○謎の京都太秦 大酒神社の摩多羅神 (マタラシン or マタラジン)
京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。その間も、祭の世話役や見物人などから、やじが飛ぶ。最後に、祭壇から薬師堂の中に駆け込んで終わりとなる。摩多羅神の祭りは、かつて「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に異ならず。(太秦広隆寺祭文)」と言われ、昔は、かなり乱痴気な祭と言われているが、今は整然とした儀式である。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。この奇相でおかしな摩多羅神、サンスクリットないし、インドの俗語であるといわれるも、その語彙は特定できない。また、仏教の守護神とされているが教典にも定かではな
い。どちらかといえば道教神のようだ。しかし、この神名はどこを調べてもよくわからない。天台の学僧であった覚深(かくじん)は、将軍・徳川吉宗のころ(1738年)に、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑いを起こす輩もあるべきことなり。」(摩多羅神私考)と述べている。摩多羅神の本性はすでに謎に包まれていたのである。
そこで、この摩多羅(マタラ)とは、摩(マ)と多羅(タラ)とに分けてみよう。すると、見えてくることがある。摩はマー(Ma)、多羅はターラー(Tara)。
○摩多羅神の語源は、ヘブル語でオシラー女神か
マ(Ma)はインド・ヨーロッパ諸語で母親を意味する基本的音節で、Ma・Maは母親の乳房をないし、母親を意味している。アイヌ語では女性を意味する語音である。シュメールのアッカドの太女神はママ、マミ、マミトゥという。*ヘブル語のばあい、「MA」は、液体=Mと、誕生=Aの意味で、聖なるしるし(メム-アフレ)として、霊験あらたかな護身の力があった。この二文字は紀元前9世紀の初めからユダヤ人の護符にされていた。MAは太母神の呪力をもっていたわけである。ペルシャ人は母性霊をムゥルダト-アメレタト(MA)と呼び、死と再生を司る。
○摩多羅神の語源はサンスクリット語?
多羅は、通説的には多羅菩薩、Tara(ターラー)、つまりチベットの緑ターラーと白ターラー、神秘的で魅力的な観音(アボロキティ・シュバラー)で、衆生を苦しみから救う救度仏母として崇拝される。原語ターラーとは、眼、瞳(ひとみ)のことで、仏典では眼精・瞳子・妙目精などと訳された。
ターラーは、その瞳から大光明を放つ。
ターラーはまた、星という意味があり、この女尊はチベットのタンカ(タペストリー)に星の輝く夜空を背景に描かれる。タ-ラーは、めずらしい夜の女神である。
そもそも、太秦のこの牛祭は夜祭りであり、真っ暗になってからはじまる。この太秦の摩多羅神は唐模様の頭巾をかぶっておられ、その頭巾に北斗七星が描かれる。
ターラーにとっては夜こそふさわしい。
ターラーは救いと夜空に輝く星の意味を併せ持った境界神である。
偉大なる女神ターラー(TARA)にはサンスクリット語で語源的には川を横切る、運ぶ、超越するなど、また、解放する、逃れるなどの意味がある。
そして、ターラーが救度菩薩といわれるのも冥界との境界においてこの女神が援助の手をさしのべてくれると信じられているからである。その意味で、ターラーは純粋な「境界神」であり、両性を併せもつ「超性」の菩薩である。
ラテン語のTER-MINUSは境界、制限、終局、限界などの意味があり、ローマ神話ではテルミヌスの神の語源となった。また、TARAはサンスクリット語のSTRIに由来しており、「まき散らす、拡大する、拡散する」などの意味があり、英語ではSTARになった。星とターラは切ることが難しいのである。
どこかユーモラスな摩多羅神のお面
摩多羅はシュメール・インド・中国秦山をへてやってきた牛母女神?
広隆寺では摩咤羅神の字が当てられ、「まだら」と読み下されている。
一方、北斗七星があるということは道教に習合されて日本に来たことになるのだろうか。烏帽子には、北斗七星(北極星)が描かれている。なぜ北斗七星があるのか・・実はきわめて重要なことなのである。北斗七星太一を象徴し、神々の神、万物をすべる神を意味し、皇帝の位を意味するからである。北斗七星の意味はすこぶる大きいことが後に分かってくる。
慈覚大師円仁(えんにん)が唐からこの摩多羅神を持帰ったという伝承がある。この伝えによると、円仁(794-964)が、唐から日本に帰る船の中に念仏の守護神として現れたとされる。「渓嵐拾葉集」では、摩多羅神は「吾は障礙神である。吾を祀らなければ、往生の願いは達せられないであろう」と告げたという。帰朝した円仁は、その後、常行三昧堂の念仏の守護神として祀った。確かに、中国から渡来した神名であることだけは確かなようだ。そもそも、入唐八家といわれる円仁はサンスクリットの音韻を中国語を通して音読できた。悉曇学(しったん学)の祖というべき貴重な人物だった。
そこで摩多羅が円仁が招来したと言われることから、この摩多羅はどうしてもサンスクリットの音韻を踏んだものだろう。サンスクリット語で「Matr」は、「MatrーVeda(Vedaは神)」というと、これが「神母」となる。Matrは、そもそも雌牛の意味を持っている。そして、さらに母という意味を合わせて持つ。なんと、Veda、神と連結させると、神母(地母神)になる。
「Matr」は、5母音を踏む日本語に転化するとマータラになる。マータラ・ヴェーダ。それにしても、あまりにも見事な訳語がたち現れて来た。一語で、雌牛という意味と母という意味がある。その両義性がなんとこの「Matr」一語で出てくる。まさに、なにゆえに「牛祭」と呼ばれるようになったのか、そしてMATARAがなにゆえに神名なのか、もうこれ以上言う必要もだろう。
始まりは、そもそも摩多羅という神名がストレートにルーツ(本地)が見いだせないことだった。このために、Ma-Taraといったん置き換えてみると、母なるターラーが浮かび上がった。しかし、Mata-Raと音節を変えて分けてみたらどうだろう。そこで、Mata-Raとわけてみると、サンスクリットでは摩多(マーター)は母を意味し、羅(ラ)は火、ないし太陽を意味する。ここでは、「母なる太陽」、なんと「アマテラス」の意味になる。さらに、Matrでは、雌牛と母神の意味が出てきた。円仁が懲りに凝った神名だろう。それにしても、この漢訳神名は驚くほど完璧で美しい。祭文を読み上げる摩多羅神と、後ろに立つ青鬼、赤鬼
さて、そこで、前説のTARA・タラについてさらに深く知るには、じつにアリアン民族の深層に古来からある女神信仰にふれなければならない。
毎年、ギリシャのアテネで開かれていた古代の祭で、タラマタ(Taramata)の祭(母なるタラの祭)があった。きわめて放縦な乱行の風習のため「どんちゃん騒ぎ」-Riotingの異名をとったといわれている。 タラマタが「TARAの祭り」であり、ターラー女神を祀ったお祭りだったことになる。
意外なことにインドから中東、ヨーロッパ、アイルランド、また、中国、日本にいたるまで、原初の太地女神タラがおられる。アリアン民族に共通に見いだせる原初の大地女神の名、「テラ」は、ラテン語では「テラ・マーテル」、ヘブライ語では「テラー」、ゴール語では「タラニス」、エストリア語では「テュラン」。すべて、タラと語源が同じであり、これらの全地域で最初で最古の、もっとも偉大なものとされた。日本神話の神アマ・テラも「テラ」の文字が見えるのは偶然だろうか。これは、うそのような話だが、鎌倉・室町時代には摩多羅神と天照大神と同根視する密教の信仰があった。後節に述べることにする。
○チベットのターラー
タラはインドでは、ヴェーダ以前の古い女神のなかで、「最高の崇敬を受けるもの」と呼ばれた。
チベットではラダック・アルチ寺のスシュムク講堂の初層に「緑ターラー」が美しく描かれている。チベットでは最も人気のある慈悲を具現化する観音、母なるターラーに次のような祈りを捧げる。ターラーはマンダラでは、多羅菩薩として伝真言院胎蔵界曼陀羅の蓮華部院の中に描かれている。
Green Tara
スシュムク講堂の初層
秦族がなにゆえに秦始皇帝を大辟神社に祀ったかといえば、彼らが一族の風習=先祖を祀り崇拝する根底の意識=に従ったからに他ならない。それが、始皇帝であり、ダビデ王だった。その大辟神社が摩多羅神の祭り「牛祭」を行うようになったのはなぜだろうか。
秦氏一族がなぜ摩多羅神を招来する理由があったのか・・・・それが最大の謎でもある。
その謎は秦始皇帝が封禅(ほうぜん)の儀式を行った中国の霊山・泰山にある。新羅、山東省、出雲・大和のトライアングルにおいて秦族は互いに交流があったであろう。新羅の土着神もまた秦一族に祀られているのである。円仁「慈覚大師」が秦族の援助をうけて、摩多羅神と、赤山明神を護法の神として招来した。そこで、天台宗系はこの系譜に深くつながっている。円仁死後、円仁自身の遺命によって、赤山禅院(京都市左京区修学院)が建立され、天台延暦寺の別院として京都の表鬼門を護った。これとほぼ同じ頃に、大辟神社でも摩多羅神の祭儀が行われるようになった。
○泰山府君は円仁が招来した!!!
赤山禅院で祀られている赤山明神は、泰山府君ともいう。源平盛衰記では、「赤山明神とは震旦(中国)の山の名なり。かの山に住む神なれば、赤山明神と申すや。本地は地蔵菩薩なり。泰山府君とぞ申す。」と、あり赤山は泰山のいわば分院だったのだろうか?
泰山は中国の山東省の霊山で、この山の神が泰山府君である。円仁の著「入唐求法巡礼記」では、838年入唐後、天台山で修業しようとしたところ許されず、揚州の開元寺で学ぶ。一年後に帰国する予定が、乗船した遣唐船は山東半島の登州に漂着、それからしばらく赤山法花院で学び、五台山、長安に遊学、再び新羅の商船で日本に帰った。その船は847年博多の鴻臚館(こうろかん)の浜辺に着いた。山東省の海辺には800年頃、新羅の居留地(新羅坊)があり、秦一族が定住していた。そこは新羅船(横揺れに強い外航行船)が行き交っていた。赤山法花院は新羅居留民(秦氏)と張
保皐(チャン・ボゴ)が寄進した寺院だった。円仁が唐の帰りに船の上で念仏の守護神として摩多羅神が現れたとする伝説の船とは新羅船だった。ここで、浮かび上がるのが日本~新羅~山東省(登州)という同祖同族ネットワークである。それは新羅のネットワークである。山東半島の港町・赤山(当時多くの新羅商人が居留する新羅坊だった)に赤山法華院を寄進したのはJang
Bogo;張 保皐(チャン・ボゴ)である。790年頃 - 846年?)は、統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた大人物で、張宝高とも記される。朝鮮語ではどちらもチャン
ボゴ(장 보고)と読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。『新唐書』巻220・新羅伝では、歓迎の宴の最中に閔哀王が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王を立てたこと、新王によって張保皐は宰相に取り立てられた。840年(承和7年)には日本との通交を拒否されたが、翌年には民間の交易が認められ、北九州の官人や入唐僧などと貿易を通じて深くかかわっていたことが記録されている。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。9世紀前半、山東半島の港町・赤山は新羅の人が居留するところとなっていた。円仁は短期で帰国しなければならなかった。入唐請益僧円仁(慈覚大師:比叡山第三代法主)の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には張保皐自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将張詠が円仁の帰国実現に尽力した。
ところが同院の本尊は財福を与えるという「赤山大明神」。とりわけ商人らが同院を頻繁に訪れるのはこのためだった。五十払い(ごとばらい)の商慣行もここからはじまった。本来毎月5日を意味する「いつかばらい」からはじまり、徐々に5、10、15日などを含む「五払い」の伝統につながったと言われる。。
京都で3代目建材会社を運営するイナガキ・トシヒコさんは「以前から毎月5日に取引の代金を精算する慣行を今でも守っている」と話す。この寺院の叡南俊照師は「日本人も起源をよく知らないこの商慣習の出発点は赤山禅院」とした後「毎月5日、赤山大明神の祭日に寺院を参拝すれば、事業が繁盛し、掛け金の収金が順調に進むという俗説からはじまったもの」と説明した。
このように日本人の暮らしの深くに痕跡(こんせき)を残した、財福をもたらす「赤山大明神」はいったい誰だろうか。その根を探ってみると、驚くことに新羅(B.C.57-A.D.935)時代の人物、張保皐(チャン・ボゴ)が登場する。歴史学者は「赤山大明神=新羅明神=張保皐」という等式で説明する。当時の日本人にとっては張保皐が巨商、巨富と認識されていた。張保皐と取引すれば金持ちになれる。赤山明神が商売繁盛の御利益があるとされるのもうなずける話である。張保皐の船団が頻繁に日本を行き来した。日本の貴族は張保皐の船団が持ってくる新羅・唐・西域の物を好んだ。高官は先を争って張保皐と取引し、利権をめぐり争うこともあった。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、張保皐と取引をしたほどだという。何であれ、張保皐(チャン・ボゴ)が日本との取引を重視していたことが大きい。
◇赤山大明神と張保皐のつながり=赤山大明神の根を調べるためには、ひとまず京都北部の比叡山にある天台宗の総本山、延暦寺を訪れねばならない。この寺は日本天台宗の、第3世天台座主(ざす)に任ぜられた円仁(えんにん)は慈覚大師と贈り名をもった。慈覚大師が遺命して興隆の基礎を確立した所だ。平安初期の天台宗の僧、円仁は中国で新羅明神にたくさん助けられたと記述されてある。
赤山禅院内にある小さな赤山宮は次のように記述されている。「円仁は入堂、留学の際、中国の赤山で新羅明神を仏法研究の守護神として祭り…その功徳により10年間の修行が無事に終わり…」。
円仁を助けた人物は張保皐(チャン・ボゴ)である。そこで、赤山明神=新羅明神=張保皐の等式が成り立つ。
円仁は死ぬ前、弟子らに赤山宮とは別に新羅明神を祭る寺院を設けるように、という遺言を残した。弟子らは円仁の死去から24年後の888年に新羅明神のための寺を設けたが、それが赤山禅院だ。円仁が祭ることを命じた新羅明神が誰なのかは自明である。木浦(モクポ)大・姜鳳龍教授(カン・ボンリョン、歴史学)は「赤山大明神、つまり新羅明神が張保皐と関連性があるという認識に、歴史学者の間で隔たりがない」と話した。
慈覚大師がもたらした一方の神が赤山明神=新羅明神=張保皐であることを踏まえると、他方のマタラ神は牛頭大王だと比定できるが、はたして歴史上の人物に行き当たるであろうか。
*
韓流ドラマ「海神」 해신 2004/11/24-2005/5/25(全51話)でドラマ化された。
*張保皐、日本で「財福を与える神」になった理由 <http://japanese.joins.com/article/383/121383.htm>
○霊山・泰山は始皇帝ゆかりの山
「赤山から東北のはるかかなたに青山という山がある。この山から秦の始皇帝が東に向かって蓬莱山(ほうらいさん)などの三神山(さんしんざん)をみていた」という故事を円仁は「入唐求法巡礼記」に残している。(山東地方の山でここから大海原が眺められる。海を見た事のなかった始皇帝はたいへん感動した)。始皇帝は政治には韓非などの法家に、後生を道教に求めた。なにしろ、焚書坑儒、儒教書をことごとく燃やし、儒者を生き埋めにした。始皇帝は根っからの実利主義でかつ道教好きという二面性があった。
東に船出したあの徐福は三神山の仙薬を求めて日本に来たことは、のちほど紹介する。山東の北部にあるこの山は道教の大霊山であり、最も東に位置するため*東岳・泰山(たいさん)とも云われる。秦始皇帝が天地の神を、ここに奉った。皇帝の先祖ををはじめ、もろもろの神々を祀っていた。泰山が太一神の住する山で、最高の霊山、聖地とされてきた。
○泰山府君の娘、碧霞元君が摩多羅神か?
泰山府君は、「死人も生き返えす」と言われるほど、験(しるし)が強く、陰陽道(おんみょうどう)の祖と言われる安部晴明(あべのせいめい)は、とくにこれをあつく信仰していた。安部晴明は、「泰山府君の祭」を行い、重い病気を癒す効験をしばしば表わした。(今昔物語巻一九)
泰山府君は、生命を司るとされ、厄除け、福録長寿の神として日本中世においては、多くの人びとにたいへん人気があったのである。
泰山府君は、中国の名前のまま、日本で信仰されたという事では珍しい。
その本家本元の泰山は、標高1545㍍。さほど高い山ではないが、その頂上に行き着くには、7,412段の階段を上ることになっている。「天にかかる梯子」と呼ばれ、なんと約9000㍍も続く。この階段を登って泰山登頂を果たすと、永遠の命が得られることになっている。登りはじめてから降りるまで、たっぷり一日を要する。今は、南大門まで、ロープウェイが敷設されているが、利用すると御利益が薄くなる。いまは、世界遺産のひとつとなっている。
驚くことに山頂には、あの泰山府君よりも、盛大に奉られている神がいた。その名前を碧霞元君(へきかげんくん)という。
「碧」は純粋という意味と緑色をも意味する。「霞」は夕暮れを。「元」はもともとの。君は女性名にはよくつけられる尊称。この緑と純粋の意味をもつ「碧」は女性名にしか使われない文字である。東嶽大帝(とうがくたいてい)の娘ともされ、また、この碧霞元君、泰山娘娘(たいざんにゃんにゃん)、天仙聖母(てんせんせいぼ)、天仙玉女(ぎょくじょ)とも呼ばれ、慈悲深くあらゆる願いをかなえてくれる。また、人々の生活を占う霊籖を降す神でもある。あまりに多くの人々が参拝したため、明代には参拝者に入山税(香税)を課したほどであった。華北各地に碧霞元君の廟が建てられた。泰山信仰といえば、泰山娘娘(碧霞元君)を指すようになった。
観音菩薩(アボロキティシュバラー)は、中国に入って”観音娘娘”(くわんいん-にゃんにゃん)となり、台湾では、観音(くわんいん-ま)と呼ばれて、道神といっしょに中国民衆に愛され、広く分布されて信仰されていた。こうした道神、「娘娘」(にゃんにゃん)が、法華経第二五品の観世音菩薩普門品で説かれる観音菩薩であると言われている。道教に編入されたアボロキティシュバラーが観音娘娘”(くわんいん-にゃんにゃん)なのである。他方、法華教の普門品、そのものが原典には存在せず、中国で付け加えられたものと今日では考えられている。漢訳経典だけからは、こうしたことは知ることができない。
さて、観音菩薩が女性であるのか、男性であるのかあいまいになっているのは両性という理由によるからである。菩薩は、男性、女性の区別といったカテゴリーに入らない特殊な”超性神”である。しかし、中国では女性であることがはっきりしている。「娘娘」(にゃんにゃん)とは、上海語で「おばさん」の意味になる。だいたい文字の旁(つくり)が、女偏であることで明快だろう。また、タントラでは、女性か男性かは、はっきり区別される傾向がある。
観音菩薩は、古代インドのヴィシュヌ神の貞節な妻、富と幸運の女神ラクシュミーなどに根ざしているとも言われている。インドの古代信仰の源流は地母神に根ざしているので、母神、女神の影響はすこぶる大きい。ヒンドゥーのシヴァ神信仰は、シャクティ(性エネルギー)が全宇宙の根源力だとする。言いかえると、この地球は(風と水)、いわばシャクティの”活動する子宮”なのである。
こうして、タントラは宇宙の生成、発展を性的結合に見いだしている。シヴァ神は、美しい妃パールヴァティと神々の歴で百年間、交わってばかりいた。あきれた神々が中止を申し入れると、パールヴァティは神々に喰ってかかった。シヴァとパールヴァティの両質の合体によって、とりまく一切の創造と破壊が生じている。パールヴァティはいろいろと変身(アヴァアタラー)する。あるときは、ドゥルガーと呼ばれる戦士、あるときは、カーリーと呼ばれる残忍な復讐の女神に化身した。このパールヴァティの化身、ドゥルガーは念怒相の”馬頭観音”に似ているとも言われる。カーリーの拳族に、チベットと日本で意外と影響力を持っていたダーキニがいる。ダキーニは恐ろしい姿をしているが、チベットでは内火(内光)を点火するためにダキーニを観想する。内火は、シャクティ(女蛇)のエネルギーそのものだとされているからだ。
なんであれ、歓喜仏とつながるパールヴァティはシャクティー派の絶大な信仰を得ている。また、興味を引くのは、シヴァと、パールヴァティの乗り物は聖牛ナンディンである。牛に坐す神は”牛祭”の様式の原図となっているとも言えよう。(すでに紹介したが、焔摩天もまた水牛に乗っている。)
シヴァと神妃が左右半分合体したアルダナーリシュヴァラ像
○アニマとアニムス
ユングは男性に潜む女性性を「アニマ」、女性にある男性性を「アニムス」と呼んだ。(ラテン語)
男は女を、女は男を互いに求めあうようになったのは、完全無欠なミュトス(プラトン・饗宴)に戻りたいという衝動である。わたしたちの心の内側に「永遠の全母」と、「永遠の全父」が閉ざされている。
内なる心の声がどう響いているのか、これを黙殺すると本当の恋は成就しない。無意識の領域の「アニマ」、「アニムス」が相手を受け入れないと、その恋愛は真の祝福と喜びにならない。ところで、Androgyny(雌雄同体)になるとは、まったく一つの魂になることであって、それは、合体したアルダナーリシュヴァラ像のように一つであることを意味する。それが完全無欠な(真実の)結婚ということだ。
○ヒンドゥー教と牛
ヒンドゥー教徒にとって、牛はもっとも神聖な動物とされる。インドでは牛肉を食べることはタブーであり、公道を牛が寝そべっていても乱暴に追い払おうとはしない。あらゆる牛の祖はスラビ(Surabhi)と呼ばれ、牝牛(めうし)である。神話では、スラビと仙人カシュヤパとの間に生まれたのが、シヴァの乗り物である牡牛・ナンディン(Nandin)である。シヴァを祀る寺院には必ずナンディンが門番のように立っている。ナンディンの名前は「幸せな者」と意味している。
碧霞元君は、ターラを本地とし、碧(みどり)から緑ターラが習合したと考えられる。冥界を渡るとき、ターラーは橋渡しを手助けする境界神である。まさに霊山にこそふさわしい。サンスクリット語の音が読み取れた円仁は碧霞元君を、梵音MATRと読み替え、更に漢字、摩多羅と置き換えたのではないだろうか。すると、摩多羅神はこの泰山からすべての謎が始まっていることになる。
円仁が泰山に登った形跡はないが、円仁が泰山府君だけ招来し、より盛大に奉られている碧霞元君・泰山娘娘を無視したとは考えにくいのである。円仁も泰山府君と碧霞元君をペアーと考えたに違いない。そして、泰山府君は焔摩天の拳族であるから、牛に乗っている。従って、泰山娘娘も牛に乗ることもまったく矛盾しない。そこで、秦一族が祭る理由として隠されていた秘密は、どうやら泰山と、その神であった。摩多羅神は、スワノヲと同一視されたこともあるが、(泰山府君=スサノヲ=摩多羅神)=焔摩天であることが共通である。
当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を*仲哀天皇八年(三五六年)皇帝一四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の純朴なる国風を尊信し始めて来朝しこの地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。
后の代にいたり、功満王の子弓月王、応神天皇一四年(三七二年)百済より一二七県の民衆を一万八千六百余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。また、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族をひきいて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織りだし朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如し、天皇御悦のあまり、埋益という意味で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹織を織りだしたる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明歴年中破壊に及びしをもって、当社に合祭す。
機織のみでなく、大陸および半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありしゆえに、その二神霊をあわせ祀り三柱となれり。
今大酒の字を用いるは酒公を祀るによってこの字に改む。
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭は、以前は広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。
尚、603年広隆寺者、秦河勝は酒公の六代目の孫、また、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和同四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達を貢献した、秦氏族の祖神である。
以上、由緒書(ゆいしょがき)全文
秦始皇帝(しんのしこうてい)
・弓月王(ゆんすのきみ)
・秦酒公(はたのさけこう)
・治暦(じれき)
・延喜(えんき)
・葛野(かどの)
・大辟(おおさけ)
仲哀(ちゅうあい)
・功満(こうまん)
・純朴(じゅんぼく)
・勧請(かんじょう)
・后(のち)
・応神(おおじん)
・県(あがた)
・百済(くだら)
・民衆(ともがら)
・統率(とうそつ)
・帰化(きか)
・玉帛(ぎょくはく)
・蚕(かいこ)
・類(たぐい)
・夥しく(おびただ)
・埋益・(うずまさる)
・禹豆麻佐(うずまさ)
・社(やしろ)
・側(かたわら)
・機織(はたおり)
・力め(つと)
・管絃(かんげん)
・工匠(こうしょう)
・用いる(もち)
・伽藍(がらん)
・河勝(かわかつ)
・忌寸都理(いみきとり)
・伊呂具(いろぐ)
摩多羅神は、叡山では、常行三昧堂の背面に勧請され、祭られた。背面にまつられたことから「後戸の神」(うしろどのかみ)との別名がついている。摩多羅神は浄土経典と念仏を護持し、念仏会が修されるときに後戸で修行者を護持するとの誓願によっている。「後戸」とは、仏壇の後方にある戸のことであるが、背後でその神力を発揮すると言う意味では根本的な存在である。
当の「後戸の神」が、下の図版。
(厨子のなかに納めれた摩多羅神像)
(中世日本の秘境的世界「異神」口絵)
右手に持った鼓(つづみ)を打ちながら歌う座像。袂(たもと)が跳ねあがって、今、まさに鼓を叩いているといった状態を表現している。これは鼓を打ちながら、謡(よう)を奏でている瞬間である。顔の表情は笑っており、ユーモラスで、陽気でさえある。それは、まさしく、猿楽を興じてる姿で、実に活き活きとしている。「されば、鬼畜の振舞いも仏果の荘厳も、心念舞楽の内にあり。」(玄旨帰命壇伝記)と、この摩多羅神が舞楽を象徴したものであるとする。さて、後述の秦河勝(はたのかわかつ)は、甲楽の祖と言われている。このことから、この神体像=摩多羅神は、なんと『秦ノ河勝』のことであった。
秦河勝は広隆寺創建し、かつ、大避神社を勧請したとも言われる。摩多羅神の中身は、びっくりなことに、秦河勝なのだろうか。わけしりに語るものでもなく、そう伝え聞いている人が太秦(うずまさ)には多い。すると、牛祭は、なんと秦ノ河勝を祭神とする祭となる。面白いことに、こうなると牛祭は広隆寺の起源祭となってくる。河勝の菩提寺であることはもちろんだが、広隆寺は、秦河勝自身が建立したのである。太秦寺(うずまさでら)が書紀に最初に登場する名前である。
○中・近世になって排斥された摩多羅神
さて、この摩多羅神、仏教の護法神として、大黒天と習合し災厄を払う福神として今日に至っている。しかし、後で紹介することになるが、摩多羅神は、どういうわけか荒神あるという影を持っている。摩多羅神という器は、その不明性のゆえか、摩怛哩神と習合し、疫神となっている。一八世紀になって、天台宗では宗論の結果、摩多羅神そのものを邪教として排除してしまった。このために、摩多羅神の彫像やマンダラはことごとく焼却され、遺品はごくわずかになってしまった。
こうした経過が、ますます摩多羅神を神秘的な神にしたのだろう。
「これは、末の愚かな輩(やから)が作りだしたものだろう。その神像は、頭に唐製(からせい)の”かしらつつみ”をかぶり、和様の狩の衣を着て、左手に鼓をもち、右手でこれを打っている。左右に童子がいて、風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、右の手に笹の葉をもち、左の手に茗荷(みょうが)をもって、舞い踊っている。中央の摩多羅神の両脇にも、竹と茗荷がある。頂上には雲気があり、その中に北斗七星が書かれている。是を摩多羅神の曼荼羅と伝っているという。これは皆、日本の風俗で、一笑するに堪えない。」
以上は、天明二年に台僧、空華(くうげ)が書いたという「空華談叢」(1782)。ここでは、ずいぶんと摩多羅神をくさしている。さて、その摩多羅神の曼荼羅(下の図版)を見てみよう。これを見ると、確かに、鎌倉時代あたりの質の悪い創作であるように見える。この図版には、笑顔で鼓を打つ摩多羅神と、その下方、左右で舞う二童子が描かれている。絵師がよくなかったのだろう。描かれた図版の摩多羅神は、なぜか唯の貴族のおっさんが笑っているように見える。しかし、童子の舞を見て笑い興じているという風情は、なぜ摩多羅神につきまとうのだろうか。
(輪王寺蔵)
しかし、台僧、空華(くうげ)が、採るにたらないと述べたように、而して、近世では由緒不明の摩多羅神はすっかり”異神”扱いされて、惨めに没落してしまった。この摩多羅神曼荼羅の図版の中尊は鼓を打ちながら歌舞を見て楽しむ摩多羅神といった構図で描かれている。鼓という楽器は、明らかに「舞楽」を意識している。これは、申楽の祖、秦河勝を擬していることになるだろう。摩多羅神は、秦ノ河勝、その人の図版なっているのである。摩多羅神は、秦河勝に変貌していたのだ。単純明快である。摩多羅神という容器には、大避大明神であり、秦河勝、その人が擬人化されていた。京都では、「あれは、秦河勝だよ」と伝う人は少なくない。
「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」(明宿集-禅竹金春氏(ぜんちくこんぱるうじのぶ)世阿弥の聟)、と言われるのは、坂越の大避神社の摩多羅神の面が秦河勝、その人の化権だと言っているに他ならない。「さあ、踊れ、踊れ」と言っているような摩多羅神像は、まさしく、申楽の祖、秦河勝を抜きにして考えられない。摩多羅神は芸能神でもあったのである。鎌倉中期の一遍上人の踊り念仏でも言えることだが、念仏と踊りとが結び付く下地が、すでに整えられていたのである。兵庫県坂越の大避神社で祀られる大避大神は秦河勝であるが、障礙神とも言われ、大避大神を別名で、「大荒大明神」(おおさけだいみょうじん)の別文字で表わされる。もちろん、元名が大避であるとしても、荒神(あらがみ)であるという意味をもっている。これは、「摩多羅神事、只是三宝荒神と習う也」(玄旨重大事 口決私書)とあるように、叡山でも摩多羅神を”荒神”としている。荒神とは、仏教からは外典の神であり、直接的には道教神のようでである。荒神とは、鬼神と同じ意味である。
円仁は「巡礼行記」の中で「天子は観裏に駕幸し、百姓を召して観せしむ。百姓は罵って伝う、仏の供養を奪って鬼神を祭る」と書いている。天子は、「会昌の廃物」を行った武宗である。円仁は鬼神(荒神)とは外道の神の意味で承知している。「渓嵐拾葉集」では、摩多羅神は「吾は障礙神である。吾を祀らなければ、往生の願いは達せられないであろう。」と円仁に告げて現れたとする。秦河勝の直系、世阿弥の聟である金春(こんぱる)禅竹の「明宿集」では、申楽の翁を芸能神・宿神と説いており、大荒大明神が、宿神(技芸の守護神)、石神(いしがみ・しゃくじん)、セックスをシンボルにした障の神(さえのかみ)、さらには境界神(地蔵菩薩)と本性を描く。大避大明神と、摩多羅神と偶然の一致とは言い難い同一性をもっている。
「これを障礙神とも、元品無明即荒神とも伝也」とは、いわゆる仏典に正式の経軌(きょうき)をもたないことを意味している。摩多羅神は、「荒神」である。同時に秦人(はたびと)の奉祀した神である。円仁が信奉した赤山神はもともと内蒙古の東北部遼河の上流にあった鳥桓(うがん)という国の神だったという。それがいつのまにか新羅の神になっていた。
そして、円仁は、日本の秦人のために、仏教の守護神に昇格させて招請したのだ。ところで、摩多羅神が、不思議と舞楽と結び付いていることは、すでに紹介したが、そもそもの念仏踊りの始まりであるらしい。叡山常行堂「天狗怖し」と呼ばれた作法は、叡山常行の後戸で、後先かまわず阿弥陀経を唱え、見境なく踊り、跳ねといった奇妙な所作だった。また、「ゲニヤサバナム」という魔を退散させる呪文を唱えるという。
*「ゲニヤサバナム」は、「まことに障をなしてほしい」という意味だという。(日本のまつろわぬ神々)
サバは「生飯」に比定すると、餓鬼、鬼神に施すという意味。また、ナムは帰命する。
*サバ(生飯)「仏壇にあげるお膳に箸をたてる際、少量の飯粒を水の入った器にとる禅宗での施食(せじき)作法のこと。転じて、餓鬼、鬼神に施すという意
*ナム(南無)ナム、ナモはインドの言葉で、「帰依」するという意。
金春竹禅は、祇園精舎で「天魔による妨害を鎮圧するために、後戸の場所で大弟子たるアーナンダやシャーリープトラーたちが神楽を舞った。その時の舞がまた、今日の言うところの猿楽なのである。」と云う。
ゆるやかな節をつけて阿弥陀仏の名を唱える引声念仏(いんぜいねんぶつ)は、なんと、あの円仁が唐の五台山から伝えたのである。摩多羅神とともに引声念仏は円仁によって一緒に招来されていたのである。このことから、念仏堂で、おどり、はねる・・・といった所作は、そもそも引声念仏だったのだろう。近江申楽(紀氏系統。幽玄な芸風を誇った)に、「念仏の申楽」が見いだせる。絶え間なく一心不乱に「南無阿弥陀仏」と唱え、あちらこちら、ゆらりゆらりと立ち歩くといった動きが芸の見せ所だった。
さらにのち、不思議なことに徳川家康(1542~1616)が、慈眼大師天海(てんかい)(1536~1643)の薦めで摩多羅神を奉じ、東照宮では家康像の脇侍(わきじ)として祭られていたと言う。この邪神として叡山から排斥され、みじめに衰微していた摩多羅神がなにゆえに東照大権現の脇におかれたのかは大きな謎である。摩多羅神は、秘中の秘であった摩多羅神が太一の化身であるという真相を慈眼大師天海は知っていたのかもしれない。しかし、まず、家康自身が望まなければ、それはあり得ない話である。推察するに、家康は生来、能楽好きで、能を心底愛していたことが原因かもしれない。「太閤(秀吉)と東照宮(家康)と加賀大納言(前田利家)と三人狂言もあり」という言われ、自ら演じるほど能・狂言に耽溺していた。家康は、能楽の大パトロンであった。そこで、能の元祖であるのは、誰あろう、秦河勝である。大和申楽は秦河勝の直系で、竹田の座(後の金春座)、宝生座は姻戚関係で、秦姓を名のっていた。その大元ともいえる芸能神が摩多羅神=河勝である。自らの権現像の傍におくことによって、家康は後生の楽しみと、安楽を願ったのであろうか。「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」(明宿集)、と言われるのは、大避神社の面が秦河勝、その人の化権だと言っているに他ならない。それが「翁」なのだ。
宿神(芸能神)を無視して、徳川家康を語れないことはあまり知られていない。家康は、摩多羅神を河勝と知って自身の傍らに祀らせたのだろう。あるいは、家康が、秦河勝の苗裔(びょうえい)だったのかもしれない。家康は、大阪の役では豊臣方に荷担し、落城後に流浪していた奇才、喜多六平太を江戸に呼び寄せている。豊臣に恩義を忘れず、まだ家康に敵愾心をもっているかもしれない、この危ない男をわざわざ江戸表に来させたのである。その才能を惜しみ、高くかってのゆえであろう。六平太への待遇は観世座、金剛、金春(こんぱる)、宝生、四座に準ずる待遇を与え、以来、喜多座が加わって、五座となった。喜多六平太は、秀忠・家光の代まで江戸城謡初(うたいぞめ)では、四座と覇を競っていたと言われている。家康は、能の超オタッキーだった。世阿弥十六部集などを熟知していただろう。家康が秦河勝を能・狂言の祖として十分知ってい可能性は高い。ゆえに、この東照宮の東照大権現と摩多羅神の謎は解ける。
徳川吉宗の時代に覚深(かくじん)は、慈眼大師・天海がなにゆえに日光東照宮に摩多羅神を奉安したのだろうか・・・と、いう疑問を持った。(ということは、もう徳川八代目(1716~1745)、(家康から100年後)、すでに、東照大権現と摩多羅神のことは誰に聞いても分からなくなっていた・・・・)
この日光東照宮の摩多羅神の素性が理解できなかった彼は、それを仏典のなかに、なんとか見いだそうと頑張った。彼は、*「大日経疏」第十一巻のなかに「摩怛哩神」(まだり)という仏名を、ついに見つけた。「(まだら)は(まだり)に比定できる!」さて、摩怛哩(まだり)神は焔摩大王の姉妹で、「七母天」である。梵語で摩怛哩とは母を意味する。摩怛哩とは、チベットでいう荼枳尼天(ダーキニ)のことである。弘法大師が天照大神からの相承の印に、荼枳尼天(だきにてん)の明咒(みょうじゅ)を加えて一つとしたので、ダーキニ天は天照大神の変化身とみなされるようになった。天皇が代替わりする儀式(即位灌頂)において、大日如来の智拳印とともに、荼枳尼天(だきにてん)の明咒が唱えられ、明治天皇の父孝明天皇まで、この密教系の即位灌頂は続けられていた。なんと、摩多羅神と、荼枳尼天が同一視され、また、荼枳尼天と天照大神と大日如来が同体だという信仰は中世の密教のなかではあたりまえだった。ダーキニは、ヒンデゥー教のシヴァの妃カーリーの配下の鬼女とされ、餓鬼形の姿をとる。仏教では、毘盧遮那(びるしゃなぶつ)に降伏してからは、仏教の守護神となり、人間の肉を喰うかわりに、魂魄の穢れである煩悩を喰うようになった。
ダーキニは、仏教に取り入られると、焔摩天の眷属(一族)となった。焔摩天の使者として娑婆(しゃば)に放たれ、寿命が尽きようとしている人間に6ヶ月の間、とり憑いて全身をその舌と牙でしゃぶり尽くすという吸血鬼なのである。焔摩天は、中国では(泰山父君)であり、その拳族である泰山娘娘は、観音と言われるが、系統からはヤマの使いとしてのダーキニとも比定できる。荼枳尼天は、胎蔵界マンダラでは外金剛部院、南方に三人描かれる。日本に根を下ろした鬼女・荼枳尼天は、稲荷神と習合したり、天照大神と習合した特異な鬼神である。
覚深(かくじん)はなにはともあれ、「摩多羅神は天竺(てんじく)の摩怛哩神(まだり)であるに異ならない。」・・・として、1738年、彼は、「摩多羅神私」なる書を書いた。仏典のなかから、もっとも発音の近い摩怛哩(まだり)を抽出したということだけではなかった。それを説明するには、ダーキニと摩多羅神がもつ共通した背景を説明しなければならない。
糸をほどいていくのは、ダーキニ(摩怛哩)が、真言密教の一派、立川流の本尊となっていたことである。この中世のカルトはセックスを交えた秘密灌頂儀礼、髑髏(どくろ)に男女の淫水(赤白二水、和合水)を用いる秘儀などを伴っていた。他方、玄旨帰命壇は、この立川流と気脈を同じくする叡山の秘密口伝だった。台密の玄旨壇(げんしだん)が、この摩多羅三尊を本尊としていたのである。
中央の摩多羅神の前で踊る二人の童子は煩悩の象徴であり、それが、そのまま往生、極楽であるとする。男女和合による妙成就、すなわち、究極の本覚思想(煩悩即菩提、即身成仏)である。
玄旨帰命壇は平安末期には一部が成立し、鎌倉から室町にかけて最も盛んだった。なぜ、摩多羅神が、ダーキニと同一視されたのかは押して知るべしだろう。覚深は、ダーキニと摩多羅神を同体とみたのだ。今も、叡山では、摩多羅神は「恐ろしい神さん」であると伝えられている。
障礙神は、衆俗では、「そまつにすればバチがあたる」と信じられている。なにはともあれ、摩多羅神は玄旨壇に祀られてから秘密性を帯び、結果として摩怛哩神(まだり)に変貌した。
*立川流:武蔵国立川の陰陽師・見蓮(けんれん)が、広めたのでこの名が付けられた。真言密教の一派。平安後期の仁寛(後に蓮念)を祖とし、一四世紀に後醍醐天皇に信任されていた僧正文観(1278ー1357)により大成され中世に広まったとされる・・・が、異端のレッテルを文観一人に押し付けたとも言われる。密教では重要な経典、「理趣経」には、「性は清浄であり」「愛の行為はそのまま菩薩の境地である」と書かれている。これは、タントラ密教のカテゴリーに入る思想である。チベットでの後期密教は、生理的なヨーガにプロシードしていた。そのなかで、性的な秘密技法も生まれてきた。チベットでは、ダーキニにみたてられるカンドゥマと呼ばれる美しいパートナーと結合して、ルン(生体エネルギー)を使って、清浄な境地に直ちに降り立つ。こうした「ツア・ルン」の修行は、長いあいだ女性エネルギーに集中し、シャクティ・パワーを借りて行う。行者には、射精は許されない。「ツア・ルン」の修行者は、今もチベットにいて、人々の尊敬を受けている。阿闍梨が若い巫女を伴うだけで破戒とする仏教宗派からは、左道密教として排斥された。高野山はチベットのゲルク派と同じように、厳しくこれを戒めた。
○童子の歌舞
摩多羅神の画像の二童子は、爾子多(にした)と丁令多(ていれいた)と呼ばれる。この同じような顔つき、装束で描かれる童子が男女であることは、神歌によって知ることができる。摩多羅神が、ずっと師資相承(師から弟子に伝えること)の秘儀としてあったために、そうしたことは、ごく一部の資料の隙間から想像するしかない。叡山では、薬師堂(現講堂)の前で、声明念仏会に合わせて祭文が読まれていた。数百年前に絶えてしまったが、その祭文の内容は、「玄旨重大事 口決私書」に記される内容から、わずかに伺うことができる。祭文の中の二童子の神歌とは、次のような短い歌である。
「二童子は歌を歌う。左の童子の歌は『シシリシニ・シシリシ』と歌う。シシは、男根の隠語であり、ソソは今日でも京都弁では、女淫のことをオソソと言う。
右の童子は『ソソロソニ・ソソロソ』と歌う。」・・・中略・・・「男子女子の(狂乱の)振る舞いを歌に歌い、舞に舞うなり。」・・・中略・・・「これを秘すべき、また、口外するべからず。秘中の秘ともいうべき深い秘密の口訣(くけつ)である。」と、秘密の口伝であることを、重ねて念を入れている。それも、そのはずである。ソソは、女淫を意味し、シシは、男根を意味し、淫欲を意味しているからである。これはセックスの隠喩(いんゆ)である。この歌に続く文言では、「淫欲熾盛の処」、”淫欲が火が燃えあがるように盛んなところ”と、している。この二童子の舞が、性交という行為を表わし、摩多羅三尊は”淫欲”即菩提を象徴していることは明らかだ。
ここで、摩多羅神が、宿神(技芸の守護神)、石神(いしがみ・しゃくじん)、セックスをシンボルにした障の神(さえのかみ)、さらには境界神(地蔵菩薩)の本性を見取ることができる。これは、兵庫県赤穂郡坂越(さこし)町の、秦ノ河勝に比定される大避大明神が、(守護神)と(障礙神)の両面性がある事と、ぴったり符合する。河勝については、後説に述べさせてもらう。
摩多羅神は鎌倉時代には大黒天と習合して、民間信仰の対象になった。そして、叡山のタントラ密教とも言われる玄旨帰命壇の本尊になり、摩怛哩神と同体に見られていた。江戸初期に玄旨帰命壇は淫祀邪教として完全に葬り去られたが、すれすれのところで天海が摩多羅神を東照宮の脇士にすべりこませたとも言われる。
中国では一般に古来から冥界は泰山にあり、死者の魂はすべてこの山に昇ると信じられていた。泰山府君とはこの霊山の冥界の主神をさす。太一神(北極星)と同格であり、封禅の祭は太一神の祭の礼式従っていた。中国では”五岳信仰”があり、東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、中岳崇山、の五岳があった。なかでも東岳泰山は、五岳之長五岳独尊などと称され、最高位である。
中国では、東方は特に尊ばれ、万物を生成する気が満ちているとされた。泰山府君、別名を東岳大帝とも言われる。東岳大帝、西岳大帝、中岳大帝、北岳大帝、南岳大帝を総称して五岳大帝という。その中の首が東岳大帝であった。人間の魂は死んでから泰山に行き、泰山府君に裁かれる。それゆえに、人間の貴賤、生死の時期を司るのである。泰山府君はエジプトのオシリスや、ペルシャのイマ、インドのヤマ、チベットのヤマ・ダルマラジャ、そして日本のスサノヲとよく似た存在だ。ともに、冥界を支配する主神である。泰山府君は仏教では焔摩天(Yama)とされる。焔摩天(えんまてん)、じつは水牛を乗り物にしている。
*東岳・泰山にある始皇帝の自文の碑文「思うに、治世の道は、天地とともに運行し、諸産はしきを得、すべて法式あり。大義を明らかにし、後世に垂れ、順守して革えることなかれ。もって後、後世子孫に施す。」
秦始皇帝はこの霊山・泰山で封禅(ほうぜん)の儀式(前219年)をおこなった。天下を統一し人民を安らかにした聖なる天子だけが行える。いわば天帝(太一神)北極星とじかに言葉を交わすための儀式である。以後も、この儀式を行う資格があるかどうか、みずから問うて、辞退した皇帝は数知れない。それだけの神聖な儀式だった。天帝(太一神)とは、北極星のことである。封禅(ほうぜん)の儀式を行ったとされる皇帝は始皇帝が始まりで、その後、漢の武帝、唐の玄宗皇帝など、72人が行っている。だが、古来、伏羲(ふつき)、神農、炎帝、黄帝など、みなこれを行ったと、*”管子”には記されている。
この泰山は、始皇帝が神聖な天帝の儀式を行ったがゆえに、始皇帝のシンボルでもある。このことは、始皇帝の臣民にとって重要な意味をもっている。また、摩多羅神の頭上に北斗七星がある。北斗七星は、柄杓(ひしゃく)のように星が並ぶ。斗とは、「ひしゃく」のことである。北極星は、このなかの先っぽの一つ星であり、すべての天空の星は、この星を中心に回転する。ゆえに、ただ一つの不動の星である。ゆえに、太一とよばれ、最高神である。このことの意味はきわめて大きい。これ以上ない存在を象徴し、その化身は「唯一神」に等しいからである。摩多羅神は神の神、最上の神である。つまるところ、北斗七星を冠することは、「私は皇帝である」ということであり、冊封国の王ではないということを宣言していることである。
「太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも」(皇極三年七月)、秦河勝は、京都では神だろうとか神だとか讃えられ、噂が遠くまで響いているというのである。神と噂された太秦、この人物が、秦河勝である。太秦公は、ただの国造(くにのみやつこ)という冠位を与えられた人物より、ずっと大きな存在で、神が降臨した聖人であったという側面が浮かび上がるのである。
秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)は、山背の葛野(やましろのかどの)・京都の人で太秦(うずまさ)にあって、聖徳太子に重用された舎人(側近)であった。太子の財政、軍治の両面を支えた重要人物で、実権をもっていた。秦河勝は、金色(こんじき)の弥勒菩薩像、二体を聖徳太子より賜り、それをきっかけに603年、広隆寺を建立したと言われている。(真言宗御室派-->現在)
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像
この像は冠の形、衣のしわ目などは新羅の弥勒半跏思惟像に確かに似ている。顔立ちは、はっきり言って新羅よりも端整で美しい。
秦河勝は、秦酒公(はたのさけきみ)の六代目の孫になるという。
この弥勒菩薩像は新羅国が太子に献上したものといわれ(日本書紀)、弥勒菩薩半跏思惟像(はんかしいぞう)、第一号の国宝で、その静寂で柔和な美しさはたいへん有名である。(べそをかいているようにみえる「なきみろく」は百済伝来であるとされる。)
広隆寺は山号を峰岡山とし、別名が多数あり、峰岡寺(はちのおかでら)、秦寺、大秦寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺、桂林寺、草野寺など。しかし、特筆すべきは、もう一つ「景教寺」とも呼ばれていたことだろう。
太子建立の七寺のうちの一つとされるも、秦河勝の建立がために、秦寺(うずまさでら)と言われていた。秦は、「はたおり」の「はた」からつけられたともいわれるように、絹、麻、木綿織物はもちろんだが、土木建設、瓦の製造、金工、刀剣、酒造のテクノロジーを駆使して、巨大な財を築いたのである。河勝の後、秦氏族は平安京を造営したとも言われていることから、彼らが土木、建築においておおきなウェイトを占めていることは明かだ。秦始皇帝の末裔が新羅国から来朝し、高度な絹織物技術がもたらされた。(大酒神社伝)。漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)という言葉はここから発祥した。秦の一族は、主として韓半島から、そして中国から海路で来島する2つのルートでやってきたことを知っておくべきだろう。つまり、共通なことは始皇帝の末裔であることだ。
この広隆寺の弥勒菩薩像は新羅国が太子に献上したものといわれ(日本書紀)、弥勒菩薩半跏思惟像(はんかしいぞう)、第一号の国宝で、その静寂で柔和な美しさはたいへん有名である。(べそをかいているようにみえる「なきみろく」は百済伝来であるとされる。)
広隆寺は山号を峰岡山とし、別名が多数あり、峰岡寺(はちのおかでら)、秦寺、大秦寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺、桂林寺、草野寺など。しかし、特筆すべきは、もう一つ「景教寺」とも呼ばれていたことだろう。大秦国は「ローマ帝国」のことで、ローマ帝国で異端とされた景教が伝搬したのであろうか。
大秦寺(だいしんじ)は、中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の寺院(教会)の一般名称である。唐の時代、長安に存在した大秦寺が有名。3年後の貞観12年(638年)に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。この段階では波斯寺(あるいは波斯経寺、波斯はペルシアのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかった。745年に大秦国(東ローマ帝国)から、高僧・佶和(ゲワルギスの音写)が訪れる。同年、教団の名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された。これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている。なお「大秦」という記述は、『後漢書』永元9年(97年)を初出として以来、『続資治通鑑長編』の1081年の記録にもあり、中国では長らく使用されていた。
代宗の時代(762年 - 779年)にも庇護される。徳宗の時代の建中2年(781年)、大秦景教流行中国碑が建造される。
会昌5年(845年)、武宗は、道教を保護する一方で教団が肥大化していた仏教や、景教、摩尼教、祆教などの外来宗教に対する弾圧を行なう(会昌の廃仏)。寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は260,500人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が150,000人という。大秦景教流行中国碑も、埋められた。
唐代では景教寺院は、マニ教(摩尼教・明教)やゾロアスター教(祆教・拝火教)の寺院と総称して、三夷寺と呼ばれていた。
景教は、ミシア(Missiah 救世主)教とも呼ばれ、彌尸訶、彌施訶、彌失訶など表記された。
803年、空海(弘法大師)は、帰国後、高野山に真言密教を創建した。61才死に就こうとするとき、 「悲しんではいけない。わたしは・・・・弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、
56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう。」と言ったいう。兜卒天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000×400×12×30=5億7600万年かかるという計算に由来する。人間は兜率天の一日の夜明けに生まれ変わるという俗信があった。つまり、400年後にまた同じ世代が生まれかわり再会できるというのである。空海が学んだ「景教」とは、キリスト教ネストリウス派なら、ミスラ(救世主)となるはずである。ところが、弥勒菩薩であった。弘法大師が伝授されたのは実は「ミトラ教」であったのだ。真言はオン・マイタレイヤ・ソワカ(oṃ
maitreya svāhā)である。
弥勒とはサンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神、「mitra/miθra」の名と語源を同じくする。中央アジア経由でソロアスター教から仏教に融合されて日本に至った神にミトラ神である。ミトラ神はゾロアスター教では主神アフラ・マズダの下位の神である。このミトラ神が漢訳されて毘沙門天つまり多聞天となった。ミトラ神は、ソロアスター教の文献によれば千の耳を持つとされる。ゆえに多聞天と意訳された。(京都大学名誉教授、宮崎市定が推定)。中国・朝鮮・日本における弥勒菩薩信仰では、弥勒菩薩は釈迦(しゃか)が亡くなってから56億7000万年後に兜卒天(とそつてん)に登場して、世界を救済する信じられていた。ミトラ教は牡牛(オーロックス)を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。信者組織は7つの位階を持ち(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)、入信には試練をともなう入信式があった。中央に「天の雄牛」を屠るミトラが、周囲に黄道12宮の表象が描かれ、ミトラが宇宙の支配者であることを示している。ミトラ教はキリスト教が普及するまでローマ帝国内で広く流行した。牛は『牛』ではなくオーロックスだった。
現在、オーロックスは絶滅した。
弥勒菩薩はミトラス神まで遡れば「雄牛」がしっかりと密接しているのである。
牛を押さえつけるミトラス神(なぜか、牛の下側に必ず蛇が居る。一つのセットのようだ!)
中宮寺の弥勒菩薩はガンダーラ仏像と同じ様式。
沖縄県では、「ミルク神」、「ミルクさん」と呼び、弥勒信仰が盛んである。祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。弥勒菩薩の化身とされた布袋との関係が指摘されている。
中国の弥勒菩薩は、七福神の布袋様であることは意外であるが、中国の弥勒菩薩はデブである。
○摩多羅神はマドンナか?
<トルコのエフェソス出土のアルテミス>
古代ローマ名、ディアナ、ダイアナ、DIANA。
キリスト教の普及以後、マドンナと呼ばれた。
牡牛の睾丸(こうがん)と北斗七星が、この女神にはある。
乳房がたくさんある豊穣母神のイメージ
<ヴァチカン美術館>
エフェソスのアルテミスは処女女神であった。太古の女神の影が色濃く残っている。写真のイメージでは、たくさんの乳房をつけているようにみえる。しかし、乳房と考えられていたものは、実は牡牛の睾丸(こうがん)と見るのが通説化している。「胸に連なる卵状のものは最初は乳房と考えられていたが、最近の研究では牡牛の睾丸、神への生贄のシンボルとされている。」エフェソスのディアナ神殿の博物館で売られている「エフェソス」から(神々の考古学・大和岩男)ギリシャでは、人々は牡牛、牡ひつじ、豚などが供犠に捧げて、願いを祈っていた。
旧石器時代の地母神(グレートマザー)は両性具有であった。死と再生をもたなかった両性具有は至福(不死)の存在だった。その後、男と女に分れた。男は子宮を求め、女は男根を求めるようになった。人類が失った至福は、もともとの地母神が持っていた。そこで、豊穣神は両性具有を体現している。処女神のアルテミスは両性具有の証しとして、男根を持つ代わりに、睾丸をたくさん要求した。そこで、彼女の胸にはたくさんの去勢した睾丸が奉げられたのだ。
第一章 |