて渡しけり。 會者定離ゑしゃぢゃうりのならひとて、逢ふ者は必ず別るゝとは知りながら、とゞめ難くてかくなむ、 日かずへてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝ〔立つと衣を裁つとかけた。〕いつかきて見む〔來てと著てとをかけた。〕 浦島返歌、 別れゆくうはの空なる〔うはの空であるから空虚の意で、からと唐をかけた。〕から衣ちぎり深くば又もきてみむ さて浦島太郎は互に名殘惜しみつゝ、かくてあるべき事ならねば、かたみの筥を取りもちて、故郷ふるさとへこそかへりけれ。忘れもやらぬこしかた行末の事ども思ひつゞけて、はるかの波路をかへるとて、浦島太郎かくなむ、 かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかゞせむ さて浦島は故郷へ歸りみてあれば、人跡絶えはてて、虎ふす野邊となりにける。浦島これを見て、こはいかなる事やらむと思ひける。かたはらを見れば、柴の庵のありけるにたち、「物いはむ〔一寸お伺ひしますの意〕。」と言ひければ、内より八十許りの翁いであひ、「誰にてわたり候ぞ。」と申せば、浦島申しけるは、「此所に浦島のゆくへ〔浦島のゆかり〕は候はぬか。」と言ひければ、翁申すやう、「いかなる人にて候へば、浦島の行方をば御尋ね候やらむ、不思議にこそ候へ、その浦島とやらむは、はや七百年以前の事と申し傳へ候。」と申しければ、太郎大きに驚き、「こはいかなる事ぞ。」とて、そのいはれをありのまゝに語りければ、翁も不思議の思ひをなし、涙を流し申しけるは、「あれに見えて候ふるき塚、ふるき塔こそ、その人の廟所と申し傳へてさふらへ。」とて、指をさして教へける。 太郎は泣く\/、草ふかく露しげき野邊をわけ、ふるき塚にまゐり、涙をながし、かくなむ、 かりそめに出でにし跡を來てみれば虎ふす野邊となるぞかなしき さて浦島太郎は一本ひともとの松の木陰にたちより、呆れはててぞゐたりける。太郎思ふやう、龜が與へしかたみの筥、あひ構へてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせむ、あけて見ばやと思ひ、見るこそ悔しかりけれ。此の筥をあけて見れば、中より紫の雲三筋のぼりけり。これをみれば二十四五のよはひも忽ち變りはてにける。 さて浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折、此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ。 君にあふ夜は浦島が玉手筥あけて〔筥を明けてと夜が明けてとをかけた。〕悔しきわが涙かな と歌にもよまれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや人間の身として、恩をみて恩を知らぬは、木石にたとへたり。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔まことにあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす〔仲間となつて居る。仙人の仲間であらう〕。龜は甲に三せきのいわゐをそなへ〔甲に三正(天地人)の祝ひを備へか〕、萬代よろづよを經しとなり。扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。 |
■龍神を祭る神社は月支国卓氏の末裔か。
いずれも海蛇系龍神を祭る神社は国つ神(大綿津見神=海神)がルーツ。
こんにちの日本文化の基底はおそらくこれらの倭人が作ったのだろう。『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者古之辰国也」とあり、3世紀の辰韓は辰国の後身とされている。これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「韓有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韩(略)凡七十八国(略)皆古之辰国也」とあり、三韓の地すべてが昔の辰国であるとしていて『三国志』とは異説となっている。いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされる。
魏略曰:馬韓辰王治月支國
辰国は馬韓月支国の辰王に滅亡された。
正確には辰国の辰王は間違いで馬韓月支国辰王、または月支国辰王とした方が良い。
倭人の5つのルーツ | |
墨江神社の住吉海神系 | 海蛇三神=表筒男(うわつつのお)・中筒男・底筒男・底筒・神息長帯姫命・事代主命=<された。 (辰国大王系)された。> |
海神綿津見系”安曇の祖” | 海蛇三神=底津綿津見・中津綿津見・上津綿津見 (わだつみ) 福岡市の住吉神が祖=<された。 (辰国大王系された。>) |
宗像神系“宗像の祖” | 宗像三女神=多紀理媛(たぎり)・市杵島(いちきしま)媛・田寸津(たぎつ)媛)(胸形の大国主の神裔=辰国大王系) |
賀茂神社系 ”葛城・賀茂・” |
賀茂別雷神(賀茂別雷神);大物主 オオモノヌシ(大綿津見神) (上賀茂神社=賀茂別雷神;下鴨社=玉依比売 =(辰国大王系) |
椎根津彦神系(しいねつひこ) ”倭直の祖” “淡路の海人” |
大和大国魂神社(やまとおおくにみたま)・倭大国魂神(大年神の神裔)(天孫元流系) |
*参照 岡田米夫氏の説(日本史小百科「神社」、近藤出版社)
何れも月支国箕氏(大綿津見神)海神の部族と言えます。
よくよく見ると倭の水軍ぞろいといった感じですよね。
・250年ごろ 月支国滅亡
*369 異邦の百済は馬韓などに12国を滅ぼす。枕弥多礼国(チンミタレグ)など栄山江流域まで制圧される。
このころ、全面的に日本に軸足を移したのでしょう。
*倭寇(わこう)は、一般的には13世紀から16世紀にかけて活動した海賊。
*書紀神功皇后3月の弦琴トに中筒男・底筒男・底筒が、「高句麗でなく、新羅を打て」と宣託したのか?。住吉の三神=大綿津見神が現れる。
■住吉神社のある西宮市の市章
塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)。実は、佐田彦大神とも猿田彦大神とも言われ、猿田彦大神の別称を探ると、次のようになる。 1.佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社 2.鹽土老翁神【しほつちおぢのかみ】名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ) 3.塩椎神【しほつちのかみ】古事記 4.塩筒老翁神【しおづつのおじのかみ】御釜神社(オカマジンジャ) 5.事勝国勝長狭神【コトカツクニカツナガサノミコト】 6.大綿津見神【おほわたつみのかみ】 7.賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】 塩土翁、この神は、伊勢、宮崎、滋賀、に多くまつられており、およそ1500社あると云う。 上記の三社以外、主だったところ、次のような神社で祀られている。 塩竃神社[宮城県塩釜市一森山ほか各地] 胡宮神社[滋賀県犬上多賀町] 青島神社[宮崎県宮崎市大字折生迫] 塩津神社[滋賀県伊香郡西浅井町] 益救神社[鹿児島県熊毛郡上屋久町] 胡宮神社[滋賀県犬上郡多賀町] 合祀されている神社 都萬神社【つまじんじゃ】宮崎県西都市 |
■隼人も渡来人
天武十一年七月(683)で「隼人多く来たりて方物を貢ぐ。この日、大隅隼人、阿多隼人が朝廷で相撲をとり、大隅隼人勝つ。」の記事がある。相撲が隼人源流であることはあまり知られていない。大隅隼人、阿多隼人は熊曽国の住人である。
隼人は馬韓のわだつみの民だった。船で鹿児島に亡命してきた。隼人は九州一帯に居住した。およそ4世紀中ごろから移住してきた。
隼人の乱はこうした百済にひどい目にあわされて逃げてきたわだつみ系倭人の背景に考えるべきだろう。でなければ、この反乱がなぜ起きたのか理解できない。隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立したという。朝廷は覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立したという。朝廷は覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。720年「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。」この戦いの前哨戦は馬韓の故地にあったのだろう。相撲も外来文化だったというのは簡単だが、倭人の文化だったといえば角は立たない。
■辰韓国は「ちはやぶる悪しき神者」?!?
天孫系とは檀君神話の流れから、天孫であることを明かす3種の神器があった。日本書紀によれば、曲玉、八咫鏡、草薙剣の3種。これが、天孫であることの表物(しるしもの)である。
楽浪国の神器は「天羽羽矢」とある。そのほか、御璽瑞宝十種であり、扶余の3種の神器とは異なっている。
天羽羽矢は蛇、龍をデザインしてある矢で、装飾が華麗で実用には適しない。しかし、矢は日本では鏑矢、破魔矢として、神社のお守りとして授けられている。特に、日枝神社・山王信仰の神は「大山咋神」(おおやまくいのかみ)系の破魔矢は朱色が施されており、非常に美しい。矢には霊力があるとされ、魔を退散させると信じられてきたのである。<された。
天羽羽矢が下賀茂神社の鳴鏑だろう。された。>
■辰韓国は倭人と同じ風俗
王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将の卓を奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。辰王は卓である。そして、月支国に王都があったことが知られている。(司馬遷史記)辰国は文字の通り辰(たつ)、龍神信仰である。そして、辰王は小月日国(黄河の西)の人で西域からの渡来人であると云う。ペルシャ系の白人だと比定する。初めに遼河から平壌一帯にありに王都があったようである。その後、鴨緑江に高句麗が台頭すると南下し平壌に、次いで、漢の真番が設置されると、帯方郡(漢江)より、南に移住した。54か国あったが馬韓・辰韓・弁辰の連合帯の王で、それぞれの国は王を立てることができなかったとされる。馬韓の一国月支国(三国志では目支国)に王都を置き、紀元前3世紀頃は、ほぼ三韓を覆っていた。
■大山咋神の娘は丹生族(伊勢の外宮に鎮座)
全国、稲荷神社の稲荷は、「ウカモ」と呼ばれ、これは「稲をになう」という意味である。稲荷は豊穣神であると、同時に丹生(にう)の奉じる水神であった。ウカノミタマ大神は中世になると仏教に習合して、宇賀神という福神となった。宇賀弁才天とも呼ばれる。お姿は蛇であった。稲荷神社系では、弁才天から、さらに、ダキニ天、大聖天、愛染明王にも変貌している。豊受を”トヨウケ”を”トヨウカ”とも呼ぶ。「ウカ」は、海蛇の意味である。ウカノミタマは、紀州の田辺では、海蛇をウカという。(渋沢啓三・日本魚名集覧)、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、紀州方言では海蛇を「ウガ」と言うと書いている。ワカヒルメは、海蛇(ウカ)ノミタマであり、稲の(ウケ)モチノカミでもあった。また、「氣」という文字は「稲(うけ)」で氣比神宮「御膳都神」(おおみつけのかみ)がご祭神である。稲荷は(ウカモ)と元は読む。
丹生都比売の別称は
「保食神」(うけもちのかみ)
「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)
「大宜津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大氣津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大御食津神」(おおみけつのかみ)
「御膳都神」(おおみつけのかみ)
これらは稲荷神社のご祭神と同じ。
稚日女尊-ワカヒルメムチ=丹生都比売のことである。
この女神を奉ずる民を丹生族として、その地盤は和名抄で確認できる地名から七地域に絞れる。
上野国甘楽郡丹生郷 *
伊勢国飯高郡丹生郷 *
近江国坂田郡上丹郷 *
越前国丹生郡丹生郷 *
若狭国遠敷郡丹生郷 *
土佐国安芸郡丹生郷
豊後国海部郡丹生郷
古地名と、延喜式の丹生神社の数で示すと、福井県(若狭・越前)の数が一番多く4社ある。(延喜式の延喜式の丹生神社は、大和に3社、伊勢に2社、紀伊に1社、上野に社)
さて、伊勢神宮の外宮のご祭神は登由宇気神は丹生都比売大神(にうつひめ)、大宜都姫で、大山咋神の娘である。
内宮伊須受(いすゞ)の宮は五十鈴宮で伊勢皇大神宮に比して、外宮は度相(わたらい)の豊受大神宮。
外宮は元伊勢の丹後一宮籠神社、相殿に豊受大神から呼び寄せられた。
豊受大神宮は<された。
丹後一宮籠神社、京都丹後にある。主祭神を天彦火明命に嫁いだされた。>馬韓月支国卓王の娘である。古事記では<された。
下照比賣に名前で登場。された。>
神宮皇后の新羅遠征のさいに霊位を顕したので、応神が広大な土地を紀北に与えて丹生都比売神社を作った。(和歌山市玉津島神社伝承)などは「たたり」を畏れてのことだろうか。書紀「保月神、実にすでに死(まか)れり」、多くの豊穣をもたらすが、死んだあとに生まれるという豊穣神話から、この神は若くして亡くないる。ここは下照比賣に比定するのです。
丹とは朱赤色である。稲荷塗の朱色や、朱の鳥居の起源である。そして、この赤色はやはり、丹(にう)から来ている。丹の原料、辰砂である。水銀朱とも言われ、これを蒸留すると水銀が取れるのである。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では縄文時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。
越前国一宮 氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は御食津(みけつ)、すなわち「御膳都神」をご祭神とする。
気比神宮「日本三大鳥居」の1つに数えられている重要文化財。
■熊襲梟師(くまそたける)は「ちはやぶる悪しき神」ですか?
山門郡(やまとぐん)瀬高町「高屋宮こうやのみや」の御神体。これは百済王族の軍服?
この謎のご神体は七支刀を持っている。七支刀は百済王族しか持つことができない神器であり、王の戴冠式や出兵の式などで使われる。よく敵を調伏するという霊力をもつというこの七支刀、まさしく百済の王権を象徴するものである。このような七支刀を手に持つ木像は百済王族に他ならないだろう。思うに、これが応神天皇か?
景行紀では小碓命が熊襲梟師(くまそたける)の持つ弓を絶つことを策す。熊襲梟師の二人の娘の姉、市乾鹿文(いちふかや)を欺いて幕下に囲って籠絡し、幣(まいない)を渡して娘に矢を破壊してくれと頼む。姉娘は自主的に父殺しを行う。国が亡びるというのに。父にしこたま酒を飲ませると、が酔って寝ているすきに弦(ゆずる)を断ってしまう。潜んでいた刺客はここぞとばかり熊襲梟師を殺してしまう。父を殺した市乾鹿文(いちふかや)は罪を問うて殺してしまう。こうして熊襲を倒した小碓命は熊襲を倒すと妹の市鹿文(いちかや)を火国造(ひのくにのみやつこ)にしたという。古事記では童女の姿に化けて女の中に紛れ込んで宴たけなわのときにぐさりと刺し殺す。
これは景行天皇が高屋宮に6年間おられたときの挿話である。ここで、熊襲梟師の持つ弓矢が敵を調伏する霊力のある神器であることを理解しなければならない。この話は、自鳴鼓(チャミョンゴ)伝説そのものである。小碓命をホドン王子(無恤(ムヒュル)大武神王の王子、(曷思王の孫娘の生める子)、楽浪国の王崔理、姉を羅姫(ラヒ)王女、妹を自鳴(チャミョン)王女の物語と似ている。読み替えると、熊襲梟師のこのエピソードはより現実感が増す。まあ、ターゲットをうまく騙して勝つ、騙された方が悪い、これは武士道に恥じるよね。熊襲梟師でなく、この小碓命やホドン王子に腹が立ってしまう。やっぱりDNAに記憶されているのでしょうかねえ。
大山咋神の娘、神吾田鹿葦津媛(かむあたかしつひめ)の持つ鏑矢???
鳴鏑を用つ神が目もあでやかな舞を見る。雅(みやび)を感じさせる。
楽浪人の末裔である。
浦島太郎の竜宮城を連想させるのは、その華麗さだ。馬韓月支国は箕準王の諸加が卓氏を王に共立して建国された。(BC169)もともと戦国七雄の趙国の鉄工部族の貴族らだったので、かなり高度な文化をもっていたと思われる。<された。
趙国の鉄工部族は、日本にやってきて宇佐神宮の大本の神となっている。された。>
<された。
始祖都慕大王は日の神として降臨し、「都慕大王」はツムで、鄒牟(추모チュム)に通じる。鄒牟は高朱蒙の別名で、百済の太祖は高句麗の開祖と同一である。後扶余の開祖は尉仇台である。また、書記では鄒牟、スムともいい、岐阜一宮水無神社はみずなじんじゃと読ませているが水無はハングルではスムと読む。
された。>
http://youtu.be/T0fILOAT5b8 日枝神社の巫女舞 願掛けした破魔矢を巫女が祈祷する舞。
■大綿津見神の神宝「鏑矢」がはたして神社に共通しているか?
大綿津見神は別名、大山咋神、山末之大主神
古事記には『この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり』と書かれる。やはり、鳴鏑は神器と書かれている。矢が守り神であることは証明された。全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されている神であり、大物主神である。日吉大社の場合、東本宮に大山咋神、西本宮に大物主神が鎮座している。この関係は、大国主と事代主に近い。
『この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり』と書かれる。やはり、鳴鏑は神器と書かれている。矢が守り神であることは証明された。全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されている神である。
破魔矢は除魔開運、鏑矢は一番矢の意味を持つ。鏑矢(かぶらや、希に蕪矢とも書く)は矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(後述)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。戦闘で一番最初に放たれる矢だったとされる。
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)や住吉大社では『蟇目の儀』(ひきめのぎ)が伝わっている。
京都・上賀茂神社の武射神事。小笠原流宗家による「蟇目矢」が放たれる。
住吉大社で蟇目の儀が行われた。
その他:愛知県津島市にある津島神社 小笠原流百々手(ももて)式など。
蟇目奉射、いったいどんな音がするのか、動画で聞いてみよう。)
された。>
古事記 | ご祭神 |
豊玉比売 | |
海童の少女 | 大比留女(おおひるめ) |
木花佐久夜毘売尊 | 市杵島(いちきしま)媛 |
_そこで、遡るほど創作的文学のようにが見える。つまり
■高野朝臣新笠(たかのの あそみ にいがさ) 2001年12月23日、日韓ワールドカップ開催の前、天皇陛下の68歳の誕生日に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」という記者会見は大きな話題になった。その根拠は、以下の条である。 続日本紀延暦8年12月28日条に 「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陀太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」とあるのがそれである。 武寧王は雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきみ、第21代蓋鹵王の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。武寧王は倭国で生まれ、41歳に至るまで倭国で生活。晩年百済王となった。その武寧王の子の末裔だというのだ。桓武天皇の母親の高野新笠の系図 では、天皇から和氏と姓(かばね)を頂戴したのは六世代後である。帰化六世なら、生まれも育ちも日本人だ。一方、後段の百済の遠祖が都慕王としているといる。都慕王は高句麗の高朱蒙・東明王だが、高句麗の朱蒙の末裔だとするのは百済の慣例だった。このことと矛盾しないが、日本に来てから11世にもなって、こうも一族、自らを朝鮮での身分を高く上奏することには違和感を感じる。 武寧王の在位は501-523、下の系図は妥当だろう。 嶋君 (第21代蓋鹵王の弟の軍君昆伎王の子、41歳で百済に渡り武寧王となる 462年 - 523年!) 純陀太子 2世 (生まれた時から日本に居住、太子とあるのは探求の必要あり。) 斯我君 3世 法師君 4世 雄蘇利紀君 5世 和史宇奈羅 6世 帰化1世(姓、和氏を賜る) 和史粟勝 7世 帰化2世 和史浄足 8世 帰化3世 和史武助 9世 帰化4世 和史乙継 10世 帰化5世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜り、正一位に任じられる。) 高野朝臣新笠 11世 帰化6世が生母として出産したのが桓武天皇(第50代天皇:在位781-806年) |
朱蒙の死後、扶余から父を追ってきた琉璃が高句麗王となったことで、沸流と温祚の兄弟は異母兄から阻害されるのを恐れ、十名の臣下と多数の百姓を引き連れて南へと向かった。やがて一行は北漢山に着き、負児嶽に登って周辺を見回した。王の姓は解(へ)氏で、解慕漱(ヘモス)王からきている。「この河南の地は、北に漢水(漢江)、東に高岳、南に肥沃な沢地、西には大海(黄海)と天険の地の利があり、得がたい地勢です。ここを都にすべきです」と臣下たちが勧めた。 兄の沸流(ピリュ)は沿岸に住みたいと言って納得せず、一行を二手に分けて弥鄒忽(今の仁川)へと向かい、そこに定住した。 |
■籠神社による系譜
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎ)========天照大神
その二人の兄弟
弟
兄
火遠理命(ほおり)
彦火火出見尊(ひこほほでみ)
天皇家の祖
日向高千穂笠沙に天下る
豊玉姫 = <山幸彦>
火照命(ほでり)
火闌降命(ほすそり)
海部家の祖
丹後国に天下る
下照姫===豊受大神
<海幸彦≫<された。
大綿津見神の二女・木花咲花姫された。><された。
大綿津見神の一女 下照姫・豊受大神された。>
<された。
三女・玉依姫 は豊玉姫の乳母として一緒にされた。>嫁ぐ。おそらく、姉妹同時婚。
二女<された。
<された。
木花咲花姫された。>された。>の生んだ子と結婚する。姉の子供と結婚するというのは近親婚なので、大いに怪しいのだが⁇
|
三女・玉依姫 ===== 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)
│
↓
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
磐余彦火火出見尊(神武天皇)
*火須勢理姫は天照大神の子=木俣神
実像 | 弟 | 兄 | 長女 |
実像 | 温祚 オンジョ (伯済の王となる) | 沸流 ピリュ | 火須勢理比賣 木俣神 |
降臨地 | 芦原中津国(ソウル)・古事記では 筑紫の日向高千穂のくじふる嶺(負兒嶽부아산) |
ミチュボル(仁川)・水穂国・ 古事記では天の浮橋・丹後 | |
実像 | 実父 解干台 | 実父 解干台 | 実父 解朱蒙 |
竜宮期間 | 8年経っても戻る気がなかった。 | ||
兄の葬儀の時 | 阿じ志貴高日子根神として現れる | 天若日子として竜宮へ出発 | |
海神(姫の父) | 似ているので兄と見間違える、弟怒る。 | ||
別名 | 天津彦番能 邇邇蓺命(日嗣なので尊称となる) | 天火明命 | |
国の名前 | 豊芦原中津国(豊が冠むられる) | 天照大神の父・高木神(祖父)の矢に当って死ぬ。 | |
石長比賣 | 姉の下照比賣8日8夜間泣き通す(豊受大神) | ||
事代主平伏 | 兄弟とも失敗したので武御雷神に武力行使命令 | ||
木花佐久夜姫 | 弔いの時、妹の豊玉姫が弟に求愛 | ||
綿津見神 | 姉も一緒に嫁がせようとしたが、妹だけにする。岩長姫を拒否される。 | ||
3年で別れて子供は引き取る。 | |||
|
妹、玉依姫を送って育てさせる。
|
|
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海彦山彦伝説 | 兄(実際は弟の業績ですが) | 弟 (実際は兄です) | |
物語 | |||
物語 | 海幸彦 | 山幸彦 | |
古事記 | 天火照命 | 火遠理命 | |
古事記 | 火蘭降命 | ||
書紀 | 彦火火出見命 | 火酢芹命 | |
別名 | 虚空津日高 | ||
海神(姫の父) | |||
海神(姫の父) | 綿津見神 大山津見神 |
綿津見神 大山津見神・大山 |
|
海神(姫の父) | 書紀では豊玉彦 | ||
妻となる比賣(娘) | 玉姫比賣 木花咲夜花姫 |
||
宮殿に導く | 塩椎老翁・塩椎神 | ||
すごした期間 | 3年 (海彦山彦) | 3年 (浦島太郎) | |
隼人 | 綿津見神の軍勢 | ||
兄の持ち物 | 釣り竿 | ||
弟の持ち物 | 弓矢 | ||
争い | 交換した釣り針を失くす | 渡した釣り針でなければだめだ | |
海神の援助 | 綿津見神 が釣り針を探し出し渡す。 | ||
海神の援助 | 綿津見神が兄を負かす戦術を教える。 | ||
海神の援助 | 綿津見神の言うとおりにするとうまくいった。 | 貧しくなり、弟に平伏する。 | |
別れ | 豊玉姫の産屋を覗いたため別離 | ||
生まれた子 | 天津日高日子波限建鵜茅萓不合命 | ||
子育て | 玉依姫を乳母にする。 | ||
隼人 | 火照命の宮殿護衛兵となる。 | 建鵜茅萓不合命が生まれてしばらくして亡くなる | |
。 |
日本書紀 9段
高皇産霊尊から、葦原中国の悪いものを平らげるよう命じられ、天鹿児弓と天羽羽矢を賜る。しかし顕国王の娘の下照姫を娶って地上に留まり、「私も葦原中国を治めようと思う」と言って遂に復命しなかった。全く報せが来ないことを怪しむ高皇産霊尊は、無名雉を遣わして様子を伺わせた。雉は飛び降り、天稚彦の門の前にたつ湯津杜木の梢に止まった。天探女が、「めずらしい鳥が来て杜の梢に止まっています」と言うと、天稚彦は高皇産霊尊から賜った天鹿児弓・天羽羽矢を取って雉を射殺した。矢は雉の胸を通って高皇産霊尊の前に落ちた。高皇産霊尊はその矢を見ると、「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢だ。矢が血で染まっている。おそらく国神と戦ったのであろう」と言って、矢を取って投げ下ろした。矢は落ち下り、天稚彦の胸上に当たった。天稚彦は新嘗が終わって休み臥せた時だったので、矢に当たってたちどころに死んだ。
妻の下照姫は哭き悲しみ、声は天まで達した。父の天国玉はその泣声を聞いて、天稚彦が死んだことを知り、疾風を遣わして屍を天に挙げた。喪屋を造って殯をした。川鴈を持傾頭者と持帚者とし、また雀を舂女とした。そして八日八夜哭き悲しみ偲んだ。これより先、天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神との仲がとてもよかった。それで味耜高彦根神は天に昇り喪を弔った。この神は天稚彦の生前の姿にそっくりだったので、天稚彦の親族皆が「我が君は死なないでおられた」と言って、衣にすがり喜び泣いた。味耜高彦根神は憤然として、「朋友を弔うのは当然であるから穢れを憚らず遠くから赴き哀しんでいる。なのになぜ私を亡者と間違えるのか」と言って、大葉刈の剣を抜いて喪屋を切り倒すと、これが落ちて今の美濃国の藍見川の川上にある喪山となった。
(味耜高彦根神が、弟の火遠理命に比定すれば、兄のもがり中に豊玉姫に一目ぼれして結婚を申し込んだに違いない。)
北周が攻めて来た時、芒山で敗走させた。包囲された洛陽への援軍の為、中軍として五百の兵を率いて包囲を突破する。金墉城に到達したものの、城内ではあまりに急に包囲が崩れたので正体を疑って動けなかった、 そこで蘭陵王が兜を脱いで素顔を見せたところ味方と分かり、反撃が行われて北斉軍は大勝利をおさめた。立役者である蘭陵王を讃える為、蘭陵王入陣曲という曲が作られて兵達がこれを歌った。 この故事が後世に伝わり、蘭陵王は自身の優しげな面貌が士気に響くのを慮り、仮面をつけて戦場に立ったという伝説が生まれた。 北周との戦いで栢谷を攻め、又、定陽の城を囲った時、東面に伏兵を仕掛けるべきと献策した、策は功を奏し北周軍を壊滅させた。 |
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借、散在山海間、無城郭。 |
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海閒、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。 |
BC195年、 前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。このころ番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。衛満朝鮮となる。
BC109年-BC107年、前漢・武帝が衛満朝鮮を滅ぼす。楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡の漢四郡(かんのしぐん)を置いて直轄地とする。前身だった箕準の諸加の衆は上将の卓を擁して中馬韓(辰国)を建国した。一説には卓氏は趙国(山 西省郎郵)の鉄工部族であったともされる。
AD18 伯済が建国したときは馬韓辰国の支配下にあった。
AD166 尉仇台、漢口の伯済を攻略 鷹百済立つ。
朝鮮王箕準の国で清川江より南を制していた。 *辰国は>箕準が王で昔を含めて南側すべてのを支配していた。清川江は平壌より北に流れる河なので、支配領域はほぼ半島すべてとなる。 紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があった。辰国は朝鮮王箕準が建国、豪族化した。清川江より南を制していた。朝鮮王箕準の国で清川江より南を侯国として制していた。 この準王(ちゅんわん)が遼西で衛満に滅ぼされたとき、数千人の残党ともに海をわたり、その後、朝鮮と往来しなくなったと書かれる。魏略では、この人物を箕準と書く。そこで、これを箕氏(きし)朝鮮と呼ぶが、祭祀は鬼道だったと書く。崇高な神のような存在だった準王はまぼろしの王ではない。 箕氏(きし)朝鮮が清川江(ちょんじょんがん)の南をすべて制していた。地図の通り。 清川江の南、漢江の北の間は重要な地域。ここの攻防が漢江の南の辰国王の居る月支国にすべて関係する。 AD176 馬韓辰国は拡張期に入る。月支国が辰韓を攻撃する。
AD204 公孫康・帯方郡設置
AD238 公孫淵滅ぶ。
AD247 魏・二次高句麗攻撃 卑弥呼・参戦
AD238 親魏倭王卑彌呼帶方太守除授
AD256 鷹百済、月支国併合
AD314 高句麗楽浪郡を占領
AC346 中馬韓全滅。
其國有二十二檐魯、皆以子弟宗族分據之。其人形長、衣服淨潔。其國近倭、頗有文身者。今言語服章略與高驪同、行不張拱、拜不申足則異。呼帽曰冠、襦曰複衫、○曰褌。其言參諸夏、亦秦、韓之遺俗云。 |
武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。
皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ」と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、機略の好機を失したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。
翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容廆は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容廆は毎度のように扶余人を拉致しては中國で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。(三国志魏書扶余伝)
历史上燕国、中山国、后燕立都之地,清代八督之首,为“冀北干城,都南屏翰”。现为大北京经济圈中的两翼之一,北京主要卫星城,素有“京畿重地”、“首都南大门”之称
■後漢の武帝は燕を討伐したが、遼西の扶余は復興させた。
百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國、馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。 |
晉太元中、王須(晉書作餘暉)、義熙中、王餘映、宋元嘉中、王餘毗、並遣獻生口。餘毗死、立子慶。慶死、子牟都立。都死、立子牟太。齊永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。 |
百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居。有東西兩城。 |
宋書倭国伝 倭国は高驪の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。 高祖の永初二年、詔していわく、「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし」と。太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。 讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。(『南史』宋本記 421年) 珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。 済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。 興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。 順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北(渤海)を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む」と。 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。 |
『梁書』帝紀 武帝蕭衍(463~502~549) 『武帝紀』 ◦天監元年夏四月/戊辰、車騎將軍高句驪王高雲、進號車騎大將軍。鎭東大將軍百濟王餘大、進號征東大將軍。安西將軍宕昌王梁彌[台頁]、進號鎭西將軍。鎭東大將軍倭國王武、進號征東將軍。鎭西將軍河南王吐谷渾休留代、進號征西將軍。 ◦七年/二月/乙亥、以車騎將軍高麗王高雲、爲撫東大將軍開府儀同三司。 ◦十一年/三月/庚申、高麗國遣使獻方物。四月/百濟國、扶南、林邑國、竝遣使獻方物。 ◦十五年/夏四月丁未、以安右將軍豫章王綜兼護軍。高麗國遣使獻方物。 ◦普通元年春正月/庚子、扶南、高麗國各遣使獻方物。二月壬子、老人星見。癸丑、以高麗王世子安、爲寧東將軍高麗王。 ◦二年/冬十一月、百濟、新羅國、各遣使獻方物。十二月戊辰、以鎭東大將軍百濟王餘隆、爲寧東大將軍。 ◦七年/三月乙卯、高麗國、遣使獻方物。 <参考> 『梁書』帝紀 晋の安帝の時、倭王・賛あり。(東晋の第10代皇帝;在位期間 396年 - 403年/404年 - 418年) 天監元年(502年) 「子雲、齊隆昌中、以爲使持節散騎常侍營平二州征東大將軍樂浪公。 高祖即位、進雲車騎大將軍」 「都死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王」 「齊建元中、除武使持節督、倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍」(梁書諸夷傳) 「文咨明王、諱羅雲、長壽王之孫。」 「十一年、梁高祖即位。夏四月、進王爲車騎大將軍。冬十二月入魏朝貢。」(三国史記高句麗本紀) 「東城王、諱牟大」(501年歿)(三国史記百濟本紀) 倭國王武、南史作征東大將軍。 |
西暦 | 中国 | 倭王 | 分類 | 倭王・位冠・称号 | 中国名 | 百済王名 (在位年) |
事件 | 日本書紀の記述 |
18年 | 伯済 | 温祚王(在位18-28年) | 初め卓氏の中馬韓(月支国)の大王に服する河南城の小さな国であった。 | |||||
28年 | 伯済 | 多婁王28-77 | ||||||
77年 | 伯済 | 己婁王77-128 | ||||||
128年 | 伯済 | 蓋婁王 128-166 |
北漢山城に宮を置く。(景福宮、昌徳宮などある鍾路区(종로구)。 后の外戚・真氏に王位を簒奪され以後温祚王の血統は途絶えたと思われる。(真氏は王妃系で倭人に類する) |
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147~189 | 後漢 | 遼西扶余 | 166尉仇台は漢口の伯済を攻略して王に返り咲いて扶余百済成立。 189年、公孫度は後漢により遼東太守になる。 遼東太守公孫度以宗女嫁给尉仇台。 (尉仇台晋平二郡を略有し、遼東王の公孫度の宗女を娶り、帯方の故地に国を初めて建てた。 卑弥呼が帯方の地で倭女王となる。 |
仇台 | 肖古王(素古王の別名) 166-214 |
記紀では「照古王」 ◇高句麗太祖大王146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。 ◇熹平6年(177年)夏、檀石槐は官軍を迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。 ◇178年鮮卑・檀石槐は烏侯秦水に倭人たちを烏侯秦水に連行し、魚獲りに従事させ、食料難を解決した。 |
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193年 | 後漢/公孫 | 楽浪郡 | 後漢の献帝(在位期間189年 - 220年)夫余王(夫台王・優台/干台ユテ)は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、献帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。 故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余が分岐した。 尉仇台は高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。 遼東太守公孫氏自ら燕王と号すようになる。 204公孫度の死去。 204公孫康・帯方郡設置 204-210 公孫康 高句麗攻撃・高句麗の抜奇降る |
仇台 | 肖古王(素古王の別名) 166-214 |
『三国遺事』王暦では素古王の別名も記される。166年に先王の死去により王位についた。諱・諡は伝わっていない。 尉仇台が肖古王に充てられている。 黄巾の乱184年、倭国大乱もこの前後 193年,倭国で大飢饉が起き、千余人の倭人が食料を求めて新羅(辰韓)へやってきた(新羅本紀)倭国=帯方の大汗國=汗人=倭人のこと) 198頃 高句麗新大王の長子拔奇は兄なのに擁立されなかった怨みから、涓奴部の諸加と下戸三万余人を引き連れて公孫康に降伏し遼東に移る。 |
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魏/公孫 | 帯方郡 | 214尉仇台死す。简位居继立。 220年、魏の曹操が死去 |
简位居 (仇首王) 214-234 |
仇首王は先代の長子とされる。 | ||||
238年 | 魏 | 卑弥呼 | 帯方郡 | 238 简位居死、庶子・麻余(238-247)を共立。 238 遼隧の戦い 公孫淵死す。 238親魏倭王卑彌呼帶方太守除授 |
麻余王 235-??? ( 沙伴王) |
公孫淵が「燕」皇帝を僭称すると、反乱者として討伐の対象となった。 公孫淵は、238年、遼隧の戦いで魏の皇帝曹叡に一族ともども処刑された。燕の冊封下にあった帯方郡の公孫宗女・卑弥呼は公孫を裏切り、魏に貢献。 | 神功皇后摂政39年、『魏志にいわく、明帝の景初の3年6月、倭の女王、・・・朝献す・・・京都(魏の洛陽)に詣らしむ。』・・・の引用あり。(魏志倭人伝では景初2年6月) | |
魏 | 帯方郡 | 244 魏、一次高句麗侵入 247 二次高句麗攻撃 卑弥呼・参戦、南方から侵入。このとき黄幢は実戦に使われた。 248年頃・卑弥呼死す。 扶余の地は遼西・遼東にあった。故に、鮮卑族慕容部に波状的攻撃を受け衰退する。 AD250 百済月支国併合 |
依慮王 235-285 ( 比流王) |
沙伴王から4代は二都王朝。70年続く。真氏系(代々王妃を出す氏族・妃の弟が王位・謀反か?) 8.古尓王(234-286)9.責稽王(286-298)10.汾西王(298-304) 285年、慕容廆(ぼようかい)によって扶余(西百済)は全軍が撃破される。依慮王自殺。 286年武帝詔を発して扶余を復興。扶余の生口(奴隷)の売買を禁じる。 304汾西王が楽浪太守の刺客に殺される。 |
卑弥呼死す。 正始九年(248年) - またはその前後に 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。 卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した |
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東晋 | 高句麗帯方 | 鮮卑族慕容部に波状的攻撃を受けて扶余は滅びる。 | 衣羅王285-346 ( 比流王) |
294鮮卑族慕容部の首長慕容廆遼西制圧。 341慕容皝 高句麗・丸都城陥落 342に慕容皝は龍城(遼寧省朝陽市)に遷都 343高句麗故国原王 平壌城を王都にする 346慕容皝 扶余を滅ぼす。 |
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伯済の河南の扶余系統はこの契王で途絶える。 | 契王 | 真氏系伯済王朝最後の王。以後、余氏になる。 | ||||||
372年 | 東晋 | 高句麗帯方 | 372東晋に遣使・ 漢山(現在のソウルの風納土城)首都を移す。 鎮東将軍領楽浪太守 |
余句 | 近肖古王 346-375 |
慕容皝に遼西を奪われて、河南の故地を制圧。契王を自害させる。これより尉仇台扶余本流の余氏となり、高句麗と敵対し、倭国と自称する。 百済膨張・楽浪・帯方・馬韓などに12国を併合(檐魯) 枕弥多礼国(チンミタレグ)など栄山江流域まで制圧。百済は異民族の征服王朝なので、10代後の王も、「百済の民と馬韓の民」とを差別した。馬韓人はいても、阿人(倭人)は船を豊富にもっていたので、この地域から逃亡した。 |
『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王 神功皇后 摂政52年 海の西を平定して(定海西)を百済に与えたという記事。(西の海とは馬韓のこと。) 369 倭軍出兵。 372お礼に馬韓から奪った谷那の鉄で作った七支刀が送られる。(神功皇后摂政52年) <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 良馬2頭と阿直岐・博士である王仁(わに)来る。(応神天皇16年2月に記事) 弓月の人夫を率いて襲津彦還る。(応神天皇16年8月に記事)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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380年- |
東晋 | 倭王讃 | 帯方百済占有 | 余須 | 近仇首王 375-384 |
371年には太子だったが高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させる。漢山に王都を移す。 |
『梁書』では須の名で記され、 『日本書紀』では貴須王(くゐすおう)立つ。(神功皇后摂政52年) 『梁書』百済伝「晋の太元年間(376年 - 396年)に王の須が、…中略…生口(奴隷)を献上してきた。」という記事 襲津彦、新羅を打つのに美女2人の懐柔策(ハニ―トラップ)に嵌まって、加羅を討つ。木羅斤資、加羅を復す。(神功皇后摂政62年に記事) |
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余暉 | 枕流王 384-385 |
『日本書紀』では枕流(とむる)と読まれた。(神功皇后摂政52年9月) 『百済の枕流王みまかりぬ。王子阿花年わかし。叔父辰斯、奪いたちて王となる 』(神功皇后摂政65年に記事) |
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386年 | 東晋 | 冊封 倭国 |
辰斯王 385-392 |
百済の「辰斯王」は<鎮東将軍・百済王> 近仇首王の弟 |
枕流王の弟に当たる。 、『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために倭国は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花(阿莘王)を百済王に立てた。(応神天皇3年に記事) |
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阿莘王392-405 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 396 燕王慕容垂、余蔚を河南王と為す。 396広開土王の攻撃、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 記紀では「阿華王」 古墳の造営がしだいに増加。 391倭軍出兵:韓国に多く発見された前方後円墳はこのとき出兵した豪族の墳墓と見られる。、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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396年 - 403年 404年 - 418年 |
東晋/南宋 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 義熙9年、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
珍 | 冊封 | 高句麗と倭国貢献する | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 余映、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 腆支王 405-420、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
394年2月に太子に立てられる。 |
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416 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 義熙12年、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
義熙(ぎき)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に使用された元号。405年 - 418年。 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 余映、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 腆支王 405-420された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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421年 | 南宗;高祖武帝 永初 2年 |
冊封 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 倭王・賛あり。<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 万里修貢・長城修復などの労役を貢ぐ・、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>南史 卷一 宋本纪上第一 二月己丑,策试州郡秀、孝于延贤堂。倭国遣使朝贡。 |
余映 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 腆支王 405-420された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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425年 | 元嘉2 | 元嘉(げんか)は、南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年 - 453年。倭王讃:司馬曹達を遣わし文帝に貢献 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 腆支王 405-420された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
427年高句麗平壌遷宮 | (428)応神天皇8年春三月百済人が来朝した。王子直支を天朝に送り先王の修好の願いを叶えた | |||
430年 | 元嘉7 | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 毗有王 427-455 (倭国王珍)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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438年 | 元嘉15 | 自称 | 使特節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王 (438)叙授 (『宋書』倭国伝)(弥=『梁書』諸夷伝) |
余映 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 毗有王 427-455 (倭国王珍)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
直支王(ときおう)(応神天皇16年に引用記事) 阿花王の死亡後倭国にいた直支王(ときおう)を東韓の地を与えて、『汝、国に帰りて位に嗣げ』と命じて王位につかせる。(応神天皇16年に記事) 428百済直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年) |
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443年 | 宋・元嘉20 | 冊封 倭国王 |
安東将軍・倭国王 (『宋書』倭国伝)443叙授 |
余慶 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 蓋鹵王 455-475 「개로왕」 (倭国王済)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
430年<使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王>継承 433年新羅の訥衹王と同盟(羅済同盟) *蘇我満智は王の母と不倫。毗有王激怒! 蘇我は百済の王族出。 |
久爾辛(くにしん)王となる、年若し。木満致(木刕満致=蘇我満智)国の政(百済のまつりごと)を執る。(応神天皇25年) 以後、蘇我氏の権力が強勢となる。 満智・韓子・馬背・稲目・馬子・蝦夷・入鹿。 |
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451年 | 〃元嘉28 | 冊封 | 使特節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王 | 〃 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 蓋鹵王 455-475、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
444年4月 新羅・訥祇麻立干(417-458) 倭兵が金城を10日包囲。 | ||
462年 | 宋・孝武帝 | 済 | 冊封倭国 | 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を 安東将軍・倭国王(460除授) (『宋書』孝武帝紀、倭国伝) |
余慶 | 蓋鹵王 455-475 「개로왕」 (倭国王済) |
457年には宋の世祖より<鎮東大将軍> 475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城滅亡。 |
記紀では「加須利君(かすりのきみ)」 (雄略五年に記事)! 百済・新羅と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗 宗・順帝の上表:しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。(高句麗が漢城百済を滅ぼしたことに宗の順帝が憤慨している。) 458年蓋鹵王が倭国に送った池津姫が密通の罪で焼き殺される(雄略5年記事) |
477年 | 宋・順帝 | 興 | 冊封倭王 | 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀) これより興没し、弟の武立つ。 *使特節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東将軍・倭国王 (『宋書』順帝紀、倭国伝) |
牟都 | 文周王 475-477 (倭国王興) |
475年文周王百済熊津遷宮 | 記紀では「文洲王」、 文洲王は蓋鹵王の母の弟なり。(雄略21年) 朝鮮史では蓋鹵王の妻の弟とされるが、母方が牟氏である。よって余氏ではなくなった。 久麻那利(くむなり)を以て文洲王に賜うという記事。クマナリは熊津のこと。(雄略21年の記事) |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 三斤王 477-479、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 日本書紀』雄略天皇紀には文斤王とも記される。477年9月に先王が暗殺され、三斤王がわずか13歳で即位した。百済の文斤王が亡くなる。(雄略23年記事)在位3年目の479年11月に死去。、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
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477年 | 477年 - 479年。昇明・宋の最後の年号。 | 武 | 冊封 倭王 |
上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を *使特節・都督倭・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王(478除授) |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 余 大 / 牟太、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 東城王 479-501 (倭王武)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
480年 持節督、倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事鎮東大将軍 | <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 記紀では「末多王」 蓋鹵王の弟(軍君)で倭にいた昆伎王(昆支王)の第二子が末多王とする。この人は蘇我満智の弟になる。 『三国遺事』王暦では、名を牟大(徐牟大)または摩帝、余大(徐大) 479?昆支の子の末多王を百済に送る。兵器と筑紫の軍士500人を派遣。(雄略23年)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
479 | 南斉・建元1年 | 冊封 倭王 |
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) 479除授 倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 余 大 / 牟太、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 東城王 479-501 (倭王武)、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>) |
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502年 | 梁・天監1年 | 冊封 倭王 |
4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)502除授 | 余 大 / 牟太 |
東城王 479-501 (倭王武) |
梁書の「都死、立子牟太」 都は 前王の文周王。 502年南韓の地に遷都したのは牟太であり、余氏扶余は熊津に遷った。西百済、侯国としての税の徴収や朝貢をやめる。 501年 衛士佐平の放った刺客に東城王暗殺される。高句麗の二度の侵攻に日本が救援しなかったことに憤慨する。 |
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502年 | 余隆 | 武寧王 501-523 |
諱を斯摩、『梁書』では余隆 |
記紀では「嶋王」 雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。武寧王は41歳に至るまで倭国で生活。(武寧王の弟が継体天皇として即位。妃は手白髪郎女は武寧王の兄の娘。) 512百済に伽耶の四県を与える。 |
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524年 | 梁・ 明穠 |
冊封 百済王 |
持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王 | 余明 | 聖王 523-554 |
538王都を泗沘城(サビソン)に移す。 553年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ聖王は戦死。約3万の兵士が皆殺しになった。 |
531欽明天皇誕生。伽耶の仇衡王521-532?の弟?任那復興を唱える。 532 金官伽耶、新羅に降る。 552年 百濟聖明王 更名 聖王、仏像を倭国に贈る。(欽明天皇13年) 大臣の蘇我稲目(いなめ)が排仏派の大連の物部尾輿と対立。 553 新羅に平壌城・北漢山城奪われる。(欽明天皇13年(新羅真興王の領土拡大。漢口下流制圧) 554佐伯連、百済に出兵。 |
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北斉 | 冊封 百済王 |
使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王 | 余昌 | 晶王/ 威徳王 554-598 |
577年、王興寺建立 日本に造佛工・造寺工の師を派遣、見返りに倭軍の派兵を要請。 581年隋に使節を送り、〈上開府・儀同三司・帯方郡公〉に封じられた |
562伽耶、新羅に滅ぼされる。 570年頃蘇我稲目死す。(欽明31年の記事) 敏達6年、造佛工・造寺工の師来日の記載。577年百済救援。 天皇家史上初の女帝である推古天皇即位。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。 587年飛鳥寺建立。/蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。 |
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隋 | 余恵 | 恵王 598-599 |
『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために昌(威徳王)が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。 | |||||
隋 | 余宣 | 法王 599-600 |
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隋/ 唐 |
冊封 | 帯方郡王・百済王 | 余璋 | 武王 600-641 |
602年8月新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王に敗れる。聖王の報復戦ならず。 612年高句麗/乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の薩水大捷、隋に大勝利。 唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封。 諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余(徐)璋(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。薯童説話(ソドンせつわ)の持ち主。 626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。 632年、弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した |
<百済と新羅が緊張> 607法隆寺創建。小野妹子隋に派遣。 推古天皇20年(612年)、百済人味摩之が伎楽を伝える。 622 聖徳太子死去。 622 乙巳の変(入鹿殺される) 皇極元年((642年)の日本書紀の記事の解説( 新羅真平王の三女・善花(ソンファ)は王の怒りを買い、王族を外され遠隔地に追放された。三国遺事にはその名が記載されるが、三国史記には記述されていない。ただ、「善花公主と薯童」という説話で残される。史実には取り上げられないが、武王と結ばれた経緯がある。武王の子義慈王はその母善花が没するとすぐに弟翹岐やその妹をはじめ関係者を日本に追放した。 |
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唐 | 義慈 | 義慈王 641-660 |
642年百済は新羅大耶城(テヤソン・대야성)(陕川)を攻略。 644年高句麗/楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍の安市城(アンシソン)の戦い。唐を敗戦させる。 642年、金春秋(キム・チュンチュ)は淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)に会いに国内城(クンネソン)へ赴くも和平交渉に失敗する。 643百済と高句麗 新羅党項城(タンハンソン)攻略 645年、唐は10万の兵で遼東城、白巖(ペガム)城は陥落させるも、安市城(アンシ)で大敗し、引き上げる。 660唐羅軍 黄山ヶ原の決戦で勝利、泗沘城を落とす。 義慈王は唐に連行される。 |
641新羅真平王の三女・善花(ソンファ)、武王の后が死去。子の王子児翹岐とその妹、冬服妹ほか内臣佐平を含む高官40人の一族、倭国に追放。皇極元年の記事。弟翹岐は譲位によって、第36代孝徳天皇(天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)に645年7月12日即位。 孝徳天皇元年(645年)初の譲位によって即位。 645任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。 647年 新羅・金春秋(キム・チュンチュ)倭国に遣使として来る。孝徳天皇大化3年の記事。 651 新羅の貢調使が唐服を着ていたので追い返す。孝徳天皇白雉二年の記事。 |
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唐 | 『旧唐書』では余豊(徐豊) | 豊璋/ | 661年 蛇水(大同江)の大勝、大対盧(テデロ)の淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)、第二次高句麗・唐戦争 665年に淵蓋蘇文が死亡。 |
豊璋、多臣薦敷の妹をもって妻とする。(天智即位前紀) 660 日本にいた王子豊璋(糺解)を百済に送る。斉明天皇6年の記事。 663 百済王豊璋、復興軍の武王の甥の鬼室福信将軍を謀反の疑いで殺す。天智天皇2年の記事。 663白村はくすきに倭軍敗続。豊璋は高麗に逃げる。(天智天皇2年の記事) 668大唐、高句麗を打ち滅ぼす。(天智天皇7年の記事) |
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唐 | 爵号 | 輔国大将軍 | 余隆 | 唐は熊津都督府を設置、余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使とするも、閉鎖を余儀なくされ、その後、余隆は熊津城に帰ることなく682年、洛陽に没す。 |
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慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王▪ 依虑王(依慮) ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王 |
尉仇台とは 『通典』百濟 百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。 中国史籍は尉仇台を百済の祖と記している。さらに高句麗よりも先の北扶余からでているというのである。百済は高句麗の傍系であるという三国史記とは異なるのである。伯済(馬韓の小国)は確かに温祚が建国したのだから、伯済については三国史記は正しいのだろう。兄・沸流(ぴりゅ)はケル族の長に従わず、ミチュボルの海辺の方に建国したが、土地が塩を含んでいて作物が育たないため百姓が皆ウィレソンに逃げてしまった。このため、自ら恥じて自殺したというのが、三国史記で、その後の沸流の系統は一切出てこない。遼西百済には海を渡って建国したというので、”百済”という国名になった経緯からは、百済も河南が起点である。そうであれば、天孫である条件にあたはまる末裔は沸流の嫡流である尉仇台ではなかったかと推察する。しかし、高句麗より前の扶余から分岐したというのであれば、尉仇台は後扶余の系譜に入り、河南伯済よりも正統扶余を自負することも考えられる。なんであれ、馬韓の小国であった伯済を支配し、後に馬韓を統一したのは尉仇台の系譜に繋がる子孫である。 魏志夫餘伝 『夫餘本屬玄菟漢末公孫度雄張海東威服外夷夫餘王尉仇台更屬遼東時句麗鮮卑彊度以夫餘在二虜之間妻以宗女』 したがって、「宗女」は「嫡出(正統の血縁)である娘」ということになります。 「夫余はもと玄菟郡に属していた。(後)漢末に(遼東太守)公孫度が海東(幽州)に勢力が強くなり、外夷を威圧し服属させた。夫餘王の尉仇台はあらためて遼東郡に属した。その頃、高句麗と鮮卑が強く、夫余はこの二つの敵対国の間にあったため、公孫度は一族の娘(宗女)を妻に出して懐柔した。」 *いまでも、芸などの家元のことを「宗家」と言いますが、この場合の「宗」は、正統であること、嫡出であることを意味します。そこで、宗女を妻にしたを一族の娘と訳したのでしょうが、それならば公孫度の娘と訳した方がいいでしょう。なぜなら、一族の娘と言うと相当な人数になってしまいます。宗を正統なであることを、強調するなら側室や王妃の娘ではなく正后の産んだ娘ぐらいの区別をしたほうがいいでしょう。上記が魏志なので、信ぴょう性が高いといえます。 『宋書』卷97・列傳第57(百済国条) 「百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」 「百済国はもと高麗とともに遼東の東千里あまりのところにあった。その後、高句麗が遼東を制したので、百済は遼西を略有した。百済の治するところは晉平郡晉平縣である。」 遼東を制したのは高句麗王第6代太祖大王(47年 - 165年・在位:53年 - 146年))のこと。 梁書』卷54・列傳第48(百済条) 「其國(百済)本與句驪在遼東之東 晋世 句麗既略有遼東 百濟亦拠有遼西 晋平二郡地矣 自置百濟郡」 「百済は遼東の東にあった元句麗国である。晋代の世に句麗は遼東を略有して、また、遼西晋平二郡を拠有し、自ら百済郡を置いていた。」 *拠有とは、拠所として持つこと。 『周書』卷・列傳第(百済条) 「百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方」 百済は蓋馬韓の属国であったが扶余の別種である。尉仇台という者が帯方に始めに国を立てた。」 『魏書』卷・列傳第(百済条) 「有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟」 「尉仇台という者があり、仁信に篤があった。はじめて帯方の故地に国を建てた。遼東太守の公孫度は子女を妻とした。だんだん繁栄して朝鮮で強国となった。初め百家をもって海を渡ったので百済というようになった。」 ロングで引くと、こうなる。 これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余(吉林)と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余(遼西)に分岐した。 尉仇台系の扶余が遼東をめぐって高句麗と戦闘し、285年、鮮卑族慕容廆(ぼようかい)によって扶余(西百済)は全軍が撃破され遼西を破られると、海を渡って帯方の兄弟国、伯済国を強奪した。このため伯済国は百済扶余に変質し、盛んに高句麗を攻撃し始めた。さらに伯済国の後ろ盾になっていた南方馬韓も破壊した。372お礼に馬韓から奪った谷那の鉄で作った七支刀が送られる。(神功皇后摂政52年)このときには馬韓は破壊された。船をたくさん持っていた阿人は日本に逃げたので馬韓には馬韓人しかいなくなった。伯済と婚姻同盟はこの尉仇台系の扶余の侵入によって破られたのだ。日本に逃げてきたのがは恐ろしく好戦的で強力な戦闘力をもっていた。日本の神社は伯済国系と馬韓系の神社がほとんどである。こうしたことから日本は6世紀には新参者の好戦的百済を嫌う風土ができあがった。 A:『魏志夫餘伝』 『 永寧は (漢):後漢の第六代皇帝・安帝劉祜の元号(120年-121年)後漢の安帝は在位106年 - 125年であり、時代考証では尉仇台に合わせると献帝(けんてい)になろうか。後漢の最後の皇帝。諱は協。在位期間(189年 - 220年)で、その195年頃に尉仇台に印綬金綵を授けた。印璽には「濊王之印」と彫られていただろう。 *金綵(きんさい)は金色の絹糸で編まれた王衣のことか。 注:この記述の安帝ではなく、献帝(189-220)と解する。尉仇台が登場するので、その活躍した年代に修正する。 後漢・献帝のとき曹操が魏王となる。あるいは、東晋の安帝(396年 - 403年)も試行錯誤したが、倭王賛の時代になって、これも適しない。 B:『後漢書』「東夷傳」 「 A:魏志扶余伝とB:後漢書東夷傳も安帝を間違いとし、献帝に修正すると、 尉仇台=師升となり、なんと倭国王として奏上し、奴隷を160人も貢献して印綬金綵を賜ったことになる。 尉仇台は『倭国王』を任じて、なぜ「濊王之印」を拝したのだろうか。 『尉仇台死簡位居立無適子有孽子麻余位居死諸加共立麻余牛加兄子名位居為大使輕財善施國人附之歳歳遣使詣京都貢獻』 「尉仇台が死に簡位居が立った。簡位居に嫡子がなく、尉仇台の庶子の麻余があり、位居が死ぬと、豪族たちは麻余を共立した。(簡位居の?)兄の子、名は位居が大使となった。蓄財を軽んじて、善く施したので、国の人々は支持していた。年々遣使して洛陽に参上し、貢ぎものを奉った。」 *庶子は王の側室にもなっていない身分が低い母との間に生まれた子供を云う。 *扶余では兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)という習慣があった。 この時代は王の長男が必ず太子(嗣)になるというわけではなかった。弟の妻と二妻となると難しい問題になり、後宮では子供がよく病死することになる。 *扶余では奴婢や女官を殉葬する習慣があった。 有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。 *中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙(墓穴)の中に造られるという。古代の中国やモンゴル・朝鮮にも殉葬はあった。 |
近肖古(クンチョゴ)王とは 近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。 『三国史記』には諱・諡は伝わっていない。『晋書』では余句(徐句))、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。 近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ、比流(ピユ)王の2番目の息子である。彼は369年頃、馬韓(マハン)を攻撃し領土を全羅道南海岸まで拡大した。更に、洛東江流域の小国数か国の支配権も伽耶から奪うことに成功する。371年、近肖古王は高句麗を攻撃し、王の息子である近仇首(クングス)が自ら兵を率いて高句麗の首都を攻め高句麗の王である故国原(コグックウォン)王を戦死させた。これにより百済の勢力は黄海道(ファンへド)地域にまで伸びることになり、百済の歴史上最も広い領土を持つこととなる。 襲津彦、新羅を討つのに美女2人の懐柔策に嵌まって、加羅を討つ。木羅斤資加羅を復す。(神功皇后摂政62年に記事) 313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが、この戦いで百済が勝利したことにより海上権は百済が掌握する事となる。 京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョルラ)道などと江原(カングウォング)道の一部、そして黄海(ファングへ)道の一部までを占め古代国家の礎を築いた近肖古王は、漢山(現在のソウル)首都を遷し中国の東晋に遣使 鎮東将軍領楽浪太守に叙せられる。 中国の南朝文化を取り入れた百済は、こんどは日本へ阿直岐(アジッキ)と王仁(ワングイン)を派遣し論語、千字文などの儒教経典と漢文を伝えた。彼らは日本の王や太子などの王族に直接講義をし、日本ではこの時から文字の使用が始まったとされる。この他にも近肖古王は最高の工芸品と言われた七支刀を日本の王へ下賜した。 領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げた近肖古王は王権の権威を高め、さらに自身の業績を高めるため、仏教を受け入れる。また、、博士・高興に百済の国史である「書記」を書かせた。 近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、官等制を拡充した。王権を強化し王位の継承を父子相続に変えた。王妃族を真氏に固定した。 日本書紀 神功皇后 摂政52年(内容は372年の出来事の記事である) 『治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 これを聞いた百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。』 375年に近肖古王が退くと彼の息子である近仇首が王位に上った。 すると百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗はここぞとばかりに再び百済を攻撃し水谷城を陥落させた。これを契機に百済と高句麗は、攻守を繰り返す戦闘に入ることになる。そして391年、高句麗史上最高の征服君主である広開土(クァンケド)大王の波状攻撃で百済の勢力は急速に弱体する。檀君王儉(ワンゴム)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした広開土大王は海外遠征に先立ち、392年百済を攻撃し10余個の城を征服した。 このため、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も新羅に奪われた。 こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に、百済には384年に伝えられた。 百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛鳥文化が仏教を中心に形成されることとなる。 |
<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 広開土王に攻撃された阿莘王、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>とは 安帝(あんてい)は、東晋の第10代皇帝で、在位396年 - 403年 、404年 - 418年 (403年一時皇位を簒奪されていた)である。 『梁書』帝紀 晋の安帝の時、倭王・賛あり。と、記事。 阿莘王(アシンワン、392-420)、)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。 辰斯王は阿莘王が殺害した。 漢江以北の土地を失う。 即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた関彌城について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった。翌年にも高句麗と戦って敗れており、さらに396年には好太王に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。阿莘王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。しかし服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、 太子の余映を(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。また、399年高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みている。 太子の余映を倭に送る。427年高句麗平壌遷宮。
(注) 漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注:以下・・・「如墨委面」と「倭」・・・・ 魏の如淳が『蛮夷の「如墨委面」は帯方郡の東南に一万里も離れている。』と伝えている。 讃は『倭がその国の名前ですございます。墨を用いたとは言っていません。それで「委」だけを「倭」といったのです。』と言った。 師古が『魏の如淳が「如墨委面」は、おそらく「委」は「耳」という字と同じ発音だから、「倭」ではない。「倭」の発音とは矛盾する。昔からいまだに倭国という。』と言っている。 「魏略伝」には『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』と記録にある。 <倭王讃は奏上書に倭国ではなく、委国と書いて、書き直しを迫られているのです。師古には「倭」は「如墨委面」と同意であるという認識があった。「如墨委面」は周ー呉の時代に使われた古い語彙である。文官が「委王」と書いたのだろう。「讃」は「如墨委面」を知らなかったので、恥ずかしい返答をしてしまう。指摘されても気づかなかった。> *「北虜南倭」、北は南の倭をとりこにする。この「委」は南方にある。呉の太伯から来ている。 *訳文:R@黒澤一功 *如淳は3世紀中頃の人物(魏) *師古は7世紀前半の人物(唐) |
腆支王(チョンジワン、生年不詳 - 420年)は百済の第18代の王(在位:405年 - 420年)であり、阿莘王の長男。『梁書』では余映(徐映)(余(徐)は百済王の姓・扶余の一字を取ったもの)、『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。倭国へ人質として送られていた腆支王は倭国で阿莘王の死を聞き、哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人は碟礼(碟礼(末弟・ソルレ)を殺して腆支王を迎え入れ、ここに即位がなった。417年7月には東北辺で沙口城を築くなどして、再び高句麗への対抗の態勢を整えていった。 |
倭王 済とは 毗有王(ピユワン、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:427年 - 455年)であり、先代の久尓辛王の長男、または『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注では第18代の腆支王の庶子とされる。『三国史記』には諱・諡は伝わらず、『宋書』には百済王余毗(徐毗)(余(徐)は百済王の姓)として現れる。427年12月に先王の死去により王位についた。433年新羅の訥衹王と同盟を結ぶ。 |
倭王 済 蓋鹵王(ケーロワン、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶(徐慶)(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。 蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出た。十一人の内訳は余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。このうち長子余紀が文周王になり、余混が461年に来日した昆支である。昆支は 河内で倭の援軍を得て、自ら進軍したが、すでに高句麗に攻略された後だった。そのため、昆支倭軍は、伽耶国を攻撃、比利・辟中・布弥支・半古の四邑を百済に割譲させたのが真相だろう。 高句麗は、僧侶道琳をスパイとして送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなった。 472年北魏に高句麗征伐を要請、北方(遼西百済)と南方(伯済・河南百済)と南北同時戦線の戦術へ同盟を要請したのが、いけなかった。これが高句麗に漏れて475年高句麗長寿王(チャンスワン広開土王の長子)に3万の兵を率いて急襲される。南漢城は陥落して蓋鹵王は阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)で処刑された。このとき、大后・王子ともども殺されたが、長子余紀は新羅に援軍を要請しに出向していたので無事だった。また、次男余昆(木崑攴)また日本に徴兵に行ったため慰礼城には居なかった。 『梁書』諸夷伝』興死して弟の武立つ。倭王・興は蓋鹵王である。 雄略20年の記事では「百済国は日本国の官家(みやけ)として、ありくること久し。また、その王(こきし)、入りて天皇に仕えす。四隣の共に識るところなり。」と高句麗王が云ったため、百済の王族・遺臣などを全滅させることを止めたという内容である。ここでいう天皇は後世の修治であり、ただしくは王である。官家とは貢納国であるので、百済が日本の王に貢納してしいるというのは書記のポジションである。 『乃ち其の弟軍君(崑攴君なり)に告げて曰く「汝、日本に往でて天皇に事えまつれ」という。(雄略五年)』書記は出来事の年 代、時の人名をモザイクのようにばらばらに書いており編纂された様子がない。蓋鹵王(可須利君かすりのきし)其の弟軍君は昆支(こんき)である。 弟軍君・昆支(コンジ)の子が木劦満致で、昆支(木羅斤資)が新羅攻めをしたときに新羅の婦人との間に生まれた子である。父の功あって任那に強い力をもち、百済と倭国の間を頻繁に往復している。百済の政治を執り行って、王の母と相淫していると記録された。 蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘(庶子)を倭王に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を貶めた。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう政略結婚はこりごりだ。(この娘は日本書紀で池津姫として記事)いま、側室で妊娠している女性を嫁 せるから、琨支よ、一緒に日本に行ってくれ」、これは倭王(欽明天皇)との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえた のである。妊娠している婦の名前は分からないが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋で子供が産まれたので「嶋君」と云う。昆支は船に乗せて嶋君を送り返す。この子、なんと武寧王に即位。武寧王は故に「斯麻王」 (書記では)と書く。嶋君は実に41歳まで日本で暮らしていたのちに、武寧王となったのである。 *池津姫:慕尼夫人(むにはしかしの娘)を飾らせて適稽女郎(ちゃくけいえはし)と呼び、(雄略)天皇に奉った。日本書紀 雄略天皇二年七月条 百済新撰云】池津媛は、雄略天皇天皇がまさに召そうとしたときに、石川楯(イシカワノタテ)と姦淫した。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来目部くめべを使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。【日本書紀 雄略天皇二年七月条】 458年、罽賓国((けいひん、拼音:Jìbīn)カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した( 『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國 扶桑(ふそう、拼音: Fúsāng フーサン)国は倭人の国と思われていた。ガンダーラ仏像が伝来し、後の広隆寺の弥勒菩薩に繋がる。 *加須利君(かすりのきみ)(雄略五年に記事)蘇我高麗と同一人物の疑いも。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 百済の475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す。この時の蓋鹵王以下一族郎党も殺戮されたと言われ、百済王統は滅亡した。そこで、余氏を遼西からもってきて、雄略天皇が熊津を与えて百済を復興させたという日本書記の記述が照合するだろう。 だが、経緯から百済を復興させたのではなく、扶余を復活させたという方が適切だろう。百済といわず、南扶余と国名を変えているのに、ずっと百済、百済と滅亡のときまで書くのは、事実に合わない。これは王統譜を一系にしたいがためだろう。 百済は、辰王を圧迫したわけで、近肖古王(364-375)の頃には辰王は半島から日本に逃げ出さなければならなかったようである。扶余族は少数であったが、大多数は複数小民族の連合帯であったため弱かったようである。、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。>、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
倭王 興とは 『梁書』諸夷伝 「晋の安帝の時、倭王賛あり。賛死して弟の弥立つ。弥死して子の済立つ。済死して子の興立つ。興死して弟の武立つ。斎の建元中、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に除す」とある。百済が除かれ、倭国王が倭王になった初めての称号である。 東晋は滅び、斉(南斉)が立つ。建元1年は479年、建元の期間は(479年-482年)であり、斉(南朝)太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年在位期間と同じである。倭王武は479に鎮東大将軍に叙せられた。倭王武が扶余王に与えられる鎮東大将軍の称号も持っていたという確たる文証である。 武は文周王(ムンジュワン、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。この人物は蓋鹵王の母の弟である。牟氏は王妃の氏姓なのである。この王が余氏(余氏は扶余氏ともいう)から牟氏になっているのは、急きょ王にならざるをえなかったからだろうか。男系血族が王になっていない稀な例である。 倭王が取れて持節督 倭だけとなっている。<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 文周王(ムンジュワン、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる。三国史記では伝えていないが牟都であろう。倭の五王の「武;mᵈuː」に当たる。字名が牟氏になった。 蓋鹵王が王位についたとき、文周は上佐平(百済の官位のひとつ。1等官の上に立つ宰相に相当)として蓋鹵王を補佐するようになった。高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際、蓋鹵王の命で文周は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王紀では木劦満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。 『日本書紀』においては雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津ウンジンを指す)を百済の汶洲王に下賜して国の復興をさせた、と記している。 『三国史記』年表においては文周王の治世を3年とし、百済本紀・文周王紀では4年条が存在。、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
『晋書』巻九・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉(徐暉)」(余(徐)は百済王の姓)として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉(徐暉)を「世子」の表現から阿莘王から王位を簒奪した、辰斯王である。また、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。 |
■木羅斤資と木刕満致は伽耶の王族か? 木羅斤資というのは日本書紀に書かれる名称。百済では木崑攴(ボッk・コンジ)、百済・任那・新羅を又にかけた勇猛果敢な王子である。近肖古王とともに将軍として活躍している。木刕の二文字姓は百済では不明で、百済以外の国からやってきた人物。近肖古王も生年不承だが、この人もすべて謎に包まれている。伽耶の大君長か、旱岐(かんき(国邑の長)とも取れる。木刕満致の父だということ、百済の猛将だが、伽耶にめっぽうこだわる人物である。 近肖古王は二つの方向から栄山江流域に対する攻撃を断行した。一つは、木羅斤資の率いる軍隊が加耶地域を出発して南海岸に沿って康津地域に到着し、中心勢力であった沈弥多禮を攻撃するルートで、もう一つは近肖古王が自ら太子と共に軍隊を率いて栄山江流域に向かうルートであった。百済軍の攻撃を受けた沈弥多禮は最後まで抵抗したが、ついに力尽き、比里•僻中•布弥支•半古などの四邑も降伏した。これによって百済は、栄山江流域全てを自身の領域に編入した。 369年に百済は、将軍木羅斤資を遣わして加耶帝国に対する武力示威を展開し、ついに比子伐•南加羅•安羅•加羅など加耶の7国を影響圏内に入れた。その結果、加耶帝国は百済に決まった貢納を負う条件で独立が保障された。木羅斤資は伽耶を占有して、新羅に寝返りそうな卓淳国を牽制していた。 神功皇后49年春、荒田別・鹿我別将軍を、久氐らと卓淳国にいたり将に新羅を襲おうとしたとき木羅斤資と沙沙奴跪に命じて兵を増強し精兵を以て新羅を破った。いわゆる加羅7国平定と馬韓の南部もついでに平定した。これは369年の近肖古王の軍事行動と重なる話である。引用で「木羅昆資と沙沙奴跪、この二人は、その姓を知らざる人なり。但し、木羅斤資のみは百済の将(いくさのきみ)なり。」とある。 (369年の事を、どうして神功皇后紀に記載するのか、日本書記の編纂者に尋ねるしかない。書記は出来事の年代、時の人名をモザイクのようにばらばらに書いており編纂した様子がない。) ■木刕満致は蘇我満智 百済と伽耶を牛耳っていた。 木刕満致は木羅斤資が新羅攻めをしたときに新羅の婦人との間に生まれた子である。父(木羅斤資)の功あって任那に強い力をもっている。百済と倭国の間を頻繁に往復している。百済の政治を執り行って、王の母と相淫している。 『其の父の功を以って任那に専たくめなり。我が国(=百済)に来入て、貴国(=ヤマト、日本)に往還ふ。制を天朝(ヤマト朝廷)に承りて、我が国の政を執る。権重いきおい、世に当たれり。然るを天朝、其の暴を聞こしめして召すといふ(百済紀)』 これと同じことが日本書紀 応神25年に書かれている。 『25年に、百済の直支王(余映・腆支王405-420)罷りぬ。即ち子久爾辛(余毗・毗有王427-455)、立て王となる。王、年若し。木満致(木刕満致)、国の政(まつりごと)を執る。王の母と相淫(あいたわけ)けて、多いに無礼す。天皇、聞しめして召す。 百済記に伝はく、『木満致は、是木羅斤資、新羅を討ちし時に、其の国の婦を聚きて、生む所なり。その父の功を以て、任那を専(たくめ)なり。我が国(百済)に来入りて、貴国(倭国)に往還(かよ)ふ。制を天朝に承りて、我が国(百済)の政を執る。権重(いきほい)、世に当れり。しかるを天朝(毗有王)、その暴(あしき)を聞しめして召す』と伝ふ。 文周王は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており、木劦満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王21年(475年))分周王は漢城に戻っていることは確かだが、木劦満致は新羅から先は行方不明である。木劦満致は勢力圏である伽耶で兵を募るのが考えやすい。時間が過ぎていく間に、漢城陥落の知らせが入り、倭国(日本)に逃避したのではないかと見られている。 日本に到着した彼は百済の執政者としての実力と父の功による伽耶の権益をもって、その三国の間に往還するスケールの大きい国際的大人物だった。
日本に来た木劦満致は身分も実力も上級で、蘇我満智の氏を賜って、履中天皇2年には平群木菟宿禰や円大使主とともに執政官となる。『古語拾遺』によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)。この伝承は、蘇我氏が5世紀後半すでに朝廷財政を統括していたとう史実を伝えている。 蘇我氏の始まりが満智である。自分の地盤である伽耶から王族を連れてきて王にした。それが、欽明天皇であろう。このとき、百済と倭国の実権を持つ満智は自らは日本に留まって、息子島君を百済王にしたのだ。天皇に仕えながらも、欽明天皇と百済の武寧王は、昆支が擁立した。 欽明天皇から急に蘇我氏の娘が、天皇の妃となり、31用明、32崇峻、33推古などと関わり、38天智、40天武、41持統、43元明、付近までその影響を、及ぼした。蘇我一族は満智、韓子、高麗、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた。その間、伽耶を百済からも新羅からも侵略されないように、等距離姿勢を保った外交路線は木羅斤資から始まる。伽耶の豪族の意地を見せつけた。欽明紀で伽耶4邑を百済に割譲しているが、百済の王室を知り尽くし、伽耶の運営も知っている満智ならではの戦略だったのだろう。欽明天皇の意志は「伽耶を助けよ」の一点張りで、新羅を討てという百済の再三の要請には耳を貸さなかった。満智は百済王にならなかった反面、百済の檐魯になる気は毛頭なかった。むしろ、百済を支配下に置いた実力者だった。 *百濟・蓋鹵王二十一年〔475〕に「木刕、祖彌皆複姓。隋書以木劦爲二姓。未知孰是」とあり、姓は木刕の二文字姓だとする。これいずれも未知とある。このため木羅(木刕)斤資を倭人と取る説があるが、木刕は伽耶系の氏の感じががする。 *木満致については、日本古典文学大系『日本書紀 上』は、頭注で、「三国史記、百済蓋鹵王二十一年(四七五)条に木劦満致とある。劦は刕の誤り。木刕は百済の複姓で、木・木羅に同じ。(下略)」と説明し、補注9-三九では、木満致=木劦(もくきょう)満致=木刕(もくらい)満致としている *日本書紀の奈良時代末頃の写本とされる田中本以外の多くの写本は、右の満智について「大倭木満致」と「大倭」の字を入れている。(安羅の)日本府を、「おおやまと・みこともち」と読むが、誰あらぬ、「おおやまと・きまち」である。裏付けは父の功あって任那を占有しているという百済記の記事である。 *旱岐(かんき)とは、古墳時代、朝鮮半島南部の任那諸国を治めた君主の称号であり、任那日本府の官職とされる。 |
倭王武 東城王(トンソンワン、生年不詳 - 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、諱を牟大(徐牟大)、あるいは摩牟(徐摩牟)とし、第22代の文周王の弟の昆支(徐昆支)の子とする。名と系譜については以下の異説がある。<された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 東城王は倭(日本)にいた昆伎(昆支王)の第二子の末多王である。末多は蘇我満智の弟に当たる。とうとう、百済王も蘇我一族が王位についたが、 501年 東城王は暗殺される。そのあと、蓋鹵王の子? 嶋君を武寧王として百済王に就ける。武寧王の生年は462年であるので、39歳で王位についたことになる。生まれたらすぐ返せとの命令はなんと39年も実行されなかった。、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> 『南斉書』では牟大とし、牟都(徐牟都)(文周王)の孫とする。『梁書』では牟太とし、余慶(徐慶)(第21代蓋鹵王)の子の牟都(徐牟都)(文周王)の子とする 。また、牟都を牟大・牟太の転訛と見る説もある。 <された。 <、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。 しかし、天監元年(502年)、牟太は太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都したのは牟太であり、余氏扶余は熊津に遷った。538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を『南扶余』と号した。「百済」系解氏の王族は475年に全滅していたからだろう。 、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。>された。> |
武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。 武寧王は41歳に至るまで倭国で生活。502年に百済王に即位。筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)生まれたので嶋君と呼ばれた。 |
神功皇后 摂政52年 治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 |
治世51年春3月 百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。」 |
治世52年秋9月10日 「我が国の西に河があり水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行き着きません。
まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすら聖朝に奉ります。」 そして孫の枕流王に語って言った。 「今、我が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて海の西の地を賜った。これに
よって国の基は固まった。お前もまた誼を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ死んでも悔いはない。」 |
「ある時、山麓(豊後国日田郡藤山村)に住む、藤原(藤山)恒雄が、山中で白鹿を射止めた。そん時、三羽の鷹が何処からともなく、天空から舞い降りて来た。一羽の鷹が白鹿の身にササッた矢を取りのぞき、もう一羽が傷口から流れ出ている血をぬぐい取り、最後の一羽が桧(ヒノキ)の葉にふくませた聖水を白鹿に飲ませた。すると、殺したハズの白鹿が生き返った!!! 白鹿の命を救った三羽の鷹の優しく美しき霊験に、狩人の恒雄は、殺生するコトの罪深さを悟る。そして、自ら善正の弟子となり、後に忍辱(にんにく)と改名。異なる【日子山】神様の聖地にもかかわらず、神仏様を仲良く合体して崇め奉り、神仏習合の霊山寺を建立。祖師の善正を開祖となし、自ら二世となった。仏教伝来における、日本初の仏教僧、誕生した。」 |
創建年不詳。旧藩時は鷹の子大権現と称し、入来郷五大社の一つとして尊崇されてきたが、明治の新制で無格社清浦神社となった。大正五年十二月二十八日鷹子神社と改称。 昔、三羽の鷹の子が牟礼山に飛来して、付近一帯の毒蛇を悉く食い殺した。そこで人々が住めるようになり集落ができた。或る日の夕方、雷鳴のような音響とともに、燦然とした火玉の光が南の地を指して現在の地に飛び落ちた。ここを神霊の地の択ばれたものとして、神社を建て素戔鳴尊の変身とする三羽の鷹の子を祀った。 往時より風、水を支配する平和の神として集落民より崇拝され、中世においては、軍神として各地より参拝者が絶えなかった。 現在は、大馬越地区の産土神として、家内安全、商売繁盛、交通安全、縁結び、安産の神として信仰されている。 |
伝説に曰く 仲哀天皇が熊襲征伐の時、大保の仮宮で天神地祇を祀った時に、高皇産巣日神が鷹の姿をとって現れ、北を指して飛び去り、松の梢に止まって姿が見えなくなった。 その後、神功皇后の勅命で高皇産霊尊の神霊を祭り、鷹の姿で現れた事からこの神の名前を隼鷹天神と称して、御神体の鷹を安置した。この当時の松は朽ちてしまい、その後には楠があり、それが今の御神木である。 |
仲哀天皇が御勢大霊石神社の方で祭祀する時に鷹が現れて北の方に飛んで行った時は、誰もが吉兆と思ったのでしょうが、 そのあとすぐに仲哀天皇は亡くなってしまいます。すると、人々は「あれは祟りの神だった」と噂したと思われます。 神とは誰かと言うと、主祭神の高見産巣霊の神だと言うことになります。 神功皇后たちはこの鷹が祟り神だったと知って、鷹が止まった木の所で丁寧に祀った事情が想像できます。 高見産巣霊゙の神って…、そう、高良山から追い出された高木の神の事ですよ。 高良の神に一晩の宿を貸したら結界を作られて戻れなくなったという。 高御産巣日神は別名・高木神(たかぎのかみ)、高牟礼神(たかむれのかみ)とも称され、高天原において天照坐皇大御神と共に天津神に諸々の命を下す立場の非常に尊貴なる神である。天照大神の父であり、かつ、物部大連公の遠祖であり、物部系の末裔は次のような姓に分岐している。 「天神(天津神)」の後裔 物部氏系 石上・穂積 高原・白石・久米・寺町・土井・林・北条・越智・三谷・南・三島・米田・河野・遠藤・吉田・長坂・大宅・内田・上野・鈴木・亀井・松尾・福田・高橋・熊野・宇治・児島・筑紫・長谷山・長谷部・日下部・川上・佐野・立野・田井・小田・稲葉・石崎・大井、<された。 菊池氏から分岐、兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・志岐・栖本された。>など・・・。 昔、高良大社のある高良山は高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれており、高木神がその地主神であられたという。 むかしむかし、この高牟礼山に高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)という神が一夜の宿として山を借りたいと申し込んできた。 そこで高木神は快く山を貸したという。 すると高良玉垂命は一夜のうちに神籠石(こうごいし)というものを築き、高牟礼山に結界を張ってしまった。 そのため高木神は山に戻れず、やむなくこの高樹神社の場所に鎮まったとされている。 |
「和銅元年宇佐郡内大河流西岸有二勝地一、東岸有二松木一、化鷹顕レ瑞、是大神之御心荒毘坐也、同五年大神比義與二 辛島勝自一、依二神託一、以二勅定一令レ造二神殿一、鷹居瀬社是也、辛島勝自爲二祝職一、同勝意布賣爲二禰宜一、勝自之妹黒比賣
爲二采女一、並御戸代田二段進之、辛島勝波豆米爲二禰宜一矣、靈龜二年託宣、此所路頭往還人無禮、就二此等一甚愍二 小山田林一移住願給者云々」 と見え、また大宰管内志に云く、 「宇佐宮記に曰、敏達天皇元年云々、大神化而爲レ鷹飛二翔虚空一、時大神ノ比義、辛島勝乙女兩人、三年之間斷レ穀而 祈申時、神託云、吾化二爲靈神一飛二翔虚空一、留無二棲息志一、心荒多利、其與利郡瀬仁移牟云々、和銅五年始造レ社、至二 靈龜二年一五箇年之間御鎮座とあり、鷹居は多可爲と訓むべし、里人云、鷹居社は宇佐郡上田村内にあり、田 笛より鷹居まで二里十町あり、神殿、拝殿、石鳥居あり、本宮を去る事十町餘西にして松林の内にあり、今 は上田村の人是を祭る十二月中ノ卯ノ日官從五位下志摩守大神ノ頼唯奉仕す」 |
『並び鷹の羽』家紋 肥後菊池氏一族 肥後国菊池郡赤星 菊池氏からは兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星 ・黒木・甲斐・城・志岐・栖本などの庶子家が分出し、 鷹の羽紋は肥後(熊本県)を中心として南九州一帯に広まった。 |
『打違い鷹の羽/三つ巴』 阿蘇神宮 甲斐氏 crossing falcon 's plumes inside a circle |
『違い鷹の羽』 阿蘇氏 肥後国一の宮の大宮司職を古代よりつとめてきた名家 |
阿蘇神社 熊本県阿蘇市一の宮町宮地 12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。 一宮:健磐龍命(たけいわたつのみこと):- 第1代神武天皇の孫 十一宮:國造速瓶玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと): 一宮の子。阿蘇国造の祖=國造神社(くにつくりじんじゃ)の一ノ宮、大宮司は阿蘇氏。 |