第11章・・・~三足鳥(サムソグ)の痕跡~ Since 4/1997
ニニギの尊は二人の兄弟を伴っていた。、一人は大伴連、一人は久米値(くめのあたい)となった。大伴連、来目臣朝臣の祖にあたる。そこは加羅国を遠く見渡
すことができる。糸島郡前原に日向峠(ひなたとうげ)である。ここに、大きな山城(やましろ)をまたたく間に作った。この城は筑紫城(紀)と呼んだが宮処
でもあった。なんと加羅本国の亀旨峯(クジボン)と同じである。ここは天の香山(かぐやま)=香亀山であろう。
出発したのは、耽津(タムジン)の港。百済の時代の冬音県にあり、現在の全羅南道康津郡大口面。対馬海流を考えると、どうしても糸島より西になくてはなら
ない。耽津は日本との海上交易の重要拠点であった。新羅の善徳女王(632-647)のとき、ユシン将軍がここに兵を送って奪おうとした経緯があ る。ねらいは倭と唐の中継の海上ルートの確保であろうが、唐津糸島近辺に向かうには絶好の位置にあたる。新羅はここに青海鎮を設置した。
AD828年のことである。青海鎮大使「張保皐(チャンボゴ)」が莫大な富を築き、強大な軍事力を持ち政治を脅かす存在になった。このことは青海鎮が倭と唐の中継貿易の主導権の拠点であり、いかに大きな商業的価値をもっていたかを語っているだろう。 唐には、円仁が逗留した赤山浦の法花院のあった石島新羅坊のほか、登州新羅坊、乳山浦新羅坊、海州新羅坊、灌雲新羅坊、淮陰新羅坊、揚州新羅坊、蘇州新羅
坊、明州新羅坊、黄巌新羅坊、台州新羅坊、台州新羅坊など商人の居留地、商館を保有していたのである。遣唐使船はしばしば新羅船が手助けしている。日本で
は博多・鴻臚館がそれに当たる商館であったろう。済州島を耽羅国と称していたが、新羅は耽津国と言い換えていた時期があるが、耽津浦は耽津国とは関係がない
①のバルーンのある位置が耽津(タムジン)やはり現在の海縁よりずっと内陸に位置する。当時の海岸線をよく表している。。
ニニギは伽耶山から、伊都国の可也山に降臨した。天(あめ)は加羅国と訳すべきだろう。古事記で天の橋立と言った場合、加羅の橋立とすんなり訳していくとよいだろう。
ここから上陸したのだろうか。志登神社(しとじんじゃ) 海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしい。ここはかつて港だった。
糸島市(旧前原市)、JR波多江駅から北へ500m強の畑の中にある。こんもりとした鎮守の森の中に鎮座。
延喜式の古社 御祭神 豊玉姫命
相殿 和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿祢命
相殿 高祖明神 志賀明神 神功皇后 高良明神 『和漢三才図会』
相殿 高祖明神 神功皇后 高良明神 『筑前国続風土記』
手前の杜が志登神社、後方に高祖山(たかすやま)
高祖神社(たかすじんじゃ)
南西の雷山であると考えられるから、雷山神社が本来の宮であり、こちらはその分社であると考えられる。
城を築いたのは高祖山だろうか?雷山川(前原市の船越湾に注ぐ全長14.4km)がほぼ直角に曲がる場所にドルメン、 即ち日本語で言えば「支石墓」(しせきぼ)が10基存在している。支石墓は渡来加羅国人がこの近辺を拠点にしていた証拠である。単に伊都の羽羽矢と言った
場合、ここに港があり、さまざまな鉄器を荷揚げしていただろう。”高”は高句麗王の姓である。その祖とは、東明王=高朱蒙を指す。
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にクシフル神社 がある。「くしふる神社の鎮座するくしふるの峰は肇国の昔天孫瓊々杵尊が三種の神器を奉戴してこの国を治める為に天降られた聖地として古史に記されているが、こちらの「高千穂」に降臨した根拠はない。
■古朝鮮とは
始めて朝鮮という名称は『管子』に現れ、紀元前7世紀から6世紀には、朝鮮の最初の国家があり、漢に前108年 に滅ぼされるまで存続したと考えられてい
る。斯白力の天海(バイカル湖)の地域で天帝・桓因(ファンイン)より7代、330年が続いた。次に倍達国を桓雄天王が太白山(白頭山)の地域に都し18
代1565年続いた。14代王蚩尤王(チウワン)は戦争の神と崇められている。次に、檀君(タングン)が阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク)
に京にして「朝鮮」と名付けた。これを古朝鮮と呼ぶ。建国神話は有名である。熊と虎が人間になりたいということで、ヨモギ一束とニンニク20粒だけたべて
洞窟で日の光に当たらず100日、神に祈れば人間になれると桓雄天王が告げた。虎は空腹に耐えられず逃げてしまうが、熊は熊女(ウンニョ)となり、桓雄(ファヌ
ン)の妻となり、2人の間に生まれたのが檀君(タングン)であるという。天帝の子であり、檀君王倹(タングンワンゴン)と呼び、10月3日を開天節として
大韓民国の祝日のなっている。また、檀紀はBC2333年を紀元なので、西暦年に2333を足すと檀紀年号になる。古朝鮮から始まる。
古朝鮮は、47代2096年続いたとされる。紀元前4世紀には燕に西土(ソット)を奪われしだいに弱体化したが、否応や準王のころには 再び遼西を取り戻していた。BC194年ごろ燕王鷺盧綰(ロワン)が部族を連れて匈奴へ逃亡したが、その副官であった衛満(ウィマン)が古朝鮮の準王の臣
下となり、避難民数万戸が遼西に移住した。衛満(ウィマン)は古朝鮮王準王をクーデターで倒し、衛満(ウィマン)朝鮮を建国。鉄の生産などをもたらし、国
家の基盤をつくり、軍事力を拡大、鴨緑江より南下、大同江付近の平壌近くの王倹城を中心に据えた。王倹城に衛氏朝鮮を建てたあと、衛氏朝鮮の右渠(ウゴ)
は中原と交易を禁止して、中継貿易によって大きな利益を得ていたが、漢への朝貢をしなかった。このため、漢の武帝はいよいよ衛氏をBC109年を攻略し王
倹城を落城させたときに、古朝鮮は滅びたことになる。 衛氏朝鮮は中国から流入した部族と古朝鮮の原住民を巧み支配したので、この匈奴と古朝鮮を結びついた衛氏朝鮮は、複合民族国家であった。古朝鮮という実態
は沃沮(ヨクチョ)、句茶(クダ)、蓋馬(ケマ)、河伯(ヘベク)、パルサ、荇人(ヘンイン)、梁貊(ヤンメク)など、朝鮮民族の部族村長の連盟体であっ
た。これら朝鮮族が中国の遼西・中原までの広大な領域に分布していたものと思われ る。 当時の国境と思しき堺は、《史記》朝鮮伝で,〈復(ま)た遼東の故塞を修め,浿水に至りて界と為す〉と記され,漢代には浿水が2国の国境となっていた
ことが推察される。浿水(ペス)は魏の時代は、今の鴨緑江であるとされる。隋・唐代では大同江が浿水とされている。従って隋・唐の戦時では、大同江が浿水(ペス)である。時代によって浿水(ペス)は変化している。「汉魏时代之浿水 ,为今之鸭绿江,《史记朝鲜传》自始全燕时,当略属直番、朝鲜,汉兴,为其远难守,复修辽东故塞,至浿水 为界。 隋唐时代之浿水 ,即今朝鲜平安道之大同江」 いずれも中国からは朝鮮族を「東夷族」と呼んでいるが、朝鮮族は鴨水(アプス)を鴨緑江、薩水(サルス)を清川江(チュンチュンガン)、蛇水を大同江
に、阿利水(アリス)を 漢江と比定する) この4つの川は、戦略的に重要であり、多くの戦がこれらの川を境に行われている。朝鮮王の右渠(ウゴ)はBC108年夏、王
倹城を漢に奪われ衛氏朝鮮は滅亡したが、王倹城の滅亡は多分に漢に内通した国相や将軍が出たためで、城内の住民を指揮して最後まで戦ったのは大臣の成己
(ソンギ)も離反者によって謀殺された。つねに中国に揺さぶられ、講和派が抗戦を主張する朝鮮王の右渠(ウゴ)を殺して降伏した。漢は軍事的には苦境に
あったが、内紛を誘引して勝利したと言われる。漢は、玄莬郡(ヒョント)、楽浪郡(ナンナン)、真番郡(チンボン)、臨屯郡(リンドゥン)の4つの郡県を
置き、それぞれ太守という官僚を配して朝鮮を統治した。この時、漢の始め楽浪郡は遼東部にあったが、漢江地域に移動した。その後、西海(ソッヘ=黄海)に
面 して中継貿易が富をもたらした楽浪郡だけが残り、他の県はまもなく廃止された。このうち玄莬郡は、貊族の抵抗でBC75年に遼東地域に追い出された。これ
を第二玄莬郡と言う。貊族の集団は消奴(ソノ)族と言われた。 *浿水: 鸭绿江-鸭绿江,中朝界河,古名马訾水,汉魏时代称为浿水
■高句麗の成立
ある日、天から不思議な一行が降りてきた。白鳥に乗って羽衣を翻した百人余の天人が、天空を駆ける五龍車につき従い、清らかな楽の音を高らかに響かせ、艶やかな雲の間をかきわけて熊心山に降り、そこで十日余りを過ごした後、地上の訖升骨(きっしょうこつ)という城に降臨した。五龍車に乗っていたのは、天帝の太子の解慕漱と言い、鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣を差していた。解慕漱は、そこを都に定めて王となり、国の名前を北扶余(卒本扶余) と号した。
やがて解慕漱に夫婁という王子が生まれ、彼が成長すると王位を継がせた。
夫婁が王として北扶余を治めていたとき、大臣の阿蘭弗(あらふつ)は奇妙な夢をみた。「天帝が夢枕に現れ、この地は私の子孫が国を建てるべき場所であるから、汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。東海の沿岸に迦葉原(かはばる)という肥沃な地がある。そこに遷都するがよい」と命じたというのだ。謎めいた話だが、夫婁王は神の御託宣に従って東に遷り、王都を迦葉原に築いて国号を東扶余に改めた。
夫婁王には子供がなく、山河の神を祀っては、跡継ぎが授かるように祈りつづけた。
ある日、鯤淵という湖沼にさしかかると、王の愛馬が大きな岩の前で停まり、激しくいななくので、奇妙に思った王が臣下に命じて岩をどかせると、そこには金色のカエルのような男児がいた。夫婁王は天が授けてくれたと喜で、その子を連れ帰り、金蛙と名付け、大きくなると太子とした。やがて夫婁王が死ぬと、金蛙が王に即位して国を治めた 。
ある日、金蛙王のもとに、太伯山(白頭山)の南にある優渤水の漁師が嘆願に来た。 魚を盗んでいく獣がいるので、捕まえて欲しいというのである。金蛙王は「網を投げて獣を捕まえよ」と命じた。だが、網が破られてしまった。そこで鉄製の網を投げ、やっと岩の上に座っていた奇妙な獣を捕まえた。それは女性のようだが、唇が異様に長く口がきけなかった。そこで、その唇を短く切り取ると、ようやく人の言葉を話し始めた。 彼女の話では、彼女は青河(鴨緑江)の河伯(水神)の娘で柳花 (ユファ)といい、いつも二人の妹と熊心淵の辺りで水遊びをしていたが、偶然に解慕漱が、そんな三人の様子を観ていた。そして、「水神の娘であれば、私の跡継ぎに相応しい子を得られるだろう」と考え、神力で岸辺に黄金に輝く宮殿が建て、部屋には三人分の御馳走や酒を十分に用意して姿を隠した。
好奇心に駆られた三人姉妹が宮殿に入り、酒食に酔い痴れてしまったとき、突然解慕漱が現われた。姉妹は驚いて逃げ出そうとしたが、慕漱王は扉の前に立っている。妹を逃がした長女の柳花は捕らえられ、強引に妃にされてしまった。 妹たちの急報を聞いた父の河伯は烈火のごとく怒り、解慕漱と対決するが、天帝の子である解慕漱(ヘモス )には敵わなかった。そこで柳花を解慕漱の嫁に差し出すことにしたが、河伯は解慕漱にとっては一時の遊び心ではないのかと不安になり、解慕漱を酔わせ、柳花と一緒に革の輿に閉じ込め、解慕漱の龍車に乗せた。 こうすれば柳花も一緒に天界に連れて行くしかないだろうと考えたのだが、目を覚ました慕漱王は煙のように輿から抜け出ると、一人で天界に戻って行った。そして、慕漱王は二度と戻ることはなく、捨てられた柳花は怒り狂った父によって唇を引っ張られ、三尺にも伸びてしまった。そして、優渤水に追放されたというのである。
金蛙王は柳花を王宮に連れ帰ると別宮に閉じ込めた。やがて彼女の懐妊の報せが届いた。
日光が柳花の胎内に宿った というのだ。やがて、柳花は大きな卵を産み落とした。
それを不吉な現象だと思った金蛙王は、卵を家畜小屋に捨てさせたが、家畜が卵を守り、荒野に捨てると鳥獣も卵を守るので、金蛙王は自分で卵を壊そうとした。だが、どうやっても割れない。遂に諦めて卵を柳花に返し、養わせることにした。 やがて卵の殻を破って男の子が出て来た。生まれながらに異様な能力の持ち主で、生まれて一月も経たないときから母親と会話をした。ある日、ハエがうるさくて眠れないというので、蔦で弓、竹で矢を母が作って与えると、その矢で糸車の上のハエを射落として見せたという。弓術の才能に優れ、七歳の頃には自分で作った弓矢で百発百中の腕前を誇った。扶余国では弓術の名手者を「朱蒙」と尊号することから、この子の名前は解朱蒙 となった。
金蛙王には七人の王子がおり、いつも一緒に遊んでいたが、末弟の朱蒙には天与の才能があるので、兄の王子たちは羨ましくもあり腹立たしくもあった。あるとき、金蛙王が朱蒙ばかりを褒めるのが悔しくて、兄たちは朱蒙を木に縛り付けて帰ってしまった。すると朱蒙は縛られた大木を引き抜いて帰ってきた。恐るべき怪力を持っていたのである。 長兄の帯素は優秀な朱蒙に皇太子の地位を奪われることを恐れ、金蛙王に「朱蒙はあまりに人間離れした力を持っております。しかも私たちとは血筋が異なります。今のうちに排除しないと、いずれは国にとって災いになるでしょう」と進言した。そのときは金蛙王も一笑にふしたが、だんだんと疑わしい気持ちになり、朱蒙に冷淡になっていった。
それを母に告げると「いつか、お前が出て行くときのために」と駿馬を与えてくれた。
やがて柳花は王子たちが朱蒙暗殺を謀議していることを知ると「この国に留まって恥辱を受けるより、遠くへ行って自分の本領を発揮しなさい」と言って、逃亡を勧めた。 朱蒙は国を出る決意をしたが、母を連れては行けない。恐らくは今生の別れとなるだろうと朱蒙が悲壮な表情をしていると、母が五穀の種を包んで渡してくれた。
鳥伊、摩離、陜父という三人の友が朱蒙の旅立ちに同行した。四人は馬を駆って、淹滞水という河に着いたが橋がなくて渡れない。背後には追討兵が追ってくる。朱蒙は馬鞭で天を指し、天神に祈願した後に水面を打つと、無数の魚やスッポンが川面に浮かんで橋を作ってくれ。朱蒙らが無事に河を渡り終え、追討兵がその橋を渡り始めると、忽然として橋は消滅し、橋の上にいた者は溺死した。
朱蒙は逃避行の途中で三人の賢者と出会い、一緒に旅して卒本洲に着いた。
そこは肥沃な土地だったが、すでに卒本扶余 という国が在った。だが、その王には継嗣がいなかった。王は朱蒙が常人離れして優れているのを見抜き、自分の三人の娘から次女を妃として与えた。やがて、王が死ぬと、朱蒙は王位を継ぎ、国名を高句麗と号し 、解姓も改めて高朱蒙 と名乗った。ときに朱蒙二十二歳。紀元前37年のことだと言われ、人々は天(太陽)の子である彼を東明王と呼んだ。
建国の評判を聞いて四方から人々が高句麗に定住したので、次第に繁栄していった。 そんなある日、朱蒙が沸流水の上流から野菜が流れてくるのを見つけ、上流に人が住んでいることに気付き、狩をしながら上流を目指すと、やはり狩をしている一行に出会った。「私は沸流水の上流にある沸流国の王で松譲 と申す。僻地に住み、これまで君子に出会うことがなかった。今日は図らずも君子に出会うこと叶った。幸いなことではあるが、あなたは何者で、何処から到来されたのですかな?」と松譲が朱蒙に訊いた。 二人の間では、いずれが高貴な血筋かの主張が交わされたが、天帝の子の朱蒙に対して、仙人の子の松譲では勝負がつかなかった。
「この辺りは二人の王を受け容れるには狭い。あなたは都を定めて日が浅い。我が沸流の属国となり、私の従者になるべきである」と松譲が言い放った。 朱蒙が怒りだし、結局は弓での勝負をすることになった。当然、名手の朱蒙が勝った。 すると今度は、天から土地を授けられた証としての神器の有無が問題となった。 このような口合戦が延々と続くが決着がつかない。
そんなある日、朱蒙は西の地方を巡幸していたとき、雪のように白い大鹿を捕らえた。神の眷属に違いないと思った朱蒙は蟹原という地で、この白鹿を逆さ吊りにして洪水を起して沸流国を水の底に沈めないと、永遠にこのまま吊るしておくぞ」と脅かした。 果たして天池の底が抜けたような大雨が七日間も降り続け、洪水となり、朱蒙の望み通りに沸流の都は水底に没した。だが、同時に高句麗まで水底に没してしまったが、朱蒙が鞭で水をなでると瞬く間に水がひいた。
紀元前36年6月、松譲が来て国を挙げて降伏した。朱蒙は沸流を多勿郡と命名して、松譲を領主に封じた。その一月後、鶻嶺山が黒い雲に覆われ、下から見えなくなった。だが、数千人が土木工事をしているような声や物音だけが聞こえてきた。
朱蒙は「天が私のために城を築いているのだ」と言った。七日目に雲が晴れると、そこには立派な城が姿を現した。朱蒙は天に向かって礼拝すると、そこに移り住んだ。
朱蒙が高句麗王となって十四年目、母の柳花が亡くなり、東扶余の金蛙王は皇太后の待遇で彼女を葬り、神廟を建てた。それに対して、朱蒙は金蛙王に感謝の意を込めて高句麗の産物を贈った。その五年後。朱蒙のもとに、彼の息子だと名乗る若者が扶余から逃れて来た。その母だという女性を伴っていた。 朱蒙は東扶余から逃亡するとき、すでに禮氏(イエ)の娘と結婚していたが、妊娠中の妻を連れて逃げることができないので、心ならずも置き去りにしてきた。
「生まれた子が男児なら、その子に言いなさい。私の形見の品が七稜の石の上に立つ松の下に納めてある。それを探し出せたなら、間違いなく我が子であると認めよう」 そう言い残して扶余を出た。そして、その後、禮氏の娘は無事に琉璃 を産んだ。
母から話を聞いた琉璃は、形見を探しに山や谷に行ったが、見つけることが出来ず疲れて帰ってきた。そんなある日、琉璃が堂の上にいると、柱を支えている礎石の下から、何かが聞こえるような気がした。見ると、礎石には七つの角があり、柱は松で出来ていた。そこが父の言い残した場所だったのだ。琉璃は柱の下を探し、折れた剣を一振り発見した。
「その剣を持ち、屋智・句鄒・都祖の三人を連れて、私は父上に逢いにやって参りました。どうかこの剣を見て下さい」と言って折れた剣を差し出した。朱蒙が自分の折れた剣を出して合わせると、剣は血を流して接着し、一振りの剣になった。
朱蒙は「お前が本当に我が子なら、神術が使えるはずだ」と琉璃に言った。すると琉璃は天空の太陽まで昇って見せた。これを見た朱蒙は喜び、高句麗で生まれた沸流(ふる)と温祚(おんす) の二人を差し置いて琉璃を太子に定めた。
その五ヵ月後、朱蒙が四十歳で崩じ、琉璃は遺品の玉と鞭を龍山に葬り、王位を継いだ。王の姓は高だった。 西暦22年、朱蒙の故郷である東扶余の帯素王(テソワン朱蒙の長兄)が、高句麗三代目の無恤王(ムヒュル朱蒙の孫)に討たれて滅びた。
朱蒙の死後、扶余から父を追ってきた琉璃が高句麗王となったことで、沸流と温祚の兄弟は異母兄から阻害されるのを恐れ、十名の臣下と多数の百姓を引き連れて南へと向かった。やがて一行は北漢山に着き、負児嶽に登って周辺を見回した。王の姓は解(へ)氏で、解慕漱(ヘモス )王からきている。「この河南の地は、北に漢水(漢江)、東に高岳、南に肥沃な沢地、西には大海(黄海)と天険の地の利があり、得がたい地勢です。ここを都にすべきです」と臣下たちが勧めた。 兄の沸流(ピリュ)は沿岸に住みたいと言って納得せず、一行を二手に分けて弥鄒忽(今の仁川)へと向かい、そこに定住した。 弟の温祚は十人の臣下とともに慰礼城(広州南漢山城)に王都を定めて住み着き、十臣を補佐の位につけ、十人が川を渡ったことから、国の名前を「十済」と定めた(済には渡るという意味がある)。紀元前18年のことだと言われる。 沿岸地方を選んだ沸流だったが、土地は湿気が多く、水は塩辛いので暮らしにくかった。弟のいる慰礼城を訪れてみると、皆が安楽に暮らしていた。これを見た沸流は後悔のあまり病気になり、ついには死んでしまい、沸流に従っていた百姓は皆、十済に帰属した。その後、百姓が喜んで川を渡って来てくれたことを祝して「百済」と改名した 。
百済の王族は姓を「扶余」に定め 、温祚王が即位した年には「東明王(朱蒙)廟」を建てて、その霊を祀ったという。
東扶余王の解夫婁王(ヘブル )王は老いて子が無く鯤淵(こんえん、地名)の池で、王の乗っていた馬が岩を見て立ち止まり涙を流した。王は不思議に思い、その岩を動かしてみると金色の蛙の姿をした子供がいた。王は天が私に嗣子を与えてくれたと思い、名を金蛙(クムワ)と名付けた。王は都を迦葉原の地に遷都し国名を「東扶余」とした。金蛙王と河伯(ヘベク)族の王女の柳花(ユファ)との間に生まれたのが高
朱蒙だとされる。朱蒙は扶余の金蛙王(クムワ)の王子として育てられたが、妻の礼(イエ)と幼い孺瑠(ユリ)を残して、城をでる。ここで城を出るとき、淹嗁水ですっぽんの浮き橋の逸
話がある。追っ手に追われて、川に遭遇して窮地に陥ると、すっぽんが現れて橋になり、無事に河を渡った。解慕漱(ヘモス )王が率いたタ ムル軍を本渓山(ポゲセン)を拠点で復活させ、桂 婁(ケル)族を率いて卒本(ソルボン)に入り消奴(ソノ)族をしだいに抑えて連盟の主導権を取った。
卒本(ソルボン)は桂 婁(ケル)族、沸流(ピリュ)、橡那(ヨンナ)、貫那(カンナ)、桓那(ファンナ)の5部族の連盟であり、桂婁(ケル)族 が大君長となった。朱蒙は沸流(ピリュ)、橡那(ヨンナ)、貫那(カンナ)、桓那(ファンナ)の君長を服属させ、卒本を統一、王となる。卒本の鹘昇骨城
(現遼寧省桓仁県五女山城)を都として高句麗を建国。朱蒙22歳のときだった。後に東明王とおくり名となった高句麗の祖である。「太陽と月の子 川の神の
子孫 チュモ王」と讃えられ、高句麗王はその代々を”高(コ)”の姓を名乗る。
凡有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本消奴部為王、稍微弱、後桂婁部代之。其置官、有相加、對盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、帛衣先人。(『後漢書』高句麗伝)
朱蒙が高句麗を立てる前、この5部族のうち、消奴部が王を出していたが、次第に微弱になり、桂婁部から王を出すようになった。桂婁部を内部(黄部)、絶奴部を北部(後部)、順奴部を東部(左部)、灌奴部を南部(前部)、涓奴部を西部(右部)と()内の名称に編成された。黄部とは中部の意味である。五部族は、東部、西部、南部、北部、中部(黄部)の五部に改称した。
桂 婁(ケル)部の大君長延陀勃(ヨン・タバル)が朱蒙を支えて卒本の王にした。娘の召西奴(ソソノ)を朱蒙に嫁がせたので、
五部族の桂 婁(ケル)部が王族となり、消奴(ソノ)部は国相など褥薩(ヨクサル)すなわち貴 族となった。
朱蒙(東明王トンミョンワン)を王に立てて卒本は統一し、五部族は、東部、西部、南部、北部、中部(黄部)の五部に改称した。漢の太守を戦死させ、玄莬城(ヒョントソン)を落城させた。太守は地域の有力者からも任命され、玄莬城の城主になって統治した。この時は、蓋馬国の王子、ヤンジョンが太守であっ
た。東明王はAD3年卒本から国内城(クンネソン)に遷都した。高句麗はこの国内城(クンネソン)から荇人(ヘイン)、北沃沮(キタオクチョ)、梁貊、扶余(チュモ王から三代目にしてAD22台素(テソ)王戦死させる)、東沃沮、鮮卑族、靺鞨(マルガル)族などを後退させ、蓋馬国、狗茶国、AD32年には楽浪郡を攻めて漢を追い出した。
所謂、周辺諸地域を併合し版図を拡大した。中国遼寧省本渓市は現在に至るまで製鉄産業の町であるが、その市域東部に卒本城(ソルボンソン)がある。卒本城
(ソルボン)は良質の鉄鉱石と石炭を産出するので、この地を制することは鉄器を製造する重要な地であった。また、隋唐時代には安市城(アンシソン)が鉄の産地の防衛線だった。高句麗は漢に勝る鉄騎軍を創設、刀剣、矢じりなどその製造技術は優れていた。高句麗は鍛冶頭を要人として保護している。
* *扶余の俗言で弓の名手を「朱蒙 」という。
*高孺瑠(コ・ユリ) 高句麗王二代 高瑠璃明王(るりめいおう) 高朱蒙の長子
*柳花(ユファ) 河伯神母(ヘベク) 金蛙王(クムワ)の寵愛を受ける
*台素(テソ)王 金蛙王(クムワ)王の第一王子で太子となり、王座に就く、高句麗第三代王無恤(ムヒュル)に殺される。 ■三韓時代と倭
* 高句麗では五部族の代表である褥薩(ヨクサル)が、コチュガ会議によって国策の重要決定をおこなっていた。褥薩(ヨクサル)は、北部、西部、東部、南部、
中部に分かれ、それぞれの首長が合意の上、王を擁立していた。王は佳婁部に属するものに限られ、謂わば天孫の血筋であり、その姓は”高”を名のっていた。
*百済では、五方の方領の首長からなる政治巌(チョンサム)会議である。 * 新羅では、六部村長からなる和白会議である。満場一致を議決法としており、一人でも反対すれば王の勅命も葬ることができた。真智王は和白会議で廃位に追い込まれている。王は聖骨(ソンゴル)、または真骨(ジンゴル=片方が王族)のなかから選ばれた。新羅は骨品制(ヨルプル)と
いう身分制度をもっており王族の中でも、金官金氏系の王族は下位にあり、暗黙の差別があった。伽耶系の民衆も新羅人に同化させられても、なお差別を受けて
おり、亡国の民として屈辱を味わった。伽耶系の平民は能力があっても官位が与えられることはなかった。金庚信(キムユシン)将軍の父がキムソヒョン(감서현)
が伽耶王族仇衝王の孫である。伽耶王家直系であるも、新羅では格下であるにしても、キムソヒョンの妻はマンミョンはマノ太后の娘であるので、キムユシンはマノ太后の孫であるという毛並みのよさがあった。他方、身分という階
級、その点では、高句麗は武芸に秀でていれば平民でも将軍になることができた。ウルチムンドクや、ヤンマンチュンなど名将軍も平民から将軍になっているよ
うに、高句麗は遊牧異民族と接するため広開土王が積極的に能力によって登用するようになったのだろう。 三韓とも、それぞれ、もともとの地元豪族が、天尊とする(外来の)王を推挙して王を擁立した。また反面、王を廃位させることもできた。これらの部族長
(村長とも書かれるが、日本の豪族に匹敵する有力者) が権力を持っており、王はしばしばそれら貴族と王宮で対立抗争をしなければならなかった。高句麗26代嬰陽王・コウォンは近衛兵1万で西土(遼河の西部)
に先制攻撃をした。たった1万で、ほとんどが靺鞨(マルガル)兵だった。高句麗の先制攻撃である。遼河(鴨緑江)を渡河して攻め入ったのは広開土王以来の
ことであった。隋はおよ そ10万の討伐軍を臨楡関(インミュグァン)から送ったが遼河を渡れず、8万の兵を失い大敗戦。このとき、高句麗の褥薩(ヨクサル)たちは、隋
に敵うわけはないと戦況を見守って何もしなかった。隋との初戦で王が隋の大軍に大勝利を収めると、ようやく15万の援軍を送り、598年7月末、遼沢(遼
河西岸沿いの湿地帯)で20万の隋大軍を全滅させる。隋では「遼東に行って犬死にするな」という歌が流行した。なんであれ、王と貴族の立場の違いから、貴族は戦を好まないのは道理である。そのため謀反の火だねは尽きなかった。王は、会議で
承認されなければ、出兵の動議も一存では叶わなかった。もっぱら保身に傾 く守旧派の貴族たちがそれぞれ持つ私兵の方が圧倒的に多かったのは事実だ。こうした宮廷内の権力をクーデターで一手に握る
ことに成功したのが淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)で、高句麗がより強国になる布石となった。淵蓋蘇文、642年(栄留王25年)に北方、遼河東側に千里長城を築造し唐および突厥の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(テマンニジ:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。天智天皇3年(663年)に淵蓋蘇文が死後3年
間、死を伏せたことが書かれている。伊梨渠世斯(いりこせし)は淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)の弟になる。淵蓋蘇文は泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。姓の「淵(泉)」を高句麗語の訓読み「いり」であった。イリが姓の読みだとすると、イリのつく姓やおくり名はあんがい高句麗の王姓の真の読みであろ。唐が666年、第3次遠征を起こしたのは、淵蓋蘇文(ヨンケソムン)の死から3年目であるが、細作(セジャク=密偵)は淵蓋蘇文(ヨンケソムン)の死後に内紛が生じたことで真実を知ったようだ。
*細作(セジャク):密偵のこと。敵情を探り、報告する任務を持って敵国に入る、いわゆるスパイ。 *郷間(ヒィヤンカン):敵国人の協力者。敵に寝返った内通者のこと。
参考資料:孫氏 用間篇 『郷間とは、その地に住む人間を使った間者である。内間とは、敵国の役人を買収して得る事のできる間者である。反間とは、敵の間者を寝返らせてできた間者である。死間とは、全く偽りの情報を外部に流しす間者で、他の味方の間者と共に敵国内でその情報を広めて、こちらの望む行動を敵自ら取らせようとするのである。生間とは、敵に潜伏しておいて生きて情報を持ち帰る間者である。』
ここでの間とはスパイでいいだろう。スパイにも、5種類ある。
・郷間・・・敵国の者をとり込んで使う
・内間・・・敵国の官人をとり込んで使う
・反間・・・敵の間者をとり込んで使う
・死間・・・敵国に潜入してニセ情報を流す
・生間・・・敵国から情報収集して帰って来る
孫子は兵法書を締めくくる用間篇で、『これ兵の要(かなめ)にして、三軍の恃(たの)もて動く所なり』 情報戦線こそ戦のかなめであり、全軍はこれによって動くのだとする。これが、『彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず』の裏付けであった。
*伝説的ではあるが、金春秋を三韓の虎(pɔɔm)、淵蓋蘇文を三韓の龍(ユン)と讃える。
■高句麗三大大勝は朝鮮民族心を高揚させる 高句麗が隋や唐に勝った戦はいずれも朝鮮の大河川沿いである。
その1)乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の薩水大捷 (612年7月) 隋の煬帝による第二次高句麗遠征(612年)は、113万3,800人の兵を以て200万と号する大軍と、それを支える輜重隊による前代未聞の規模で行われた。隋の煬帝本体が遼東城を攻略できず止まっているあいだ、4万の水軍が蛇水(大同江)に上陸した。そこで、陸路軍と平壌城を挟撃する戦略に出た。急遽30万の兵を別動隊をだした。30万の兵、おのおのに兵糧を担いで進軍を強行したため落伍する兵が多かった。兵糧部隊の援護もなく進軍を急ぎすぎたため、ウルチムンドク将軍の誘引策略に嵌まった。ようやく平壌城の手前3里に達したが、補給線も絶たれ、兵が飢餓状態になり、もはや戦える状態ではなかった。撤退を開始するも、薩水(サルス、現、清川江)を渡河するさいに、ウルチムンドク将軍の追撃を受ける。この作戦が見事に成功。川上の堤防を決壊させて多くの隋兵が溺死したと言われる。薩水(サルス、現、清川江)の猛攻で随軍は兵
2700人を残しほぼ全滅する。水攻 めの計が見事に成功、高句麗が奇跡的に大勝利した。薩水大捷と言われる。 *遼東城と新城は平城(ひらじろ)である。平城とは平地にたつ城のため、山城より城壁を高くしてある。その作りは中国式である。国内城も平城であるが、すぐ近くの丸都城が初期の王城で山城である。卒本城から国内城に遷都したのは、2代目ユリ王である。
高句麗の主要な城と河川図
とは遼河の旧称は九黎河、別名を句驪河、枸柳河、巨流河。句麗国から来た名称であることは明らかで、遼河を高句麗側では「クレガン」と言っていたのであろう。薩水(サルス)は清川河(チョンチョンガン)上流部に比定。高句麗と楽浪郡の国境として意識された。
*薩爾滸山というのが渾河(ホンガン)の源流だとされる。薩爾滸山は八岐大蛇のいた場所か?
*遼河は「九黎河・句驪河・枸柳河・巨流河 」などの古名がある。
*渾江にはいくつかの亦名があり、「塩難水・猪灘水・淹淲水・ 沸流水・婆猪江・沛水・ 佟佳江」など古名がある。
*鴨緑江にも複数名が存在し、古くは「馬訾水・ 鴨水・鴨緑大水・沛水・大定江」などがある。
*漢江(ハンガン)は奄利水・阿 利水などの古名がある。
新城と遼東城、首都の国内城は平城である。丸都城は国内城以前の王都だったが、丸都城は朝鮮式山城で、国内城に移ってからは首都防衛の砦になった。
これらの城の名称は、高句麗が使っていた名称ではなく、統一新羅後に命名されており、いわゆる高句麗語ではない。
一部しか判明しないが、以下3城の高句麗語。
新羅語
高句麗語の【地名】
安市城
舊安寸忽
遼東城
本鳥列忽
ここから、忽(クド)が、城の意味であることが明らかである。
その2) 楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍の安市城(アンシソン)の戦い(645年) 唐の大宗の第一次侵入、遼東城、卑沙(ピサ)城、蓋牟(ゲモ)城は落城させた次に100万の唐軍は安市城を攻略、平壌城に向かおうとした。安市城北側を囲むように流れる海城河の対岸に駐屯した。しかし、楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍の守る安市城を何度攻撃しても攻略できずに、被害ばかりが重なった。とうとう南
門の近く東側城壁に面した場所に50万人を動員して土山を60日かけて築いた。しかし、9月中旬、土山を高句麗軍が占領し、ほぼ勝負がついた。唐は新城や建安城も攻略でき
ずに撤退した。冬装備のなかった唐軍は、冬将軍の到来のため時間切れに終わった。唐軍は撤退したが、大きな被害を被った。安市城は遼江の支流、太子河に海城河、八里河の
合流する地点がある。河と山に挟まれた山城である安市城は難攻不落である。
その3)蛇水(大同江)の大勝、大対盧(テデロ)の淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)、第二次高句麗・唐戦争(661年)で唐軍は平壌城を包囲したが、淵蓋蘇文が蛇水で龐孝泰の軍を全滅させ、龐孝泰も戦死した。残りの唐軍も戦闘を続けられず撤退した。
■三国の軍事内情
三韓はそれぞれ強兵につとめていたが、高句麗では早衣仙人(チョンィソニン)と呼ばれる戦士の育成団体があった。黒装束の特殊部隊で ある。精鋭軍・常備軍の将軍の手足となり、後方攪乱・兵糧部隊の殲滅など特攻作戦を率先として実行する。また、リスクの大きい作戦では決死隊となった。日
本では忍者部隊といった感である。しばしば、大きな戦績を残している。新羅では花郎徒(ファラン)、百済では武節(ムジョル)という組織で、それぞれ勇猛
な戦士を育成した。軍律は厳しく、かつ国王への忠誠心、親や友人に対する人倫も鍛えてい る。謂わば軍の士官学校であるが、武術だけではな く精神も鍛え上げる。古朝鮮以来の仙道を根にもつ点では同根で、幼少から戦闘部員を育て上げる。新羅では骨品制度から、貴族の子弟と平民の師弟は階級差別
があった。貴族の子弟でないものは郎徒(ナンド)といい、実力があっても花郎の命令に従う兵卒になるしかなかった。しかし、高句麗では能力次第で将軍にもなれた。
■檀君神話は山岳信仰の根っ子
天神桓因(ファニン)が息子桓雄(ファヌン)を天下らせたのは「太白山」(テペクサン)の頂に祀る神檀樹という神木だった。そこを神市(シンシ)と名付けた。風伯(フンペク)、雲師(ウンサ)、雨師(ウシ)の三神と3000の部下と、天符印(3つの玉印)を授けた。そこには、一頭の熊と一頭の虎が洞窟の中に住んでいた。「おいらも人間になれたらいいなあ。桓雄(ファヌン)様、お願いです。どうか人間にしてください。」桓雄(ファヌン)は願いを聞き入れてヨモギ一束とニンニク20粒を与え、「それだけ食べて100日の間神様に祈りなさい。ただし、100日過ぎるまで絶対に太陽の光を浴びてはならん」。こうして、熊と虎は洞窟修行に入った。幾日か過ぎると、虎は空腹に耐えきれず逃げてしまったが、熊は辛抱して修行を終えた100日目には人間の女になった。桓雄(ファヌン)は「熊女」(ウンニョ)となずけ、褒美として妻とした。そして生まれたのが檀君(タングン)で、白岳山(ペガクサン)の麓、阿斯達(アサダル)を都(現平壌ピョンヤン)として「朝鮮」(チョソン)という国をお創りになった。古朝鮮の始まりである。この王を民は「檀君王倹」(タングンワンゴム)とと呼び、崇敬した。古朝鮮の建国を祝う祭りは「開天節」とよばれ、10月3日に行われる。檀紀はこの建国を始まりとする歴であり、西暦よりもずっと古く2333年を足すと檀紀となる。
■阿斯達(アサダル)には日子山(ひこさん)があり、檀君は登って山神となった。(日子山頂で昇天した山神)日本の三大彦山は、弥彦山(新潟)・雪彦山(兵庫)・英彦山(福岡と大分の県境)にある。ヒコ山系の信仰はに共通なものは「檀家」「ヒコヤマ権現」であり、震旦国の神であるとする(鎮西彦山縁起)。天神桓因(ファニン)はペルシャ系の大男だったようである。猿田彦などのヒコは、日子山のイニシャルであろう。「霊樹」「磐座」「神奈備」「洞窟」など山岳信仰の共通の因子があることは明らかである。特に、洞窟にこもる修行は欠かせない要素である。英彦山には49の洞窟があり、そこで修行する。修験道(しゅげんどう)は密教と集合しているが、大本は古朝鮮山岳信仰「仙道」である。山伏は別名修験者であるが、その意味は、山に伏して修行する姿から<来ている。 来た言葉である。
韓国では山伏のような修行は全くなくなり、「祭天儀式」だけが残っているのみである。檀君信仰の真髄は、日本に延々と継承されているのだろう。朝鮮から引っ越してきた仙道は、実は日本でのみ生きていると言える。たとえば、白山神社の白山権現は新羅の浮石寺(AD678)・海印寺の山岳霊山の寺と同一流派と思われる。新羅の花郎道(ファランド)でも洞窟修行が行われていた。キムユシンなども三韓一統の気概を洞窟で養った。
「藤原恒雄と善正上人像」(英彦山神宮像)
画像転載「韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎」海鳥社刊より
左:藤原恒雄 中央:善正上人(檀君坐像にそっくりだ)
九州の大分と福岡にまたがる英彦山(ひこさん)は役小角(えんのおづの)を開山としない異例の修験道の霊山である。彦山の開祖は、中国の魏国の人善正法師であると「彦山流記」に書かれる。。普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもり 、時期が来るのを待った。継体天皇二十五(531)年のことである。役小角より百年以上遡る。『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかある。しかし、善正は神格化され「檀君神像」とそっくりに描かれる。
この図は英彦山開山伝説からの呪符で「三羽の鷹」が描かれているまた、アルファベットのaierhに読み取れるような文字と十字と装飾図は現代のデザインにも似てい奇なるところがある。なにかローマ字ではないかという思われる。なんと驚くことに、東ローマ帝国の影響下にあった可能性もある。この図では三本足には見えないことも注意点である。
彦山流記では「彦山権現」は「震旦国」から来たと書かれる。この社が檀君神話と弥勒信仰を併せ持っていることから、「震旦国」は「神檀国」のことであろう。紀元前7世紀から6世紀には、朝鮮の最初の国家があり、漢に前108年
に滅ぼされるまで存続したと考えられてい る。斯白力の天海(バイカル湖)の地域で天帝・桓因(ファンイン)より7代、330年が続いた。次に倍達国を桓雄天王が太白山(白頭山)の地域に都し18
代1565年続いた。次に、檀君(タングン)が阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク) に京にして「朝鮮」と名付けた。これを古朝鮮と呼ぶ。震旦国、文字の解読が歴史をかえる。「神檀国」は紀元前2000年からは、阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク)と認識されていたと云われるが、北朝鮮の開城(ケソン)には東明聖王の陵墓がある。平壌市の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。しかし、元来は集安にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。集安市は吉林省南東部、長白山(白頭山 (ペクトサン))南麓に位置する。高句麗の王城(国内城クンネソン)があったところだ。
百済のことをメぺクチェ(매백재)と呼ぶこともある。매(メ)とはまさに鷹を意味する。百済を鳥類である鷹の一種を意味する‘鷹準(ウンジュン)’と‘羅鬪(ナツ)’と呼ばれた事実が伝えられている。三羽の鷹(サンメ)は百済のシンボルである。そこで、開山伝説を見てみよう。
*彦山を開山した僧善正が修行中のことである。豊後の国日田郡の猟師藤原恒雄と出会った。はじめは言葉が通じなかったが、しばらくすると二人の間で話ができるようになった。その時善正は殺生の罪を説くが、恒雄は耳を貸さず白鹿を殺してしまう。ところがその時上空から鷹が三羽現れて白鹿を蘇生させてしまう。その奇跡を見た恒雄は善正の弟子となり、名を忍辱と改め、修行に励むようになった。
「ある時、山麓(豊後国日田郡藤山村)に住む、藤原(藤山)恒雄が、山中で白鹿を射止めた。そん時、三羽の鷹(매メ)何処からともなく、天空から舞い降りて来た。一羽の鷹が白鹿の身にササッた矢を取りのぞき、もう一羽が傷口から流れ出ている血をぬぐい取り、最後の一羽が桧(ヒノキ)の葉にふくませた聖水を白鹿に飲ませた。すると、殺したハズの白鹿が生き返った!!!
白鹿の命を救った三羽の鷹の優しく美しき霊験に、狩人の恒雄は、殺生するコトの罪深さを悟る。そして、自ら善正の弟子となり、後に忍辱(にんにく)と改名。異なる【日子山】神様の聖地にもかかわらず、神仏様を仲良く合体して崇め奉り、神仏習合の霊山寺を建立。祖師の善正を開祖となし、自ら二世となった。仏教伝来における、日本初の仏教僧、誕生した。」
白鹿とは「扶余(プヨ)」のシンボルで神聖動物である。鷹は百済の象徴で鷹・ナトゥ。すると、百済が扶余を復興させるという含意がある。
538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を南扶余と号したこともあり、百済王族が高句麗に滅ぼされた扶余を復興しよう強い願望があったということなろだろう。善正は檀君の別の名であり、藤原恒雄は百済の王族とあったという真相が透けて見える。
鷹狩りは伝来であるというより、馬韓の民が移住してきて、そのまま狩りを日本で継続したのであろう。
本家本元、カザフ族の鷹狩(新華社配信/2012)馬上の鷹匠、これぞ騎馬民族!!
鷹狩りは一回覚えさせればいいというものではなく、毎日トレーニングしなければならない。
■日本書紀 巻11仁徳43年
「百済の俗、この鳥を号して倶知(クチ)と曰う」とあり、鷹を訓練する役目を百済王族の酒君にあたえた。しばらくして酒君、鷹を腕において、天皇と遊猟にでかけ、鷹に数十の雉を捕って御覧に入れた。百済語では、鷹をクチと呼んでいたと書かれている。この時に、初めて鷹という鳥を発見したように書かれる。鷹狩は百済のオリジナルな特殊技能の一つだった。
VIDEO
*韓国で鷹狩りを見ようとするには、忠清南道の扶余と公州一帯で、678年の百済の歴史と文化にスポットを当てた「百済文化祭2012」が9月29日から10月7日が行われ、そのイベントに鷹狩りがある。
■この山岳信仰は鬼道と呼ばれている
英彦山(ひこさん)には樹齢1200の天然記念物「鬼杉」がある。「男子陽、鬼神は陰也」と言われ、巫女が鬼神である。男子は鬼神と化すために、女装したのである。鬼神となると、死をも超越するので、戦場で死を恐れなくなる。花郎徒が化粧したり、女装したりするのは神事である。男巫は女装してはじめて呪詛を行えた。女性の呪力が優先であったことの証であるが、ゲイの集団になったのは自然な成り行きである。盛んに男色が行われていた。こうしたことは仏教では厳しく戒めることになる。600年真平王(チョンピョンワン)のとき、隋から帰国した円光法師が花郎徒に5戒を与えた時、花郎道を綱紀粛清したのであって、花郎組織を初めて創設したのではない。真興王(チヌンワン540-576)は、新羅の領土を拡張、高霊(コリョン)の大伽耶を征服して伽耶を全域制圧、漢江流域を百済から奪って、西海(ヘソ)に窓を開けた。唐との交易は国力を豊かにした。花郎(ファラン)制度は新羅を強大した、この真興王が作ったのであるが、はじめの花郎は「源花」とよばれ、女性だった。この巫女はどんな仕事をしたのだろうか。戦場で敵前に進み、敵へ呪詛を述べながら突き進むのである。言葉の呪力をもって、軍の先頭に立って調伏する。この戦術はいかにも古代的あるが、16世紀に琉球の朱里軍の先頭に立ったのは、久米島の巫女「君風風」だった。迎え撃つ八重山軍も巫女を先頭に立てて戦った。18世紀、薩摩軍にも巫女を立てたが、薩摩郡の鉄砲の前で呪詛を言う間もなく倒れた。「女は戦のさちばえ」という諺が生まれた。史実は小説よりも奇なりである。近代戦争は呪詛から兵器一辺倒の「仁義なき戦い」になったようである。
巫女は殺されに行くようなものだが、これが「源花」と呼ばれた。この源花制度に貴族の子弟が雲のように集まり、300余人に及んだ。兵の士気を盛り上げたようである。南毛(남모ナムモ)と、俊貞(준정チュンジュン)という美しい娘が源花に選ばれ、やがて、南毛(ナムモ)と、俊貞(チュンジュン)の間に嫉妬心が芽生え、確執するようになった。ある日、俊貞は屋敷に南毛を招待し、毒入りの酒を飲ませて川に投げ入れて殺してしまった。何日かして子供がある唄を歌いだした。「チュンジュンはナムモを酔わせて北川に投げ込んだ。」何日かして真相を知った人が、歌を作り子供たちに歌わせたのだ。これを「讖搖(チャミョ)」と云う。たちまちソラボルの噂となり、王の知るところとなった。俊貞は処刑され、王は源花制度を廃止した。その代り、男子を採用して花郎と呼ぶことにした。ここでは男子が化粧をして先陣をきるように男性を巫女の代わりにした経緯を知ることができる。男性である花郎がなぜ女装したのだろうか。「鬼神」が強い呪術力を持つ女性であり「鬼道」とは巫女の宗教そのものを指している。花郎は弥勒信仰と融合して華麗な青年貴族の宗教組織と変貌していたのだ。
花郎組織はそれぞれ門戸があり、貴族の14歳からの美貌な少年を長とし、剣舞などの歌舞、国家的、社会的教育を受けていた。花郎徒(ファラン)では、5つの戒がある。これは円光法師の「世俗五戒」と呼ばれる。円光法師は600年真平王(チョンピョン)の24年に新羅に隋から帰国した僧である。4項の臨戦無退は敵に向かい、先陣を担う。そして、決して退いてはいけない。仏教的なのは第五戒のみである。花郎は化粧をして出陣した所以は、巫女の代わりだったのだろう。そもそも花郎が敵に対峙して率先して死ぬからこそ、貴族でありえた。これは、西欧のナイトと同様である。花郎と朗徒(なんど)とは互いに義兄弟の酌をし、共に死を誓う。この結束力は尋常でなく、同性愛、男色が人倫的関係で生じたと云われている。花郎になることは貴族子弟の憧れであった。
金庚信(キムユシン)は「竜華の香徒」と呼ばれ、下生した弥勒と仰がれた。17歳で中獄の石窟にこもって修行した。中獄は慶州西南の団石山に比定されている。金庚信の墓所の斎室には石像半跏趺像が安置されている。円光法師のもたらした仏教は、弥勒信仰であった可能性がある。花郎徒を結束させたのだろう。弥勒信仰には個人が兜率天に入ることをを願う上生信仰と、兜率天の弥勒菩薩が下生を待望する下生信仰の2つの側面があり、三会の阿羅漢が垂迹して金庚信が誕生したのだろう。これは、下生信仰になる。兜率天には弥勒菩薩がおり、地上界のバラモンに生まれて『竜華樹』の下で修行を積んで得道して弥勒仏になる。そして、弥勒が下生する国は豊楽安穏の理想の国土になる。(弥勒下生経)
花郎たちが誓いをたてたり、戦勝を祈る対照は、半跏趺弥勒菩薩像であったのだ。おそらく源花は兜率天の竜華樹の第三界の92億の阿羅漢の下生した姿だったのだろう。では、はじめ源花が「南毛」と「俊貞」の二人の女性だったことを改めて考えると、弥勒菩薩は女性であることを示唆している。あの、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像、眺めれば眺めるほど、その柔和で、わずかに微笑んでいるようなお顔は限りなく母性性を感じる。また、ヘアースタイルはシニヨン(お団子)で、どうみても女性のものである。体形はきゃしゃでほっそりとしており、乳房がないほかは女性の肉体美すら感じられる。なによりも、その美しさに魅了されるのも無理はない。
興福寺の阿修羅像も明らかに女性である。仏像に女性性を認めないのは、嘘の始まりじゃないでしょうかね。本場インドでは、女性であった菩薩がどうして日本に渡来すると、少年だとか、男性に変貌した仏像になってしまうのだろう。ただ、ファランドたちが、こぞってゲイボーイになった、その動機も純粋な如来信仰の真髄に秘されていたのだ。
1)主君への忠: 忠をもって君主に仕えよ。 2)仕親の考: 考をもって親に仕えよ。 3)交友の信: 信をもって友と交われ。 4)臨戦無退: 戦いに臨むならば退くな。
5)殺生有択: 生き物はみだりに殺すな。
■日本が新羅に来寇したのは、新羅本紀では
BC50、倭兵の襲撃
14年 〃
73年 〃
121年 〃
208年 〃
232年 助賁王(230-247)金城を包囲したが、敗走する千人以上の敵を殺した。
233年倭兵の襲撃
249年 〃
287年 〃
292年 〃
294年 〃
295年 〃
296年 儒礼王(284-296)一時、「百済とともに謀って一時海を渡って、その国を撃ちたいが皆はどうか?」と相談した。」が新羅は海戦に不慣れで、百済は偽りが多く新羅を狙っているので困難であるということで中止された。
346年倭兵が風島に来襲、進軍して金城を包囲。新羅は金城で籠城で長引かせて食料が尽きて退却する。
364年
394年奈勿王(356-402)忽金城を5日包囲。籠城しているだけで敵を退却させる。騎兵200を出して退路を遮断し、獨山に追い詰めて敵を殲滅した。広開土王に救援を頼んだのはこの時だろうか。
399-400年 広開土王百済、新羅で戦う
404年 帯方郡に倭が侵入。
405年倭兵の襲撃
407年 〃
415年 〃
431年 〃
440年 〃
444年4月 訥祇麻立干(417-458) 倭兵が金城を10日包囲。退却と見せかけて王は追撃し、獨山の東で逆包囲されて兵半数を失う。突然の濃霧で救われる。
459年 倭兵の襲撃
462年 〃
463年 〃
476年 〃
477年 〃
482年 〃
486年 〃
497年 〃
500年 〃
503年 智証麻立干(500-514) 国号を新羅とする。
以上、新羅を攻めている年、金城を包囲したのは4回。襲撃数は33回にもなる。他方、百済を攻撃したことはない。救援はある。日本は百済と同じサイドのスタンスだということだろう。
■高句麗の早衣の掟は五常の道で、『忠・考・信・勇・仁』の5文字となっている。国仙は頭領のことである。
新羅の三国統一をなした将軍、金庚信(キムユシン)は15歳で花郎に加わり、18歳で国仙花郎(龍華香徒のトップ)になった。金庚信(キムユシン)は伽耶最後の王、仇衝王の曾孫にあたる。金庚信将軍はのなんといっても三韓統一の一級功労者であり、負け知らずの英雄であった。真徳女王(チンドクニョワン)の後、金春秋(キムチュンジュ)が王位に就き、太宗武烈王となる。金春秋は真骨で、慶州金氏である。軍事面は金庚信、内政・外交の面では金春秋と、この傑出したコンビは三韓統一の大業を成し遂げた礎である。金庚信の妹文明夫人を娶る。金庚と金春秋は義兄弟である。さて、日本書紀孝徳天皇大化3年(647年)には日本に使者として来た。『新羅、上臣
阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、来りて孔雀一隻・オーム一隻を献る。よりて春秋を以て質とす。春秋は姿顔美して善
みて談咲す。・・・』」、と記される。金春秋(キムチュンジュ)は、ハンサムでよく語る人物であると評している。新羅では唐と同盟を推進、唐の歴、唐の官
服を着用するなど、屈辱を忍んで唐との同盟を進めた。三国統一を成し遂げた英雄であるが、高句麗に使者として出向き、高句麗ヨンゲソムンに追い返され
た。投獄されたがうまく脱走したらしい。このとき、国境まで軍を出兵して救出した金庚信(キムユシン)だった。その後、日本に来た。百済攻略する際に日本の派兵を遅らせるためのお膳立てであろうか。三韓統一への一貫した計略であったに違いない。翌年、金春秋は長安に赴いて唐の太宗と百済攻略の戦略を説得して軍事同盟を結ぶ。
*金庚信532年に新羅に投降した金官伽倻の最後の仇衡王を金仇亥といい、その末子の金武力は角干(1等官)の位に上った。金武力の子の金舒玄が金庾信の父であり、金舒玄もまた角干の位にまで上った。金庚信は大角干になった。庚信の墓は太宗武烈と並んで、やや小ぶりながら王侯級の墳墓であり、伽耶の王族の出生である影はない。墳墓は慶北
慶州市 忠孝洞 山 7-10番地にあり、立派な王族に劣らない。
金春秋(キム・チュンチュ)がなぜ真骨(チンゴル)なのかは、父が金龍春(キム・ヨンチュン)がハベク会議で廃位に追い込まれた真智王の息子であったからだろう。金春秋の母、天明(チョンミョン)は真平王の次女だから王族であった。善徳、徳曼(トンマン)が長女であるという説が通説だが、史書に混乱があるのは、あんがい双子だったというドラマのような背景にあるのだろうか。
始祖が姓をおこした由緒ある地名が本貫である。例えば、金氏に古代の駕洛国の金首露王が起こした姓がある。この場合、始祖の姓が金でありその発祥地が金海であったことから、本貫を金海とし金海金氏を名乗ることになった。金庚信(キムユシン)は伽耶王族の血族だから、金海金氏である。同じ金氏に慶州金氏がある。これは、新羅の金門智王が始祖で慶州が発祥の地であったので慶州金氏となった。金春秋(キムチュンジュ)は慶州金氏になるわけで、両者はいずれも姓は同じ金姓であっても始祖が異なるから一族でない。朝鮮の姓氏は、その数は限られ少ないが本貫の数は2000ほどある。
朝鮮の姓氏に本貫が取り入れられたのは、姓氏の数が少なく、姓だけでその出自が明らかにされない、という不便さを補うためであったかもしれない。しかし、より本質的には、人々の生活が血縁集団からなっていたことにある。つまり、郡や面に集落をおいて生活を営んでいた一族が、国家による中央集権化が進む中で、一族の政治的、経済的地盤を固めることを目的として、本貫という族中結束のよりどころを置くことになった。
本貫は大きく、神話に基づくもの、国王から賜ったもの、後世が特別の人物を始祖にみたてたものの大きく3つがある。
三国時代の姓氏の多くは神話や伝説によるものであった。高句麗の高氏、百済の扶余氏、新羅の朴氏などはそれらの国の建国神話から発したものだ。先に述べた金海金氏も慶州金氏も神話によるものである。
642年百済は大耶城(テヤソン・대야성)(陕川)を攻略、 金春秋(キム・チュンチュ)の長女、古陁炤とその婿の城主を斬首した。金春秋(キム・チュンチュ)は百済への復讐心に燃えた。その後、百済が党項城(タンアンソン・당항성)攻略のときは、高句麗も石硯城(ソッキョン)を同時攻撃した。百済と高句麗の同盟(済麗同盟)を見せつけるこの戦では新羅は大敗、西海の出口、唐との交易を塞がれてしまう危機に直面した。この642年同年、金春秋(キム・チュンチュ)は淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)に会いに国内城(クンネソン)に自ら使者となり出向いている。監禁されるも逃亡に成功した。淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)は栄留王を自害に追いやり、宝蔵王を擁立して唐の侵攻に真っ向から対戦する体制を整えた。いわゆる挙国一致体制だ。645年、唐は10万の兵で遼東城、蓋牟城(ゲモソン)、白巖(ペガム)城は陥落させるも、安市城(アンシ)で大敗し、引き上げる。金春秋(キム・チュンチュ)が日本に来たのは、高句麗が唐を破って強大化した2年後のこと、647年である。善徳女王は名は徳曼(トンマン)、真平王と摩耶夫人との間の長女である。
真平王に男子なく、二女は天明(チョンミョン)王女、三女が善花(ソンファ)姫である。この善花は百済の武王(字名は璋・薯童王子)の后になっており、その善花姫の娘が宝王女であり、来日して皇極天皇となる。皇極の同母弟の許可行基とその妹、冬服妹も義慈王に日本へ追放されて、すでに王宮で暮らしていた。(後述)
金春秋は天明(チョンミョン)の子供であるので、金春秋は皇極天皇と従兄妹となる。金春秋は皇極天皇の母が新羅の王女であった経緯から、「聖骨(ソンゴル)である母君が百済でさぞかし御苦労されたことでしょう。私の叔母であります。おくやみ申し上げます。弟君も義慈王に追放されてさぞ御辛かったでしょう。一緒に百済を討ちましょう。」と言ったかどうか分からないが、百済王族の亀裂を巧みに突いて、日羅同盟を目論んだのだろう。が、新羅にうらみを持つ蘇我一族の抵抗にあってを失敗した。韓国ドラマ『薯童謠(ソドンヨ)』では、薯童王子と善花姫のラブロマンス説話をテーマにしている(らしい)。薯童王子とは、百済第30代の武王である。
来ている。>
武王物語(あらすじ;武王物語(『三国遺事』 〈一二八四~一二八九〉巻二所収)) 武王(600-641)・滅亡した義慈王(641-660)の父
百済国の第30代の王様は武王という者である。彼の母は寡婦で都の 南池 の近辺に家を建てて住んでいた。そなんな中で池の龍と交わって子供が生まれた。いつも
薯いもを掘って売り、 暮 らしを立てていたので薯童(いもわらべ) と呼ばるようになった。
その頃、新羅国の都に 真平王の第3の王女で 善花姫 というとても美しいお姫様が住んでいた。薯童はその噂を聞いて、髪を剃り坊主の姿で都に上り、「善花姫様はこっそりと嫁入りなされて、夜には薯童様と交わって去る」という
童謡 を作って子供たちに歌わせた。その童謡が王様の耳に入り、善花姫は遠く離れた所に流されることになり、都を発った。
善花姫は旅の途中でやってきた薯童と出会い、あの童謡が神のお告げであったのだと信じ、一緒に百済国に辿り着き暮らすことになった。そこで善花姫が持参した黄金を取り出して薯童に与えると、彼は黄金の値打ちが分からず、「これは何ですか」といった。善花姫は、「これは黄金です。これだけあれば百年の富でさえ大丈夫です」というと、薯童は笑いながら「こんなものなら小さい時から薯を掘っていた所にいくらでもある」と言った。二人がそこへ行ってみると、たくさんの黄金があった。ある日、王様(薯童)が夫人(善花姫)を連れて獅子寺に参る途中、龍華山の下の大きい池から弥勒仏三尊が浮
かび上がってきた。 〔弥勒仏三尊の出現〕 王様夫妻はそこに寺を建立することとし、知命法師に相談すると、法師は神秘な力で一夜のうちに池を埋め平地
にしてしまった。そこに弥勒三尊と、会殿、塔、廡廊を各々三カ所に建て寺名を*弥勒寺と名付けた。新羅国の真平 王がいろいろな工人を送ってきて助けてくれた。
*弥勒寺址(韓国全羅北道益山市金馬面所在)
奈良県斑鳩町の「中宮寺」の「菩薩半伽像」(国宝)
この像はクスノキで作られた木像。つまり日本で造られた。そのお顔はガンダーラ仏様式であり、中国や韓国の半伽像思惟像と異って非常に美しい。中国の思惟像はみな仏陀太子像で弥勒菩薩ではない。また韓国の国宝78号(金属製)とを比べても、この調和のとれた顔は百済の様式が伝来のものとは思われない。敏達記13年に「弥勒の石像一躯」を百済から貢献されているが、石像であるとする以外なんの痕跡がない。それらをコピーした、あるいは日本的にアレンジしたものとは言い切れないということだ。細部の違いを取り上げることは置いておいても、大きな違いは超越的な美しさである。
新羅の半伽像思惟像(国宝第83)号と広隆寺の「宝冠弥勒 」は冠であるが、中宮寺ではそれはマゲあ(髷)が二つである。このお顔があのミトラス像により近いということだ。ミトラス神はフリジア帽をかぶっていて冠ではない。
思うに、この像には、法隆寺など日本の建築物にみられるのが白銀比(「大和比」とも)。これは「1:1.41」の比、つまりは「1:√2(ルート2)」の比であるが、この比率がどこかに隠れていないだろうか。
また弥勒菩薩 の微笑みは「アルカイク・スマイル 」といわれているような柔和な微笑みを特徴とするが、中国の太子思惟像は、どうしようか思案している顔つきである。
韓国の弥勒菩薩(国宝78号像)は微笑んでいるところは似ているが顔のバランスは中国調でガンダーラ調とは言えない。
中宮寺の半伽像思惟像はガンダーラ仏を手本としてリメイクしているとしか考えられない。
日本に来た翌年の648年、 金春秋(キム・チュンチュ)は唐に向かった。、まず百済を新羅唐の挟撃で滅ぼし、その後、高句麗に侵攻すれば高句麗の平壌城攻略は容易いだろうと唐の太宗に進言した。真徳女王が唐の高宗(太宗が亡くなった)を讃える詩文を錦に刺繍して贈った。このあと、唐の官服を着る、冊歴を受け入れるなど唐への忠誠を示した。善徳女王は、子供がなく最後の聖骨であったので、金春秋(キム・チュンチュ)を太子にしていた。真平王の兄弟の娘真徳女王が王位を継承したが、654年真徳女王が亡くなると和白会議は満場一致で金春秋を王にした。太宗武烈王(テジョンムヨル)の誕生である。
金春秋(キム・チュンチュ)が日本に来た経緯は三国史記にはなく、日本書紀だけに書かれている。
647(常色元 大化3)年 是の年、・・・新羅、上臣大阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、來りて孔雀一隻。鸚鵡一隻を献る。仍りて春秋を以て質(むかはり)となす。春秋は、姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。
こうした中、羅唐同盟を結び唐の援軍の確約をとると、宮中の衣冠装束を唐風に改めた。651(常色5 白雉2)年是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。孝徳天皇は新羅使が唐の服を着た使節団を追い返した。孝徳天皇は内官家である百済の意向に従ったのであろう。
時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。』、651年、新羅の使いが唐服を着てやって来たことで、百済は危機感をもったに相違ない。
唐は単独で高句麗攻略に何度も失敗しているのでこの新羅に30万の援軍を送り、高句麗より先に百済を攻略する戦略にのり、黄山伐(ファンサンボル)の決戦で唐羅軍が勝利すると、一挙に泗沘城(シビソン)が陥落、義慈王は降伏し(660)、唐の捕虜となった。
大和朝廷は明らかに反新羅の体制であったことを踏まえておけば、百済復興援軍をだす伏線はあったのであるが、なぜ義慈王が降伏後に兵を出したののだろうか。そもそも、斉明天皇は義慈王を助ける気はなかったのだろう。
斉明天皇が661年に自ら百済復興の救援に向かう。『熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな』と読まれたのはこの時である。湯滋をしていたらしが、本国が危機存亡の瀬戸際にあっても焦りがないのである。義慈王が敗れれば百済王族は日本に本貫をおくことになり、百済本国が属国になる。
7月24日、現在換算すれば、8月の猛暑のなか、斉明天皇もこの朝倉宮で崩御した。朝倉宮あの卑弥呼の里の甘木市である。斉明は女帝で68歳であるが、無理がたたって亡くなられたとされるが、斉明天皇にとっては故郷に帰還することでもあった。
本貫の地に戻ろうというとき、十分元気であったはずである。とても残念なタイミングである。斉明天皇は羅唐の刺客に殺されたという噂話は当然あっただろう。
*斉明が義慈王を捨てたのか、その理由は、肉親の仇があるからである。書記「皇極紀・元年条百済のとぶらいの元に使いを送ったところ、報告があった。「今年正月、国の主の母(ソンファ)が亡くなられました。また、弟の王子児翹岐(コゲウキ)および女子4人、内佐平キミ、高貴な40人ほど、嶋に放たれました。」
ここに、内佐平とあるが、16品の最高官位であり、6人しかいない佐平(チャピョン)の内の一人である。6人に定めたのは第13代近肖古王(346-375クンチョゴワン)で内臣佐平は総務大臣の如く人事を司る重要役職であった。内臣佐平を追放するというこは、他国からは大政変と映る。すなわち、義慈王は新羅との全面戦争を決意したと受け止められるのである。これが愚行であったか英断あったか、自ら百済最後の王となってしまったことで謂うまでもない。
*百済の最高官職
1)内臣佐平:人事
2)衛士佐平:王の護衛軍
3)兵官佐平:地方軍
4)内頭佐平:財政
5)内法佐平:典礼
6)朝臣佐平:刑罰
この時、亡くなったのは善花王后であるが、その子と妹4人は嶋に追放になったというのである。ソンファ姫が亡くなると、義慈王(599-660)
は待っていようにソンファ一族郎等にたいして大々的な粛清を断行した。追放されたのは、ソンファ姫の子、許可行基 である。許可行基の妹、冬服妹 も含めて忠誠を誓う重臣をともども追放した。 書記の記述の弟とは王子行基である。追放令の数か月後に大使として倭国に派遣されたという記述がある。重臣ともども日本に勅使(サシン)に変更したのである。中には内佐平とは王室を補佐警護する最高官職である。その高官40人となると、一族もろともとなると少なくとも2000人を超す大集団だったろう。うがった見方をすれば、王宮が寒々としただろう。ここに母善花王后の王子・・・と記されているので、史実である。皇極の母は善花(ソンファ)である。とすると、皇極の弟であった孝徳天皇はこの追放されてきた「行基」である。
皇極天皇が史上初の譲位による王位継承をした女王である。しかも軽皇子は立太子を経ていない、また、即位になんら内紛がなかった。孝徳(軽皇子)は、皇極の実の弟(同母弟)であればうなずけるのである。日本書紀は「同腹の弟」と書いているが、真実のようだ。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)で、皇極は宝皇女、諡号は天豊財日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)であらせられ、諡号には「豊」という共通の文字が見える。百済王族とはいえ、母が新羅王族であるため、虐められて「嶋」=日本に追放された関係からみると、孝徳天皇=行基には義慈王は政敵であった。まだ、恨みが残っている。金春秋(キム・チュンチュ)が孝徳天皇とは従兄弟の関係になるので、彼の外交力が効を奏す可能性があったのである。また、日本に自ら出向いても危険はないと見たのだろう。金春秋(キム・チュンチュ)は、太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と面会できたが、孝徳天皇とは残念ながら会うことができなかった。後述になるが、孝徳天皇は唐に行っていて、浪速の宮は空っぽだったからだ。
これは行基の作った地図「行基図」と呼ばれる。日本最古の地図と伝わるが、北海道を除く本土が描かれているのが謎を呼ぶ。
*皇極・孝徳は同母姉弟である。共通のイニシャルは「豊」であるが、読みはオホのようだ。豊芦原中津国の瓊瓊杵尊といった場合、ここに見える豊の一文字は「百済」の代名詞と読み替えることができる。肖古王(166-214)以来、百済との関係が濃くなっている。豊芦原中津国は漢口の下降流域を指し示す。
金春秋(キム・チュンチュ)29代太宗武烈王が亡くなると、子供の文武王(ムンムワン)が即位した。文武王は海岸から2,300メートルほどの沖合の岩に墓を作った。海中墓を造った王は、最初にして最後の王であろう。「私が死ねば、いたずらに財を浪費する華麗な陵墓を造らず、火葬したのち東海の海中の岩に葬れ。私の魂は龍となって国を守るだろう」と遺言した。東海とは日本海の呼び名である。東海の彼方とは日本を指す。大王はそこで倭賊から国を守ろうとしたのだろうか。陽北面奉吉里の海岸からその「大王岩」は眺めることができ、観光スポットになっている。この王がすこしでも日本に近いところに葬ってほしいと願ったのは、その生い立ちにあるだろう。
■孝徳天皇は名ばかりで、在位期間中は唐に行っていた!
日本書紀では、なぜか孝徳天皇の子供について何も記されていない。崩御したので、斉明天皇になったというのは嘘であろう。では、654年推定年齢37年に死んだとされるが、その後、別の名をもって仏教を広めていた。その名は「道昭」である。決め手は、出身地である。河内の丹比郡船連(ふねのむらじ)である。
道昭は唐に渡り三蔵法師の弟子となった比類なき高僧である。
道昭は翹岐と僧名を変えただけで同一人物である。
皇極
孝徳 (翹岐)
道昭
出来事
594
生年
596
生年
浪速の出自
603
小墾田宮に遷宮
639
百済大寺建立 天皇家初の発願寺院 朝廷が仏教を公認した初めと言える。
642
豊浦宮で即位
翹岐46歳、子を亡くす。子の喪は親族が一切関わらないというのが百済、新羅の風俗であると云う。日本書紀は慈悲なく、獣と何ら異なることはない・・・と書き、子の喪に望まなかった翹岐と妻・一族を珍しく侮辱している。王族を獣呼ばわりする謎を呼ぶ一文である。
百済が任那の調を献じる、と書かれるが実際は翹岐らが追放されてきたのである。
644
百済王子余豊、書記に登場。三輪山でミツバチの養殖に失敗する。
645
譲位
中大兄を皇太子とした。始めて元号を大化を立てる。難波長柄豊碕(大阪市中央区)に京を定めたとするが、
乙己の変2日後に突然譲位・軽皇子は太子ではなかった
646
大化の改新 (たいかのかいしん)
653
政治は太子の中王兄が行い、傀儡どころか日本に居なかった。この間の孝徳天皇の行ったことは660以降、道昭の業績を書いたのだろう。
遣唐使で唐に行く。
中王兄、天智天皇に即位する前から王権を握った。後に、大化の改新に不満の貴族・地方豪族が、内乱を起す。壬申の乱(じんしんのらん)の伏線である。
653
中大兄ともに孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷宮
道昭と同じ。
唐で三蔵法師に師事
654
病で崩御したと書かれる。実は唐に居たので、書記の記事は不在を隠すための嘘。
655
重祚斉明 飛鳥板蓋宮で即位
660
唐より帰り、行基になる。 出家僧「道昭」は消える。
唐より帰る
法興寺(飛鳥寺)の一隅に禅院を立てる
数々の土木工事を行う。京都の宇治橋を造る。
699
斉明崩御
700
日本で初めて粟原で火葬が行う。
孝徳天皇は乙己の変2日後に突然譲位され、3度固辞したことが書かれる。太子でもなく、降って湧いたような譲位はどうして行われたのか。乙己の変2日後に突然起こったこと、。無理やり弟「行基」を天皇にすると、中大兄が太子として実権を振るった。その間、天皇は唐に留学していた。これらのことは、乙己の変の首謀者は財皇女と中大兄王子の共同正犯だったことを暗示する。
談山神社所蔵「多武峰縁起絵巻」 大極殿での刺殺場面。645年6月12日
奥に皇極天皇、中央手前が中臣鎌子、剣を持つのは佐伯子麻呂か?
この坐像は,唐招提寺所蔵(重文) の行基菩薩坐像のレプリカで喜光寺蔵。(奈良市)。
参考:行基 (ぎょうき/ぎょうぎ)僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、私度僧の禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋等の設立など社会事業を各地で行った。 朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。
この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。行基は越氏(越史)と称し本貫は越後国であったが、高志才智は和泉国に移住した一族であるという。越氏は百済国から来朝した漢系渡来人王仁の子孫である西文氏の一族とされるが、行基の出自を百済系渡来人の子孫、特に"朝鮮国王の一覧"
百済王家の子孫とする文献もある。さて、ここまではWikipediaである。このような系譜(赤字を除く)はうその白壁を見ているようだ。行基 、書記では、「児翹岐」と書いているように、後ろ二文字はギョウキと読める。ハングル読みではaーhaenーgiになり、ハンギである。軽王子の軽はgyeongである。孝徳天皇という孝徳の名前からそうとう慈悲深い人柄だったのだろう。孝徳天皇は亡くなって退位したのではなく、再び姉に譲位し、出家したのである。(書記の嘘述は人物が割れれば簡単に見抜けるのであるが、紫式部は「うそばっかり」と見抜けたのは、平安時代までは人物像が伝わっていたのであろう)。行基 (ぎょうき/ぎょうぎ)は大仏造営中の749年(天平21年)、"喜光寺"で81歳で入滅し、朝廷より"菩薩"の称号が下され、行基菩薩 と言われる。しかし、行基の生年と没年は(668-749)は40年ぐらいサバ読みされていると云わなければならない。「大僧正舎利瓶記」は、行基の出自を河内の大鳥郡(堺市)とする。やはり河内、道昭も孝徳天皇も河内、河内は高徳な僧侶を3人生んだのではなく、一人なのだろう。大阪府南部、泉北丘陵に百済の人々が「陶邑」を作り須恵器を生産していた。行基は陶邑に「大修恵院」を創設しているが、院とは寺ではなく、人々が集まり、居住する場所で、生活施設である。仏像の安置のほか病院、葬儀などの諸施設をもっている。あたかも朝鮮の城と、蘇塗(ソト)のような境界を併せ持つ民衆救済の空間であったろう。
蘇塗(ソッティ):鳥形木を付けた柱 村の入り口や門前に建てられる。
■孝徳天皇は聖人行基その人である。
孝徳天皇は熱心な仏教徒であった。在位の間、仏教を広めただけでなく、民に公平な善政を実行している。あたかも行基と同一人物であるかの如くである。
以下は日本書紀文中より仏教を実践した記述の要点は以下のようである。
その1 墳墓を作ることは民を貧しくする。愚か者のすることでであり、葬りを隠せと述べた。宝物を納棺するなど旧い墓制を改めようとした。
その2 流人や囚人の恩赦を国司に命じた
その3、2100余の僧侶、尼僧に一切経を読ませた。
その4 2700の灯明を宮中にともして高僧に経を読ませた。
その5 36の仏像を作った。また、命じて千仏の像や多くの仏菩薩の像を作った。
その6 221人の学問僧らを唐に送った。唐に派遣したのは一回だけではない。
その7 聖主(ひじり)の天皇(すめらみこと)と讃える表現がある。
その8 田を百姓に公平に 分け与えた。(公地公民制・国郡制度・班田収授の法)(租・庸・調)など大化の改新である。貴族、豪族の冊封権を朝廷に返上することになり、貴族の反乱を生む原因となる。)
その9 寺を作ることができなければ、朕は皆助けて作らせると言い、寺院の建設を奨励した。
その10 無量寿経を講話させた。
その11 処々に大道を作った。
*推古天皇は「我がために陵を興して厚く葬ることは禁止する」と言っているが、当時、仏教を信仰する王族はみな、墳墓を質素にしている。新羅の善徳女王が最初の火葬をした王様であると云うが、善徳女王から大墳墓の消失が始まったと言えよう。日本で最初に火葬をしたのは「道昭」だが、孝徳天皇だったと比定する。
■内官家の変化は、王統の断絶を意味する。
敏達紀では「わたしの先の欽明天皇の23年に、任那、新羅のために滅ぼされた。故、新羅、我が内官家を滅ぼしたのだ」と云った。用命、欽明天皇と敏達天皇はまぎれもなく金漢伽耶国=任那の王族である。次の用命天皇から崇峻天皇までは雲行きがあやしくなった。用命の后「炊屋姫皇后=後の推古天皇」をi穴穂部皇子が奸そうとしたという事件である。i穴穂部皇子は大罪を犯したことになる。太子になり損ねた代償は大きかった。推古天皇紀ではまだ、「任那は、是はじめより我が内官家(うちつみやけ)なり。」と臣下が云うも、この女帝は根っこは、「我は蘇我より出でたり。大臣はまた朕が舅たり。だけど、・・・」と云っているように蘇我すなわち元百済の将軍なのであり、蘇我は王族ではない、蘇我の利益も大事だけど、私は伽耶の王族なのよ・・・である。
伏線は意外なところにあった。百済の武王である。隋の煬帝がタリシヒコに国書を裴世清にもたせた。「我が朝廷を素通りして、我が国の南道つかって日本に国書を運んでいる。これは断じて許せない。」、この国書が盗まれた。武王が目を通したのだ。「我が国の上を行かせてはならない。」、はじめに、蘇我蝦夷に命じて、秦王国系の山背大兄王を絶ち、 田村皇子を舒明天皇とする。まんまと娘の宝公主を舒明天皇の后として送り込んだ。藤原の祖、鎌足を用心棒に送り込むと、次に蘇我を倒せば、伽耶権益も奪え、伽耶王族も一掃できる。大和を檐魯国にするための一石二鳥が、蘇我入鹿の謀殺だ。密命をもった鎌足が、乙巳の変には成功したものの、読めなかったのは武王が亡くなり、義慈王が立ったことだ。そして、当の皇極天皇が、事件の2日後に義慈王が追放した同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲ったことだった。孝徳天皇は誤算だった。孝徳天皇はガチンコの仏教派であったのだ。蘇我を倒す名分が崇仏派の一掃だったから、齟齬があってぼろがでてしまった。だが、孝徳天皇曰く、「我が遠皇祖の世に、百済国をもって、内官家としたまふこと、たとえば三絞の綱の如し。(百済との関係は切ることができない)中間、任那国を以て、百済に属け賜ふ。」と、あり、任那を伽耶から切り離して百済に譲ってしまった。まさに百済が我が祖国といっているようなものだ。 百済王族による大和朝廷の独占が一応成功したということである。653年、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、浪速の孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷宮した。 日本は野蛮な国であるが、我が百済王族が朝廷を占有した。これより、王権を強め、朝廷の実権を高め、大和豪族の力を削いでいく。中大兄皇子、まずは孝徳天皇の排除に動く。654年10月1日、皇祖母尊、 中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に行幸。10月10日、孝徳天皇が崩御。中大兄皇子を老者語りて曰く、「 ネズミの大和に向かいしは、都を遷す兆しなりけり」、中大兄皇子をネズミと言っているのだ。ネズミ呼ばわりは、 日本書記がぎりぎりの線でのアンチテーゼだろう。孝徳天皇、実は唐に行っていたので、不在中のクーデターだったのだ。書記は真相を隠すため嘘を書いた。皇極、皇祖母尊が重祚した。中大兄皇子、 皇太子であるにも関わらず即位しなかった理由はこれだった。初の、譲位、初の重祚、皇極は義慈王への恩讐の念が消えなかったに違いない。義慈王の母は百済八姓門閥の 沙宅積徳の娘だった。沙宅氏、皇極と孝徳姉弟の母である善花王后を新羅と通行した罪をかぶせて廃位させ、まんまと正后におさまったのだから。
推古天皇紀では、 「任那は、これ元より我が内官家なり。今新羅人伐ちて有つ。」とあるように、欽明天皇以後の内官家は金官駕洛国王家であったが、本貫は新羅の属領になってしまった。
(532年)金官金氏王族は、新羅の月城に移動し同族化させられた。このため、欽明以後、新羅が内官家を取り込んでしまうという事態になった。新羅との外交は
宗主国から自立するほかなかった。ここで倭国は内官家と別離し、倭国をいわば独自の歴史を持つ国家として脱皮せざるをえなくなる。倭国が外交権を 樹立した意味では半島離れが加速したのだ。朝廷は任那復興を悲願としていたが、加羅国のうち4県を百済に賜うなど、百済の力に頼る以外になかった。伽耶の地はもともと馬韓王の領地であったが、百済扶余族が征服したのである。百済は盛んに倭王に皇女を嫁がせたり、皇子を人質に送ったり、倭国を担魯化政策を繰り返し皇極天皇以降は佐平クラスの蘇我氏が事実上の王権握り、百済王家の属国ともいえる王朝となっ
た。宮家は 金官駕洛が主軸であったが、任那が滅亡したあと、百済と新羅のはざまに翻弄されるようになったのである。皇極天皇のときで百済の王子余豊を人質に送った。この人物こそ、百済復興のために倭から王として再び百済に送り返した豊璋王である。本国が倭に逆支配されることになる。(皇極天皇
2年余豊がミツバチの養殖を三輪山麓で行ったが失敗したとの記事がある。百済の蜜蜂は育たなかったという実話が書かれている。)
*馬韓の民は騎馬民族ではなかった。
百済は扶余族は征服王朝、もともと馬韓は農耕民族で豊かな平野部で食が豊かだった。そこで、百済人と馬韓人は風俗・言語を異にしていた。百済には2つの民族からなっていたのである。馬韓について後漢書では、城郭を持たず、農耕・養蚕を知り、綿布を作り、大粟を産出していたという。特筆すべきは、民は牛馬に騎乗しないと記録しているので、百済人のように騎馬戦はしたことがなかっただろう。要するに、馬に乗れなかったのだ。そうした意味では倭人と共通性があったのは馬韓の民と言えよう。とにかく百済は単一民族でなかったことを踏まえて置こう。
百済の王城、泗泚城(サビソン)が陥落したあと左兵鬼室福信が百済の小城に散じて残った残兵を糾合して邦を作 り、今でいえばゲリラ戦を行っていた。唐羅軍は、福信の百済復興軍にてこずっていた。「大使らはいつ西へ還られる、送って遣わそうか」と、豪語するほど兵の志気旺盛であった。太子とは唐の「熊津都督」の鎮将・劉仁願である。この劉仁願は九州の「筑紫都督府」の総代官でもあるので、百済滅亡と同時に九州福岡にも唐の城ができたことになる。劉仁願はその後の高句麗征討の役に軍を出兵せず、その罪で、総章668年に姚州へ遠流されている。福信将軍は余豊
を立てて王としたいと大和に伝えて来た。大和朝廷は倭兵5千の兵(軍船170隻)を伴わせて百済に送り届けた。余豊、百済王・豊璋となった。天智元年に
は、矢を 10万本ほか糸や皮、兵糧を送って福信将軍の後衛部隊となり、ついで、高句麗の平壌城が救援を要請したときには二万七千の大軍を送った。この時、高句麗と百済は同盟国だった。高句麗にも日本軍は出向いた。日本書紀では、三国史記にない記述がある。天智2年、豊璋は王城を周留城から、敵地に近い平城(平坦な土地)の避城(へさし)に移すという失策したというのである。また、陰謀
を見破れず猛将・福信を斬首してしまった。将軍・福信がいなくなったため、志気は低下、弱体化し、新羅と唐は福信さえいなければもう恐くない。豊璋王は幼
稚な人物だったようである。同年、白村江(錦江の港湾、伎伐浦)で、唐の軍艦170隻に包囲されて日本水軍は壊滅、その後、豊璋は高句麗に脱出した。日本書紀では、ここで周留城(チュリュソン)が唐軍によって落城した時をもって「百済の名が絶えぬ」と記す。日本に残った豊璋の弟については『日本書紀』によれば
善光(『続日本紀』では禪廣)といい特段の扱いを受けている。その子孫が持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜って百済の王統を日本で存続させた。他
方、高句麗の王族も日本に亡命した。若光王である。こうしたことから、日本人の基底意識に嫌新羅意識が残ったのだろう。天智天皇の大津京では、百済からの亡命者が相当多く、政治家や官僚として登用された。その中のひとりが、当時文部大臣の要職にあった鬼室集斯という有能な人物である。かれは百済の大将軍鬼室福信の息子で、百済の名家の出身であったが、日本にやってきいる。
*誤字訂正:官山城⇒管山城 周留城(スリュソンX→チュリュソン) 泗泚城(シビソンX→サビソン)
* 周留城(チュリュソン)を日本書紀では州柔城(ツネサシ)と書いている。なぜ、ツネサシと読ませるのは、当時の編纂文官の意図するところだろう。周を州、留を柔に置き換えている。余豊璋が遷都した地名を避城(へさし)と呼んでいるので、書記では城を「さし」と音読している。古語辞典では、「さし」を城としているも、古代朝鮮語か?と注をつけている。古代朝鮮語にも、高句麗、百済、新羅と3つの言語があったことを踏まえると、城を「さし」と読むのは馬韓ー百済語だろうと容易に決めることができる。州柔城(ツネサシ)は百済の名詞であり、落城後、新羅に従属してから周留城(スリュソン)と名を変えたのだろう。従って上記の4世紀~8世紀にまたがる戦略的に重要な城の名称はすべて統一新羅になってからの名称である。さらに、後三国になってからも城の名称は変わっているか、消滅してしまっている。例えば、避城(へさし)は韓国一の穀倉地帯、万頃平野(マンギョンピョンヤ)にある金堤(김져시)にあったが、韓国最大の貯水池「碧骨堤」(11代此流王の造営)、望海寺、金山寺のほか古跡としてはなく、避城は影も形もない。避城は平野にある城で戦には不利なうえに、新羅国境から馬で一夜という距離であったので、またたく間に新羅に攻められて余豊璋は周留城(スリュソン)に逃げ帰った。周留城(チュリュソン)は錦江 (きんこう、クムガン)、上流域熊津江が管山城との間に流れているなど、難攻不落の山城だったようだ。余豊璋は日本の朝廷育ちで、朝鮮式の戦の勉強が足りず新羅の内間に騙されたに違いない。
■高句麗滅亡後、流民を集めて渤海を建国した場所は、地図のA点。渤海初期の都があったのは現在の中国東北部・黒竜江省牡丹江の西南80Kmにある鏡泊湖の周辺である。この湖は旧称、忽汗海(クドハンヘ)と称され、この地域に東京城(トギョンソン)という京を作った。16km四方の大きな城壁を持っていたと云う。
698年、国号を震国、年号を天統(チョントン)とした。唐は軍事的攻略を断念して、713年に「渤海郡王」の称号を与え、同時に忽汗州都督府都督と任じ冊封国の朝臣とした。数十年後には渤海国(パレグ)と改称した。建国王大祚榮(テジョヨン)は建国22年後の719年6月に崩御した。
唐は、「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」とし、靺鞨(マルガル)の国家であると見ている。というのは、テジョヨン自身が「本来高句麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である(新唐書)」、とあり、粟末靺鞨であるとする。
靺鞨が渤海と称したことになる。靺鞨は後に女真となり、金、清朝を起こた民族である。部族ごとに酋長がおり、テジョヨンは粟末靺鞨出であり、そのほかに、
粟末部…高句麗と隣接し、勝兵は数千。
伯咄部(汨咄部)…粟末部の北に住み、勝兵は7千。
安車骨部(安居骨部)…伯咄部の東北に住む。
拂涅部…伯咄部の東に住む。
号室部…拂涅部の東に住む。
黒水部…安車骨部の西北に住む。
白山部…粟末部の東南に住む。勝兵は約3千。
黒水部
思慕部…黒水の西北に住む。
郡利部…思慕部の北に住む。
窟説(屈設)部…郡利部の東北に住む。
莫曳皆部…窟説部の東南に住む。
拂涅部
虞婁部
越喜部
鉄利部
白山部、黒水部、汨咄部、安居骨部、号室部など、16部族に分かれていた。なかでも、黒水靺鞨は強く、渤海の北部に黒水靺鞨を建国している。 渤海は、七部族あった靺鞨のうち六部族が連合してできた国。
この連合に参加しなかった黒水靺鞨がツングース。
こうしたことで、渤海はマルガル族の国家だ。高句麗滅亡後、ようやく自立国家を立てたというのが真相だろう。
マルガルは猛毒矢を用いる。また、人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
契丹は騎馬民族だが、靺鞨は農耕漁労民族であり、渤海は契丹諸部を統一した耶律阿保機に攻められて926年に滅亡する。
大きく分けて東北部の民族は大枠で4大勢力がある。
1)扶余に連なる濊系、東夷族いわゆる朝鮮民族
2)靺鞨・渤海に繋がる粛慎,挹婁系女真・満州族のツングース民族
3)鉄鞍(チョルク)突厥(トルグォル)に繋がるテュルク系(トルコ系)遊牧半農騎馬民族
4)征服王朝遼(りよう)に繋がる契丹(コラン)、モンゴル系騎馬民族
これらに漢民族が覇権を及ぼすといった大筋を捉まえておくと歴史観が定まるだろう。
■共立王とは、宗主国の下に集合している小国家群の領域のリーダーのことである。倭国といった場合、直接的には宗主国を指す。(中国史書)大和朝廷が内官家としているのが、金官伽耶の王族である。宗主国に従属する
部族国家が互いに連盟する集合国家であるが、こんにちでは、連邦政府である。いわゆる隣国が隣国を滅ぼして吸収するといった統一過程はゆっくりと進む。農耕の起源から、領地という概念が発生する。領域侵犯が
罪 となり地域紛争が起きる。そこで、部族長間の会議の場ができあがる。果てしない紛争を止めるために領域内の部族は調停機関を必要とし、宗主国の王に調停してもらう関係
を作る。
宗主国はいわばリーダーのようなものであるが、主に姻戚関係で主従を定める連合体であった。部族間の紛争の調停にあたる機関が宗主国 なのである。
本宗家は、それらの小国家群から人質として子女を媒体にして、緊張関係をゆるやかなものにしている。謀反の防止には人為的監視が重要であり、人質も郷間(内通者)としての側面も持っている。領域はいわば人為的な連合で守られて
いる。百済の担魯政策は、王の一族をもってすべての領地を支配していくので、主従関係がはっきりとする。しかし、謀反とは、王位継承を契機に起こる。王の一族であるがゆえに起きる必然であり、勢力を蓄えると警戒され、謀反の疑い、つまり密告や罠によって失脚させられる。追いつめら
れると挙兵するしかないわけで、兄弟関係は特に覇権の緊張関係をもたらし、兄弟間の王位の継承は、しばしば暗殺によって終結する。また、対外的には、同盟を結ぶことは、安定よりも緊張関係をもたらすことにすぎなかった。
■昔脱解の父母はどこにいたのか?カササギが導き、赤龍が守った航海。
新羅~海から来た王
新羅の王の二代目、赫居世の息子の南海ナメ王の時代のことです。
下西知村の阿珍浦という海辺近くに、阿珍義先アジンウイソォンという老婆が住んでいました。彼女は王に魚を献上する漁師の母でした。
ある日のこと。老婆が海辺に行きますと、大きな岩があって沢山の鵲カササギが集まっています。はて、あの辺りに岩はなかったはずだがと思って船で近づいてみますと、岩だと思ったのは大きな船で、中には長さ二十尺、幅十三尺(約60m×40m)の箱が一つ入っていました。そこで船ごと曳航してある林の木につないで、何が入っているのか分からないので天にお祈りをしてから開けてみますと、中には綺麗な男の子と、彼の召使や宝物が沢山入っていました。
七日間もてなされてようやく、男の子は自らのことを語りはじめました。
「私は龍城ヨンソン国の王子です。龍城国はここより遥か遠く、日本の北東一千里にあります。
私の国には二十八人の龍王がおり、みんな人間から普通に産まれますが、七、八歳頃から王位を継いで万民を導きます。八つの官位がありますが、みんな王位に登れます。
私の父の含達婆は積女国の王女を妃に迎えましたが、長い間子供が授からず、子宝の祈願をしました。その七年後に母は大きな卵を一つ産みました。これが私です。
父は群臣を集めて相談し、『人が卵を産むなど未だかつてない。不気味なことだ』と言い、箱を作って中に私と召使と様々な宝を入れ、それを船に積んで海に流して祈りながら『どこか因縁のある場所に行って、自分の国を建てなさい』と言いました。すると突然赤い龍が現れて船を護衛し、ここに流れ着いたのです」
男の子の名は脱解タレと言いました。一説によれば、「箱を解き、卵の殻を抜け出した」ということにちなんだのだと言われます。
話し終えると、脱解は杖を引きずりながら二人の召使を引き連れて吐含山に登り、そこに石塚を作って、そこで七日間暮らしながら自分の住むにふさわしい場所を物色していました。
ある峰を見ると、そこは三日月の形をしていて家運が栄える地勢でした。けれども、そこには既に瓠公ホゴンの家がありました。瓠公は赫居世の時代から王に仕える重臣で、一説によれば日本人だったと言われます。その血筋や素性はまるで分からないのですが、瓠(ヒョウタン)を腰に下げて(あるいは、ヒョウタンに乗って)海を渡ってきたので「瓠公」と呼ばれるようになったのだと。
脱解は一計を案じ、ある夜、瓠公の家の側にこっそりと砥石と炭を埋めました。夜が明けると、家の前で「ここは私の祖先の家だ。私に居住権がある私の家なんだ。出て行け!」と騒ぎました。当然、瓠公は「違う、ここは私の家だ」と反論します。争いになり、「ならば出るところに出てお話しましょうか」ということになって、役所に訴えました。役人は脱解に訊きました。
「お前は、何の根拠があってここがお前の家だと言うんだね」
「私の家は元は鍛冶屋でしたが、しばらく隣の村に行っている間に他人に家を奪われたのです。ここを掘ってみてください」
役人が言われた場所を掘ってみると、砥石と炭が出てきました。
「見て下さい。これが、ここが元々鍛冶屋であった証拠です!」
周囲の聞き込み調査などは何故か一切なされなかったらしく、役人はこれを証拠として瓠公の方が家泥棒だと判決しました。こうして、脱解はまんまと瓠公の家屋敷を奪ってしまったのです。
このように、脱解はとんでもない詐欺師でしたが、何故かこの当時は「素晴らしい知恵者」として評判になったようです。知恵で勝負の詐欺師がもてはやされる時代だったのでしょうか。なんと、評判を聞きつけた南海王が彼を自分の長女の婿に迎え、大輔(宰相)の位を与えたのですから。南海王の後は彼の息子の弩禮ヌレが継いだのですが、彼は「自分より脱解の方が優れている」と執拗に王位を譲ろうとしましたし、自分が死ぬときには「自分の子供よりも脱解の方が優れている。だから脱解を次の王にせよ」と遺言しました。……何故そんなに。脱解はなにかキョーレツな魅力の持ち主だったとしか思えません。
そんなわけで、弩禮王が亡くなると、第四代の王に脱解が就いたのでした。西暦五十七年のことだと言われます。
名字は「昔ソォク」と定めました。「昔、人の家を奪った」ことにちなんで……とも言いますし、鵲カササギが集まったおかげで箱が発見されたのだから、鵲の字から取って「昔」にしたのだとも言われます。
ちなみに、家を奪われた瓠公は脱解王にも臣下として仕えました。……度量が大きいです。私なら耐えられない。(苦笑) それとも瓠公も脱解のキョーレツな魅力のトリコになっていたのでしょうか。
脱解は王になってから二十三年目に亡くなって葬られました。ところがそれから二十七代目に当たる王の時、王の夢にいかめしい老人が現れて脱解と名乗り、『余の骨を掘り出して塑像にし、吐含山に安置せよ』と命じました。掘り出された骨はバラバラになっておらず、全て完全にくっついて一塊になっており、とても立派でした。骨を砕いて作られた塑像は山に安置され、脱解は東岳神と呼ばれ、祀られるようになったのです。
少し話が戻って、脱解が王になってから三年目のことです。
瓠公が月城の西の里を歩いていると、始林の中に大きな光が見えました。行ってみますと、天から紫色の雲が垂れ下がって辺りを覆い、その中で木の枝に引っ掛かった金色の箱が光り輝いていました。また、木の下には白い鶏がいて鳴いていました。
このことを伝えますと、脱解王は自ら出かけてその箱を開けました。すると中で横になっていた男の子がすっと立ち上がりました。この子を抱いて宮殿に向かうと、鳥や獣がついてきて嬉しそうに舞い踊るのでした。
あたかも新羅の始祖王の赫居世の例のようだと王は思い、この子を閼智アルチと名づけました。閼智とは、新羅の言葉で「子供」という意味です。また、金色の箱から出てきたことから、名字は「金キム」と定めました。閼智を見つけた始林のことは、鶏が鳴いたことにちなんで鶏林ケリムと呼ぶことにしました。一説には、このことで新羅の異称の一つが「鶏林」となったと言われます。
王はこの子を太子に立てましたが、結局は別の者が王位を継ぎ、閼智自身が王になることはありませんでした。しかし、彼の七代後の孫が新羅の王となりました。
新羅の王は、赫居世ヒョコセの朴パク氏、脱解タレの昔ソォク氏、そして閼智アルチの金キム氏の三つの血族が継いでいきましたが、金氏の王が最も多く出たのでした。……神話は一番地味なんですが。
新羅は栄え、高句麗、百済、駕洛を滅ぼして吸収し、大同江以南の朝鮮半島(韓半島)最初の統一国家を作ることになります。
かんたん神話学より抜粋
昔脱解(ソクタレ)父は多婆那国(たばな)で、その王妃が女王国または積女国である。昔脱解を卵で生んだという神話はどう紐解いたらいいのだろうか。多婆那国の古名は龍城国といった。龍城(りゅうじょう)は遼寧省西部(遼西)の朝陽市域に所在した。ここは濊族がいたが、BC107年漢に攻め滅ぼされて玄菟郡になった。このとき、北の濊族は慶尚北道一帯に逃避した。そこで龍城国は多婆那国の古名であると言える。《三国時代の後AD5世紀には、前燕、後燕、北
燕(あわせて三燕という)の都城だった》。そこの国王は含達婆(handaboハンダボ、カンダバ)といい、女王国の女を王妃としていたが王妃は
妊娠7年目に大きな卵を産んだ。そこで忌み嫌って海に流した。そこで、多婆那国で出生し海に流された。
■『新羅本紀』脱解尼師今
脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。初其國王娶女國王女為妻。有娠七年、乃生大卵。王曰「人而生卵不祥也。宜棄之」。其女不忍、以帛卵裏寶物置於櫝中、浮於海、任其所往。
脱解尼師今が立った、一説に吐解という。時に年六十二歳、姓は昔。妃は阿孝夫人。(サロ国二代王 南解次次雄王の長女) 脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国の王女を娶って妻とした。懐妊から七年、大きな卵を産んだ。王が
言うには「人にして卵を生むのは不祥である。適当に廃棄せよ」。その王女は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、
その行く先任を(潮流に)任せた。
■『三国遺事』脱解王
我本龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。
よみ:「私は本来は龍城国の人(または正明国という。あるいは琓夏国、琓夏、あるいは花廈国ともする。(龍城は倭の東北一千里に在る)。我が国ではかつて
二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓があるが、競い合うことなく、皆が王位に登った。)
*しばしば脱解王が日本人であるという説はここから来ている。韓国の歴史でもそう解釈する傾向にある。しかし、日本に卵生伝説はほとんどなく、朝鮮での創作であるとみる。なぜなら、鉄の鍛冶技術は倭国から朝鮮への転移は真逆だと考えられるからである。
時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。
よみ:時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。
■『阿珍浦(アチンポ)伝説』の女王国が、魏志倭人伝に記される女王国ならば、昔脱解(ソクタレ)の母は倭人!
魏志倭人伝では女王国が奴国の南にあった。また、狗奴国は日向にあった。九州の筑紫平野の王妃を迎えていたと文字通り解釈すると、昔脱解の母は、まぎれも
ない倭人となる。多婆那国(たばな)があり、一名を龍城国といった、その場所はどこだろう。その国王は含達婆(handaboハンダボ、カンダ
バ)といい、女王国の女を王妃としていた。「桓檀古記~高句麗国本紀では、多婆羅国には、もと弁辰狗邪国人が先住したという。
■昔脱解の出生地
『魏略』逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになった。箕子朝鮮(きしちょうせん、 - 紀元前194年)は、秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代に
なると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させた。ところが紀元前195年、燕王盧綰の部将で あった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し、王権を簒奪して衛満朝鮮(え
いしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
■箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)は燕と斉の地域からの移動民族だ。殷の王朝文化が移動したものとも言える。なぜかといえば、龍信仰と甲卜占がなぜ朝鮮半島や日本に来たの
か考えるうえに必要だった。文化的に中国の古王朝の流れである。濊と辰韓が殷の文化的伝統を受け継いでいると思われるのである。道教が伝わらず、もっぱら
仙道が国教であったことで証明できるだろう。
■多婆羅国は多羅韓国ともいう。 忽本より来たり、高句麗と早くから親交を結び、烈帝(廣開土境好太皇)が制した。(BC 39-19)多羅国は安羅国と同隣して同姓である。多婆那国は倭
国(弁韓)の東北1000里である。(ここで云う倭国は金官伽耶国である)濊国(フイ)の中にあった。濊国は穢とも書かれ、濊の南は辰韓と、北は高句麗、
沃沮と接していた。と、推理できるので あるが、これだと海から漂着したとすれば、東海北部になる。海に流した場所は違った遠方でなければおかしなことになる。濊国(フイ)民は恥を
知り、門を閉じなくても盗みがなく、穢れを払うといった自然崇拝国家で豊かで礼節のあった邦である。馬韓とはえらく違って上品である。中国東北部には三代
古老民族があって、濊貊、 肃慎、东胡であった。『三国志魏書』穢伝:「僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口]。四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝と呉広が
反乱(「陳勝呉広の乱」BC209))起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。紀元前134年
に漢の武帝が濊州を作ろうと、濊族と戦い、紀元前126年に「濊王之印」を濊族の南閭に与えている。しかし、5年後には武帝は(BC129年)、衛青を
28万の軍を付けて龍城を攻め、700人の敵の首を切った。紀元前108年、漢は朝鮮半島の北部の王倹城を落城させ、衛氏朝鮮を滅ぼし、現在の碣石山(臨楡関)を直轄支配として楽浪郡を設置する。さらに、前108年、武帝は衛右渠を破り、楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を設置。遼東郡の東から、楽浪郡の北にいた濊国の政権を倒し、玄菟郡を設置する。このとき、濊族の龍城国は滅亡、多数の濊人が慶尚北道に南下した。
龍城の位置(遼寧省朝陽市(りょうねいしょうちょうようし)
その他、真番郡(現在のソウル付近)・臨屯郡(現在の韓国の江原道江陵市付近=濊族はこの地に封じられる)に漢の管轄に置かれ、漢の植民地政策により、これらの地域にいた濊族は支配下に置かれた。前75年、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。
濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県・前莫県・夫租県)
に分けて治めさせた。
後漢の建武6年(30年)、辺境の郡が整理され、東部都尉も罷免された。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯となり、不耐・華麗・沃沮(夫租)の諸
県はみな侯国となった。ここでの華麗県が候国になったということは、冊封国であるが、ここに濊国王が再びたったということである。
玄菟城(ひょんとそん)は、漢が進駐して太守を置いたところ。
玄菟郡の設置で倒された濊族の南閭政権は北の「鹿山」に逃亡して、扶余国を建国した。扶余はしたがって契丹や靺鞨とは異なり、遊牧民=騎馬民族ではない。
その後、朝鮮半島の漢の植民地政策が縮小に向かい、紀元前82年に真番郡と臨屯郡は衰退し、廃止して、楽浪郡に統括され、紀元前75年に玄菟郡は西方に縮小され第二
玄菟郡となり、紀元前59年、第二玄菟郡はさらに西方に移転し第三玄菟郡になったので、濊系高句麗種族は朝鮮半島北部に高句麗を建国した。その頃、濊族は、濊貊(韓国・北
朝鮮江原道)、沃沮(北朝鮮咸鏡道・中国吉林省延吉朝鮮族自治州琿春市・中国黒竜江省牡丹江市東寧県東部・ロシア沿海地方ラズドリナヤ川以南)、高句麗
(北朝鮮慈江道・北朝鮮両江道・中国吉林省南部)、扶余(中国吉林省北部)の四つに分かれることになった。その頃、朝鮮半島南部では辰国が倒れ、三韓(辰
韓、馬韓、弁韓)に分かれていた。朝鮮半島北部の高句麗支配により、濊系扶余種族の一部や濊系濊貊種族や濊系種族や濊系沃沮は朝鮮半島南部に南下した。その内の濊系扶余種族は、馬韓において指導権を握り、紀元346年に百済を建国する。濊(ワイ)の言語で、夫余とは、「鹿]の意味だった云う。
■『契丹古伝』
燕国の衛満は、漢の武帝に「殷(箕氏朝鮮)は胡や秦の縁者を抱えており、これを滅して後患を絶つべきだ」と言上。武帝が彼に兵を与えたので、殷王(箕
準)は辰(辰国)に逃れ、殷は滅亡した。衛満は殷を奪い、前漢は郡県を広げて徐珂(濊)を阻んだ。衛満は真番国をも奪い、朝鮮(衛氏朝鮮)と号した。徐珂
王の淮骨令南閭峙は殷の報復をすべく漢と謀った。漢は徐珂を郡としないことを誓い、『王印』を以て證とした。
■濊は白い人という意味で、殷の箕氏の末裔、龍がトーテムだ。
■濊族の陝父(チョッポ)は日本に敗走、熊襲となる
(北)夫餘は衛満や右渠などの衛賊やこれを滅ぼした漢の賊により衰えた。北夫餘の檀君四世である高于婁のとき、高豆莫汗、兵を起こして漢冦を連破。高豆莫は卒本(忽本)に即位し、自ら東明と号した(忽本夫餘)。高豆莫は
、自ら東明王と号した。漢冦と戦い、九黎河を渡り遼東の西安平に至る。古の 稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。檀君、解夫婁を候とし 岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称した。「桓檀古記~北夫餘紀、下」太子、高無胥(六世)立つ。子なく、岔陵の高朱蒙即位、高句麗の祖となる。
広開土王碑に『忽本』(フルボン)の文字があり、(卒本 チョルボンと同じ)『天遣黄龍、來下迎王。王於忽本東岡、黄龍負昇天』では、鄒牟王(朱蒙)は忽本の東岡で、王は黄龍の首を取った」とよめる。黄は中央を意味し、龍は漢(中原)を意味している。「広開土王碑」にある鄒牟 、は、朱蒙 、東明 、「三国史記」では、中牟 、「日本書紀」(天智7年)では、仲牟(ちゅうむ)と書く。ときに朱蒙二十二歳。紀元前37年のことだと言われる。
王子及諸臣又謀殺之。朱蒙母陰知之、告曰「國人將害汝、以汝才略、何往而不可、與其遲留而受辱、不若遠適以有爲
王子と諸臣はまた彼の殺害を謀った。朱蒙の母が秘かにこれを知って、朱蒙に告げて「この国はおまえを害そうとしている。おまえが才略を以て出て行くことを、どうして駄目だと言えるでしょうか。もし遠くに有為をもって行かず、ぐずぐずと留まっていれば、恥辱を受けることになるでしょう」と言った。
三國史記 卷第十三 高句麗本紀第一 始祖東明聖王 読み下し抜粋
その長子の帶素(たいそ)王に言いて曰く、「朱蒙は人に非ざる所に生まる。その人と爲りたるや勇。若(も)し早く圖(はか)らずば、恐らくは後患有らん。請う、これを除きたまわんことを」と。 王、聽かず。 これをして馬を養わしむ。 朱蒙、その駿なるを知りて、食を減じ痩せさしめ、駑なるを善く養い肥えさしむ。 王、肥なるを以って自ら乘り、痩なるを朱蒙に給う。 後に野に獵す。 朱蒙、善射を以って、その矢、少く與(あた)う。 而(しか)して、朱蒙の殪(たお)す獸、甚だ多し。 王子及び諸臣、またこれを殺すを謀る。 朱蒙の母、陰(ひそか)にこれを知り、告げて曰く、「國人、將に汝を害さんとす。汝が才略を以って、何ぞ往(ゆ)きて不可ならんや。その遲留して辱を受けんよりは、遠く適(ゆ)き以って爲す有るに若(しか)ず」と。
朱蒙乃與烏伊、摩離、陜父等三人爲友、行至淹水(一名盖斯水、在今鴨東北)。欲渡無梁、恐爲追兵所迫、告水曰「我是天帝子。河伯外孫。今日逃走、追者垂及如何」於是、魚鼈浮出成橋、朱蒙得渡。魚鼈乃解、追騎不得渡。
朱蒙は烏伊(オイ)、摩離(マリ)、陜父(チョッ ポ)ら三人を友として淹水(えんすい)に至った(一名に盖斯水=がいしすい。今、鴨緑江の東北に在り)が、(そこに)渡れる橋梁がない。追兵の切迫を恐れ
て、河に「我は天帝の子、河伯の外孫。今日、逃走するに、追兵は直前に及びたるを如何にせん」と告げた。ここに魚やスッポンが浮き上がり橋となった。朱蒙
が渡り得ると、魚やスッポンが解散したので追騎は渡れなかった。
魏書では二人の友人と逃げたとされるが、高句麗本気では三人になっている。このなかの陜父(きょうふ)に関して『桓檀古記』は奇妙なことを書いている。
陝父(チョッポ)は、漢冦と戦い敗戦して、南韓に奔走し、馬韓の山中に隠り、将の□革と出合う。貝□水(桓仁《Huán rénkakk》現在は中国の遼寧省桓仁県の一帯、鴨緑江中流右岸域に注ぐ渾(こん)江の河辺にあたる地域)を下り海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸
を経て、 阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となる。
資料《木屋の資料館 》
『桓檀古記』高句麗国本紀
陝父、(中略) 浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となった。後に任那を併せて連合国として治めた。そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。多婆羅国には、弁辰狗邪国人が先住して狗邪韓国といった。多婆羅国は多羅韓国ともいう。忽本より来たりて高句麗と早くから親交を結び、烈帝(広開土王)が制した。多羅国は安羅国と同隣して同姓である。旧熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれである。
桓檀古記は20世紀に登場した偽作もので、朝鮮以外では歴史書として評価されない。しかし、三国史記や三国遺事また、古事記などでは、まったく多婆羅国は見つけ出すことができない。
上 記をまとめると、陝父(チョッポ)は漢との戦に敗れ、鴨緑江(おうりょくこう)を下って、海に出て倭の北岸から船で、阿蘇山に移住した。そこは、弁辰(伽
耶国の前身)が支配していた。熊襲城を立てて、狗奴国をつくった。狗奴国(古事記)は多婆羅国であった。多婆羅は皖夏(かんか)ともいい、高句麗に従属していたとされる。そうすると、女王国は魏志倭人伝にあるように九州筑紫平野の奥、甘木市にあった。女王国の王女を娶って生まれたのが昔脱解(ソクタ
レ)である。昔脱解は熊本からソラボル(鶏林)に行ったことになるのだろう。ここでは、九州熊襲は広開土王の属国ということになる。というより、高句麗の属国であった。では、三足烏が神武東征談に出現していることがもっともなことになろう。
『阿珍浦(アチンポ)伝説』 父王は群臣を集めて相談し、人が卵を産むなど不吉なことだと言って、箱を作って、その中に私と召使と様々な宝を入れ、それを船に積んで海に流しました。その際、どこか因縁のある場所に行って、自分の国を建てなさいと言いました。すると突然、赤い龍が現れて船を護衛し、ここに流れ着いたのです」と言った。
男の子は脱解と名乗った(一説では、箱を解き、卵の殻を脱したことに由来する)。
そして、話し終えると、脱解は杖をついて二人の召使を引き連れ、吐含山に登り、そこに石塚を作って、七日間暮らしながら、自分の住むに相応しい場所を物
色していた。ある峰を見ると、そこは三日月の形をしており、家運が栄える地勢だった。けれども、そこには既に瓠公の家があった。
瓠公という人物は赫居世の時代から王に仕える重臣で、噂では日本人だと言われていた。その血筋や素性はまるで分からないが、瓠(ヒョウタン)を腰に下げ
て海を渡ってきたので「瓠公」と呼ばれるようになった。瓢箪に酒を入れて持ち歩いていた酔狂なこの人物は、ほんとうに日本人だったようである。
脱解は一計を案じ、ある夜、瓠公の家の側に内緒で砥石と炭を埋めた。そして、夜が明けると、その家の前で「ここは私の祖先の家です。私が住むべき家です。早く出て行ってください」と騒いだ。当然、瓠公は「違う、ここは私の家だ」と反論した。
口論になり、「出る所に出て話を着けよう」ということになり、役所に訴えたので、役人は脱解に訊いた。
「お前は、どんな根拠があって、ここがお前の家だと言うのだ」
「私の家は以前は鍛冶屋でしたが、しばらく隣村に行っている間に、なんとしたことか他人に家を盗られたのです。ここを掘ってみてください」と言った。
役人が言われた場所を掘ってみると、砥石と炭が出てきた。
「見て下さい。これが、ここが元々鍛冶屋であった証拠です」
役人は、これを証拠として瓠公の方が家泥棒だと判決したので、まんまと脱解は瓠公の家屋敷を奪ってしまった。
このように脱解はとんでもない詐欺師だったが、何故かこの当時は「素晴らしい知恵者」として評判になったようで、彼の評判を聞きつけた南解王が、彼を自分の長女の婿に迎え、大輔(宰相)の位を与えたのである。
南海王の死後、王の子の弩禮(儒理)が王位を継いだが、彼は「自分より脱解の方が優れている」と言って、執拗に王位を譲ろうとし、自分が死ぬときには「自分の子よりも脱解の方が優れている。だから脱解を次の王にせよ」と遺言した。
そんなことから、弩禮王が亡くなると、脱解が第四代の新羅王に就いたとされる。それは今を去ること西暦五十七年のことである。
姓は「昔」と定めた。「昔、人の家を奪ったから」あるいは「鵲のおかげで箱が発見されたのだから、鵲の字から取って、昔姓にしたのだ」とも言われる。
脱解は治世23年に亡くなったが、それから二十七代目に当たる王のときのこと。
王の夢に厳めしい老人が現れ、自分は脱解と名乗り、「余の遺骨を掘り出して塑像にし、吐含山に安置せよ」と命じた。言葉に従って、掘り出された遺骨は分
散しておらず、完全な形を保っており、立派だった。遺骨を砕いて作られた塑像は山に安置され、脱解は東岳神と呼ばれて祀られるようになった。
『三国遺事』脱解王
脫解齒叱今(一作吐解尼師今)。南解王時、駕洛國海中有船來泊。其國首露王與臣民鼓譟而迎。將欲留之、而舡乃飛走、至於雞林東下西知村阿珍浦(今有上西知下西知村名)。
脱解歯叱今(吐解尼師今とも)。
南解王の時代、駕洛国の海中に来泊する船があった。その国の首露王と臣民は大騒ぎで迎えた。まさにこれを係留しようとすると、船は飛ぶように走り去り、雞林の東の下西知村阿珍浦(今、上西知、下西知の村名あり)に到着した。
■これが神話的要素を除いた真実だろう。船が一度は加羅国沿岸についたが、その後、鶏林(除羅伐の月城ウォルソン)のほうに行ってしまった。その船は加羅
国の人々が大騒ぎするほど大きな船だった。それは、外洋船でかなり大きな船だったろう。黒船が横須賀に来航したとき、人々が騒いだこととよく似ている。で
は、この船はどこから来たの だろうか。日本には大きな船は新羅から建造技術を学ぶ以前には、騒ぐほどの大型の船はなかった。唐代になってから日本にも大型船が誕生していると考えれば
すぐに分かることだ。
時浦邊有一嫗、名阿珍義先、乃赫居王之海尺之母。望之謂曰:此海中元無石嵒。何因鵲集而鳴。孥舡尋之。鵲集一舡上。舡中有一櫝子。長二十尺。廣十三尺。曳其船置於一樹林下。
その時、海辺に一人の老婆がおり、名は阿珍義先。赫居王の海尺の母。これを望んで曰く「この海中には元より岩石はないはず。どうして鵲が集って鳴いてい
るのだろう」。小舟でこれを探した。鵲が一艘の船の上に群れていた。船中には一つの棺があった。長さ二十尺。幅は十三尺。その船を曳いて樹林の一本の下に
置いた。
而未知凶乎吉乎。向天而誓爾俄而乃開見。有端正男子并七寶奴婢滿載其中。供給七日、廼言曰。我本龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。
龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。
しかし、凶吉が定かではないので、天に向かって急いで祈りを捧げて、棺を開けて見た。その中には端正な男子がおり、一緒に七宝や奴婢が満載だった。奴婢
が満載な棺(ひつぎ)などあり得ないので、ここではうつぼ船をそのまま棺と表現したのだろうか。飲食物を与えること七日、初めて言うには「私は本来は龍城
国の人(または正明国という。あるいは琓夏国、琓夏、あるいは花廈国ともする。龍城は倭(伽耶の位置)の東北一千里 に在る)。我が国ではかつて二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓がある
が、競い合うことなく、皆が王位に登った。
時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。
時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。
其童子曳杖率二奴登吐含山上作石塚。留七日。望城中可居之地。見一峰如三日月。勢可久之地。乃下尋之。即瓠公宅也。乃設詭計。潛埋礪炭於其側。詰朝至門云。此是吾祖代家屋。
その童子は杖をつき、二人の奴僕を連れて吐含山の上に登って石塚を作った。留まること七日。(山上から)城中に居住すべき土地を(探して)展望すると、
三日月のような霊峰を見つけた。永住すべき地勢だった。下山してこの地を訪れた。すなわち瓠公の居宅である。そこで、詭計を考案した。その家の側に砥石と
炭を埋め、朝になって門で詰問して言うには「ここは吾が祖の代の家屋である」。
瓠公云否。爭訟不決。乃告于官。官曰:以何驗是汝家。童曰:我本治匠乍出鄰鄉。而人取居之。請堀地檢看。從之。果得礪炭。乃取而居為。
瓠公は否定した。争訟が決着できない。そこで、裁判官に告げた。裁判官が曰く「どんな証拠があって自分の家だというのか」。童子が曰く「私は元は鍛冶屋でしたが、少し隣郷に行っていたところ、他人に家を獲られたのです。土を掘って検証してください」。
これに応じたところ、果して砥石と炭がでてきた。そこで、家を取り上げて住居とした。
時南解王知脫解是智人。以長公主妻之。是為阿尼夫人。一日吐解登東岳。迴程次令白衣索水飲之。白衣汲水。中路先嘗而進。其角盃貼於口不解。因而嘖之。白衣誓曰。爾後若近遙不敢先嘗。然後乃解。自此白衣讋服。不敢欺罔。今東岳中有一井。俗云遙乃井是也。
時に、南解王は脱解が賢者だと知り、長女を彼の妻にした。これを阿尼夫人と為す。ある日、吐解は東岳に登った。帰路、次令の白衣に飲み水を探させた。白
衣は水を汲んだ。途中で先に飲んでから進もうとしたところ、角盃が口に貼り付いて外れなくなり、鳥のような舌打ちの鳴き声をあげた。白衣が誓って「爾後、
遠近に関わらず敢えて先に口にすることはしません」と言った。然る後、これが外れた。これより白衣は畏服し、敢えて欺網することはなかった。今、東岳の中
に一つの井戸がある。世俗では遙な井戸はこれだという。
**瓠公(ここう)は新羅本紀には始祖赫居世(ヒョッコセ)が瓠公を馬韓に派遣し交渉させたという。「瓠公という人は、どこの誰だか分からない素性が明らかでないが、本は倭人ではて瓠(ひさご)を腰に吊って海を渡って来たためにきた瓠公と称した」西暦58年には脱解王は瓠公を新羅の最高官位「大輔」に任命する。
及弩禮王崩。以光虎帝中元六年丁巳六月。乃登王位。以昔是吾家取他人家故。因姓昔氏。或云。因鵲開樻。故去鳥字姓昔氏。解樻脫卵而生。故因名脫解。在位二十三年。建初四年己。
弩禮王が崩じた。光虎帝の建武中元六年(56年)丁巳の六月、王位に登った。
昔、これは我が家だと言って、他人の家を取った故に、姓を昔氏とする。あるいは言う、鵲が原因で棺を開いた故に、鳥の字を省略して姓を昔氏とした。棺を
解いて卵から脱け出して生まれた故に、名を脱解とした。在位二十三年。建初四年(79年)に死んだ。資料参照《新羅の歴史》
■昔脱解の父母はどこにいたのか?カササギが導き、赤龍が守った航海。やはりインドか?
昔脱解(ソクタレ)父は多婆那国(たばな)で、その王妃が女王国または積女国である。昔脱解を卵で生んだという神話はどう紐解いたらいいのだろうか。多婆
那国の古名は龍城国といった。龍城(りゅうじょう)は遼寧省西部(遼西)の朝陽市域に所在した。ここは濊族がいたが、BC107年漢に攻め滅ぼされて玄菟
郡になった。このとき、北の濊族は慶尚北道一帯に逃避した。そこで龍城国は多婆那国の古名であると言える。《三国時代の後AD5世紀には、前燕、後燕、北
燕(あわせて三燕という)の都城だった》。そこの国王は含達婆(handaboハンダボ、カンダバ)といい、女王国の女を王妃としていたが、王妃
は妊娠7年目に大きな卵を産んだ。そこで忌み嫌って海に流した。そこで、多婆那国で出生し海に流されたということで、多婆奴国がキーワードになる。
■やはり言語学アプローチが腑に落ちる---「他言語まるかじり 」さんの説
또 다른 미스터리인 신라 제4대왕 석탈해(昔脫解, 재임 서기 57~80년)의 출신지 다파나국(多婆那國) 또는 용성국(龍城國)은
어디인가. 삼국사기(三國史記)와 삼국유사(三國遺史)에 나오는 석탈해 설화를 당시 타밀인의 언어 및 사회상과 비교해 분석한 결과,
그도 허왕후와 마찬가지로 인도 남부 타밀지역에서 온 인물임을 알았다.
また別のミステリーである新羅第4代の王・昔脱解(在位、AC57~80年)の出身地、多婆那国または龍城国はどこにあるのか。三国史記と三国遺史に
載っている昔脱解説話を、当時のタミル人の言語及び社会像と照らし合わせて分析した結果、昔脱解も許王侯と同じインド南部のタミル地域から来た人物である
ことが分かった。
석탈해는 자신이 “숯과 숯돌을 사용하는 대장장이 집안”이라고 밝혔는데 석탈해의 성(姓)인 ‘석(Sok)’은 당시 타밀어로 ‘대장장이’를
뜻하는 ‘석갈린감(Sokalingam)’의 줄인 말로 성과 집안 직업이 그대로 일치한다. ‘석갈린감’ ‘석’ ‘석가(Soka)’등은
영어의 Blacksmith, Goldsmith나 Smith처럼 대장장이 집안의 이름으로 통용됐으며 지금도 타밀인의 남자이름에 남아
있다. 또 ‘탈해(Talhe)’는 타밀어로 ‘머리, 우두머리, 꼭대기’를 의미하는 ‘탈에(Tale)’나 ‘탈아이(Talai)’와
거의 일치한다. 따라서 ‘석탈해’라는 이름은 타밀어로 ‘대장장이 우두머리’를 가리켜 그가 바다 건너 한반도에 함께 들어온 대장장이의
지도자임을 이름에서 암시하고 있다.
昔脱解は自分が「炭と石炭を使う鍛冶職人」であると明かにしているが、昔脱解の姓である「昔(Sok)」は当時タミル語で「鍛冶」を意味する 「Sokalingam」を縮めた言葉で、姓と家職がそのまま一致する。「Sokalingam」・「石」・「Soka」などは英語の
Blacksmith、GoldsmithまたはSmithのように鍛冶屋の名前で通ったし、今もタミル人の男性の名前に残っている。また「脱解 (Talhe)」はタミル語で「頭、かしら、天辺」を意味する「Tale」や「Talai」とほぼ一致する。したがって「昔脱解」という名前はタミル語で
「鍛冶頭」を表し、彼が海の向こうから朝鮮半島へともに渡って来た鍛冶屋であることを名前が暗示している。
『 聖徳太子の時代に朝鮮半島からたくさん日本列島に渡ってきています。日本の中にあった候国に移住してきたのか、政治難民であったのかは定かではありません
が、昔脱解もそういった事情なのか。この頃の時代は気候が寒冷化していて、民族移動が結構あったようなんですよね。もともと今のインドに住んでいた人たち
がタミル人で、そこにアーリア人が侵入してきてタミル人は南のほうに押しやられて現在の政治状況ですよね。押しやられた人が今度は移動した土地の上にのっ
かるというパターンはよくありますから・・・。日本の場合も同様で、朝鮮半島を押しやられてしまった人が、日本列島に移動して上にのっかった。神武東征は
その過程を語っている歴史ドキュメンタリーではないのかなあ~と最近は思っていますけど・・・。』
神武軍は熊野・吉野の山中をヤタガラスに導かれる
神武記『このとき、また、高木大神のご命令で、お教えになって、「天つ神の御子、ここより奥の方には入りなさるな。荒ぶる神がたいそう多くいる。いま、天
より八咫烏(ヤタガラス)を遣わそう。その八咫烏がお前を導くだろう。その案内する後からお行きなさい。」とおっしゃった。 そこで、その教えのままに、八咫烏の後からお行きなさったところ、吉野川の上流にお着きになった。』
■太陽の中に描かれる八咫烏は、まさしく高句麗建国の祖、高朱蒙の王章、三足烏(サンジョグ)である。この八咫烏は高句麗の三足烏そのもの。太陽と 地を結ぶ鳥は太陽の中に描かれる。檀君王倹(タングンワンゴム)以来の建国の象徴であり、天帝の子であるヘモスが熊心山で国を興して以来、朱蒙も古朝鮮の再興として高句麗を建国した経緯から、三足烏を掲げる。そして、高(コ)の姓の王が代々続いた。三足烏が日本に存在する事実、ここから導かれる結論は、高句麗の鉄騎軍は鹿児島に上陸し、熊襲として呼ばれる。球磨国に狗奴国を建国後、東征に向かったということだろう。
그러면 삼국사기에 나오는 석탈해의 출신국 다파나국(多婆那國) 또는 용성국(龍城國)은 과연 어디인가를 추적해 보자. 다파나는 산스크리트어와
고대 타밀어로 태양을 뜻하는 다파나(Tapana) 또는 다파난(Tapanan)과 일치해 ‘다파나국’, 즉 ‘태양국(太陽國)’으로
당시 타밀인 나라 촐라 왕국의 별명이다.
『それでは三国史記に出てくる昔脱解の出身国、多婆那国または龍城國は果してどこなのかを追跡して見よう。多婆那はサンスクリット語と古代タミル語で太陽を意味するTapanaまたはTapananと一致し「多婆那國」,
つまり「太陽国」で当時タミル人の国、Chola王国の別名だ。
太陽、お日さまとくれば、太陽信仰、アマテラスオオミカミ・・・。世界各地で太陽を信仰の対象にしている人たちは多いですよね、とくにこの時代は。なにか共通点がありそうですね、日本もそうですけど・・・。』
아울러 삼국유사에서 말하는 용성국(龍城國)의 용성(龍城)은 당시 촐라 왕국의 도시 가운데 대장간과 철기제작으로 잘 알려진 항구도시
나가파티남(Nagappattinam)을 가리킨다고 볼 수 있다. 타밀어로 나가(Naga)는 본래 ‘코브라’를 뜻하지만 힌두교도에겐
코브라가 용으로 전화되어 숭배대상이 됐기 때문에 ‘용’으로도 불리며 파티남(pattinam)은 ‘도시’를 뜻해 ‘나가파티남’은
‘용성’(City of Dragon)을 의미한다. 따라서 석탈해가 철기생산 및 해상무역으로 번성했던 국제도시 나가파티남, 즉 용성이
소재했던 촐라 왕국을 용성국으로 지칭한 것으로 보인다.
同時に三国遺事でいう龍城国の龍城は、当時Chola王国の都市にあった鍛冶屋と鉄器製作でよく知られた港町、Nagappattinamを示すと見られる。タミル語でNagaはもともと「コブラ」を意味するが、ヒンズー教徒にはコブラが龍に転化し崇拜の対象になったため「龍」とも呼ばれており、
pattinamは「都市」を意味し、「Nagappattinam」は「龍城(City of Dragon)」を意味する。したがって昔脱解が鉄器生産及び海上貿易で盛んだった国際都市Nagappattinam、すなわち龍城のあったChola
王国は龍城国を指して呼んだものと思われる。
『龍城国と聞くとすぐ思いつくのが、浦島太郎の龍宮城。龍宮城とはもしかして、インドのことなんでしょうかね・・・。この記事の最後のほうで日本のことが
出てきます-「교토(京都)와 접하고 있는 미에현(三重縣), 시마군(志摩郡) 등 일부 지역에선 일단의 인도인을 천축낭인(天竺浪人)이라고
불렀으며・・・」。三重県・志摩とくれば、猿田彦に伊勢神宮。う~ん、なんとなく繋がる感じですね。それと「天竺浪人」なんて表現は、堺正明、夏目雅子出
演の「西遊記」なんてドラマがありましたが、まさしくインドのことですよ、「天竺」って、まさにミステリー・・・。もしかして、日本もインドと関係がある
かもしれませんよ。』 猿田彦は、高句麗系の渡来王族であることは論考したところであるのでここでは書かない。
■『新羅本紀』脱解尼師今
脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。初其國王娶女國王女為妻。有娠七年、乃生大卵。王曰「人而生卵不祥也。宜棄之」。其女不忍、以帛卵裏寶物置於櫝中、浮於海、任其所往。
脱解尼師今が立った、一説に吐解という。時に年六十二歳、姓は昔。妃は阿孝夫人。(サロ国二代王 南解次次雄王の長女) 脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国の王女を娶って妻とした。懐妊から七年、大きな卵を産んだ。王が
言うには「人にして卵を生むのは不祥である。適当に廃棄せよ」。その王女は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、
その行く先任を(潮流に)任せた。
■『三国遺事』脱解王
我本龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。
よみ:「私は本来は龍城国の人(または正明国という。あるいは琓夏国、琓夏、あるいは花廈国ともする。(龍城は倭の東北一千里に在る)。我が国ではかつて
二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓があるが、競い合うことなく、皆が
王位に登った。
時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。
よみ:時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。
■『阿珍浦(アチンポ)伝説』の女王国が、魏志倭人伝に記される女王国ならば、昔脱解(ソクタレ)の母は倭人!
魏志倭人伝では女王国が奴国の南にあった。また、狗奴国は日向にあった。九州の筑紫平野の王妃を迎えていたと文字通り解釈すると、昔脱解の母は、まぎれも
ない倭人となる。多婆那国(たばな)があり、一名を龍城国といった、その場所はどこだろう。その国王は含達婆(handaboハンダボ、カンダ
バ)といい、女王国の女を王妃としていた。「桓檀古記~高句麗国本紀では、多婆羅国には、もと弁辰狗邪国人が先住したという。
■昔脱解の出生地
『魏略』逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになった。箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代に
なると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、燕王盧綰の部将で
あった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し、王権を簒奪して衛氏朝鮮(え
いしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
■箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)は殷の王朝が移動したものだった。なぜかといえば、龍信仰と甲卜占がなぜ朝鮮半島や日本に来たのか考えるうえに必要だった。文化的に中国
の古王朝の流れである。濊と辰韓が殷の文化的伝統を受け継いだと思われるのである。
■多婆羅国は多羅韓国ともいう。
忽本より来たり、高句麗と早くから親交を結び、烈帝(廣開土境好太皇)が制した。(BC 39-19)多羅国は安羅国と同隣して同姓である。多婆那国は倭
国(弁韓)の東北1000里である。濊国(フイ)の中にあった。濊国は穢とも書かれ、濊の南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接していた。と、推理できるので
あるが、これだと海から漂着した場所と同じになってしまう。ようするに、海に流した場所は違った遠方でなければおかしなことになる。濊国(フイ)民は恥を
知り、門を閉じなくても盗みがなく、穢れを払うといった自然崇拝であった。馬韓とはえらく違って上品である。中国東北部には三代古老民族があって、濊貊、
肃慎、东胡であった。『三国志魏書』穢伝:「僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口]。
四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝と呉広が 反乱(「陳勝呉広の乱」BC209))起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。紀元前134年
に漢の武帝が濊州を作ろうと、濊族と戦い、紀元前126年に「濊王之印」を濊族の南閭に与えている。しかし、5年後には武帝は(BC129年)、衛青を
28万の軍を使わし龍城を攻め、700人の敵の首を切った。紀元前108年、漢は朝鮮半島の北部の衛氏朝鮮を滅ぼし、現在の碣石山に直轄支配として楽浪郡
を設置する。さらに、前108年、武帝は衛右渠を破り、楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を設置。遼東郡の東から、楽浪郡の北にいた濊国の政権を倒し、玄菟郡
を設置する。このとき、濊族の龍城国は滅亡、多数の濊人が慶尚北道に南下した。
龍城の位置(遼寧省朝陽市(りょうねいしょうちょうようし)
その他、真番郡(現在のソウル付近)・臨屯郡(現在の韓国の江原道江陵市付近=濊族はこの地に封じられる)に漢の管轄に置かれ、漢の植民地政策により、こ
れらの地域にいた濊族は支配下に置かれた。前75年、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。
濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県・前莫県・夫租県)
に分けて治めさせた。
後漢の建武6年(30年)、辺境の郡が整理され、東部都尉も罷免された。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯となり、不耐・華麗・沃沮(夫租)の諸
県はみな侯国となった。ここでの華麗県が候国になったということは、冊封国であるが、ここに濊国王が再びたったということである。
玄菟郡の設置で倒された濊族の南閭政権は北の「鹿山」に逃亡して、扶余国を建国した。
そ の後、朝鮮半島の漢の植民地政策が縮小に向かい、紀元前82年に真番郡と臨屯郡は廃止して、楽浪郡に統括され、紀元前75年に玄菟郡は西方に縮小され第二
玄菟郡となり、紀元前59年、第二玄菟郡はさらに西方に移転したので、濊系高句麗種族は朝鮮半島北部に高句麗を建国した。その頃、濊族は、濊貊(韓国・北
朝鮮江原道)、沃沮(北朝鮮咸鏡道・中国吉林省延吉朝鮮族自治州琿春市・中国黒竜江省牡丹江市東寧県東部・ロシア沿海地方ラズドリナヤ川以南)、高句麗
(北朝鮮慈江道・北朝鮮両江道・中国吉林省南部)、扶余(中国吉林省北部)の四つに分かれることになった。その頃、朝鮮半島南部では辰国が倒れ、三韓(辰
韓、馬韓、弁韓)に分かれていた。朝鮮半島北部の高句麗支配により、濊系扶余種族の一部や濊系濊貊種族や濊系種族や濊系沃沮は朝鮮半島南部に南下した。そ
の内の濊系扶余種族は、馬韓において指導権を握り、紀元346年に百済を建国する。濊(ワイ)の言語で、夫余とは、鹿の意味だった云う
■『契丹古伝』
燕国の衛満は、漢の武帝に「殷(箕氏朝鮮)は胡や秦の縁者を抱えており、これを滅して後患を絶つべきだ」と言上。武帝が彼に兵を与えたので、殷王(箕
準)は辰(辰国)に逃れ、殷は滅亡した。衛満は殷を奪い、前漢は郡県を広げて徐珂(濊)を阻んだ。 衛満は真番国をも奪い、朝鮮(衛氏朝鮮)と号した。徐
珂王の淮骨令南閭峙は殷の報復をすべく漢と謀った。漢は徐珂を郡としないことを誓い、『王印』を以て證とした。
■濊は白い人という意味で、殷の箕氏の末裔、龍がトーテムだ。
■濊族の陝父(チョッポ)は日本に敗走、熊襲となる?
(北)夫餘は衛満や右渠などの衛賊やこれを滅ぼした漢の賊により衰えた。北夫餘の檀君四世である高于婁のとき、高豆莫汗、兵を起こして漢冦を連破。高豆莫は卒本(忽本)に即位し、自ら東明と号した(忽本夫餘)。高豆莫は
、自ら東明王と号した。漢冦と戦い、九黎河を渡り遼東の西安平に至る。古の 稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。檀君、解夫婁を候とし 岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称した。「桓檀古記~北夫餘紀、下」太子、高無胥(六世)立つ。子なく、岔陵の高朱蒙即位、高句麗の祖となる。
広開土王碑に『忽本』(フルボン)の文字があり、『天遣黄龍、來下迎王。王於忽本東岡、黄龍負昇天』では、鄒牟王(朱蒙)は忽本の東岡で、王は黄龍の首を取った」とよめる。黄は中央を意味し、龍は漢を意味している。「広開土王碑」にある鄒牟 、は、朱蒙 、東明 、「三国史記」では、中牟 、「日本書紀」(天智7年)では、仲牟(ちゅうむ)。ときに朱蒙二十二歳。紀元前37年のことだと言われる。
王子及諸臣又謀殺之。朱蒙母陰知之、告曰「國人將害汝、以汝才略、何往而不可、與其遲留而受辱、不若遠適以有爲
王子と諸臣はまた彼の殺害を謀った。朱蒙の母が秘かにこれを知って、朱蒙に告げて「この国はおまえを害そうとしている。おまえが才略を以て出て行くこと
を、どうして駄目だと言えるでしょうか。もし遠くに有為をもって行かず、ぐずぐずと留まっていれば、恥辱を受けることになるでしょう」と言った。
朱蒙乃與烏伊、摩離、陜父(チョッポ)等三人爲友、行至淹水(一名盖斯水、在今鴨東北)。欲渡無梁、恐爲追兵所迫、告水曰「我是天帝子。河伯外孫。今日逃走、追者垂及如何」於是、魚鼈浮出成橋、朱蒙得渡。魚鼈乃解、追騎不得渡。
朱蒙は烏伊、摩離、陜父(チョッポ)ら 三人を友として淹水(えんすい)に至った(一名に盖斯水=がいしすい。今、鴨緑江の東北に在り)が、(そこに)渡れる橋梁がない。追兵の切迫を恐れて、河
に「我は天帝の子、河伯の外孫。今日、逃走するに、追兵は直前に及びたるを如何にせん」と告げた。ここに魚やスッポンが浮き上がり橋となった。朱蒙が渡り
得ると、魚やスッポンが解散したので追騎は渡れなかった。
魏書では二人の友人と逃げたとされるが、高句麗本気では三人になっている。このなかの陜父(きょうふ)に関して『桓檀古記』は奇妙なことを書いている。
陝父(きょうふ)は、漢冦と戦い敗戦して、南韓に奔走し、馬韓の山中に隠り、将の□革と出合う。貝□水(桓仁《Huán rénkakk》現在は中国の遼寧省桓仁県の一帯、鴨緑江中流右岸域に注ぐ渾(こん)江の河辺にあたる地域)を下り海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸
を経て、 阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となる。
資料《木屋の資料館 》
■ 『桓檀古記』高句麗国本紀 陝父、(中略)浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となった。後に任那を併せて
連合国として治めた。そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。多婆羅国には、弁辰狗邪国人が先住して狗邪韓国といった。多婆羅国は多羅韓国ともいう。
忽本より来たりて高句麗と早くから親交を結び、烈帝(広開土王)が制した。多羅国は安羅国と同隣して同姓である。旧熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれ
である。
桓檀古記上記をまとめると、陝父は 漢との戦に敗れ、鴨緑江(おうりょくこう)を下って、海に出て倭の北岸から船で、阿蘇山に移住した。筑紫は、すでに弁辰(伽耶国)がすでに支配していた。
鹿児島から入って、熊本に北上、熊襲城を立てて、「狗奴国」をつくった。「狗奴国」は多婆羅国である。多婆羅は皖夏(かんか)ともいい、高句麗に従属して
いた。そうすると、女王国は魏志倭人伝にあるように九州筑紫平野の奥、甘木市にあった。女王国の王女を娶って生まれたのが昔脱解(ソクタレ)である。昔脱
解は熊本から鶏林に帰還したということになるのだろう。
■熊本は高句麗の王が渡来した拠点
熊襲の王は初代含達婆(handaboハンダボ、カンダバ)であり、熊本県に熊襲城をつくり、隣国筑紫の倭人の国女王国から姫を娶った。これ
が、共立して王を立てた真相だろうか。含達婆の子供の昔脱解はAD40年頃、九州熊本から船で、鶏林の浜につき、二代王・南解王の長女を娶り、婿となっ
た。そして、4代の新羅王となり、昔脱解と称した。そこで、昔脱解が倭国から来たというのは、つじつまは合う。神話における「生まれた王子を海に流す」と
いうのは、どこへでも行って自分で国をつくれということで、それを担魯といったのである。王の末子などは、太子にできないため、よその土地へ行って分国を
作る。百済は、高句麗王の長子が王になれずに、自ら分国を立てた国である。太子になれない王子が他所に行って国を作ることを担魯と言う。百済はそれを制度
化して22担魯 (属国) ダムロを置いて王子・王女・王族が治めた。謂わば「身内による冊封制度」である。百済のこの独特の行政体系を踏まえると、一族郎党による国家支配は大きな腐敗(親族内の権力争い)と停滞をもたらすことは否めないだろう。
■ 桓檀古記は20世紀に登場したもので、朝鮮半島以外では歴史書として評価されない。これは偽書であろう。1778年すでに本居宣長の『馭戎慨言』(ギョ
ジュウガイゲン)や鶴峯戊申(ツルミネシゲノブ)の『襲國偽僭考』などが邪馬台国を熊襲系の王朝で、大和朝廷とは別に存在したという説を出して
いる。卑弥呼は九州襲國の女王で、大和朝廷の系譜に擬装されたというのである。襲国のそのルーツを呉の夫差王の後裔であり、すなわち姫氏である。襲國偽僭
説は邪馬台国は大和朝廷ではないとする意味では、邪馬台国=九州王朝説につながる。この熊襲の言葉から百済の熊津城と似ていることで熊襲城なる城を擬装し
たのであろう。熊は狛の転意であるとする説から、これらの江戸時代の国学者の説を流用したのではないか。なぜなら、ちょっとできすぎであるからだ。結局、
多婆羅国は九州には見つけ出すことができなかった。
*本居宣長の『馭戎慨言』(ギョジュウガイゲンの)一節
さて女王国東。渡海千余里。復有国皆倭種といへるも。大和にしてはかなはず。
これもつくしよりも海をへだてゝ東なる。四国をいへるなり。(略)
さて思ふに。かの伊都国の次にいへる奴国は。仲哀紀に儺縣。宣化紀に那津(ナノツ)とあるところにて筑前。不弥国も同じき国にて。明宮御字(応神)天皇の
あれ(生)ましゝ所を。宇瀰(ウミ)となづけしよしあれば。それなるべし。投馬国は。それより南水行二十日といへるにつき尋ぬるに。日向国兒湯郡に。都萬
(ツマノ)神社有て。(略)此所にてもあらんか。(略)
■「大朝鮮帝国史」
『大朝鮮帝国史』(1994年出版)金珊瑚(キムサノ)作の民族物語絵巻。タイトルは立派でも、とんでも歴史本なのだが、朝鮮民族主義者を高揚させる。あたかも一部は教科書にも採用されていると経調しているが歴史学からは無視されている。
以下抜粋
我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て、不咸山に移動した。不咸山に到着した我々の先祖は、そこを中心に集団で定着し、文化を発達させていった。紀元前六千年頃には紅山文明、続いて黄河文明を興した。我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族の中華族を制圧し、大帝国を建設した。倍達国は十八代、1565年で終わり、その後に檀君朝鮮が建てられた。
箕子朝鮮や衛満朝鮮は朝鮮帝国の地方諸侯国にすぎなかった。従って、漢の武帝の衛満朝鮮征伐は中華族と地方政権との闘争であり、中国の史書が固執している漢四郡は、漢の武帝退治に功労が大きかった将軍たちに分封した領地だった。檀君朝鮮が脆弱になると、解慕漱の扶餘と東明王の高句麗を共に継承した高豆莫が諸国を合わせて卒本扶餘を興した。扶餘が興るとともに帝国の権威は落ち、地方勢力が成長した。紀元前三世紀頃には黄河上流に暮らしていた東胡族の一分岐が匈奴に押されて南下、紀元前57年にソウルに定着して国を建てたのだが、これが新羅である。新羅は以後、馬韓,百済との闘争過程で小白山脈を越えて徐羅伐に移る。l紀元前>37年、卒本扶餘で育った高朱蒙が扶餘を脱出、卒本地方に至って高句麗を建て、続いて北満州一帯を統一した。この時、高句麗建国の功臣である陜父が日本地域に逃げ、最初の国、多婆羅国を日本地域に建てた。
以上抜粋。
これはびっくり、「大朝鮮帝国史」には「広開土王の侵攻により、百済王は日本に亡命した。この百済王が応神天皇であり、「奈良百済」を建国した。旧領は「古莫那羅百済」と呼ばれた。」と書かれている。「奈良百済」などという名称は史実には一切ないし、その奈良百済の考証はない。しかし、韓国の歴史感の裏読みとみれば、確かに大朝鮮帝国の歴史感を感じ取ることができる。最近、日韓の歴史認識に対し、「正しい歴史認識に基づいて、従軍慰安婦問題を解決したい」とした朴槿江(バク・クンヘ)大統領(2012~)が繰り返し述べているが、正しい歴史が日韓で共通認識されるまで棚上げにするというのが真意だろう。正しい歴史が共有されることは永遠にありえなから、事実上の問題放棄なのではないだろうか。
「大朝鮮帝国史」2巻 * 伽耶が新領地を開拓する過程で日本進出の足場として設置したのがいわゆる任那だ。 任那は韓国語では我慢して耐えるという意味で、日本の立場で解釈すれば、主君がいる国という意味だ。
* 伽耶の日本進出以後、倭列島に対する関心が高まるにつれて、百済,高句麗,新羅が争ってその地域に進出したのだが、伽耶系統であるカラ,アラ、新羅系統であるムラ,百済系統であるコム(熊),タムロ(担魯)などに関連がある地名は、皆この時期に開拓された所だ。
* 沸流百済の日本地域の統治過程で、百済皇統の継承のために全ての担魯を制圧して建てたのが、まさに天皇国家の始まりである。 この時の討伐将軍であるキョン・ジンジュは百済の大将軍であったし、天皇ソン・ソンジョも百済から派遣された百済皇族だった。
*海上帝国を成していた沸流百済は、高句麗の広開土大王の侵攻によって本国の熊津(コムナル)を奪われて日本地域へ避難したのだが、この人が応神天皇である。 応神は奈良百済を建て、そこを中心に本国の古莫那羅(コムナル)百済を支配した。
* 古莫那羅百済の混乱に乗じて、新羅は倭列島における勢力挽回を試みた。この時、新羅の主導でなされた日本の改革がいわゆる大化の改新である。
上の要旨にはいずれも真逆の説であったり、独断的な判断があり、あたかも「正しい歴史」とは言えないだろう。古代史となると、韓国にもほとんど史書が消失している。
*『阿珍浦(アチンポ)伝説』
父王は群臣を集めて相談し、人が卵を産むなど不吉なことだと言って、箱を作って、その中に私と召使と様々な宝を入れ、それを船に積んで海に流しました。その際、どこか因縁のある場所に行って、自分の国を建てなさいと言いました。すると突然、赤い龍が現れて船を護衛し、ここに流れ着いたのです」と言った。
男の子は脱解と名乗った(一説では、箱を解き、卵の殻を脱したことに由来する)。
そして、話し終えると、脱解は杖をついて二人の召使を引き連れ、吐含山に登り、そこに石塚を作って、七日間暮らしながら、自分の住むに相応しい場所を物
色していた。ある峰を見ると、そこは三日月の形をしており、家運が栄える地勢だった。けれども、そこには既に瓠公の家があった。
瓠公という人物は赫居世の時代から王に仕える重臣で、噂では日本人だと言われていた。その血筋や素性はまるで分からないが、瓠(ヒョウタン)を腰に下げて海を渡ってきたので「瓠公」と呼ばれるようになった。瓠(ヒョウタン)には、常々酒を入れていたらしい。
脱解は一計を案じ、ある夜、瓠公の家の側に内緒で砥石と炭を埋めた。そして、夜が明けると、その家の前で「ここは私の祖先の家です。私が住むべき家です。早く出て行ってください」と騒いだ。当然、瓠公は「違う、ここは私の家だ」と反論した。
口論になり、「出る所に出て話を着けよう」ということになり、役所に訴えたので、役人は脱解に訊いた。
「お前は、どんな根拠があって、ここがお前の家だと言うのだ」
「私の家は以前は鍛冶屋でしたが、しばらく隣村に行っている間に、なんとしたことか他人に家を盗られたのです。ここを掘ってみてください」と言った。
役人が言われた場所を掘ってみると、砥石と炭が出てきた。
「見て下さい。これが、ここが元々鍛冶屋であった証拠です」
役人は、これを証拠として瓠公の方が家泥棒だと判決したので、まんまと脱解は瓠公の家屋敷を奪ってしまった。
このように脱解はとんでもない詐欺師だったが、何故かこの当時は「素晴らしい知恵者」として評判になったようで、彼の評判を聞きつけた南解王が、彼を自分の長女の婿に迎え、大輔(宰相)の位を与えたのである。
南海王の死後、王の子の弩禮(儒理)が王位を継いだが、彼は「自分より脱解の方が優れている」と言って、執拗に王位を譲ろうとし、自分が死ぬときには「自分の子よりも脱解の方が優れている。だから脱解を次の王にせよ」と遺言した。
そんなことから、弩禮王が亡くなると、脱解が第四代の新羅王に就いたとされる。それは今を去ること西暦五十七年のことである。
姓は「昔」と定めた。「昔、人の家を奪ったから」あるいは「鵲のおかげで箱が発見されたのだから、鵲の字から取って、昔姓にしたのだ」とも言われる。
脱解は治世23年に亡くなったが、それから二十七代目に当たる王のときのこと。
王の夢に厳めしい老人が現れ、自分は脱解と名乗り、「余の遺骨を掘り出して塑像にし、吐含山に安置せよ」と命じた。言葉に従って、掘り出された遺骨は分
散しておらず、完全な形を保っており、立派だった。遺骨を砕いて作られた塑像は山に安置され、脱解は東岳神と呼ばれて祀られるようになった。
『三国遺事』脱解王
脫解齒叱今(一作吐解尼師今)。南解王時、駕洛國海中有船來泊。其國首露王與臣民鼓譟而迎。將欲留之、而舡乃飛走、至於雞林東下西知村阿珍浦(今有上西知下西知村名)。
脱解歯叱今(吐解尼師今とも)。
南解王の時代、駕洛国の海中に来泊する船があった。その国の首露王と臣民は大騒ぎで迎えた。まさにこれを係留しようとすると、船は飛ぶように走り去り、雞林の東の下西知村阿珍浦(今、上西知、下西知の村名あり)に到着した。
時浦邊有一嫗、名阿珍義先、乃赫居王之海尺之母。望之謂曰:此海中元無石嵒。何因鵲集而鳴。孥舡尋之。鵲集一舡上。舡中有一櫝子。長二十尺。廣十三尺。曳其船置於一樹林下。
その時、海辺に一人の老婆がおり、名は阿珍義先。赫居王の海尺の母。これを望んで曰く「この海中には元より岩石はないはず。どうして鵲が集って鳴いてい
るのだろう」。小舟でこれを探した。鵲が一艘の船の上に群れていた。船中には一つの棺があった。長さ二十尺。幅は十三尺。その船を曳いて樹林の一本の下に
置いた。
而未知凶乎吉乎。向天而誓爾俄而乃開見。有端正男子并七寶奴婢滿載其中。供給七日、廼言曰。我本龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。
龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。
しかし、凶吉が定かではないので、天に向かって急いで祈りを捧げて、棺を開けて見た。その中には端正な男子がおり、一緒に七宝や奴婢が満載だった。飲食
物を与えること七日、初めて言うには「私は本来は龍城国の人(または正明国という。あるいは琓夏国、琓夏、あるいは花廈国ともする。龍城は倭の東北一千里
に在る)。我が国ではかつて二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓がある
が、競い合うことなく、皆が王位に登った。
時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。
時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。
其童子曳杖率二奴登吐含山上作石塚。留七日。望城中可居之地。見一峰如三日月。勢可久之地。乃下尋之。即瓠公宅也。乃設詭計。潛埋礪炭於其側。詰朝至門云。此是吾祖代家屋。
その童子は杖をつき、二人の奴僕を連れて吐含山の上に登って石塚を作った。留まること七日。(山上から)城中に居住すべき土地を(探して)展望すると、
三日月のような霊峰を見つけた。永住すべき地勢だった。下山してこの地を訪れた。すなわち瓠公の居宅である。そこで、詭計を考案した。その家の側に砥石と
炭を埋め、朝になって門で詰問して言うには「ここは吾が祖の代の家屋である」。
瓠公云否。爭訟不決。乃告于官。官曰:以何驗是汝家。童曰:我本治匠乍出鄰鄉。而人取居之。請堀地檢看。從之。果得礪炭。乃取而居為。
瓠公は否定した。争訟が決着できない。そこで、裁判官に告げた。裁判官が曰く「どんな証拠があって自分の家だというのか」。童子が曰く「私は元は鍛冶屋でしたが、少し隣郷に行っていたところ、他人に家を獲られたのです。土を掘って検証してください」。
これに応じたところ、果して砥石と炭がでてきた。そこで、家を取り上げて住居とした。
時南解王知脫解是智人。以長公主妻之。是為阿尼夫人。一日吐解登東岳。迴程次令白衣索水飲之。白衣汲水。中路先嘗而進。其角盃貼於口不解。因而嘖之。白衣誓曰。爾後若近遙不敢先嘗。然後乃解。自此白衣讋服。不敢欺罔。今東岳中有一井。俗云遙乃井是也。
時に、南解王は脱解が賢者だと知り、長女を彼の妻にした。これを阿尼夫人と為す。ある日、吐解は東岳に登った。帰路、次令の白衣に飲み水を探させた。白
衣は水を汲んだ。途中で先に飲んでから進もうとしたところ、角盃が口に貼り付いて外れなくなり、鳥のような舌打ちの鳴き声をあげた。白衣が誓って「爾後、
遠近に関わらず敢えて先に口にすることはしません」と言った。然る後、これが外れた。これより白衣は畏服し、敢えて欺網することはなかった。今、東岳の中
に一つの井戸がある。世俗では遙な井戸はこれだという。
及弩禮王崩。以光虎帝中元六年丁巳六月。乃登王位。以昔是吾家取他人家故。因姓昔氏。或云。因鵲開樻。故去鳥字姓昔氏。解樻脫卵而生。故因名脫解。在位二十三年。建初四年己。
弩禮王が崩じた。光虎帝の建武中元六年(56年)丁巳の六月、王位に登った。
昔、これは我が家だと言って、他人の家を取った故に、姓を昔氏とする。あるいは言う、鵲が原因で棺を開いた故に、鳥の字を省略して姓を昔氏とした。棺を解いて卵から脱け出して生まれた故に、名を脱解とした。在位二十三年。建初四年(79年)に死んだ。資料参照《新羅の歴史》
■やはり鉄の威力が大きい。
脱解が鍛冶屋の息子といった逸話は、なにを物語るのであろうか。南解王は伽耶に金首露王が立ち、馬韓王から離れ、鉄の生産力を独占することによって軍事力
が強大になることを恐れていた。そこにサロ国の危機に乗じて、昔脱解(そくたれ)が鉄の生産技術を売り込み、南解王と取引をしたことを意味する。
■
■鵲城山は脱解王と、その臣下である倭人が築いた城か? 鵲城山(작성산)はカササギの城という名前が物語るように、不思議なことに『阿珍浦(アチンポ)伝説』に繋がる。
忠清北道堤川市;Map ;;カササギ城山という名前にまつわる伝説がある。 『昔、ある王がこの山に臣下たちを連れて入ってきて、宮廷を建てて住んでいた。 ある日の朝、王が臣下たちと東の岩峰を指し、その上にカササギが座るのだから、無条件弓を射カササギを殺すと命じた。
臣下たちが完了岩峰に座ったカササギを打ち上げ打ったそのカササギは、他でもない、日本の王だった。』 『까치성산이란 이름에 얽힌 전설이 있다. 昔、ある王がこの山に臣下たちを連れて入ってきて、宮廷を建てて住んでいた。 옛날 어느 왕이 이 산에 신하들을 데리고 들어와 궁궐을 짓고 살았다. ある日の朝、王が臣下たちと東の岩峰を指し、その上にカササギが座るのだから、無条件弓を射カササギを殺すと命じた。 어느날 아침 왕이 신하들에게 동쪽 바위 봉우리를 가리키며, 저 위에 까치가 앉을 것이니 무조건 활을 쏘아 까치를 죽이라고 명했다. 臣下たちが完了岩峰に座ったカササギを打ち上げ打ったそのカササギは、他でもない、日本の王だった。 신하들이 마침 바위 봉우리에 앉은 까치를 쏘아 죽이니 그 까치는 다름 아닌 일본의 왕이었다.』 出典サイト ; こうした伝説からは、『阿珍浦(アチンポ)伝説』を掛け合わせると、カササギが導き、赤龍が守った新羅の第三代王になった昔脱解(ソクタレ)である。ここに男根岩の出所が日本から西暦58年前後の脱解王と、その臣下である倭人が築いた城であることが判明する。
この男根岩(남근적바위)は鵲城山にある遺跡である。男根信仰が倭人の基底文化であるかどうは論証を必要とすることを踏まえるにしても、ここに栄えた<文化>は日本渡来のものである。西暦58年前後の脱解王と、その臣下である倭人が築いたと考えられる。そのキーワードは「カササギ」であった。
■1200の伝統を持つ愛知の田縣神社の豊年祭御輿行列
日本のみしゃぐち神、双体同祖神と共通性の淵源を見ることができ、如来信仰とともにインド伝来のシバ神信仰だと思われる;写真右は日本の男根祭2013/04/15(月)
川崎市の若宮八幡宮・金山神社で行なわれる「かなまら祭り」もう一つの有名な祭りは愛知の田縣神社の豊年祭御輿行列;動画
■韓国のもう一つの不思議な場所 해신당공원;海神堂公園(江原道 三陟市 遠德邑 三陟路1852-6
강원도 삼척시 원덕읍 삼척로 1852-6 (원덕읍)Map ;Photos ;海神堂公園は漁村民族展示展、陰茎彫刻公園で構成され、男根崇拝信仰の遺跡としてみることができる。
韓国では儒教の統制で、公園にある遺物展示だけだが、日本では脈々とその文化が民衆立で継承されている証と見ることができる。